自然に近づけるのではなく自然体

人間が人間社会で何かを行う場合は、それは一体何のために行うのから確認すればその定義したものがどういうものかということがよく分かる。例えば、動物園一つでもその経営の定義がどうなっているかで運営の様子もまったく異なってくるのである。

昨日、旭山動物園を訪問して園内を拝見しているとその園の理念も他の動物園とは異なった理解が現場にあることにはっきりと気づくことができる。どんなに多方面から情報を入手していても、やっぱりその現場を観れば顕われている理念を理解することができる。

旭山動物園では、その動物たちもそこで働く人たちも何をもっとも大切にしているかということがはっきりしている。

まず案内板には人間の中でその動物がいるということを理解し、動物園生まれの動物であることがこだわりとして明記されていた。その上で、自然の環境に近づけるのではなくその動物らしさを引き出せるようにしていること、言い換えれば動物たちが豊かに暮らしていけるように環境を用意し見守ることを行っていると方針が示され、その上でルールとして動物を人間が好きなように擬人化することはしないということなど、随所にその動物主体になって物事を定義している様子を具体的に拝見することができた。

以前から訪問したいと思っていたのでとても参考になり、私たちが関わっている幼稚園や保育園にも理念や運営に対して人や動物などとの違いはなく、その保育や教育をするということは一体どういうことなのかと再思考し再定義するのにモデルになる現場の一つではないかとも思えるいい機会になった。

特に私個人は、動物が大好きで何時間でも動物を観ていることができる。幼い時から近くの様々な野生動物に触れたり、犬や鳥などと一緒に育ってきたからそう思えるのかもしれないけれどその動物たちがどれだけストレスを感じているか自然な姿をみせてくれているかなどはすぐに共感できる

自然体の動物は、素のままの姿をみせてくれる、そうではない動物はどこか人間を意識しているから素のままではなく緊張していたり、様子が変な顔色や声色、全体からの雰囲気を出しているものである。

これは人間も同じく、素のままを見せないというのはその環境が安心できないからそうなってしまうのである。

この安心して過ごしているということと、素のままにしていられることというのは、私たちが広める見守る環境においてはもっとも大切なことであろうとも思います。猿山をそのまま持ってきたら猿が自然になるのではなく、猿山での猿が安心できるから猿も猿山も自然体になっていくのです。あくまで環境が主体ではなく、そこで生きる者を主体として環境を用意しているのです。

それを無理に自然に近づけようとし環境を押し付け誰かによって意図された擬人化は、決してそれが幸せなことでもないし、それが集団で生きる力になると教え込むのは単なる洗脳であり一部の環境下でしか本来の生きる力を引き出さず強いては個体で生きられなくしていくことなのです

自分都合や人間都合にあわせていくというのは、どこまでも自分たちの欲にあわせていこうということになっているものでありそういうことを一度やってしまうとその教え込まれた生き物たちは自分たちが一体そもそも自分らしさとはどういうものだったかということを気づくこともできなくなるのです。

人権という思想は、そのものが自由に生きられるようにそのものらしくあることを認めることからはじまります。それぞれに生活のスタイルも異なるのだから、個々にあわせて豊かに暮らしていけるようにすることは大切なことなのです。

私たちはこの旭山動物園から私たちは学ぶことが沢山あります、人間が人間の中でおかしなことをやっていることに気づき、それを少しでも改善するために生き方としてどうあるべきかということを考える時期にきているのだと思います。

自然体でいられる社会とはどういう社会でしょうか。

私たちは随分と、緊張している中で自分を出せなくなっているのではないでしょうか。

本当にそれが私たちが本来望んだ豊かな社会の在り方でしょうか。
これだけ世界から多様化した動物たちが次第に姿を消していく中で、リーダーシップを自覚を持って私たちは何を大切にしていかなければならないのでしょうか。

もっと自分たちの都合ではなく、みんなの都合を考慮してみんなが自分らしく生きていけるような世界をどのように生み出せばいいかを実践していくことだと思います。それは自分らしくいることが如何に全体のお役に立てるのかということを体験していくことだとも思います。

自分らしく生きるということ、自分にしかできないことをやるということ、自分そのものという生き方、今の時代はこのことが何よりも全世界では課題なのです。

子ども達が安心して暮らせる世の中になるように社業を通じて、極めつくしていきたいと思います。