善転の覚悟

昨日は、今年一年間の振り返りを社内の皆で行いました。

今年は何より大震災を体験したことを大きく、あの当時の心の感覚は一生涯忘れることはないだろうとも思います。

人生の中で大小含めて災難苦難に遭うことはたくさんあります。
そしてそれはそのことから必ず犠牲者が発生することを意味しています。

決して無事では済まないことも多々ある中で遭遇してしまいなぜそのようなことが起きたのかを考えていると、それぞれにそれをどういうものに意味づけていくかはその人たち自身のその後の生き方に繋がっているのだとも思います。

そう考えると、禍転じるというのは今までの間違いに気づくことをいいます。
それは言い換えれば、私たちが何かおかしな間違いを自分が犯してしまっているからそれではいけないと目に見える出来事を通して伝えてくださるのだとも思います。

人は当たり前すぎるものには次第に鈍感になっていきます、昔は善くないと徹底していたことも小さなこれぐらいはという安易な気の緩みから次第にどんどん無法のようになってしまうものなのです。

そういうことがないようにと先祖から語り継がれてきたものを大切にしていくために、何度でも私たちは日々の様々な事件に遭遇する中で気づきと学びというものを得ているのだと思います。

そして気づいたらすぐに変われるかどうかで、その学びが本物であったかどうかということを試されていくのだとも思います。変わるというのはすぐに変わっても、長い時間をかけてその意志が本物に醸成されていきます。

生き方や働き方も同じく、そういうことから明確になっていくものだとも思います。

私たちはこの大震災を体験し、そしてまだ復興とは程遠い現実的な苦難の最中の方々のためにも如何に自らが立ち上がるか、つまりは無駄にはしないと決意しかたき討ちをするのかという必ず善いことにする覚悟がこれから問われるのだと思います。

もちろん、救済の方法は多々ありますが本当に正しい復興とは自らの生き方を変えることで示すことなのだと私は思います。同じ仕事をしていても、働き方が同じではいけないのです。それに同じ日々を暮していても、今までと同じではいけないのです。犠牲から学んだことを、忘れないためにも心に決めたものを持ちながら今まで以上により善くしてみせるという強い動機が必要なのだと私は思います。

目には観えないだけで犠牲になっているものたちはこの瞬間もたくさんいるのです。

日々は何気なく過ぎては行きますが、鈍感にならないように脚下の実践に心を籠めて歩みを強めていくように来年もより一層の覚悟していこうと思います。