丸ごと認める

昔からあるものを何も疑わずに続けていくのは本能でもある。

親鳥からされたことを子鳥も同じく親になったら行うように生命は役割交代を繰り返しやられたことをやるということで生命を保持していくのである。

例えばこれは外側の現象だけではなく心の方も同じく他人に温かくされた人は他人に温かくしようとし、他人に冷たくされた人は冷たくしてしまう。

心は自然に周囲から思いやりや優しさというものを学んでいき、次第に大切なものに気づいていくようにできている。先天的に優しい人がいるとあるしそうではない人があるというけれど、遺伝子だけの話ではなく私はそれは全体の中でのその人の役割としてそういう個性であると考えるようにしている。

それは身辺の環境だけではなく時代の流れなどにも左右され、その人は最終的には数々の出逢いにより本来の生き方をその発達を通して獲得していくのだと思います。そして自分の心が何を望んでいるのか、心がどうしたいのか、心は何を求めているのかを探し求める旅路にこそ人生に気づく醍醐味があるのだと思います。

しかしこの役割交代は決して同じことをされたから盲目に同じことをいつも返すというわけではありません。

それを自分の心が変換して別のものに置き換えることができます。

例えば、良いか悪いかではなく思いやるというものであったり、好きか嫌いかではなく共感するというものであったり、それは丸ごと認めることから変わっていくのであろうとも思います。論語にもある自分がされたくないことは他人にはしないことということもそれができるようになる人もいるからです。

人はみんな、最初は自分に自信がなく何かがあればすぐに不安になり自分に迷いを生んでいきます。そんな時、自分以外の誰かがその人のことを丸ごと認めていけばその人は次第に自分のもっとも得意なものや大好きなことをやろうとしはじめるのだろうとも思います。

人間にとって、いや生命にとってそのものが迷わないようにするのは天の心と同じく丸ごと存在している自然の真心に触れているときであろうとも思います。
動植物はそれを知っています、この厳しい環境も誰かのためには必要であることを、そして優しい環境も誰かのためには欠かせないのだと、自然は私たちから観ればこちら側にあわせてくれているのであり、自然を自然側から観れば自分らしく自然は過ごしていてそれに生命にあわせているのだとも感じます。

つまり、自然は優しく厳しい環境を通じて一緒に命を育んでいる存在であるのです。

そこから離れることが、如何に私たちを分からなくしてしまうのであろうと思います。それが生きていくための自信を失わせていくのであろうとも思います。

この役割交代も、自然の繋がりや循環の中では確かな意味が存在するのです。それは自分だけなぜこんなではなく、全体の中で自分が担っている役割でもあるのです。繋がりの全体、その丸ごとの中で観れば自分は絶対にここにいていいしここに私は必要だと気づけるのです。だからこそ安心できる境地に根付き、もっと周りを善くしたいと思うこと、全体が善くなっていくようにと祈るように役割を勤めさせていただくことを学び生き方を変換して幸せを噛み締めていけるのだと思います。

それを誰かの意図によっていつまでも誰かと比べたり何かを基準に自分を蔑んだり、そんなことで自信を持つというのはとても馬鹿げたことです。権力や財力、地位や名誉での自信など吹けばあっという間に吹き飛ぶのです。

人としての本来の自信は自然の中にありそこから学びつつ自然と共に歩んでいくことだと私は思います。これは別に山や海で生活すればいいということではなく、心はいつも自然の繋がりに生きているかかということなのです。

子ども達には、さらなる人口増加と孤立と画一化の中で、自らで自然が分かるよう大人たちである私たちの実践を通じて自然と同じように丸ごと認めていきたいと思います。人間を丸ごと認めていけば、必ず子どもたちは自信を持てるようになると信じてたくさんの自然との出逢いから真実を掴んでいきたいと思います。