自然をお手本に

自然を相手にしていると、色々なことが観えてくる。

足下の草一本一本に、それぞれの個性があり全体と調和して自分の生きる場所を見出しているようにも思える。

ある草は、土の表面に根を張り浅く広がっていくし、またある草は深く根を張り高くなっていく、そうやってお互いに元々の個性を活かし合いながら空間を共有してそれぞれの生を全うしようとしている。

私たち人間は、栽培をするということで自然の中のエネルギーを上手に活用しながら自然の御力をお借りして命を育てるというのは大自然の叡智でもある。

この命を育てるという行為自体が、私たちが大自然に育てられていることを自覚することになりそのことから私たちが活かされていることを悟るのだと思う。

つい私たちはそれを忘れ、自分が育っているや自分が育ったのだと勘違いをするけれどそれは大きな懐で見守られているから育てたのであって何もない中で勝手に育ったということではない。

生命あるところ、その全ての場所には偉大な真心が存在している。

例えば、どんなに荒野であったとしてもそれは地球の中にあり空気もあれば水気もある中にいる、そして太陽や宇宙の闇といった欠かせない光と闇が存在して私たちを見守ってくれている。つまりどんなに死の場所と言われるところであっても私たちが宇宙空間の中にいる以上は、私たちは自分だけでは生きられないことを知るのである。

そう考えれば、膨大なエネルギーの中で一部の自分にとって都合の良いエネルギーだけを枯渇するまで遣い切って自滅するかそれとももっと偉大なエネルギーを活かしてその循環に添って活かしていくかを思うとき、どちらが真に賢い選択だと言えるのであろうか。

目先の経済や目先の機械化は、それは確かに便利そうに見える。しかしそれも資源があるうちの話であり、行き着けば止まる、そして止まればまた別の目先の解決に飛びついて同じことをいつまでも繰り返す。大局的ではなく、部分的なところにもっていかれるのは人生長くて80年程度で自分のことだけで精一杯になるような忙しなく過ぎる日常に埋没してしまうからでもある。

別にそれが悪いといっているわけではなく、なぜもっと長いスパンでモノゴトを観ようとしないのかということが問題なのである。

時代の最先端は目先の技術ではなく、実は遠望熟慮した悠久の技術なのではないかと私は思っている。

それは心の働きの理解であったり、自然を通じて偉大な循環エネルギーを利用することであったり、生命の神秘に触れることであったりもする、そういう宇宙を感じる事で人は新しい時代に生きているのであろうとも思います。少し自然に触れれば、すぐに気づけることも隔離された文明の時間枠で流されることは本当にもったいないと思います。

もっと自然をお手本に、自然の先生から学び、子ども達のためにも、何が自然なのか、何が宇宙なのか、そういうことに触れる機会をこれからも一緒に創っていきたいと思います。