黙して語る

このブログでもそうだけれど、間というものを捉えるのに言葉を使うということは本来は矛盾がある。

言葉だけで物事は伝わらないのは、言葉というものにはかつて渾然一体な姿が伴っていたものだからでもある。本来、言葉というものは考えていることを伝達するために生み出したものではなくそもそも考えと動きが一体になったときに自然に発していたものである。

例えば、動物たちが色々な鳴き声を発するように何かの心意を感じるままに発するのに似ていてそれは言語にはならないものを発することでちょうど中間を捉えているのである。

中間を捉えるというのは、両極ではないことを意味していて例えば言葉で言えば明るい暗いではなく明暗入り混じるところを感知しているようなもので他にも例えれば、寒い暖かいではなく、寒暖入り混じっていることが感知できるところを言葉では語れないのと同じことなのです。つまりは複雑に矛盾に満ちていることを感知しているのが中間を捉えているということになるのです。

昔から「黙して語らず」、「沈黙は金なり」などと言いますが、あれも同じく語らないことはそういう中間を語ることになっているのです。中間とは、自然のことをいい、あの山や川、海のように言葉にはしないけれど発している音のようなもの、つまりはその心意を顕しているものを感じることができるのです。

自然の言葉を受け取れるのは、言葉にしないからとも言えます。
そして自然の言葉を感受し発信することで黙するほどに語るからです。

私は今年もブログでたくさんのことを掘り下げていきましたが、今年最後にまとめとして書き記すのは黙して語らないことの大切さ、言い換えれば言葉にしないということが何よりも心意を理解するのには大切なことですということでまとめたいと思います。

世の中にはたくさんの矛盾があります、それはすべてのものは入り混じって存在しているからです。まるで、朝もやの霧の中に一筋の太陽の光が差し込んで、揺ら揺らと風に流れて雫になっていくように、すべてのものは黙して語っているのです。

静かであることも、動いていくことも、すべては黙して語り続けています。

私たちは自然から学び、本来の人間性というものを思い出していく必要があるのだと思います。その時、あの山々の聳え立つ姿に私たちがかつて何を先生にして学んだかということを回帰していくことになるのです。

今年もたくさんの黙して語らない心意を言霊のままに味わうことができました。
引き続き、子ども心のままにかんながらの道を歩んでいきます。

有難うございました。