徳の循環

私たちが生きている世界には目に見えるものと目に見えないものが合わさって存在しています。目に見えるものを見て、これはどうやってできたものかと考えると目に目えないプロセスがあってできていることがわかります。そのプロセスをどのようにしたのかというのは、後になって目には見えませんがそのことで目に見える世界がどのようになっていくのかもわかります。

これは人間でも同じです。人間が修養を積み、徳を磨けばその結果としてその人の人柄や人物が顕現してきます。いくら見た目をよくしても、内面的なものは誤魔化すことができません。つまり目に見えるものと見えないものは表裏一体であり、デジタルとアナログのように結ばれ循環しているものです。

人であればこのように人徳として薫ります。そして物であればそれは場の佇まいとして余韻があります。どのようなプロセスで取り組み、どのような精神で関わり、どのような生き方で向き合ったかはその場にいつまでも遺るのです。

私は古いものを甦生していきますが、手で触れているとそのものの持つ徳を感じます。それがどのようなものであったか、目ではわからなくてもお手入れをすることで直観していくことができます。

特に心を籠めて、心の速度で丁寧に取り組んだものほどそのものが放つ美徳に感動します。時に心が宿っているからです。古いものの中には、それぞれそのものを作り出す作り手の真心、そして一期一会に集まってきた素材たちの絶妙な調和があります。

適材適所に、一期一会に、そのいのちが調和し新しいものが甦生していく。まさにこれは徳の循環であると私は思います。

徳が循環する世の中にしていくためには、私たち人間の方がその徳の循環を意識として自覚している必要があります。これは知識では得られず、まさに智慧の世界の話であり意識の問題のことです。意識を高めるには、徳を磨く必要があります。そして徳を磨くための実践が暮らしフルネスの中にあります。

日々の意識をどのようにお手入れしていくか、いのちをどのように豊かに健康に仕合せにしていくか。シンプルなことですが今ではそれが難しくなっています。徳の循環を通して子どもたちが真に豊かで仕合せな人生が歩めるように見守っていきたいと思います。

英彦山守静坊の甦生 感謝祭

明日は、いよいよ英彦山の守静坊の甦生感謝祭を行います。振り返ってみたら、本当に多くの方々に見守られ無事に宿坊を甦生することができました。結に参加してくださった方々のことを一生忘れません。この場をお借りして、改めて深く感謝しています。

思い返してみたら、今回の宿坊の甦生は困難の連続でした。工事に取り組み始めてからも何十回、もしくは何百回も神様に真摯に拝み、尽力することはやりつくすのでどうかお力をおかしくださいと祈り続けました。少し進んだと思うと、大きく後退し、善いことが起きたと思ったら八方ふさがりのような状態に陥ったり、一喜一憂してばかりの日々を過ごしてきました。

そんな中でも、本当に有難かったのは身近でいつも支えてくれたスタッフや家族、どんな時でも丸ごと信じて応援してくれた叔父さん。そしていつも見守ってくれていた仲間たち、結に参加してくれて見返りを求めずに徳を一緒に積んでくださった同朋のみなさま。小さなお気遣いから、大きな思いやり、取り組みに深い関心を寄せてくださった方々に心を支えていただいていました。

今回の宿坊の甦生で、故長野先生はじめこの宿坊に関わったこられた歴史の先人の皆様。そして英彦山に少しでも御恩返しすることはできたでしょうか。喜んでくださっているでしょうか、もしもそうなら努力が報われた想いになります。

私たち徳積財団、及び結の仲間は宗教組織ではありません。むかしの先人たちが暮らしのなかで信仰していたように、お山を拝み、お水を拝み、いのちを大切にし、お祈りを実践し、生活を助け合うなかで心をむすぶために信じあう仲間たちの結(ゆい)です。この結というのは、つながりや結びつきの中で暮らしていくという古来からの日本人の知恵の一つで「和」ともいいます。

私は、和が永続することを「平和」だと思っています。そしてそれは徳を積むことで得られると信じています。この徳を積むというのは、自分の喜びがみんなの喜びになり、みんなの喜びが自分の喜びになるという意味です。自然をお手本にして、全体のいのちが充実していくように、暮らしを充実させていくことです。それが暮らしフルネスの実践であり、徳が循環していく安心の世の中にすることです。

今の私たちは歴史を生き続けている存在です。終わった歴史ではなく、これは今も私たちが結び続ける責任を生きています。今までの先人たちの徳の集積を、さらに磨いてこの先の子どもたちに繋いでいくのが今の世代を生きる私たちの本当の使命です。

最後に、感謝祭に来てくださってお祝いをしてくださる友人たちがむかしの家族的な雰囲気で舞や唄を披露してくれます。この宿坊の谷は、弁財天さまの谷で弁財天は芸能の神様でもあります。むかしのように囲炉裏を囲み、みんなで一緒に同じ釜の飯を食べ、笑い、踊り、唄を歌う。心地よい法螺貝の音色が宿坊全体に広がっていくように豊かで仕合せなひと時を皆様と一緒に過ごせたらこれ以上の喜びはありません。

これから親友で同志のエバレットブラウンさんが、宿坊に滞在し英彦山の徳を出版や湿版写真等で伝承してくれます。そして私は、一人ひとりの徳を尊重し合い磨き合う場として仙人倶楽部というものをこれから徳積堂にてはじめます。私が心から尊敬する師の一人、二宮尊徳はこれを万象具徳といい、それを顕現させるのが報徳ともいい、その思想を一円観といいました。私はこれを現代にも甦生させ、「平和が永続する知恵」を子どもたちに伝承していきたいと思っています。

本日がその一つの節目になります。このひと時を永遠の今にしていけるように皆様と祈りをカタチにし、懐かしい未来を味わいたいと思います。

ここまで本当にありがとうございました、そしてこれからもどうぞよろしくお願いします。

器を磨く

守静坊にお世話になった方々への感謝祭の準備をしていますが、故長野覚先生の親しかった方々が多数参加してくださることになりました。不思議なことですが、宿坊と関わってから生前にお世話になった方々から先生のことをお聞きします。

どの方々からもとてもよくしていただいたことや、人格的に素晴らしかったことなどをお聞きすることばかりです。私はほとんどお話する時間がありませんでしたが、こうやって生前の生き方や人柄を人伝いでお聞きすることで先生がどのような方がったのかが見知ってきます。

昨日も、感謝祭のために英彦山で真摯に昔ながらの製法で真摯にこんにゃくを伝承されている方とお会いしましたがずっと長野先生に大切に関わって可愛がってもらったと感謝しておられました。

それがこのタイミングでつながり、宿坊甦生のお披露目の精進料理のメインとして使わせていただくことに不思議なご縁を感じます。

以前、ある方から私の生き方は依り代のようだといわれたことがあります。確かに思い返してみると、器のように何でもその時々でまるで自分ではないように行動します。私は真心という言い方をしますが、その時の判断の中にはほとんど我が入っていないことがあります。気が付くと、その人の心になったかのように行動できたりもします。

私は想いに敏感なのかもしれませんが、むかしから大義で生きた人の心やその想いにすぐに共感して器に影響を受けていきます。かつての先人たちの生き様や、その生涯での偉業などをみては魂が揺さぶられていきます。

私のこの道は、一体どこに往くのかは今はまったくわかりません。しかし我が道をこのまま信じて歩んでいくだけです。器を磨いて、器を整えて、子どもたちの未来のために私のなすべきことに集中していきたいと思います。

ご縁の循環

人のご縁というものはとても不思議なものです。長い時間をかけて、そのご縁の意味がなんであったかはあとから現れてくるものです。その時は、何ともなかったご縁でも、時間が経てばそれがとても大事なご縁であったことがわかります。

振り返ってみると、まさかここでこのタイミングでということで助けていただいたご縁がたくさんあります。過去に誰かに親切にしたことが、巡り廻って自分のところにもやってくるのです。ことわざに、「情けは人のためならず」があります。これは人に対して情けを掛けておけば巡り巡って自分に良い報いが返ってくるという意味の言葉です。親切の連鎖ほど、ご縁を有難く感じるものはあります。

そしてそれはいつからはじまったご縁なのかということに思いを馳せます。

自分がはじめて会った他人だと思っていた人でも、実は長い時間をかけて先祖や親族が親切にしてきた人かもしれません。偶然助けていただいた方でも、その方もひょっとしたら随分長い時間をかけてご縁が結ばれた人かもしれません。

一つ一つのご縁を大切にするのは、まだ見ぬ未来を明るくしていくためでもあります。それが時間をかけて育ってくるのを待ち、自分、もしくは未来に善い循環の流れをつくっていきます。

地球は循環を已みませんが、どのような循環をつくっていくかはその人の生き方次第です。毎日、それは試されていますしこの瞬間も実践する機会があります。そんなに人生悟ったようにはならないからこそ、ご縁を磨いていくような心がけが必要なのかもしれません。

子どもたちの仕合せを願うように、ご縁を大切にしていきたいと思います。

出会いの哲学

昨日、久しぶりに恩師の一人である吉川宗男先生が訪ねてきてくださいました。コロナもですが、色々なことがありなかなかお会いできなくて本当に久しぶりでした。思い返せば、まだ20代のときに同じような生き方を目指している先生に出会うことで私のインスピレーションも膨らみました。

今、場の道場を始めたきっかけも宗男先生とのご縁でした。その当時、先生からは、伝統的日本の文化である「場と間と和」の話を聞かせてもらい、ありとあらゆるものがメビウス上につながっているというメビウス理論を学び心が震えました。

先生の著書には5つの知の統合こそが人間力の知(HQ : Humanity Quotient)だといわれます。①知力、ヘッドナレッジ、IQ(Intelligence Quotient)頭で知る力。②感力、ハートナレッジ、EQ(Emotion Quotient)心で知る、観る、感じる力。心眼知。③行力、ボディナレッジ、BQ(Body or Behavior Quotient)身体の力。身についた技能。身体知。④活力、シナジーナレッジ、SQ(Synergy Quotient)そして上記の三力を源泉として生まれる生命力・活力・共生力。⑤場力、フィールドナレッジ、FQ(Field Quotient)場の暗黙知を感知し、場にライブ感を創り出す力。

このトータルな人間力の知は「全人格人間力の知」と定義しています。

昨日も、私が暮らしフルネスで創造した場の石風呂に入りながら色々とお話を伺いました。「味わう」ということの大切さ、そして出会いを哲学する人生をずっと歩んでこられたこの今の姿からも改めて生き方を学ばせてもらうことばかりでした。

人間は何歳になっても、出会いは無限です。

出会いに対して純粋な姿、ご縁を結びそのご縁を深く味わい余すところなくそれを好奇心で追い求めていく道を歩む姿勢。メビウス理論や場と間と和のどの話も、宗男先生と一緒に体験していく中で得られる知恵そものです。

説明ももちろんわかりやすく、非常に言葉も磨かれておられますがもっとも磨かれておられるのはその純粋なありのままの出会いの哲学です。

ちょうど色々と私も悩んでいた時期、遠方より師が来るで元氣をたくさんいただきました。大切なことを忘れずに、一期一会の人生を歩み切っていきたいと思います。

ありがとうございます。

徳への御恩返し

振り返ってみると、今取り組んでいることのすべては最初のご縁やキッカケがあることに気づきます。時間が経てば次第に繋がってきますが、それがどの時点であったのかは後から次第にわかってくるものもあります。

例えば、私が徳というものに興味関心が湧いたのは致知出版の本社で藤尾社長から徳の講義を受けたことからはじまります。そこで志に徳が入り、徳の道に気づいたことです。それから何年もかけて、気づきの実践から徳を見つめ直します。さらに、冨屋旅館の鳥濱トメさんの教えに触れる機会を経て、さらにその徳の意味を学び直して徳の意味を知ります。

他にも出会った方々が、それぞれに徳の話をしてくださり徳に益々のめりこんでいきました。その後は、徳積財団をつくり古民家甦生や伝統文化の甦生などに関わり徳を磨くことを実践していきます。気が付くと、徳積帳をブロックチェーンで開発し、いよいよ徳循環経済へと転換に挑戦することになっています。

今思い返すと、最初は一体どこだったのか。故郷の近くにあるお地蔵さんだったのではないかとも感じます。きっとこれもあと数年、もしくは数十年後に意味に気づける日がくるのでしょう。

歴史というものを観察していると、その原因が数百年前のことが今につながりそれを私が一緒になって取り組んでいることがあります。もうだいぶ経っていますからその人たちは当然生きてはいません。しかし、今私がやっていることに絶妙に繋がっているのです。

こうやって人は、後から意味に気づいて理解していけますからやっている最中はきっと何か大切な意味があるのだろうとよくわからなくても自分を動かしている何かと一緒に歩んでいくしかありません。

私の生まれてきた意味や、やっていることの意味もまた、後から繋がって気づかれるものです。今、わからなくても、今、理解されなくてもこれは確かな何かにつながっています。こんなことを書くと、いい加減のように思われるかもしれませんがこの世はすべてを説明できることはできません。大切な何かに今、気づき続けているという学問は一生終わることもなく、磨き続けるのみです。

至誠や真心、そして真摯に実践をすることで徳への御恩返しをしていきたいと思います。

安心できる場をつくる理由

人間には「我」があります。その我は、相手か自分かという相対するときにより出てきます。例えば、敵か味方かということも同じです。今の時代、競争や対立ばかりが目立ちそのことでどちらかが一方的に我慢させられたり、尊重し合えない関係の中で傷ついている人もたくさんいます。

社会そのものが一つの権力や権威によって尊重し合えない環境が発生すれば、この人間の我は際限なく大きく成長していくものです。戦争もまた、その一人一人の我が発展してさらに激しくなっていったものだともいえます。

この我というものは、周囲の中で感じる自分の立場や自分という認識のことでもあります。比較されたり競争させられていけば、次第に自分がどういう立ち位置にいるかということを人は気にしていくようになります。本来、主人公としての自分を素直に自覚し、天命を全うするような生き方をしている人はあまり我に影響を受けません。しかし、競争や比較で周りからどう評価されているか、または何をやられたか、いわれたかで自分を気にして自分のことを認識したとき我に飲み込まれます。

この時の我は、本当の自己ではない外から見えている我というものに執着するということでしょう。外から認識した仮想の自分に本当の自分が脅かされるということでしょうか。つまり本来の自分ではない何かに飲み込まれているということです。

本来の自分というものが何か、それは初心の中にあります。

何のために生きるのか、本当の自分はどうしたいのかと自分と向き合う中で真の自己の存在に人は気づきます。その真の自己には我はなく、真の自己があるだけです。では我とは何か、それは周りがどう認識しているかという自分の思い込みということでもあります。もっとシンプルにいえば、自分の思い込みこそが我の本体だということです。

だからこそ、思い込まないことが我に飲み込まれないということになります。そこで私は一円対話を通して「聴く」ということを実践することをみんなとしています。きっと何か自分にわからないことがあっているのだろうと思い込みを取り払ったり、自分の心にみんなで聴くという内省を共有することによって我の影響を小さくしていきます。

人は不信になると疑心暗鬼になると我に呑まれていきます。それは外から攻撃されるのではないか、裏切られるのではないかと不安になるからです。不安がさらに思い込みを強くしていきます。安心すると不安は減り思い込みも薄くなります。

本来の自分、自己の主体性を発揮するためにはこの「安心」という状態が重要です。一人一人が健やかに発達していくためにも、この安心できる場をどう醸成するかが鍵なのです。これは保育に関わる中で気づいたことです。

子どもたちが未来に、我に飲まれずに本当の自己、真の自我のようなもので天命を全うしみんなで働きを喜びあう社会が実現していけるように保育に関わる私だからこそ文句も言い訳もせずに場をととのえていきたいと思います。

思案する

宿坊の掃除を続けていますが、なかなか片づけがうまくいきません。もともと収納が少ないこともあり、長い年月で大切にされたものをどう片づけいいのかが定まりません。この片づけるというのは、語源を調べると決着をつけることや仕舞う、直すにもつながります。

色々と残った道具をどうしていくのか、収納できないから片付けるのですがどう活かすか、どこで使うかなど思案のしどころがいっぱいです。新しい役割があり配置できればいいのですが全部は難しく、どうしても悩んでしまいます。

一つ一つを掃除しながらも、一時的に置いておくようなものも必要です。しかしその置いておくものもまたお手入れを続けていく必要があります。将来のために、これはここまでにしておく、いただいたものだからそれをどう直しておくのか。これは先人たちもみんな思案のしどころだったのでしょう。

物が多い時代、それはすぐに捨てるものになります。しかしかつての時代は、ものにはいのちがあり、物語や意味があるからもったいないものでした。もったいないものだからこそ思案するのです。

思案するのはかつての過去を辿り、未来を省み、今どうするかを決心していくことです。大切なものだからこそ、そこに意味が入ります。

宿坊の歴史は今も続いていますが、その続いてきたものをこの先どうしていくのか。片づけるというのは、直すことでもあり、その本質を磨き甦生することです。

子どもたちのためにも充分に思案を続けていきたいと思います。

甦生の道を精進していく

物事は小さくはじめて大きく育てていく方が自然に近いように思います。最初から大きくしようとすると、確かに注目されて目立ちはしますがじっくり味わい取り組んでいくことができません。

現代はすぐに結果重視で、なんでも派手に目新しいことを探します。そして一度、見てしまえばわかってしまったと安心して飽きてしまいます。わかることが目的になっているからです。しかしわかるというのは、そう簡単なことではありません。なぜなら知ったことと、真にわかることは別のことだからです。

わかるというのは、本当はとても奥深く時間が必要です。しかし今の時代は、時間をかけることを嫌がります。時間をかけずにすぐに結果が欲しいと思うのです。だから、わかりにくいものを毛嫌いします。わかりづらいと文句をいったりします。

しかし本当はそれは真にわかろうとしない人の意見であることがほとんどです。ちゃんと理解しようとする人たちは、何度も通い、体験をし、その深い意味や味わいを感じ取ります。一度ではわからないから何度も通うのです。

私も今までわからないことを真にわかろうとして、何度も通い続けているものがあります。ひょっとすると死ぬまで通いながら学ぶのではないかとさえ思います。他には、法螺貝などもそうですが練習してもしてもわかりません。わからないから、もっと練習しますがそれでもわかりません。先日、先輩たちの会合で練習風景を見学しましたが何十年とやっていてもまだわからないとみんな目をキラキラさせています。

人が何かをわかるというのは、道を究めるということです。

道を究める志があるからわからないのであり、それがわかるというのは道がわかるということです。知識ばかりが増えて、なんとなくわかったらそれでもう終わりというのは冷めた感情だなと思う時があります。ワクワクドキドキし、好奇心を発揮させ、面白い世界を学び、まだ見ぬ世界の広さや深さを学ぶことは人生を真に豊かにしていきます。

わかってもらおうと思う自分への焦りも捨てて、滋味にじっくりと地道に甦生の道を精進していきたいと思います。

有事に備える暮らし

現在、ウクライナとロシアの紛争から食料危機の問題が浮上してきています。もともと日本は食料のほとんどを輸入に頼っており、その大半はアメリカのものです。食料自給率は37%と先進国中最低です。そのアメリカの食料自給率は128%を超えています。詳しくは、農林水産省のHPからもご覧になれます。

食料を自給できていないということはどういうことか。自分で暮らしていける分を持っていない場合、有事の場合はどんな悲惨なことになるのかはすぐに想像できます。食料自体が海を越えてくるのですから、もしも戦争が発生したり、経済危機になったり、地球規模の災害が起きれば、すぐに食料はなくなります。

現に、インドは今回の紛争からすぐに小麦もお米も輸出を停止しました。それは国内の食料が不足することを予測してのことです。当たり前のことですが、すべての国は自分の国の食料をすぐに確保します。

日本は円安で海外からの輸入品がすべて高額になっていきます。すると、今まで国内で安く買えていたものも次第に値上がりしていきます。小麦やお米、大豆をはじめ、あらゆるものを輸入に頼る日本は今はまだ資金があるからなんとかなりますがいよいよ世界の国々が輸出をストップすれば経済危機と食料危機がやってきます。

そもそも世界大戦とは何か、それは世界を巻き込んだ争いに発展していくことをいいます。最初は食料危機からかもしれません、そして経済危機、最後は国家存続の危機に陥り、そういう国々が連帯して資源のある国や食料を求めて戦争をはじめていくのです。

だからこそその争いに巻き込まれないように食料自給率があるということは重要なことになります。

日本人の食生活はこの輸入にあわせて変化してきました。ほとんどが小麦をはじめフルーツ、肉なども海外のものになっています。本来の和食はとても質素でした。日本人はもともとお米を中心に味噌や漬物、そして小魚、貝などを主食をしていました。今のように贅沢な食卓になっていったのもまた、この輸入政策が影響してきました。

いよいよ食糧危機となったとき、私たちの世代ははじめて国に食料がないという体験をすることになるでしょう。その時、どのように暮らしをしていくか。今から準備している必要があると思っています。それは材料を確保するということだけではありません。本来の伝統的な暮らしに回帰して何があっても対応できるようにする準備がいるのです。

だからこそ私は暮らしフルネスを通して、子どもたちはじめ自らがその実践を通して危機に備えていく必要性を発信しています。長い目で観て、まさかということはたくさん起きるのが人類の歴史です。今回のコロナ感染症も世界を巻き込みました。そしてウクライナのことも世界を巻き込んでいます。他人事ではなく、今は有事なのです。

もっと危機感をもって、みんなで知恵を出し合い、これからの難局にどうみんなで助け合い乗り越えていくかを考えていきたいと思います。子どもたちのことが一番心配です、だからこそ大人である私達こそその第一線で真摯に向き合うことを大事にしていきたいと思います。