反省の大切さ

論語に「吾日三省吾身」というものがあります。これは「吾、日に三つのわが身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。伝えられて習わざるか」の孔子の高弟、曽子の言葉です。

反省というのは、自分自身の心に向かって内省していくものです。誰かの比較や評価ではなく、その日あったことを振り返り自分自身の心に訪ねて対話をしていくのです。本来の主体性というものは、一方的に外側から伝えられる情報では発生しません。外側で感じたことを内側でどのように感じたか、そして同時に人生の意味や目的や初心などを砥石にしてどのように磨いたかを確かめるのです。

人は失敗することで成長しますが、失敗は反省することで得られます。そして反省したら改善や修繕の創意工夫が産まれます。つまり反省をすることは、人生をよりよく生きる上で何物にもかえがたいものであるのは間違いありません。

松下幸之助さんはこういいます。

「誰でもそうやけど、反省する人は、きっと成功するな。本当に正しく反省する。そうすると次に何をすべきか、何をしたらいかんかということがきちんとわかるからな。それで成長していくわけや、人間として。」

そして稲盛和夫さんはこういいます。

「忙しい毎日を送っている私たちは、つい自分を見失いがちである。そうならないためにも、意識して反省をする習慣をつけなければならない。反省ある人生を送ることにより自分の欠点を直すことができ、人格を高めることができる。」

名経営者たちもまた、反省の大切さに気付き反省することで素直さや謙虚さ、主体性や純粋性などを磨かれ人間として成長を学び続けておられたように思います。

もともと反省は、自分自身との対話ですから一人でやっていくものです。しかしそれだけでは日本の伝統的精神の衆智を集めることはできません。だから私は一円対話という場を通して反省する仕組みを提案しています。

忙しくなるのは、振り返る「場」がないからです。

人は場があれば、その時間は丁寧にその場で自分自身と向き合うことができます。それをみんなで振り返ることができるのならみんなで自己内省したことを共有しあうことができます。

例えば、初心をみんなで振り返る場があればみんなが主体性を発揮して改善していく組織になります。誰かと比較や、思い込みやバラバラになるのではなくそこに確かな協力や共有が深まります。つまりバラバラでも内省によって繋がりあう関係が結ばれるのです。

これを自律分散型の組織という言い方もします。振り返りは、自律や協力をしていくための土台です。これはまず自分自身がそうなっているのかということを振り返ることが前提になっています。自分というものとの付き合い方がととのってないのに、周囲の人との関係をととのっていくことはできません。

自分自身をよく振り返る人は、自立していきます。子どもたちにもその時間や場を設けることの大切さを伝えていますが、そこに関わる方々の場もととのえていく必要があると感じています。

だからこそ論語にある「三省」が大切になるのです。徳もまた内省によって磨かれていくものです。引き続き、生き方を通して一人一人が自分らしく仕合せに生きられる社会のために自分自身と丁寧に一円対話していきたいと思います。

大切な一歩

日本には古来から今まで続く伝統の精神があります。これはずっと先祖代々、親祖から今まで大事にしてきた心であり私たちの基礎や土台になっている重要な文化の源泉でもあります。

つまり何を大切にするかということを、代々、伝承して磨いてきた私たちに備わっている精神文化です。これは空気のように当たり前になっていて気づきにくいものですが、それぞれの民族にはそれまで連綿と続いてきた伝統が必ずあります。伝統とは、伝承されてきた歴史のことです。

この歴史は、風土の影響を受け、或いは、ご縁の影響を受け、また或いは偉大な先人の確立した哲学や実践の影響を受けたものかもしれません。私たち日本人が、よく感じている空気感、場や間、和などもまた日本的精神文化であることは間違いないことです。

ここから何が分かるかと言えば、一つは八百万の神々という言い方があるように多くの神様の意見を集めること。八意思兼神を私も邸内社でお祀りしていますがこの神様は神々のファシリテーターのような役目で一円観を持つ偉大な先祖でした。

もう一つは、徳を重んじることです。自分の主体性を発揮し、自分らしくイキイキと楽しみ喜びながら周囲の喜びになっていくという姿。日本人の仕事観は、本来は「ハタラキ」といって自然のように自分自身を主体的に発揮してみんなのお役に立っているということです。つまり、みんなの働きにみんなで感謝しているという状態。いつも働いてくれてありがとうとすべての存在に感謝しているということです。

さらに一つは、繋がりの中に生きているということです。常に一緒に生きているという存在として思いやりを忘れていません。和の心とは、調和のことですべてのご縁を大切にして繋がっていることを忘れないという生き方です。このつながりに何か大切な意味があるとし、そのご縁の糸を丁寧に丹精を籠めてつなぎます。ご縁をみんなで尊重し合うのです。

日本人は、本来、そういう精神文化の土台の中であらゆる世界の文化を取り入れてj文たちの文化の上に重ねてきました。土台があるから、器があるからそこに盛ることができるのであってそれがなくなればただ散らかっている部屋のようになってしまいます。

今の世の中の問題を眺めてみたら散らかし放題で片付ける人もいなくなっているように感じるのは私だけでしょうか。子どもたちはその散らかった部屋で居場所がなく、あちこちとさ迷ってしまいます。

先人たちの今までの生き方を見つめるとみんな子どもたちにその伝統精神をどう譲っていくかを苦心して努力してきた存在であったことがわかります。

その証拠に、行事や御祭りをしたり伝統的な暮らしをととのえていく場をたくさん用意して反省を続けた形跡があります。

この時代は世界の文化が混じり合っている世紀ですがだからこそ自分たちの文化をちゃんと学び直す必要があると私は思うのです。私の暮らしフルネスは小さな一歩かもしれませんが、先人たちが紡いできた長い道のりの大切な一歩です。

真摯に子どもたちのために、自分の天命をやり切っていきたいと思います。ありがとうございます。

弱さの真髄

昨日、聴福庵に来られた方々にここまで直すのにどれくらいかかりましたかと聞かれました。実際には、今も修繕し続けていますから5年以上ということになります。そして今も、お手入れしないと傷み壊れていきますからずっとやっていくことになります。

つまり古民家に住むというのは、日々のお手入れをして直し続けることは当然のことになっていきます。実際に、この時期などは少しだけ目を離せば、庭はあっという間に雑草だらけになります。他にも、誇りを被ったり小さな蜘蛛が入ってきては巣をつくります。定期的に磨かなければくすんできますし葉っぱや落ち葉も風で落ちてきます。

本来、この修繕やお手入れというものは暮らしの一部でした。暮らしの中で自然への畏敬を忘れずにいつまでも生きていくということ。こういう日々の暮らしの中でずっとこの修繕とお手入れは引き継がれてきました。

それがこの150年くらい前から、生活様式が一変し、便利なものが増えて修繕やお手入れは特定の人たちだけがすることになっていきました。古くなれば新しく買えばいいということで、メンテナンスや維持するための努力をなくしていきました。そうしているうちに、完全に壊れてしまいゴミのようになって捨てていくという具合に失われていきます。

不便さというのは、弱いものです。弱いというのは、頑丈でもなく強固でもない。お手入れをしてあげなければ壊れてしまうというものです。日本の家屋は基本はこの弱さを重ね合わせたもので完成しています。

弱さがあるからこそそれぞれの持ち味を活かして協力し合い真の強さを持てるようになります。まさに弱さこそ、日本文化を活かす真髄ではないかと修繕とお手入れをしながら感じます。

この先も実践は続きますが、先人たちと同じように丹精を籠めて日々の実践をしていきたいと思います。

屋根を支えよ、いのり続け世

昨日は、日本茅葺き文化協会主催の茅葺フォーラムに参加してきました。全国各地から茅葺職人さんやその文化を守ろうとする方々が参加しておられました。私もはじめて参加しましたが、会場も熱気がありこの先の未来が楽しみになりました。

私は、有難いことにここ数年の数々の甦生を通して多くの伝統文化に携わる方々と交流を持たせていただきました。文化や歴史と共に歩んでいる方々はどの方も力強く、そして守り守られているような雰囲気があります。

代を重ねるというのは、それまでの代々の遺志を繋いでいるということでもあります。これは生き物たちが子孫を残して今につながっているように、脈々と受け継がれていく智慧があります。この智慧を一つ、自分が担っていると感じるだけで天命を味わえるものです。自分の中に何を残してくださっているのか、自分の中に何が受け継がれているのか、その一つ一つをひも解けば自分の使命を自明していくことも可能です。

個性や能力、そしてその人の宿命や運命は、自ら求めなくても自然に導かれていくものです。この道に入っているのも、また日々の出会いも、どれもこれもが文化の顕現したものです。

歴史の面白さはその謎解きでもあり、解明でもあり、新たにそれを見守り育むことができる仕合せを感じられることでもあります。

以前、ブログにも書きましたが聖徳太子が「屋根を支えよ、いのり続けよ」という縁の下の舞のことを書きました。茅葺の屋根は、みんなで葺いた屋根でその一本一本を重ねて束ねたものです。それが自分の家を守っているということを教え、そしてそれをみんなで葺いたということを忘れるなとし、さらにはその重たい屋根をみんなが支えていくようにと初心を舞いで振り返るようにしました。そのうえで、いのり続けよとは、別の言い方では永続する平和の世がいつまでも続きますようにと願いなさいとしたのです。

まさに茅葺は永続の平和の象徴であり、この屋根が多くある日本こそが世界でもっとも自然と共生し永続し循環する仕組みを大切に守る国であるという理念が顕現した国だったのです。

今の時代、先祖たちはきっと心配しているでしょう。しかし、それでもこうやって屋根を守り、祈り続ける人々がいることで安心してくれているでしょう。今までの歴史を省みても、文化を守ったのは大勢いではありません。どのような困難な時も、繁栄のときも、文化を守ったのはごく一部の限られた人たちです。その人たちの純粋で真摯な生き方や生き様によって今の私たちも文化の恩徳・恩恵を享受されているのです。

文化は消えそうなとき、そして失われそうなとき、もっともそこに力が凝縮するものです。その一本の糸は、簡単には切れることはありません。まさにその瞬間も結び続けます。「結」とは、そういう縁「むすび」のことであり必ず守られるという意味でもあります。

日本の茅葺き屋根の文化がこれからこの世界を変えていく気がしています。子どもたちのためにも真摯にその意味を伝承していけるよう守静坊と共に歩んでいきたいと思います。

善根の真心

善根宿(ぜんこんやど)という言葉を知りました。別の言い方では、御蔭宿ともいいます。これは諸国行脚の修行者、遍路、または行き暮れた旅行者などを無料で宿泊させる宿屋のことです。ただなぜ善根というのか、それはお遍路さんに奉仕をし孝徳を積むことができるかともいいまます。

この孝徳とは、孝行の徳のことです。自分の親を大切にするように、喜ばせて大切にするということです。親孝行とは、子が親を敬い、親に尽くすことをいいます。

デジタル大辞林には、《「ぜんごん」とも》仏語。よい報いを招くもとになる行為。また、さまざまの善を生じるもとになるもの。「善根を積む」「善根福種ふくしゅ」とあります。

もともと仏教には、因果応報の法則というものがあります。そこには「善因善果」(ぜんいんぜんか)「悪因悪果」(あくいんあっか)という言い方をします。これは「善い行いをしていれば、いずれ善い結果に報いられる」その逆に「悪い行為には、必ず悪い結果や報いがある」という意味です。

これは地球を含め、丸い球体をみればわかります。どんなに遠くに投げたものでも必ず自分のところに戻ってきます。つまりどのようなものを積んでいるかで、その積んだ因果が長い年月をかけて戻ってくるのです。その時、善い種を蒔く人は善い花が咲くし善い実を漬けます。そうやって、どのような因果を積むかということを常に意識するのが人生をよりよくする一つの知恵でもあったのでしょう。

しかし実際は、宗教とは別に自分の人生を善悪のどちらかでいるためにこんなことをやっているのではかったのではないかと思います。私の思う信仰は、自他を喜ばせることです。みんなの喜びと自分の喜びが一致することです。それを私は徳積みと呼び、お布施といいます。

お布施行としての善根宿であり、まさに御蔭様で宿っているということでしょう。お互いに仕合せになりような巡礼にしていたのが、本質的な宿坊の役割だったのではないかと思うのです。

仲間や巡礼路の甦生に手掛けていますから、私自身もその一つの役割を果たせるように善根の真心で取り組んでいきたいと思います。

伝統的な稲作

今日は、福岡の自然農の田んぼで田植えを行います。毎年、参加する方々が異なり一期一会の田植えです。今回は、近くでブロックチェーンを学ぶ大学生たちも参加してどのような感想が聞けるのか今から楽しみにしています。

思い返せば、2012年からこの自然農での田植えをはじめています。その前も自宅の庭で色々と試してみましたが田んぼで本格的に取り組むのは10年前くらいからです。毎年、新しい仕組みを試行錯誤しながら一度も同じことをやってきませんでした。

それくらい、田んぼは好奇心を磨き喜ばせ、大変なことが多いのですが飽きることがありません。私の場合は、収量にこだわらず、生き方や育ち方、そして環境の見守り方にこだわりますから一般的な農家さんと目線も取り組み方も異なります。

しかし10年も続けていたら、知識も智慧も増え、田や稲との関係性から学んだことが人生に大いに役に立ち始めています。そもそもこの稲作というのは、日本の風土で生きていくための智慧の宝庫です。

水をどう扱っていけばいいか、そしてどのようにみんなで協力していけばいいか。さらに、種をどのように扱い増やしコントロールしていけばいいか。人間が謙虚で感謝を忘れない暮らしを維持していくための仕組みが入っているように思うのです。

今のように、全部機械で自動化し、科学肥料や除草剤、農薬をつかって便利な農法になってからあまり謙虚さや感謝などは感じにくくなってきています。

しかし本来、この日本の稲作はある意味で信仰に近いもので道です。

この稲作道というか、八十八の丹精を通して私たちは日本の和の心を伝承してきたと私は確信しています。これまで大切にしてきた生き方は伝承していくことは、先人からの恩恵に感謝し続ける大切なことです。時代が変わっても、何を変えてよくて何を変えてはよくないか。それはその時代の当事者たちの大切な責任です。

保育に関わるからこそ、私たちはこれからもこの伝統的な稲作を継承し、子孫たちへ伝承していきたいと思います。

守静坊から皆さまへの感謝

一つの偉大なことを為すのは一人の力では成しえません。それはよく振り返ってみればわかります。本当に多くの人たちが助けてくださって、関わってくださってそして一つになります。

つまり一つというのは、みんなで一つということでそれだけ歴史の中で偉業は行われてきたのです。つい歴史の本などには、誰か特定の一人だけがフォーカスされてその人がさもやったかのように記されます。しかし果たしてそうでしょうか。そんなことは絶対にありません。

その当時、その一人に共感してお手伝いしてくださった多くの人たちの人生や願い、想いがあります。それが形になったものが偉業であり、その偉業はその人の名前で為したみんなの偉業ということになるのです。

今、英彦山の宿坊の甦生で本当に多くの方々のお力をお借りしています。本日も、いよいよ茅葺屋根の完成と足場の解体で結をお願いしたら50名以上のお手伝いをいただくことになりました。

思い返せば最初から本当にいろいろな方に関わっていただき、そしてここまで出来上がったのは皆さんが力をお貸ししていただいたことの結晶であり、集積です。それが建物に宿り、いのちを吹き替えてしています。

最初は空き家でボロボロ、シロアリが食べ、野生動物が棲み、暗くジメジメとした廃墟のような状態でした。このままでは、この家は失われて歴史が消えてしまうという声もあり、様々なご縁が背中を後押しして甦生させていただくことになりました。

とても最初は一人では途方に暮れるような話で、不安や心配ばかりでしたが一人、また一人とお手伝いいただいたことでどれだけ心を励ましていただいたかと思うと感謝しかありません。

この後、宿坊でどうするのかというという声もありますが今はそんなことは何も考えられずただただ感謝と恩返しがしたいという気持ちがあるだけです。宿坊が素晴らしいともしもこの先、褒められることがあるとしたらこれは甦生に参加していただいた皆さんが素晴らしいと褒められたということだと私は感じています。

最後まで皆さんの真心に応えられるように、みんなの一人としてやり遂げていきたいと思います。いつも本当にありがとうございます。

当たり前ではない恩恵

私たちが日ごろ当たり前すぎて意識していないものに空気もありますが、同時に重力というものもあります。当たり前すぎてその重要さを忘れてしまいますがこれは私たちの生活において忘れてはならないものの一つです。

たとえば、空気といえば呼吸です。私たちは自分たちの生命を呼吸によって保っています。死んでいくことを息を引き取るというのも呼吸をやめたということです。つまり呼吸をすることで私たちは生命を維持しているということになります。その呼吸は何を呼吸しているのかといえば、空気です。その空気は、目に見える科学的なものとして酸素、二酸化炭素などもありますが私たちは地球の大気に守られているという観点から見直せば偉大な生命の中で他の生き物と一緒に共生しているともいえます。

その空気は、あらゆる風や雨をはじめ木々や微生物まで全体で澱まないように循環させています。循環しながら浄化し、私たちはその浄化システムの一部を担いながら生命を保つような原理の中で生きています。私たちの呼吸は、それだけ地球の一部としての偉大な役割を持っています。

同様に重力というものがあります。これは引力といって物と物が引き合い地球のない分から引き合う力の掛け合わせで発生しています。宇宙にはそれぞれの星々が引き合いながら一つの銀河を形成しています。どんなに関係ない星々とみえても、実際にはお互いに引き合うから一定の距離を保ち関係しながら存在します。そして重力もまた同じように、私たちは地球との関係において引き合うことで存在します。

重力というものの存在に気づくと、如何に私たちの身体や物が重力の恩恵で成り立っているのかがわかります。重力があるから物が安定し、体も保たれ、生命の象るすべての基本が成り立っているのです。これは、家にしても同じ、また木々や植物、あらゆる生き物の姿カタチすべてに恩恵を与えます。

当たり前であることに気づけるか。

この感性こそが、自然体に近づくための大切な真理です。その真理を磨き続け、そん材の妙に気づき、それを活かすことができる人こそ達人ですし、その真理に近づいていく人が自然体になっていく人です。

無駄な力を抜けるというのもまた、重力や引力の法則を学んでいるからです。この世の恩恵をうまくいただきながら、道を歩んでいきたいと思います。

この道を究める

自分の道を歩んでいくなかで、大勢の方から評価されることがあります。その評価は賛否両論あり、それぞれの意見があります。人には価値観があり、それぞれに生き方も異なりますからそのどちらも参考になります。

しかし時折、親しくなりたい方や、大きな影響力をある方、認めてもらいたいと思っている方からの意見に自分が揺さぶられてしまうことがあります。

人が自分を見つめるというのは、こういう時かもしれません。

自分を見つめるというのは、自分というものをもう一度、外の目、内の目、全体の目で観直してみるということです。その中で、自分はいったいどうしたいのか。そして周囲はどう思うのか、自分の初心、役割、天命はどうしたいのかと自分自身を掘り下げていきます。

自分を掘り下げていくなかで、本当の自分に出会います。そして本当の自分の声を聴いてどういう結果になっても悔いのない方を生きようと心で納得するのです。

すると、結果に限らずその人はその人らしい人生を生きていこうとします。つまり自分らしく生きていくのです。

私は子どもを見守ることを本志、本業にしています。なので、試練はいつもそれを見守れるかどうかというものを見つめる機会があります。童心、そして道心を守れるかと自己に問うのです。

子どもが子どもらしくいられる世の中をつくりたい。そして子どもの憧れる生き方を実践したいと決心してから今があります。それは自分の中にある子どもを守れるかという覚悟と一心同体でもあります。

しかし有難いことに、事があるたびに救われるのはその自分の中にある子ども心であり納得していきていこうと約束して決めた二つが一つになった自己一体の本心です。

本心のままに生きていけるように、強く逞しくしなやかに、素直に謙虚にこの道を究めていきたいと思います。

純粋性

人生の中で感動するものの中に純粋性というものがあります。この純粋性は、その人の真心や本心に触れるとに顕現してくるものです。すぐに人は物事を頭で考えては、それが正しいか間違っているか、深いか浅いか、意味があるかどうかなどで裁こうともしますがそれでは心か感動する機会を失ってしまうようにも思います。

心というものはもともとは純粋性が備わっているものです。

なので人は心からの行動や言葉、心のままに生きている人をみると感動するのです。産まれて間もない子どもたちや、もしくは生き物たちの素直な行動に心を打たれることも多いように思います。

この純粋さというのは、純粋なものから引き出されていくように思います。自然界にはこの純粋なものが溢れていて、それを見出しその心を自分に投影するなかで純粋性もまた磨かれていくように思います。

心のままであるようにするには、色々な心のまわりにこびりついていくものを綺麗に掃除して取り除いていく必要があります。これは暮らしのお手入れも同じで、日々に積もってくる塵や埃を掃除し、そして次第に色あせてくるものを布で拭いて磨いていくような取り組みが必要です。

結局は、人は純粋性を保ち、この世で自分のままで生きていけるというものに憧れているように思います。私が子どもの憧れる生き方にこだわるのもまた、この純粋性を守りたいと願っているからかもしれません。

誰もが純粋のままでいられる世の中。みんなが素直になっている世の中。そこに美しい日本人の姿を感じます。

どの時代でも人は心の奥底で、純粋に生き切る人たちのことを尊敬しています。日々に純粋性を保てるように、暮らしフルネスの実践を味わっていきたいと思います。