大家族主義の徳

互譲互助という言葉を知りました。これは出光創業者の出光佐三さんの遺した言葉です。日本人は、本来、お互いを尊重しあい譲り合う和の精神がありました。それが個人主義で失われていくのは違うのではないかと、さらに和の精神を磨こうと発信されました。

出光興産のホームページには「互譲互助」がこう紹介されています。

『個人主義は利己主義になって、自分さえ良ければいい、自分が金を儲ければ人はどうでもいい、人を搾取しても自分が儲ければいいということになっている。ところが本当の個人主義というのは、そうではなくてお互いに良くなるという個人主義でなければならない。それから自由主義はわがまま勝手をするということになってしまった。それに権利思想は、利己、わがままを主張するための手段として人権を主張する。この立派な個人主義、自由主義、権利思想というものが悪用されているのが今の時代で、行き詰っている。

それで私はよく会議で言うんだが、「お互いという傘をかぶせてみたまえ。個人主義も結構じゃないか。個人が立派に力強くなっておって、そしてお互いのために尽くすというのが、日本の無我無私の道徳の根源である。自由に働いて能率を上げて、お互いのために尽くすというならこれまた結構である。それから自分が人間としてしっかり権利をもって、お互いのために尽くすというなら結構だ。」と言うんです。互譲互助、無我無私、義理人情、犠牲とかはみんな「お互い」からでてきている。

大家族主義なんていうのも「お互い」からでてきている。
その「お互い」ということを世界が探しているということなんだ。』

本当の個人主義とは何か、それはお互いが善くなると定義されています。そもそも自今主義は利己主義でもなければわがままするものでもない。権利思想が悪用されているというのです。

私はこの権利思想というものは、人権を含め、お互いを尊重しあうという意味で人としてとても大切なことだと感じています。しかし今の使われている権利は、戦うため、争うための材料になってしまっています。

そこで本来の意味に回帰しようと「お互い様」という日本の精神を説きます。みんなで自立するのはいいことだと、そうやって自立してお互いのために支え合うのが日本人の生き方ではないかと。そのうえで、自分の権利を保っていこうではないかと。その道の先にこそ、みんながお互い様で生きていこうとする大家族としての地球があるのではないかと、私はそう仰っているように思います。

自分の国や自分のことだけ、そのために奪い合い争い合うというのは平和的ではありませんし自然の掟に反するものです。自然は、よく観察するとお互い様で成り立っており、みんなそれぞれが尊重しあうなかでお互いに譲り合って助け合って存在しています。

例えば、野菜でもそれを育て見守り喜んで一生を歩んでいく過程でその作物や食料として私たちは食べていくことができます。そして種をいただき、その種を育てていくことで共に生のパートナーとしてお互いを見守り合う関係で家族になります。

思いやりをもって歩んでいくことで、このお互い様がはじまりそこに譲り合いという知恵が生まれます。権利と勝ち負けではなく、尊重と譲り合いが世界をつくるのです。

時代が変わっていろいろと世の中も毒がたまってきています。毒を取り除くには、日頃から毒を出すかのように浄化し続けることが必要です。この出光佐三さんの大家族主義というのはまさに今の時代に求められている気がしています。

子どもたちの健やかな未来のためにもお互いというところをさらに突き詰め、徳積循環経済の仕組みに挑戦を続けていきたいと思います。

未来の可能性

未来の可能性というものは、今の自分の能力で推し量ることはできません。それは未来が予測できないことと似ています。今の自分が、今こうなっていることを40年前やもっと前に予測できたかといえばほとんど予測できていません。そこには数多くの奇跡やお導きがあり、今に結んでいます。

ビジョンというものは、方向性を決めるものですがこうなると未来が予測できるものではないように思います。しかし、そうなると未来を信じるのだからその信じるものを実現するために自分の能力を磨いていくのです。

そうやって人は成長し、進化していくものであろうと思います。

しかし、あまりにも高い理想や現実の世界の価値観とかけ離れたようなことに取り組もうとなると未来の可能性がどんどん小さく感じるものです。本当に実現するのか、実際には不可能ではないかと不安にもなるものです。

実際には、小さく感じても小さなことからコツコツと挑戦をし積み重ねて可能性を広げていきます。特に自然を相手にしてみるとわかりますが、思いどおりなどにはいかず、自分を謙虚に素直に改善していくしかありません。

そうやってコツコツと取り組んでいると暮らしが次第に変わってきます。日々の日常の中で、変化が出てきます。その変化こそ、未来の可能性ともいえるものです。

実践するというのは、日常の暮らしから変わっていくものです。

時間がかかっても、未来の可能性を信じて知恵を活かす新たな能力を磨いていきたいと思います。

魂を磨く暮らし

人が何かを体得するというのは、日常の暮らしになった時に獲得するものです。頭でっかちに知っても、それを知恵として持続することはできません。知恵にするには、その人の生活そのものと一体になっているときに実現します。

この日常にするというのは、習慣化するということです。習慣化というのは、知恵化するともいえます。私たちの今いる現代は、知識は消費の一つになり知識を膨大に得てはそれを日々に消費しています。有名人やインフルエンサーなど、毎日のようにSNSで発信し、専門家や芸能人などは知識の発信に余念がありません。そしてその知識を早く得ようと、膨大な費用を使っては消費活動を拡大させていきます。

情報化社会というのは、情報がお金になり、その人が持つ時間をいかに情報に費やしたかどうかで費用を使わせるという具合です。

もともと現在の経済は、経世済民ではなく如何に経済を発展させるかに余念がありません。経済が衰退するとき、国家が滅ぶとさえ信じ込まされていて経済的な破綻=国家の破綻となっています。これは人間の破綻もまた経済の破綻と同じと定義されています。

しかし本来の破綻とは、生活文化が失われていくことではないかと私は思います。それは古来からの知恵が失わていくことです。例えば、食文化や伝統文化、生活文化、伝承文化、先人たちの体験から得た気づきを知恵にしそれを連綿と繋いできたものが失われた時にこそ、真に滅ぶのです。経済が破綻したとしても、文化があればいくらでもそこから甦生できます。しかしいくら経済が発展しても、文化が失われたらそこでお終いです。

これは人の生き方も同じです。生き方が残っているからこそ、魂は守られます。魂を売ってしまうと、あとは奴隷のような時間が残るだけです。人は魂を優先するとき、知恵を伝承することができるものです。

暮らしというのは、本来は魂を磨いていくことです。

魂を磨いていくことは、人生をよりよいものにし子孫へその知恵を伝承していくことです。教育の本義もまたそこにあるはずで、知恵のない教育など物質文明の中の消費材の一つになっているだけの産物です。

現代人は時間がなく、知恵を獲得するのにかかる習慣化や持続の時間を確保するのに抵抗があるものです。それもお金にならない場合はなお選択しなくなります。しかし一つの知恵を獲得するのにかける時間も費用も本当は対価がつけられないほど偉大なものばかりです。

純度高く、取り組んでいく人こそ知恵の伝承者です。

子どもたちに生きる力、知恵が伝承していけるように日々の暮らしを調えていきたいと思います。

智慧と感謝

今までの人生を振り返っていると、有難い智慧というのは自他一体の時に巡り会ってきたように思います。自分が大変だから智慧が湧いたのではなく、誰かのために、あるいは小さな自我を超越して、みんなのためにやお山、あるいは地域、先祖、歴史など、偉大な自我と向き合ったときに出会いました。

本来、人は奪うために存在するのではなく与えるために存在しているものです。これは人に限らず、すべてのいのちというものは与えあい助け合うなかで共に生きていくものです。

つまりは共生というのは、自然の掟であり野生のものは本能でそれを獲得しています。だからこそすべてのいのちには智慧が具わり、この宇宙のなかで共に生命を謳歌していくことができるのです。

その逆に共生をやめてしまうとどうなるか、対義語は自存といいますがニュアンスは自分だけのことしか考えないということでしょう。先日、地域の長老にお話しや智慧をお伺いすることがありお時間をいただきました。その方は95歳ですが、この世紀、どこに今につながる分水嶺になったかをお伺いしたら戦後、平和になりみんなが自分のことしか考えなくなったと仰っていました。

よく、今だけ、金だけ、自分だけという言葉があるともいわれる時代です。今さえよければいいと問題を先送りし、なんでもお金で解決すればいいとばらまいて、あとは自分のことさえ守られればいいと他人事のように考えていく。これは先ほどの、自然の共生や人間の本能としての社会というものを破壊していくもののように思います。

不自然もここまで極まれば手のうちどころがないほどです。しかし、禍転じて福になるようによく反省して自分を見つめていれば、それが問題の根本的な解決になることに気づきますし、何より智慧が存在することにも目覚めます。

私は、先ほどのでいえば今だけではなく長い目でずっと遠いことを優先し、お金だけではない真の豊かさや足るを知る暮らしを実践し、自他一体となって同じように伝統や伝承をしようと純粋に苦労している人たちと相互扶助の仕組みをつくりたいと徳の循環する経済に取り組んでいます。

そもそも自分の生活や暮らしがどうこうではなく、子どもたちが憧れる未来、子どもたちの参考にできるような智慧を少しでも遺していけないかと取り組んでいます。そのため自然の法則や自然の掟を学び直し、環境や場を改善していくことが第一だと地道に実践を積んでいます。

有難いことに、たくさんの仲間やご縁に恵まれ場も増えてきました。時代のスピードに流されることなく、今の自分を保てているのは今は亡くなられた恩師たちやメンターたちのご指導の御蔭さまです。

引き続き、初心を忘れず感謝を磨いていきたいと思います。

お山の知恵

英彦山の宿坊では先日の大雨被害から水回りのお手入れを続けています。都会の治水とは異なり、山の治水は思った通りにはいきません。毎回、水量が更新され水の流れも新しくなります。そのままにしておけば、水路ができたり道が遮断されたり土砂崩れになることもあり、土木作業が必要になります。

山で一人で土木作業というと想像するだけで大変なことがわかります。特に重機などを使わず、人力で行っていますから作業量の多さに立ち眩みするほどです。

しかしこの治水というのは、お山で暮らすためには必須の力であるように感じます。石を用い、水を治める。あちこちの宿坊跡地をみていても、如何に水を御するのか、そして土を管理するか、木々と石と風と水、それらを上手に総合的に組み合わせて場をととのえていたのがむかしの人たちの山での暮らし方だったのでしょう。

治水といえば、有名な人物に加藤清正がいます。むかし明治神宮の傍に住んでいたとき、よく加藤清正が掘った井戸にいくことがありました。水を上手に活かすことができる人物というのは、自然の道理や知恵に長けておりまさに自然の総合力を活かせる人物だったように思います。国を治めるのも、水を治めるのも道理は一つだったように思います。

その加藤清正に治水五則というものがあります。

一、水の流れを調べる時に、水面だけではなく底を流れる水がどうなっているか、とくに水の激しく当たる場所を入念に調べよ。

一、堤を築くとき、川に近いところに築いてはいけない。どんなに大きな堤を築いていても堤が切れて川下の人が迷惑をする。

一、川の塘や、新地の岸などに、外だけ大石を積み、中は小石ばかりという工事をすれば風波の際には必ず破れる。角石に深く心を注ぎ、どんな底部でも手を抜くな。

一、遊水の用意なく、川の水を速く流すことばかり考えると、水はあふれて大災害を被る。また川幅も定めるときには、潮の干満、風向きなどもよく調べよ。

一、普請の際には、川守りや年寄りの意見をよく聞け。若い者の意見は優れた着想のようにみえてもよく検討してからでなければ採用してはならぬ。

これは知恵の結晶です。何度も治水に取り掛かるうちに失敗したことを改善し、その改善したことを五則として再現可能なものに展開しています。誰でも失敗はしますが、それを善い失敗として何度も反芻するなかでそれを一つの法則にまで高めていく。

法則を持っていることで、後世の子孫たちが真に参考にでき知恵が活かされるという仕組みです。

英彦山ではもう山伏もいなくなり、治水を知っている人もほとんどなくなりました。今は故人の遺した石垣や治水の跡をよく観察し、どのような道理なのか、そして谷がどうなっているのかを洞察して治水を続けています。

お山の暮らしは学ぶことがいっぱいあります。子孫のためにも、お山での知恵が子孫へ伝承できるように改善し仕組みにしていきたいと思います。

いのちをつなぐ

いのちは世代交代を繰り返しながら甦生を続けています。寿命というものは、すべてのいのちに与えられていてみんなその法則に従っていのちを循環させていくものです。当たり前すぎて忘れてしまいますが、身の回りの植物から昆虫にいたるまで連綿と毎年同じように生死を繰り返して甦生しています。

最後まで順風満帆に全うするものもあれば、途中で事故やケガ、病気で死んでしまうものもあります。しかしそこで途絶えないのは、他にもいのちがありどれかが無事にいのちの巡りを全うして次世代にいのちをつなぐからです。

目の前の虫も同じく、鳥に食べられるものもあればうまく見つからずに老衰して全うするものもあります。そのいのちの境目は何なのか。もしその虫の気持ちになれば、食べられる方は一瞬ですが最後までいのちを全うできなかったと感じるのでしょうか。虫によっては、カゲロウのように食べないで子孫を残すためにいのちを削り込むものもいます。またはイチジクコバチのように植物に吸収されるものもあります。そのいのちの目的は、子孫へといのちのバトンをつなぐためだけに集中しています。

植物や木々も同じく、魚やバクテリアもみんな同じいのちの目的のために生涯を費やします。これはいのちの法則であり、そこには運不運もありますがそれも含めてみんな真摯に次世代へといのちをつないでいくことで使命を全うするのです。

人間は、気が付くと自分というもの、自分のいのちを私物化するようになってしまいました。いにしえから、いのちの私物化は天敵によって滅ぶという仕組みがこの宇宙や地球には存在しています。その理由は、いのちの目的から外れるためです。みんなでいのちをつないでいこうとするから多様性が生まれ、その多様性によっていのちは守られます。

相互扶助とは大きな意味ではいのちの世界の根源を顕します。

みんなが助け合って支え合って生きるためには、それぞれがいのちを尊重してみんなでいのちをつないでいくような世界を創造していくしかありません。そのために場づくりがあり、本来の場とはそういういのちを実感できる智慧が宿っているところです。

今の世代は、いのちの尊重や多様性を学び直す世代だと実感します。自分さえよければいいではなく、みんなもどう尊重していくかを実践で会得していく必要を感じています。本来の自然と共生していのちを繋ぐといった暮らしを伝承していきたいと思います。

本来の歴史

歴史のある場所を訪ねていると、つい何年前のものかということを意識して考えてしまいます。10年くらいならまだしも、100年、あるいは500年、1000年、もっと前の2000年前のことになると頭では考えられなくなります。特に古代のことになると、1万年や10万年などというとほとんど想像ができません。

自分の人生の時間軸で物事を量ろうとしても、それは量れません。例えば、重量計で載せられる範囲のものはわかっても載せれないほどの壮大なものであったなら私たちはそれを計算で量りますが実際の量は頭で計算した分であり感覚的にはピンとこないものです。

それだけこの世の中は、頭では量ることができない感覚的なもので存在しているのです。歴史も同じく、私たちは時間を量れません。そこに流れてきた経過、そして生き続けている今を量ることはできないからこそ感覚的に感じて近づいていくしかありません。

これは自然に近づいていくことにも似ています。宇宙を量るときもあの膨大で無限に存在する星々をどのように認識するでしょうか。教科書にあるような星座や銀河を想像してもあまりピンとはきません。吸い込まれるような大きな闇に感覚的に近づいていくとき、その無数の星々と一つになります。自分が星になり、星が自分になるかのような一体感があってこそその場に溶け込んでいくことができます。

分けている世界ではなく、分けていない世界に溶け込んでいくのは感覚を用いるものです。この感覚を研ぎ澄ませていくことは、目には見えないもの、また頭では量れないものを感受する仕組みです。

古代の人は、また数千年前、数百年を生きる歴史の人たちはこの感覚の世界に存在していて今も生きています。これを理解するのは、感覚で近づいていくことですがこれをすることが修行の本懐であるようにも私は思います。

子孫のためにも、甦生を続けて本来の歴史を感覚を研ぎ澄ませる仕組みをもって伝承していきたいと思います。

意識の世界

人間の意識というものは、変わっていくものです。例えば、資源豊富なジャングルの中や海のそばで生活すると意識が変わっていきます。あるいは、大都市や人工的につくられた場所で生活しても意識が変わります。

この意識というものは、また無意識というものがあります。一般的に、起きているときに持っている感覚が意識で、眠っているというか潜在的に深いところに存在しているものを無意識ともいいます。自律神経や副交感神経のようなもので、意識もまたその深浅や広狭もあるのでしょう。

ただ、どのような意識で日常を過ごすかというのはその人が決められるものです。

昨年、ある呼吸法を深めている方が来られてある体験をしたときに自律神経はコントロールできるというお話をお聴きしました。その方は、真冬でも裸で高山に登頂することができる仕組みを体得されています。

その仕組みを体験すると、無意識と呼ばれるようなものを呼び覚ましてそれを意識の場所で維持することができるというものです。

人間の身体というのは、100パーセントで使うことはできません。脳も10パーセントくらいしか使っていないといいます。身体も制限しながら壊れないように使っています。

私たちは何を削り何をしないか、そしてどこを用いてどう活かすかということをつねに調整しています。まさに意識の世界です。どんな意識で生きていくかというのは、どのような暮らしをしていくかということを似ています。意識を変えるには、暮らしを変えていくのが一番の近道です。

何を優先してどれを大事にし、どういう生き方を実践するかというのはその人の覚悟が必要ですがその覚悟は意識の継続ができるかどうかです。継続は力ありといいますが、継続できることこそ意識を変えることと同じだと私は思います。

時代が変わっても、意識というものは変わりません。戦争がなくならないように、意識はいつまでも継続してそれが存在しています。反対に縄文時代のように、そもそも争いという意識がなかった時代もあります。

今はそんな時代ではありませんが、意識は変えることはできますからここから子孫のためにも意識を醸成して伝道していきたいと思います。

場を磨く

自分らしさというものがあります。その人の持ち味ともいえるものです。その人の持ち味とは何か、それはその人にしかない味わいのことです。

例えば、私たちが飲んだり食べたりする素材があります。これはその素材の持つものを味わってみようと試みれば色々な味わいがあることがわかります。その味わい方は、いくつも方法があります。料理の方法やその飾り方、環境、あらゆる要素が味わいを深くしていきます。

その他にも味わい深さは、その素材が誕生してたどり着いたプロセスのようなものもあります。滋味あふれる深い味わいは、その素材の真の持ち味ともいえます。つまり、この真の持ち味こそ自分らしさの源泉というものです。

自分らしさを磨いていくには、天命を知る必要があります。他人軸ではなく、自分軸で生ききり、自分に与えられた唯一の道、つまり天命を生きるときその人にしかない深い味わいがにじみ出てきます。

これはその人にしかできないというもの、まさに天から与えられた唯一無二の人生を歩んでいるときその人らしさの持ち味が発揮されるものです。

そして本来、これは特別な人にしかないものではありません。誰もが持っているものです。これを私は徳とも呼びます。徳を磨いていくことで、その持ち味は発揮されます。そしてその徳が集合し、調和していのちが循環するところを私は「場」とも呼びます。

私は場道家を名乗り、場づくりを専門にしています。

持ち味を活かすための仕組み、自分らしくいられる環境づくり、それを頭でっかちに理解してお金にすることを仕事にするのではなく、まさに暮らしの中でそれを体得するという生き方を伝承しているのです。

暮らしフルネスの場に来る人たちはそれを感じることができます。

これから少しずつ、仲間を増やしていきますが気づいた人は訪れてほしいと思います。先祖に報いて子孫に徳をそのままに伝承していけるように場づくりを深く磨いていきたいと思います。

憧れ

暮らしを追及していると、生き方に出会います。生き方は暮らし方になっているからです。そして生き方を見つめていると死に方と向き合います。死に方は暮らし方の延長にあるからです。そして生き様というものが顕れ、死に様というものでその縁起を覚えます。

私が尊敬する人たちは、みんな生き様が見事な方でした。ここ10年で私が憧れた人たちが次々とお亡くなりになりました。ごく自然に、距離を持ち、そして静かに穏やかに逝かれました。

生きているときに常にこれが最期のような感覚をいただき、お別れするときは今世はもうお会いできないのではないかという寂しさがありました。そうしてまたお会いしたいと思ったときにまたタイミングがきてお会いすると、出会えた喜びに生まれ変わったような気がいつもしました。しかしもうお会いできないという状況になると、まるで深山の巨樹のようにまだそこに存在して見守ってくれているのではないかという気配があるものです。

ある方は、光のように、ある方は風のように、ある方は土のように逝かれました。生き方はそのまま死に方になり、生き様はそのままに死に様になりました。

これらはすべてその人の初心が顕現しているとも言えます。どのような初心を以って道を歩んでいくのか、その初心の余韻が場に薫ります。

私たちはその人になることはありません。しかしその人の歩んできた道を共にした経験によって歩き方も変わっていきます。振り返ってみたら、自分もまた歩き方がだいぶ変わってきました。歳をとり、若い時のように歩いていくことはできません。歳相応に歩いていきますが、気が付くと無理ばかりをしているようにも思います。

初心を忘れてはいけないと、歩き方を歩き様を振り返っては反省の日々です。

憧れた大人になるように、そして子どもたちの憧れるような大人になれるようにどう生きるか、どう死ぬか、そしてどう逝くかを見つめています。

盂蘭盆会の準備に入り、夏の風が吹いてくると日が強くなり死が身近に感じられます。日々の小さなことに感謝して前を向いて歩んでいきたいと思います。