太古の未来

私たちが集合意識の中で持っているものに「個」というものがあります。英語で言えば、「I」というものです。私ともいいます。個人主義という言い方もあります。現在は、自国ファーストといって自分の国のことだけを優先するという風潮になっていますがこれも個に偏重することによって行われているように思います。

太古のむかし、私たちはどれくらい個というものを意識したのだろうかと想像してみます。縄文時代、あるいはもっと前の時代。どう生きたのかと思いを張り巡らせてみます。

ひょっとしたら、個別の意識はなくみんなで一緒に生きているという感覚が強かったのではないかと思います。動物植物たちももちろん競い合って生きているように感じます。自然淘汰されるなかで、強いものが生き残ります。それを弱肉強食というような言い方もします。しかしよく考えてみると、この考え方も人間が勝手に集合意識の中で刷り込んだ思い込みの世界です。

本当に、自然界、あるいは動植物たちはそう思っているのか。

個を突き詰めると短命になるのではないか、そんなことを思うのです。今の経済のあり方や教育の仕方からすれば理屈では説明できない理解できないものかもしれません。しかしあまり個の意識がなかった時代は、果たして自分のためだけに財を独占しようとしたり、短絡的で短期的なリターンを求めたかなと感じるのです。

そもそもいのちは循環していて、みんなつながっていて分かれていないし個も存在していない、ただいのちの天命というか役割やお役目が存在しているということを達観的にみんな当たり前に意識するかのような自然観がある生き物たちは、そんなに自分がとか私がとかを優先していなかったようにも感じます。

現に、動植物たちも争ってはいるように人間が見えていても実際には形を変えた共生をしているとも言えます。みんな分け合いながら、助け合いながら生きているという見方もできます。つまりは、物事のとらえ方や意識を変えなければ太古の人たちの生き方を感じることはできないということです。

現代からすれば、太古の時代というのはちょっと理解し難いことばかりかもしれません。しかし、太古の人たちから現代を観たらもっと理解し難いことをしているようにも思います。

人間は一体、何がしたかったのか、その問いは終末期まで続くものです。

しかし何が仕合せかというのは、記憶の中にいつまでも残っているもののように思います。懐かしい記憶を辿りながら、真の豊かさや仕合せを子孫たちに伝承していきたいと思います。

シンクロの知恵

人は、仲間と一緒に協力するときにシンクロするものです。そのシンクロとは、一緒一体になっているということです。一つが全体になり、全体が人格を持つということでもあります。会社というものも同じく、一つの法人格というものを持っています。そこで働いている人たちが、どのような人物たちであるか。その会社の一人一人の人格が集まって会社というものの人格がにじみ出てくるものです。

いい会社というのは、文字通りいい人たちがいる会社です。そのいい人たちというのは、崇高な理念を持ち、日々に自己との対話と研鑽をし、ともに支えあい、助け合い、思いやりそれが会社の文化にまで昇華されている存在です。

そういう法人で働けるということは仕合せなことです。と同時に、シンクロしていくためにみんなで精進していく一人になるということでもあります。人間はそれぞれに持ち味がありますからその得意を伸ばし、短所を補い合いながら折り合いをつけていきます。

いつもある人だけが前線で活躍しているのではなく、縁の下の力持ちの存在もあってはじめてシンクロします。このシンクロという言葉は、シンクロとは英語 synchronize 同期する、タイミングをあわせる、同時に起こる」 に由来する語から来ています。

似た言葉には、阿吽の呼吸、以心伝心、共鳴、呼応などがあります。これは気持ちを合わせたり、心を通じ合わせたり、お互いに共感同感したり、よい組み合わせを合致させたり、協力しあうときに使われる言葉です。

スポーツでも、会社経営でも、人間が何かを誰かを集まって行うときにはこの協力が他力を引き出し、幸運を呼び寄せる知恵になります。太古のむかしから人類は、このような知恵を持ち、その知恵を活かしてきたからここまで生き延びてこれたように思います。

子どもたちが憧れる生き方、お手本になれるような取り組みは、日々の過ごし方、働き方から見つめていけるものです。引き続き、大切なものを優先し、いい会社に近づけていきたいと思います。

観音様の生き方

観音様を深めていますが、観音様の真言というものがあります。この「真言」とは古代インド語のサンスクリット語でマントラ(Mantra)と言われる言葉のことで「真実の言葉、秘密の言葉」という意味です。空海の般若心経秘鍵によれば「真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く、一字に千理を含み、即身に法如を証す」記されます。私の意訳ですが、真言はとても不思議なものである。この真言をご本尊を深く実観するように読んでいると知らず知らずに目が覚め、一つの字の中に無限の理を感じ、直ちにそのものと一体になり悟ることができるという具合でしょうか。

この観音様の本来の名前はサンスクリット語では、「アヴァローキテーシュヴァラ」(avalokiteshvara)と記されます。もともと般若心経などを翻訳した鳩摩羅什はこれを「観世音菩薩」と訳し、その観世音菩薩を略して観音菩薩と呼ばれるようになりました。この鳩摩羅什(Kumārajīva)という人物のすごさは、母国語がインドでも中国でもなくウイグルの地方の言葉が母国語でしたがその両方の言語の意味を深く理解し、それを見事な漢訳の言葉に磨き上げたことです。これは仏教の真意を深く理解し、それを透徹させてシンプルになっているからこそ顕れた言葉です。これは意味を変えないままに言葉と事実の折り合いをつけその中庸のまま中心が本当はどういう意味かという真意を的確に理解しているからこそできたものです。これによって仏の道に入りやすくなったということに厚い徳を感じます。

今でも私たちはそのころに漢訳されたお経を読んで生活しています。西暦400年ごろから今でも変わらずそれが普遍的に読み継がれるのはそれだけその言葉が磨かれ本質的であるということの証明でもあります。そこから約200年後、三蔵法師で有名な玄奘三蔵はこの観音経の真言を「ava(遍く)+lokita(見る)+īśvara(自在な人)」とし観自在菩薩と訳します。つまり鳩摩羅什による旧訳では観世音菩薩とし、玄奘三蔵の新訳では観自在菩薩となりました。

それを私の観音経の解釈では「円転自在に物事の観方を福に循環する徳力がある」と現代に訳します。つまり、自分の物事の観方を変えて、すべてのことを福に転換できるほどの素直さがある仏ということです。これは観直菩薩でもいいし、調音菩薩でもいい、観福菩薩でも、そう考えて訳している中で当時最もその人が深く理解したものを言葉にしたのでしょう。大事なのは、その意味を味わい深く理解し自分のものにしていくということが親しむことであるしそのものに近づいていくことのようにも思います。

最初の観音様の真言に戻れば、観音菩薩の真言は「オン アロリキャ ソワカ」は「Om arolik svaha」といいます。これもまた私が勝手に現代語に意訳してみるとこうなります。

「おん」=私のいのちそのものが

「あろりきゃ」=穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを

「そわか」=心からいのります

『私のいのちそのものが穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを心からいのります。』

とにかく「善く澄ます」ことということです。実際にその言葉の意味をどのように訳するかは、その人の生き方によって決まります。その人がどのような生き方を人生でするかはその人次第です。それは自分でしか獲得できませんし、他人にはどうにもできないものです。しかし、先人である観音様がどのように生きたのか、そしてどのような知恵があって自ら、或いは周囲の人々を導き救ってきたか、それは今もお手本にできるのです。

私たちが目指したお手本の生き方に観音様がとても参考になったというのは、私たちのルーツ「やまと心」が何を最も大事にしてきたのかということの余韻でもあります。

時代が変わっても、響いて伝わってくる本質が失われないように生き方で伝承していきたいと思います。

 

 

場の伝承

むかしの遺跡に巡り会うとそこには色々な人たちの思いが結ばれている痕跡があります。かつての人がどんな思いを持ってその場に関わったのか、そこには物語があり歴史があります。

静かに思いをその場所に佇み、巡らせているとその場所から聴こえてくる音があります。この音こそ思いの本体であり、その音を聴くことによって人々は心が結ばれ調和していくようにも思います。

この音とは、物語でありその物語をどのような心境で聴いたかという生き方が顕現したものです。私たちは生きていると、手触り感というものを感じます。体がある感覚であり、それを触れるという感触です。いのちはこの感覚を通して生きていることの実感を得られます。物語というのは、まさにその感覚の集合体でありその物語に触れるときに人は感覚が目覚めるともいえます。

遺跡というものは、触れることによって目覚めていきます。教科書や本に書いているものをみても伝わってはきません。その場所にいき、お手入れをしてこそ感じられるものです。

そもそも修養するということや、修行をするというのもその場所によって磨かれるものです。その場所とご縁を結び、その場所から感得したものを共感し伝承していくなかで顕在化していきます。

その感性は、五感や第六感と呼ばれるものによって得られており知識ではなく知恵であることは自明の理です。

本来のあるべき姿、人々が何千年も前からどのように様々な知恵を伝承してきたか。その仕組みは、知恵を知恵のままに感受するものです。

子どもたちの未来のためにも、本来の伝道や伝承が知識にならないように実践を継承していきたいと思います。

即興と甦生

私は場を研究し、実践するので即興であることが多くなります。この即興は、辞書をひくと「型にとらわれず自由に思うままに作り上げる、作り上げていく動きや演奏、またその手法のこと」をいいます。また音楽、詩作、舞踊、演劇などの分野では「事前の準備なく、その場で作り、その場で表現すること」を意図して使われるとあります。

これは常識やそれまでの通念よりもその「場」の持つ空氣を優先するということです。世間から常識知らずや刷り込みがないとかも言われ、時として誤解されて批判されることが多いのですがそれでも場からの声や、場が喜んでいるかどうかを優先していきます。

私が古民家甦生するときも、基本は常識に従って丁寧に甦生していきます。町家であれば町家、農家であれば農家のようにと最初は型かた入ります。そのあと、その家の歴史や立地、そしてそれまでの物語やご縁や関係性が出てくるなかでその家の独自性やその家の持つ初心のようなものをくみ取っていきます。その声に従いながら即興で工事や大工をしていきながら最後はその家そのもののいのちが循環するように調えて仕上げていきます。これは場を優先している私の甦生の特徴です。

先人たちの知恵を尊重しながらも、今はこうあったほうがいいというのができるのはその先人たちと同じ心を伝承しているからです。その心の伝承は純度が必要でどれくらい、本気の覚悟で先人とともに歩んでいるかということも問われます。

この時代に今も先人がそのまま生きているとしたら、どうするかということを突き詰めるのです。私が即興を重んじるのは、即興かそうではないかではなく先人ならどうするか、今、私も先人と同じならどのような決断をするかと正対していると次第に即興になり柔軟に判断していくことが増えるだけです。

時代は移ろい、本質もその時々で変化します。本質が変化するのは、それだけ全体快適であるか、どれだけの視野で決めるかが微細に左右されていくからです。最後は、純粋に穢れや曇りのない初心で決断していくしかありませんがその直感に頼るときまたそれが外から観たら即興に感じられるということでしょう。

自分の即興、直感は先人の真心とつながっていると信じてこれからも甦生に取り組んでいきたいと思います。

いつまでもご縁

人生は出会いと別れの連続で存在しています。生まれる前から出会いが始まり、死んでも別れは終わりません。常にご縁に生き、ご縁に死に、生死をめぐるご縁というものがあるだけです。そのご縁は、いろいろな理由をつけては関係性が結ばれますがある時には親子になり、またある時には夫婦になり、またある時には敵味方に分かれていきます。

その関係の中で、お互いに生き方を重ねながら学びあっていきます。学びあうというのは、成長しあうということでもあり一緒にご縁を磨きあっていのちを分け合っていきます。

このいのちの分け合いというのはご縁の本体でもあります。どのようにお互いのいのちを分けたのか、分け合ってきた歴史こそご縁の軌跡でもあります。その分け合ったいのちが、次の何のいのちに結ばれていくのか。それは出会い別れを繰り返しながらかたちを変えては循環していきます。このいのちの循環こそが、ご縁の素晴らしさであり奇跡です。

この今も、私たちは何かを食べ、そして飲み、空気を吸って吐いてはいのちを保っています。これも何かのご縁でそうなっていて、また私たちはそのいのちを分け合い新たないのちに甦生させています。

そもそも甦生というのは、いのちが循環することをいいます。私はいのちとしてそのものを感受し、そのいのちを新たないのちとして結び直すことを意識して暮らしを紡いでいます。本来、自然がわかるというのはこのいのちの道理や仕組みのままで存在しているということであり人間はそのとき、真の仕合せに気付けるように思います。

そしてそれを私は徳を積むとも定義しています。もともと存在するもの、そのいのちに感謝して新たないのちのご縁でいる。

いつまでもご縁であると思えば、この今のご縁を深く味わうことこそが人生の醍醐味であることに気づきます。子どもたちとのいのちのご縁がどうなっていくのか、とても楽しみです。

人間らしさ

人間らしさとは何か、それは感性を磨くことで顕れるように思います。もともとの姿が最初にあって、それが次第にわからなくなってくる。その分からなくなってきたものを思い出すためにも私たちは原点を学びます。その原点の中に、真の人間らしさがあるように思います。

例えば、私たちの五感や六感という感覚があります。この感覚は、頭ではわからず体験を通して実感するものです。体験というのは、全身全霊で感じるということです。それをしているうちに、自分がどういうものであるのか感じているさなかに驚きと共に実感できるものです。そこには心がありいのちがあり、繋がりなどもあります。

言語化するというのは、ある意味この体験を形式知にして分類分けするものです。そうなると体験そのもののままでないため、人間らしさというものから遠ざかっていきます。

私たちの身体的感覚というのはとても正直で他の動植物や昆虫のように本能のままに存在します。私たちは手を使いますが、この手もまたなぜこのように動くのか、そしてその手をどのようなことに使うのかでその人の人間性をはじめ人間らしさとなるのです。

自分の根源的なもの、その原点のようなものを人間が感じられるときにこそ人間らしさが出てくるということでしょう。

最近は、あまり感覚を使うことがなくなりそれを機械や便利な道具にさせることによって余計に人間らしさが失われてきているように思います。感覚が失われた世界が、新しい世界だとすると人間らしさはますます消失していくように思います。

AIや道具ができないこと、それは人間らしさでしょう。人間も自然の一部ですから、自然から離れずに人間の感覚を大切にして進化発展していきたいと感じます。

子どもたちにもこの体験というものを通して、人間性や人間力、人間らしさが磨けるように場をととのえていきたいと思います。

不思議さ

一昨日から長いお付き合いのあるメンターの方が場の道場に来られています。御年85歳ですが、まったく年齢を感じさせず目もキラキラとまるで10代のようです。一期一会の哲学を教えていただいてからメンターとして尊敬して、何度か生き方をみせていただきました。その御蔭で、私も将来、どのように生きていけばいいかの指針をいただきました。

メンター自身も親の介護があり、またコロナもあったのでほとんど移動もせずに生活していたこともお聴きしました。しかし、相変わらずの好奇心であらゆる体験を大切に学び、体験から得られた驚きをたくさん私にしていただきました。

この体験からの驚き、まさに好奇心ですが英語ではセンスオブワンダーともいわれます。この解釈は色々とありますが、神秘的な体験としてもいいし、五感をフル稼働して直観的に得られる体験でもいいですがそのどれもが不思議だという驚きと共にあるものです。

私たちは生きていく中で、不思議だと思う感覚や驚くことが減ってくるものです。知識が増えれば増えるほどに、経験をすればするほどに驚きは減っていきます。

私もよく文章や言葉で伝えることも多いのですが、不思議さが観えない人たちはよくだいたい分かったという言い方をします。何がだいたい分かったのかもよくわかりませんが、そのだいたい分かったという言葉が不思議な言葉だなと感じることもあります。

そもそも不思議なことを不思議なままに理解するというのは、純粋な心が必要です。まるで子どもが最初にこの世の自然の道理や現象に触れた時のように驚きの連続です。

冷たいものを触って冷たいと感じる、誰かに声をかけられて耳に音が入ってくる、そして目に映像がうつってくる、そんな驚き、不思議さに触れた感動です。

そういう感動をいつまでも忘れないことは、私たちがいつまでも瑞々しい感性で神秘や不思議を追い求める子どものような心を持っているということでもあります。

私は子ども第一義を理念に、子どもに遺したい憧れた生き方や働き方、あるいは子孫への徳を伝承したいと思っていますからこのメンターの実践は尊敬し私もそうありたいと思うものです。

一期一会に生きるというのは、不思議さや神秘性、そしてご縁を結んでいく生き方です。いつも有難い邂逅とご縁に感謝しています。これからも驚きを味わい、豊かで仕合せなご縁を結んでいきたいと思います。

子孫のために今できること

ものづくりをするとき、捨てることを考えてものづくりするよりも売れるものを考えてものづくりを優先するところがほとんどです。その結果、大量のゴミが発生します。しかも、そのゴミの中には分解できないようなものもあります。それはそのまま土に埋めたりしていますが、何万年も何十万年も土の中で分解されずに循環しない環境にしてしまう有害なものが多くあります。

みんながそんなことをしていたら、この地球には循環しない場所がたくさんうまれその後処理に子孫たちが大変な思いをするということが予想されます。

私は空き家のことや古民家甦生を通して、それを実感してきました。本来は、子孫のためにと先人たちが知恵を結晶して建てたものが今では負の遺産となり破壊され続けています。そしてその逆に、環境を汚し後片付けもできないような建物ばかりを建てています。

自分の子ども、そしてその先のずっと子ども、孫たちや子孫たちがどんな思いをするのか、想像力が欠落してしまっている現代ではまるで空気のように当たり前になってしまい解決しようとすることもありません。

それくらい今は、消費経済、資本主義の流れを換えることができません。自転車操業をして今の体制で走り続けなければこけてしまうからです。一度、コロナで立ち止まってもまた周囲の流れに乗っかってしまい元の木阿弥です。

では孫たちのために、子孫たちのためにどうすればいいのか。

それは私は徳積循環経済を創るしかないと思っています。今の循環を換えるのです。ちゃんといのちや、純粋な子どもの心のような思いが循環していく世のなかにしていくのです。そのためには、どうにかしてでも別の流れを仲間を集めみんなで創っていくのです。

それが私の考える結づくりの意味です。

本当は、そうやって先祖代々、先人たちは孫や子孫のために本当の経世済民に尽力してきました。石田梅岩が倹約を中心にしたのも、二宮尊徳が報徳を中心にしたのも、三浦梅園が正徳といったのも、渋沢栄一が道徳経済合一としたのもすべては子孫のためです。

今の自分のことだけ、自分の世代だけのために経済をやるというのはあまりにも寂しいことだと思います。そしていつまでもそれをやっていたら、冒頭で話したようにいつの日か子孫たちに大きなツケをまわしてしまいます。それは先人たちも先祖も望んでいないことは簡単に想像できます。

だからこそ、私たちは今こそその本質に気づき徳積循環経済に舵を切る必要があると思います。これは、誰にでもできることですしすぐにでも実践できるものです。しかし一人では流れを換えるまではかなりの時間がかかります。だからこそ、みんなで結づくりをしてその勢いを強くする必要があると私は思います。

この場所で、まずはその徳積循環経済をつくる体験と結に参加してほしいと思います。子どもたちの未来のために、今しかやれないこと、自分にしかできないことをご一緒していきたいと思います。

貝に導かれる人生

昨日から私が尊敬する友人が来庵しています。この方は、真言宗の僧侶で法螺貝を愛する人物ですが生き方が共感することが多く話をお聴きして学ぶことや気づきをたくさんいただけます。

もともと法螺貝の音色もとても情熱的でまっすぐで、その振動は全身から汗がでてくるように水を揺らします。夜中まで法螺貝談義で盛り上がりましたが、その中でも特に貝に導かれる人生についてのところは有難い気持ちになりました。

私の貝との最初の出会いは、宮崎の日南海岸です。出張で、車で海岸沿いを走っていたら海の中に光る不思議なものを発見し、スーツでしたがズボンをまくり上げて数十メートルの浅瀬を歩いていき手を伸ばした先に小さな巻貝がありました。

その体験の時の出会いが忘れられず、終生お守りとして大事に保管しています。その後の留学や海外での仕事、東京での一人暮らしのときもこの巻貝をいつも持って一緒に暮らしてきました。眠れないときは、耳に当て海を感じ、一期一会を思い出すときは手にとってお手入れをしていました。

そこからは千葉で貝磨きの方と出会い、貝を磨くことで光ることを学び、素晴らしい貝に出会うと磨き上げていました。そして、気が付けば法螺貝に出会い、法螺貝を磨き吹くことで多くの人たちとの出会いがはじまりました。

尊敬する友人も、法螺貝に導かれる人生を送られていました。幼いころにお父さんが吹いていた法螺貝に憧れ、そこから法螺貝に魅了され修行を積まれます。今では、貝がどのようにしてほしいかを直感し、貝の手入れをされ指導や修繕などを手掛けられます。

あくまで法螺貝を優先するので、法螺貝を売るのではなく法螺貝の声を届けるという生き方です。

私も古民家甦生をはじめ、あらゆるものの古いもの、懐かしいものの声を届けることを実践しています。それは同じ感覚で、古民家を売り買いしたいのではなく家がどうしたら喜ぶか、そしてこのいのちがどうやったら甦生するかということしか興味もなく、行動もしません。

たまにこれを仕事にすれば儲かるなどという人もいますが、そもそも動機や目的が子ども第一義からきているものですから、生き方が純粋でなければ、そして本志本業が一致していなければ生きている意味がありません。

生き方というものは、昔の人たちはとても大切にしていました。自分を守るために、切腹するほどに大切な生き方を優先していました。自分を守るということは、自分の純真や純粋性を守るということにほかなりません。

私の周囲には、そういう方がたくさんおられます。私自身も刺激され、生き方を磨く環境をたくさんいただけています。今回も、貝がつないでくれたご縁です。ありがたく、貝の声を聴き届けていきたいと思っています。

法螺貝に感謝して、法螺貝とともにこれからも歩んでいきたいと思います。