福智の徳

現在、福智修験道について深めていますが眠ったままの歴史が掘り起こされていくたたびにその当時のことが思い出されていきます。山の中には、かつての遺跡や祈りの形跡があります。現在では、そこには道も廃れ誰も人が寄り付きません。しかし、確かにかつての人たちの心の拠り所であったことがわかります。

本来、信仰というものは宗教などではなくそれぞれの心の拠り所のことです。ある人は、それが風景であったり、故郷の山であったり、あるいは大樹であったり海であったり星であったりもします。不思議なことですが、私たちは関係を結ぶ中に心をつなぎ、それによって自分の最も安心する場所を築きあげていくように思います。

心の支えを持っている人は、芯が強くなります。根が深くなります。人は心の支えがあったから乗り越えられるようなことがたくさん出てきます。何を心の支えてにしているかは人それぞれですが、信仰の場所にはそれがはっきりとあることがわかります。

これは何か自分が見守られているという実感のことです。何があろうと、いつも信じて見守っているという存在が心のよりどころになるのです。そしてそれをどこにするかというのに真の豊かさもまたあるように思います。

私のことを思うと、私も心の拠り所があることに気づきます。どんなに苦しいときも、頼ります。これは依頼心や依存心ではなく、自分がやるから見守っていてくださいと背中から感じるものです。

人は信じられることや応援されることで元氣も勇きも出てきます。つまりは、信じるということががその原動力や源泉になっています。見上げた先にあるのが天なのか空なのか星なのか、山なのかわかりません。しかし下を向いてではなく、上を向いて私たちは道を歩こうとしていくものです。

修験道の奥深さを味わいながら、福智大権現のことを今少し深めていこうと思います。

 

自然治癒

身体というのは不思議なものです。自然に治癒をし自分をいつまでも生かそうとします。つまりいのちの正体そのものです。あらゆる臓器をはじめ、すべての機能が快復していきます。その快復には、精神、心、意識など含めるとあらゆるものが治癒に向かいます。

昨日は、BAで自然治癒施術サミットを行いました。合気道の智慧、気功の智慧、鉱物の智慧、仏陀の智慧、陰陽道の智慧、あらゆる古代からの叡智を使ってそれぞれの施術を体験して智慧を学びます。施術者たちのそれぞれの実体験や学び、気づき、そして伝承されてきたあらゆるものを体験によって智慧を共有していきます。

体験を重ねるたびにその共通点というものをたくさん見出すことができます。その一つは、自然治癒、そして自己免疫、また意識の調和というものです。

そもそも身体というものは根源的に治そうとします。余計な邪魔をしなければ身体は自然に治癒が働きます。結局は、邪魔をするから治りがわるくなります。その邪魔というのは、骨折であればきちんと接着するまでじっとしていないと固まりません。また臓器も感情に気づかなければ動けません。自律神経においても安心しなければ働けません。あらゆるものは、自然というものを中心に活動をします。

現代人の問題は、思い込みや刷り込みによって例えば病気は薬や医者が治すものと依存をする体制が当たり前となり、身体の治癒を信じずに無理にでも何かをしないと治らないと思っていることなどです。

これは私たちが取り組んできた見守る保育などとも似ていて、大前提として子どもはそもそも発達するもの、育つものというものと、逆に大人が何かしなければ育たないと思っていることという意識のことと似ています。育つと育てるの間の勘違いによって発達が阻害されることと、治ると治すの間の勘違いも治癒の邪魔になっていたりするものです。

治ると思っている人は、病気は治るためのサインでメッセージであると受け取ります。そのためにまず気づくことからはじめ、対話からはじめます。無視するのではなく、受け止めて受け容れるようにそのものの治癒を丸ごと信じていきます。そこには身体だけではなく、感情や心理そして意識など全体の丸ごとが関係していることに気づきます。

治癒は真の豊かな場所で行われ、そこに心身を自然に運ぶことからという体験もしました。治癒の持つ偉大さに改めて感謝し、感動しました。

これからも自然治癒を学び直して、子どもたちに伝承していきたいと思います。

諦めのわるい境地

昨日は親しい同志たちと、徳積堂でゆっくりと過ごすことができました。彼らと私の共通点は諦めのわるいところでしつこく人間社会の課題に対して粘り強く見守り続けることです。お互いに社会の中でも役割や使命も異なりますが、目的や本質は同質のものを持ち続けています。だからこそ、お互いが話し合うことはお互いに智慧を共有することもでき、元氣も湧いてくるものです。

そもそも目的が一致している人たちがいるというのは心強いものです。バラバラの場所で働いていたとしても、有機的に心が結ばれます。こういう自律分散した働き方というのは、実際には組織にしていなくても和合して協力しあえるものです。

時代の要請もあり、それまで正しいと信じた人たちが時代の価値観の変化によって歪が出てきます。信念が強ければ強いほどに、善かれと思うものが良くないこともたくさん産み出します。この世の中というのは、陰陽が常にバランスを保とうとするように常に中庸で働きます。地球が丸いように、また元の自然に還るように私たちはどちらかに偏らないところにいるようにといのちは働きます。

いのちの性質というものは、少しでも長く存在しようとすること、また全体と調和しようとすること、波動や振動を揺らして静かに動こうとすることがあります。

私たちが認識して切り取った一部のものは、それ自体もまた全体快適に働きます。つまり自分と他との境界も取り払い、固定された目に見える物質とそうではないハタラキの境界も取り除けば中庸という意識を持たなくてもそれは中庸になっていくようなものです。

つまりすべてお任せ、今に真心を盡すことが諦めのわるい境地なのかもしれません。同志が集まると常に新しい扉が拓いていきます。それぞれの役割に感謝しながら、道を一歩また一歩と進めていきたいと思います。

歴史の謎解き

古代史を深めていると、謎解きのような暗号がたくさん出てきます。歴史の中で、それぞれの政権が変わり歴史の改ざんがたくさん行われてきました。その改ざん方法は、名前の文字を変えたり、時系列を入れ替えたり、男女を入れ替えたり、場所を換えたり、あるいは空想上の人物を入れたり消してしまったりと様々です。

文字で何かを記録するというのは、そういうことができるということです。また遺跡なども、本来はないものが建っていたり、別の地名にしたり、漢字を別の当て字にしたり、地形を変えたり、埋めたり燃やしたりと現物の方も消されています。

しかし、完全に消せるかといえば消せないものがあります。それは山であったり、岩であったり、配置であったりと、それに口伝であったり、伝統文化や伝統的な暮らしやお祭りであったりと工夫があります。

そういう一つひとつを繋ぎ合わせて結び、記憶を辿り謎を解くのです。そこにはたくさんの兆しや印が隠れています。そしてその暗号を紐解くのは「場」にこそあります。

その場所に行けば、不思議ですが何かを感じるのです。それはそこで誰かが何かをし、そこで過ごしたという事実がちゃんと場の記憶として遺っているのです。それを感受することができる人たちこそ、私はこの歴史の謎解きができる人だと感じます。

歴史の謎解きは、道のようなものです。かつて誰かが歩いた道は、自然に歩道ができます。しかし長い歳月や誰かの意図的な行為により道が消えてなくなります。しかしそのかつての道を静かに心を落ち着けて澄んだ真心で歩んでいると次第に記憶が宿ってきます。それが「場の記憶」のようなものです。

そういう記憶を一つ一つ結び直す中で、場はまた甦生します。私が取り組む場の甦生には、こういう歴史の謎解きというものもあるのです。

子孫のためにも丁寧に場を清め場を調えていきたいと思います。

歴史の先生

私たち人類の先生とは何か、地球という人も言えば自然という人もいます。あるいは長老という人もいます。しかし実際に何が私たちを人類を導くかといえばもっとも身近にある先生は歴史です。

私たちは歴史に学べばちゃんとした道に導かれていきます。しかしその逆に歴史から何も学ばないと同じことを永遠に繰り返します。歴史から何を学ぶか、そこに人間が持っている癖や文明の持つ業のようなものに気付けるように思います。

人類は、今でも存続していますが人類が築き上げた文明は何度も滅んでいます。しかも、ほとんどが同じ理由で滅んでいます。現代は、資源争奪が激しくなり地球にあった活用可能な資源もまた消費によって回復が難しい状態に入ってきました。今回の文明が滅べば、長い時間をかけて大変な困難が訪れるように思います。

そもそも一つの寿命のように、長い時間をかけてゆっくりとじっくりと寿命をのばしていくようなものと、その反対に急いで短期間で一気にとやって寿命が短いものがあります。文明はこれと似ていて、その寿命をどうのばしていくか、そしてどう寿命を甦生していくかということも歴史から学べます。

この寿命一つであっても、奪う仕組みと有機的に結び与えるという仕組みがあります。それもまた歴史から学べます。歴史は、単なる記録ではなく起きた出来事の検証と反省、改善の中心的なものです。もちろん、勝者の歴史とあるように嘘の歴史もありますがしかしその嘘の歴史を含めてよくよく吟味して学べば歴史の正体にも気づきます。

人間が何をしているのか、人間がどうなっているのか、人間がどこにいくのかが分かるのです。

だからこそ今一度、私たちはよく歴史を學び直して別の道を覚悟をもって決断していくことが必要です。そういう意味でも、生きた歴史を後世に伝えてそれを伝承するお役目の人たちを守り育てていく必要も感じます。

文化事業というのは、言い換えれば歴史の語り部や伝承者を守り育てていく事業です。人類の一人一人がそれぞれにみんなでその真の歴史の一端を担っていくのが本来の歴史の学び方の基本になるように私は思います。

不思議ですが歴史を学ばないものは、歴史が繰り返すようにできている。これは何か揺るがない法則であり、言い換えれば歴史は先生そのものであることの証明でもあります。

最後に岡倉天心の言葉です。

「われわれは、われわれの歴史の中にわれわれの未来の秘密がよこたわっているということを本質的に知る」

未来を知ることは過去を知る事、先生とは歴史そのものということでしょう。これからも歴史の先生から学び続けていきたいと思います。

歴史の甦生

古代からの日本の経緯を紐解いていくのはとても面白く豊かなことです。先人たちの智慧を学び、足跡を学び、そして歴史を学び直していく。本来は、こうやって歴史を常にイキイキと甦生させていく中でこそ私たちは真の智慧を磨いていくことができるように思います。

私たちのルーツは一体どこにあるのか。

私はこの筑豊というエリアに産まれ、北部九州を中心に古民家甦生などに関わる機会が増えました。古いものをよく扱っているからか懐かしいものや伝統的なものを身近に感じることがあります。

そこには今にも息づく道具たちや場所がたくさんあり、そのお手入れをし時にはお掃除をし祈ることで何か不思議な記憶にアクセスすることがあります。それは歴史の教科書に書いてあることではなく、文字で理解するものではなく、まさに心でその場で感じる取ることができます。

そういう感覚があるのはなぜかということを突き詰めてみると、そこには自分の心身体の中で生き続けている遺伝子や先祖たちの息遣いを感じるからです。思い出や記憶は、証拠がないといわれるかもしれませんが証拠などは感覚が気づくものです。それぞれの気づきの証拠を集めれば、そこには一つの真実があります。

現代は物質文明で科学で証明できるものしか信じません、同時に何かをしようとするとエビデンスを出せなどといわれます。もうすでに完結していることを知って、好奇心を失い探求するのをやめてしまうくらいならそんなものは知らなくてもいいかなと私は思います。

子どもたちが持っている好奇心もまた、終わった歴史、誰かによって押し付けられる歴史、またショーケースに入ったホルマリン漬けのような歴史によって失われていきます。そんな勉強は、受験には役立っても実生活には智慧として活かされることはないように私は思います。

生きた歴史、活き活きする歴史は、今の私たちの生きる道や學ぶ好奇心の中にこそあります。そういう真の歴史をみんなで探索していく場や機会が増えていくことは、郷土や郷里の活性化にもなります。まさに歴史はブロックチェーン型、自律分散型がぴったりです。

色々とこれからも新たな歴史の道を愉快痛快に開拓し学び続けていきたいと思います。

FBA

昨日は、FBA設立して初のブロックチェーンイベントが飯塚市でありました。各地から70名以上の方々が集まり大変な盛り上がりでした。熱量というのは、参加者たちが上げていくのですが志ある人たちも多く刺激が多い一日でした。

現在web3などの動きが注目されていますが、実際には物質文明で栄えたテクノロジーとこれからそれを超越したテクノロジーが発生するのではないかというように仮想空間の醍醐味も感じました。

時代として物質文明に偏りすぎたことで発生した歪をどのように埋めていくのか。そこにこのブロックチェーンという技術は大きく貢献するのではないかと感じる一日になりました。

私はもともと場を創る人間です。場から考え、場をどう調和させていくのかに取り組んでいます。場と対話をし、場が有機的に結び合う環境を通してブロックチェーンの意識する世界観を表現することができます。

もともと自律分散という概念も日本では古来から和の精神のなかでいくつもの事例が受け継がれています。世界の最先端のさらに先をゆく日本の思想や技術は、新しい時代、そして世界を変える可能性を最も発揮できる環境があるように私は思います。

特に日本の伝統的な暮らしをはじめ、多く伝承された道具たちは今でもそれを扱ってきた人間の人格や人徳の薫りを宿しています。私はその頃の人たちから思想や生き方や生きる道を学び、それを現代のブロックチェーンに投影させているのです。

子どもたちや子孫たちも今の私たちと同じように、新たな時代の思想や哲学や技術を先人の智慧から参考にしていくのは間違いありません。だからこそ、自分の世代のためにではなく次の世代のために今、できることを真摯に取り組むことが未来の国づくりや人づくり、そして場づくりになっていくと私は信じています。

飯塚市か福岡県か日本ではなく、地球に存在するこの場において新たな時代のモデルを示していきたいと思います。

発明のこと

私たちはあらゆる便利な発明によって文明を開化させていきました。最初に数字や文字を発明してからまた戦争を繰り返す中で武器を増やしていきました。人類の発展というのは、地球の循環とは別のところで発生していきます。この発明という技術によって発生した新たな技術がそれまでの人類の方向性をまるで変えてしまうということがあるように思います。

例えば、世界には小さな少数民族をはじめ今でも布切れ一枚で森の中で生活しているような部族がたくさんあります。それぞれに小さな国を実現し、その国にはその国の常識があります。

今ではお金があるというのは当たり前のことですが、その場所ではお金もない場所もあります。お金がない国があるということです。そういうところはどのようにして国を運営しているのか。ほとんどがみんなで分け合い、助け合い大きな家族として見守りながら暮らします。これはよく観ると、動植物や昆虫なども同じような暮らしです。

文明をもったという人類だけがお金を持ち、文字も数字も技術も持つ。その道具を用いてさらに宇宙開発に進出していくというのが現代の様相です。今では、遺伝子を操作しあらゆる人体の状態を管理し、人工知能によって人間の頭脳の一部を完全にアウトソージングできるようにしていきます。未来には、映画や漫画であるような技術が発明されさらに文明が発展するということを目指していきます。

しかし、その文明を発展させるために資源を使い続けます。結局はこの数百年、産業革命以降の人類の様相を観察すると資源を搾取するための技術ばかりを追い求めてきました。世界中から資源を探してはそれを搾取する、そうして富を独占する。そのための技術革新ともいっても過言ではありません。本来、石油一つであってもこのままでは枯渇し、地球の大気を著しく汚すとわかっていても利権があるためにその欲望に支配された技術革新のみが技術の発展となっていきます。ややもすると、技術者はマッドサイエンティストのように悪に手を染めて悪の手先のように人類が貧しくなるお手伝いをすることにもなります。良心的な技術者であれば、発明をやめてしまい農家になって静かにその時代をやり過ごす人もたくさんいたのではないかと思います。

これはいい発明、これはよくない発明というのを人類が決めるのだから人類自体が人格が磨かれ徳がなければ真にいい発明は訪れないということでしょう。そもそもいい発明とは、自然界がすでにほぼすべて発明しきっています。自然のやっていることをなぞることができても、自然が発明したようには私たちにはできません。

この身体が見事に調和循環して生命を維持するようになど、人類の科学ではまだできません。つまり人類は、余計なことをしているうちに自然から離れては自然の偉大さを知るということを繰り返しているだけともいえます。

話を戻せば、文明がこの先も発展していくとしたら人々が真の豊かさとは何かに気づき、欲望の果てにあるものを諦めて手放し、心身ともに徳に目覚めて成熟していくことではないかと私は思います。そしてこれは時代からの要請が必要になるものです。時代が先に気づき、時代がそういう流れを人類に創るということです。そのためにも、小さなところから真にいい発明に目覚め、それを具現化する小さな自律分散で互譲互助のような講、あるいは徳を循環させていくようなコミュニティが増えていくことだと私は感じます。

時代の先をいくというのは、太古から普遍的な道を今も実践するということです。子どもたちや子孫のために真の豊かさを、人の生きる道を紡いでいきたいと思います。

お金のこと

お金というのは、色々な役目を果たすものです。ある時は、人々を豊かにし助けますがある時はその逆に犯罪の原因になります。結局は、お金が問題ではなく人間が問題ということに気づきます。これは環境問題も同じことです。環境を何とかする前に、如何に人間がどうするかということに尽きます。その理由は、その環境問題も実際には人間が問題を起こしているからです。自然に置き換えても、自然は太古のむかしから一切変わっていません。変わったのは人間ということで問題が発生してきたということでしょう。

環境の場合は、人間が本当の意味で生産するのをやめてしまい消費ばかりを優先するようになったことでそれまでの環境が壊されていきました。何が壊れたかというと循環が壊れたということです。有機的に結ばれ一体化している存在が、分断され途切れたということです。これによって一部の場所や一部の人だけが、メリットを享受できるようになりましたが全体最適は消え、それを騙しだましで誤魔化してきましたが限界が近づいてきて今の環境問題になったともいいます。小さなゴミもあまりにも増えて捨てるところがないほどになると、人間は問題だといいはじめます。

この構図と構造と、お金はとても似ています。

お金の場合も同じく、消費することばかりに躍起になり一部の人間が富をストックするなかで全体に巡らなくなりました。循環をやめてしまい、実体のないお金が蔓延していきました。現在の世界中のお金は、17京以上、(1600兆ドル以上)あるといいます。もはや増えすぎて実際の量などはわかりません。それでもまだ増やし続けていき、それを保つために消費を続けます。資源が枯渇してもなお、私たちは消費をやめることができません。それは、お金がその重要な役割を担っているからです。

本来、お金とは何でしょうか。現代では、お金が人間を支配しているかのようにみんなお金のために生きています。お金がなければ生きられないと信じ切っています。まさにお金はいのちであり神様のような状態です。たくさんお金があれば富豪と呼ばれ、権威も権力も持っています。

しかしひとたび、人類が滅ぶほどの天変地異や大災害、不測の事態があるとお金があっても生きてはいけません。その時、必要なのはお金ではないものです。自然界の生き物たちはお金を持っていなくても自然と共に生きています。お金があっても、動植物たちは生きていけません。人間は本来、お金がなくても生きていた存在です。このお金というものが発明されてから、私たち人間はお金のために生きるようになったということでしょう。

よくよく観察していると、なぜ今私たちは生きているのか、活かされているのか。それはお金によってではありません。それは先人たちの徳によってです。先人たちが子孫たちのためにと遺して譲ってきてくださったあらゆるものによって今の私たちはでき、そして今暮らしていくことができます。これは真実であり、揺るがないもので自然界では当然としてその恩徳によって存在しているのはすぐにわかります。

だとしたら、お金はその徳にとって循環するもののときはじめて本来のお金としての大切な役割を果たしていくのではないかと私は思うのです。お金は、元々信頼や信用、そして絆や繋がりなど、嘘偽りのない真心を証明するものでした。正直に生きる世の中においては、お金は御守りのようにお互いを助ける力になりました。

現代は、その見たこともない数字のお金をまるでゲーム感覚で世界を巻き込んで混乱させていきます。これはまるで人間の際限のない欲望そのものです。歴史は、過去に何度も似たようなお金を軸に起きた様々な悲惨な事件を後世に伝えてきました。今一度、私たちは歴史に学び直してお金と人間という問題に向き合っていく必要を感じています。

どのようなお金が循環することが、果たして人間をよくし、どのようなお金にしていくことが子孫たちの未来になっていくのか。この二日間も、それを真摯に考えていきたいと思います。

自律分散とは

自律分散という言葉があります。これはよく管理型に対して自律分散といわれることがあります。他には中央集権に対しての自律分散という言い方もします。そもそもこの自律分散というものは何なのか、それを少し深めてみようと思います。

この自律という言葉は、一般的には他の支配を受けずに自律的に規範を設け自分であることをいいます。哲学的に言えば自己の欲望や他者の命令に依存せず、自らの意志で客観的な道徳法則を立ててこれに従うことともあります。シンプルに言えば、自由と同じ定義です。

そして分散という言葉は、一般的には物事が一つの場所や状態に集中せずいくつかの部分に分かれて存在することをいいます。これは物や情報が均等に散らばっている状態です。しかし自律分散とするときの分散はこうではなく、有機的に結ばれて分散するという意味になります。分散だけだと単に散らばっていますが、ここに自律が加わると自由だけれどいつも全体最適になっているという状態になることです。

これは何が最もイメージが近いかというと、自然界です。

宇宙や地球、自然界はすべて自律分散をしています。それぞれの生き物たちが精いっぱいに自分の生を全うしながらも、お互いに律しあいながら和合して暮らしていきます。この時の分散は、バラバラにあるようで実は地球の偉大な循環の一部としてお互いに貢献しあいます。つまりここでの共生貢献は、自律分散そのものになっているのです。

私たちがこの自律分散を人間社会で例えるときは、道徳というものがもっとも近いように思います。自分を律しながら人の道をみんなで実現する。日々の暮らしを調えて、お互いに自己を養い自己を磨き、仕合せを追及していく人の道のことです。

つまり自律分散を目指すというのは、人の生きる道を目指すということです。

私がこの故郷でブロックチェーンに取り組むのも、その技術の理念や理想と現実を一致するためです。この願いの中心には、いのち全体の幸福や人類の真に豊かな未来へ向けての志があります。

実際には、現在の日本社会や消費経済の影響をうけなかなか理解されないものですがそんなに遠くない未来には当たり前に技術と人が調和し、誰にも支配されずに自律分散によってテクノロジーと生きる道が一致する日も来るように思います。

その日を夢見て、今は「徳積帳」からはじめていこうというのが私の実践です。もうすぐ3年目に入ります。色々なご縁が自律分散に磨かれていくのも仕合せです。ありがとうございます。