病気の正体

現代人の病気のほとんどは、がん・脳卒中・急性心筋梗塞・糖尿病、そして精神疾患があります。どれも理由ははっきりしていますが、その環境は取り除かずに病気を退治しようとするのでこれらの病気を扱う病院はいつもいっぱいです。それに医療費の負担も増え、そのうち何のために働いているのかと気づくほどにみんな病気に近づいていくかもしれません。

本来の健康は、未病であり、病気にならないような暮らしを調えていくことによります。病気になる生き方には、他人軸といった評価や期待、空気を読みすぎたり、比較されたり自分に厳しすぎて自己を大切にしなかったことなどで頑張り無理がたたり心身が病んでいきます。もちろん、いくら気を付けていても自分のいる環境がそういうところにいる場合は知らず知らずのうちに影響を受けて病気になることもあります。

自分というものを大切にしていれば、環境の影響があっても自分というものを持ち続けることもできるかもしれません。しかし人間は弱いもので、欲望もあり感情もありますからそんなに強いメンタルを維持することはなかなかできません。

そういう時は、自分にもお手入れが必要になります。自分のお手入れというものは、日々に自己の心と対話をする習慣をもったり、身体の声を確認する時間があったり、あるいは環境を変えて心身を調える場に身を置いたりなど工夫はできます。

私の場合は、ライトワークとして徳の循環する経済圏を創生していますから意識的に水や火を用いて自然から離れないよう、不自然と自然が何かを常に確認する機会に恵まれています。そして場づくりで風水をよく感じて、気の流れが澱まないように気を付けています。そもそも病気というのは、気の流れの澱みから発生するのではないかと私は直感しています。気が流れれば、病気は次第に快復していくからです。

例えば水でいえば、澱むことで水は腐ります。私たちは水を纏い循環することで生きていますが、排水や排出ができないと病気になります。植物も同じく、水というものがいのちの中心でありその水の流れ方がどうなっているのかというのはとても大切です。

暮らしフルネスを実践していますが、これはメンタルヘルスにも大いに役立ちます。そもそもむかしの先祖たちは病気を一番、気を付けていました。今では仕事を一番気にして病気になるという悪循環ですが本来は健康であることが一番であったのです。

健康でなければ喜びもしあわせもありません。常に健康で自他が喜び合う中に徳もあります。子どもたちのためにも、暮らしフルネスを伝道して子孫へと先人の生き方の知恵を伝承していきたいと思います。

私の伝統

私は色々なものを甦生していますがその一つの伝統というものがあります。そもそも伝統というものの定義は曖昧なものだと最近は感じています。最初からすべてのことはほとんど伝統ともいえます。誰が農業をはじめたのか、誰が林業をはじめたのか、創業100年とか500年とかいいますが、実際には農業はもう人類がはじまったくらいからありますから数万年あるいはもっと長く続いている伝統です。

10年でも伝統といえば、1000年でも伝統という。しかしその伝統とは、結局は続いているということを言っているように思います。むかし、誰かが発明したものが今でも採用され続けてどこかで使われているということです。

そしてそこにまた逆説があることがわかります。誰も採用しないものは伝統ではないとかということです。採用されないものを伝統だからと遺そうとするのは無理があるように思います。文化財の保存なども、私の場合はすぐに活用しようとしますがその活用を否定する人もいます。しかし活用を否定して伝統を守るというのは不可能ではないかと私は思うのです。一時的に、誰も採用しないので保存しておこうとするのはわかります。しかし実際には、活用しようとすると法律や日本独特の空気感で新しいことをするなと言わんばかりの声もでます。

本来、伝統とはその都度、新しく磨き上げていくものです。なぜなら、採用し続ける状態、活用し続ける状態を維持していかなければならないからです。

私も古民家を扱えば、色々な専門家からあれは間違い、これはわかっていないだのご指摘いただくことがあります。もちろん、それは学び、深め、理由を理解しますがそのうえで自分の好きなように改善します。なぜならそれが活用だからです。他にも、宿坊を甦生するとどうしても世間から見れば宗教染みたことをやってしまっていたりします。別に特定の宗教や宗派、ルールなど周囲を気にしていたら何もしない方がいいということになってしまいます。何もしなかったら活用できませんから維持存続することもできません。そうなれば伝統はそこで終わってしまいます。

私が考える伝統は、活用ありきなのです。活用するというのは、ちゃんと自分のものにしてそれを新しくし、使い続ける創意工夫をしていくということです。その時、それまでとは形が変わってしまうかもしれません。もちろん先人の知恵や技術、そして思想や真心などは当然尊重して尊敬していますがどう使うかはその時々の人たちの全身全霊ですから同じことはできません。

同じことなどは存在しないのですが、同じことを形だけ続けることよりも先人たちと同じようにその時代を真摯に生きてその真心と丹精を込めた生き方を実践していくことで人事を盡すことしかできないと私は感じます。

そもそも伝統とは革新のことです。つまり伝統=革新なのです。だからこそ、私の取り組んでいる仕組みは、これからの伝統を創造しようとする人たちの仕組みの参考になるのでしょう。

子どもたちや子孫を第一優先して取り組むからこそ、私は色々と批判や非難をされても、ご迷惑を多少おかけして人間関係でも少し距離を置かせていただいていてもこれは自分の使命だと思い取り組んでいます。

先人たちが譲り遺してくださった未来を、そのままにさらに新たにしてもっと先の未来のために創造を挑戦していきたいと思います。

伝統の革新

昨日は、無事に守静坊にて夏至の行事を行うことができました。改めて先人たちはどのような思いと願いで行事を続けていたのか。なぜ長い間、行事を実施してこれたのか。それを感じ直すことができました。

伝統というものは、長い時間をかけて繰り返し行われてきたものです。時代の変化や、その実施する人も異なりますから形は多少なりとも変わっていったはずです。その時代に合わせて、時代に合ったものに変化してきました。その時代に合ったものになる過程でその伝統の本質は何かとその時代の人が磨き上げてきたのが本来の伝統のように思います。

その伝統は、変化の集積と今の自分を含めた生きた歴史であることがわかります。つまり物語が続いていくように、繰り返していくなかでこうやって変化してきたということを語り継がれていく今こその中に本質があるということです。

世間では、変わっていないことを伝統と呼んだりします。そして文化財なども保護するという名目で変化を止めてしまってあとはショーケースでご覧くださいと見せたりします。それは終わった歴史、止まった歴史、変化させなくなった物語ということでしょう。

本来、神話なども同じようでその時代の価値観が異なるのだから受けてに委ねられてりいるのだから受け取り方は無限にあります。その中から、みんなが普遍的に共有するものを見出し共感するからその物語をそれぞれで受け取ることができるのです。

万物は変化を已まず、そして自分自身もまた変化の真っただ中です。だからこそ、勝手に止まったことにしたり、変化することが間違っているかのようにするのは不自然であろうと私は思います。

変化を味わい、変化を楽しむ、そしてその変化の中にある今をどう生きるのかをその時々の人たちと対話をしながら創造していく。それが本来の伝統の伝承者のお役目のように私は感じます。

私も英彦山という素晴らしいお山に出会い、学び、尊敬し、暮らしています。その中で、どのような伝統と伝承が革新されていくのか、その行く末を希望と共にとても楽しみにしています。

変化を味わう

人は自分の人生の経験をどう深く味わうかによってはじめてその意味を感じ取るように思います。あれこれと脳で考えて、良し悪しを裁くことがあっても本当のところはどう感じてどう味わったかはその人にしかわからないものです。

100人には100通りの人生があり、また同時に100通りの味わい方があります。それぞれに与られた自分の人生を、どう味わいどう感じるかはその人の主体性が必要です。よく自分軸という言い方もしますが、自分の人生をどう味わうか、その責任は自分で持つということでしょう。

誰かを比べて、羨ましがったり妬んだりしますがそれも味わうことを疎かにしていることだったりもします。自分がこの世に生まれてきて何を体験したいと思っているのか。喜怒哀楽そして苦労も多いですが、どれも必要なことが起きているともいえます。

そう考えてみれば、必要なことをすべて味わい盡していくためには素直さや謙虚さ、そして丸ごと含有できる寛容さや感謝があります。感謝というのは、思えば当たり前ではないことに気づくことのように思います。

少しでも体調を崩せば、当たり前だった健康が懐かしくなる。急に一人になれば、家族や仲間がいたことが有難いと思うようになる。これは雨が降らなければ雨が恋しくなり、降り続ければ洪水や土砂崩れなどの心配がくる。

人間の心や感情というものは、その時々の変化であちらこちらに移動していきます。しかしよく考えてみたら、心や感情が動くからこそはじめて味わい深いものに気づくともいえます。何も変化がなければ味わうことが難しいのです。

変化があるから味わうことができ、その変化に対してどう味わったかというのが私たちのもともと持っている感覚なのでしょう。すでにあるものに気付けるか、もともとあるものをもう一度思い出せるか。まるで記憶にアクセスするかのように、変化を体験し、その時の懐かしい味わいを思い出します。

人生は一期一会、その時、その場所、その人、そのご縁は一回きりで同じことは二度とありません。日々の変化を深く味わい、変化と共に唯一無二の今を味わっていきたいと思います。

徳の宝

明日の守静坊の夏至祭の準備で宿坊を調えています。もともとこの宿坊の伝承では、夏至に太陽の光を鏡に受けるという行事があったといわれています。今は、もう文献も残っていませんがそれを甦生させてみようと試みています。

本来、神事というものは形式が問題ではなくその本質が何だったかを学び直すことのように思います。繰り返し伝承されるものは、形式が問題ではなくその伝承したものの本体をどう承ることができたかということによります。伝える方がいなくなったのなら、伝える側が使ってきた道具たちやものたちに物語を謙虚に教えてもらいそれをなぞりかたどるなかでその真心を直感していくものです。

私が甦生をするときは、まずよく「聴く」ことからはじめます。この聴くは単なる思い込みを外すだけではなく、そのものがどうしたいのか、何のためにあるのか、もともとはどうだったのかと深く丁寧に時間をかけて取り組んでいきます。そうしていると、早ければ数日、遅くても数年から十数年で次第にその本質にたどり着くまでの情報やご縁があちこちから集まってきます。

そのためには、そのものへの敬意や畏敬の心が必要です。何かを学ぶというのは、それだけそのものから学ばせてもらうための心の姿勢が大切になります。わかるとかわからないとかという心情ではなく、真心に対して真摯に応えるという真剣さが必要になります。それは深く礼を盡して、純粋で素直、そして謙虚であるかという心の基本が立っているかどうかによります。

自然から学ぶ、自然から聴くというのもまた同様です。

今回の夏至祭もまた、どのようなものであったのか。それを今、辿っていますが太陽の徳を感じています。太陽は、広大無辺に私たちいのちがあるものを遍くすべてに徳を与え続けます。その姿は見返りのないあるがままのものです。

そして夏至は、その太陽の光がもっとも長く、高く、広く、私たちの今いる場所を照らしてくれています。植物たちや木々を英彦山の山中でよく観察していたらこの太陽に徳に報いようと一生懸命に成長しているのを感じます。成長するというのは、この果てしなく広大な太陽の恩徳をいただいているからだと気づきます。

一年に一度、私たちは徳の存在に気づくことがこのお祭りの本質であり、そしてその徳を一年、そして一生忘れないで暮らしていこうとする意識こそ太陽を拝む生き方なのかもしれません。カラスもまた、太陽の使いや太陽に住む鳥ともいわれます。英彦山には烏尾観音や烏天狗の伝承もあります。太陽と深く結ばれ、太陽に祈る文化があったように私は思います。

当たり前に気付ける感性、もともとある存在をいつも感じる感性は、徳を磨く中にこそあります。今の時代は変人だと思われるかもしれませんが、太古のむかしからつながっている物語を今の時代も変わらずに実践し、子孫たちへ徳の宝を結んでいきたいと思います。

熟成の知恵

私は味噌づくりをして日々に酵素玄米などを食べていますが、最近は熟成というものを深めています。燻製なども熟成していくなかで旨味を増してさらにおいしいものになっていきます。

そもそも美味しいという感覚は、どのような感覚なのか。それは体が求めているものであることはわかります。そしてもう一つは、生きているもの、魂が宿っているものをそのままにいただくことだと感じます。お菓子などの砂糖がいっぱいの甘いものや、見た目がいいものは脳が美味しいと反応しているものもあります。しかし体、つまり五感で味わう方の美味しいというのはまさに全身全霊で食べるときに感じるものです。

以前、禅の体験で食べる禅という丁寧に時間をかけて五感をフル動員して食べる体験をしましたがその時の食べ物で美味しいと感じるのは簡単便利に機械で加工した食品ではなく、身近な畑や果物、そして自分で栽培したり旬の野草をはじめその季節にしかないその土地のものを丁寧に調理した時の方が深い美味しさを感じました。

この深い美味しさはどれもいのちとの対話、いのちの喜びのような感覚のことです。

そして熟成というのはよく観察すると、もっとも熟れたタイミングまで待つということです。果物であれば、種がもっとも運んでほしいタイミング。体であればもっとも状態がいいタイミングなどです。栄養価ももっともすぐれていて、いのちが充実しているという変わり目の時です。陰陽であれば、陰極まり陽になるとき、あるいは陽極まり陰になるタイミング。季節であれば、夏至と冬至のタイミングです。

このもっともいのちが充実したものをいただくこと、それは太陽の光でもいい、あるいは月の雫でもいい、その時のいのちの中にもっとも熟したものがあると自然界から教わるのです。

私たちの人生もまた、その熟成期間というものがあるように思います。自分の人生のもっとも熟成された瞬間はいつなのか、その感覚はこの味噌や発酵、燻製をはじめ保存食から学び直せるように私は思います。

引き続き、子どもたちにも熟成の知恵を伝承していきたいと思います。

暮らしの言葉

女房言葉というものがあります。これは室町から江戸時代に宮中に仕えた女官たちが使い始めた造語のことです。今でも時代の変化にあわせて、新しい言葉を作り続けています。今はどちらかというと、便利や効率優先の世の中になっていますから省略した言葉が増えています。例えば、コスパやリスケやぼっちなど、なんでも略していきます。少し長い言葉が出れば、すぐに略するもので語られます。

しかし日本の女房言葉というのは、どういう背景でつくられたのかというと宮中で働くというのは今でいう官僚の中でも特に優秀でエリートたちの職場なので上品な言葉で語るところから発生したともいわれます。その時代たちの女性の憧れの職業でまた、お宮の品格を保つように工夫されたのかもしれません。一般的には、衣食住に関する言葉が多いといいます。

例えば、おでん、おから、おこわ、おじや、おにぎり、おはぎ、おかか、おひや(お冷や)、おかず、おつむ、おなか、おまる、おなら、おいしい、などあります。そう考えると、室町時代から約700年近く今でも使い続けている言葉というのはすごいことだと感じます。先ほどの、コスパやリスケなどはそんなに長く使うことはないことは簡単に予想できます。

暮らしの中で親しみをこめて使われてきた女房言葉は、今の時代の人たちの暮らしにも定着して共に生き続けて伝承しているということでしょう。

おにぎりやおなか、おいしいなどはほぼ日常的に使われます。

改めて、自分が使っている言葉がいつはじまり、どのような経緯や意味、そして文化や歴史があるかを考えていくことはとても大切なことだと感じます。このブログでも、何気なくつづっている言葉もそれは数百年の歴史があり、その言葉が誕生した背景があるという事実。

言葉に深い親しみを感じます。

子どもたちにも、暮らしの中で使っている言葉がどのようなものかを伝承しつつその言葉を大切にして過ごしていきたいと思います。

道に還る

時代というのは面白いものです。時代というのは、人間の集合意識、そして価値観がそのものが時代ともいえます。その時代の常識とは、その時代の人々の常識のことです。時代が変わったというのは、その時代の人々の集合意識、常識が変わったということです。

例えば、その時代の常識に合わなければどんなに本来の事実であったり真実の事柄であってもそれは非常識として排斥されます。それは時代の常識が優先されるからです。今は、人々や集団がこうだと思っていたらそれに反対するというのは大変危険なことになるからです。それくらい、人間は自然や法則などに反して独善的に世の中を自分たちの思い通りに変化させていく生き物です。

なので時代という言い方をして、その時の人間の都合のよい形を保ちます。しかし、常識というものはある日突然変わっていくものです。不老不死の薬ができれば、それまでの常識は毀れます。他にも想像を絶するテクノロジーを持つ異星人などが到来してそれを享受されたりすればまたまた常識が変わります。他には、地球の気候がまるで地域別に逆転するようなことが起きれば常識が変わります。その都度、人間の価値観が変動し、時代が変わるのです。

時代が変わるということは、それだけ環境の影響を受けるということにほかなりません。

しかし時代が変わるけれど、変わらないものというものがります。それは真理や本質、根源や中心、本来あったもの、元来存在してきた普遍的な道などのことです。そして人間の原点なども変わりません。これは時代とは関係がないのです。しかし時代の常識の中では、それらは非常識になりますから厄介な問題になります。常識からみたら異物であり、異常なことだからです。

おかしな話ですが、時代と共に常識が変わり異物が増えますがそれを大事に細々と守っていたら巡り巡ってまた時代が来ます。時代は、元に戻る性質があるからです。複雑に進化して発展して繁栄しても、そのうち行き着いて戻るしかないのです。地球が円球なのと同じでどこに行っても最後は元の場所に回帰していきます。

だからこそ、今がどの時代であるかというのを見極め、その時代の常識の中でどう立ち振る舞っていくかが問われます。いわば、敵対せず二元論で正誤を分けず、味わうという境地の会得が求められるようにも思います。

心は正直ですからなかなかそうはいきません。修業は、慢心、用心、戒心の連続です。

道を歩んで、道に寄り添い、道を拓いて道に還る。

日々を慈しみながら歩んでいきたいと思います。

いのちの試練

「さるかに合戦」という日本の民話があります。幼いころに何回も読んだ記憶がありますが、よく考えてみるとこの話は仇討のことに注目されますがそれだけではなく、近視眼的なずる賢いものと、長期的にみて本質的であろうとしたものの対比からの知恵であることがわかります。話のあらすじはこうです。

「蟹がおにぎりを持って歩いていると、ずる賢い猿が、拾った柿の種と交換しようと言ってきた。蟹は最初は嫌がったが、「おにぎりは食べてしまえばそれっきりだが、柿の種を植えれば成長して柿がたくさんなりずっと得する」と猿が言ったので、蟹はおにぎりと柿の種を交換した。蟹はさっそく家に帰って「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切るぞ」と歌いながらその種を植えた。種が成長して柿がたくさんなると、そこへやって来た猿は、木に登れない蟹の代わりに自分が採ってやると言う。しかし、猿は木に登ったまま自分ばかりが柿の実を食べ、蟹が催促すると、まだ熟していない青く硬い柿の実を蟹に投げつけた。硬い柿をぶつけられた蟹はそのショックで子供を産むと死んでしまった。カンカンに怒った子蟹達は親の敵を討つために、猿の意地悪に困っていた栗と臼と蜂と牛糞を家に呼び寄せて敵討ちを計画する。猿の留守中に家へ忍び寄り、栗は囲炉裏の中に隠れ、蜂は水桶の中に隠れ、牛糞は土間に隠れ、臼は屋根に隠れた。そして猿が家に戻って来て囲炉裏で身体を暖めようとすると、熱々に焼けた栗が体当たりをして猿は火傷を負い、急いで水で冷やそうと水桶に近づくと今度は蜂に刺され、吃驚して家から逃げようとした際に、出入口で待っていた牛の糞に滑り転倒する。最後に屋根から落ちてきた臼に潰されて猿は死に、子蟹達は見事に親の敵を討ったのだった。」

蟹は、おにぎりはそれっきり、しかし種を植えればそれが長い年月を経て多くの実をつけるとその時のおにぎりには手を出さずに種を植えます。猿はそんなこよりも目先のおにぎりの方がいいと種は蟹に渡して植えさせて自分はおにぎりを食べます。数年後に柿の実がたくさんできたのをみて猿はそれを横取りにきます。そして青い柿を投げつけて殺してしまいます。この続きはあらすじの通りです。

しかし私はこれは本来は今の時代だとまた少し変わる話になっているように思うのです。時代と共にこういう民話は改善されたり改良されました。例えば死んでしまうのではなく、反省にしようとしたり、登場人物が換わったりします。

今はどうでしょうか、私なら柿の種を植えた蟹をみてみんなが大切なことに気づいてみんなで柿を見守りその実を分け合うことで種がまた周囲に広がっていくという明るい話です。

猿もまた、少なくなってくるおにぎりに気づいて、その貴重なおにぎりも分け合い、未来のために種も植えるようになり周りも自分も仕合せになるという物語です。子蟹たちは、それぞれの場所で同じように種を植えて育てる指導者になって世の中にずる賢いことをするものが減って安心する世の中になったという結末です。

この時代、ある意味でみんな近視眼的におにぎりを奪い合う構図です。徳の循環や、ずっと先の子孫のために恩送りをすることなどは二の次です。でも世の中には、知られていないだけでそういう生き方をする人物はたくさんではないですが必ず一定数います。今は、ずる賢い時代に翻弄されて大変かもしれませんがそんな中でも普遍的に永続する暮らしのために陰ながら精進しています。

そういう人たちに恥じないように、私もここで徳積循環の世の中に回帰するように試行錯誤を続けています。それはすべて子どもたちの世界に先人たちの遺してくださった恩徳を伝承するためです。

時代の変化によってむかしの当たり前は完全に否定され、普遍的な道を歩む人たちは迫害を受けることもあります。しかしまた時代が変わり、元のようにもどっていくものです。その時代をどのような生き方を貫いて耐えていくか、さらに深い願いや祈りでかじ取りをしていくか。いのちが試されます。

引き続き、いのちの試練を味わい楽しみながら明るく前進していきたいと思います。

保存食の知恵

燻製の歴史を考えてみると、どこからどう誕生したのかを想像してみます。歴史をたどれば、今から13000年前くらいの石器時代にその原型があるともいわれます。それから古代ローマに入り、ゲルマン人が塩を使い保存し、その後はスパイスが混じり今のような燻製の形になっているともいわれます。

随分長くこの燻製という調理法は大切に伝承されてきました。煙を嫌う生き物たち、煙が如何に防虫防カビ、除菌などにすぐれているかに気づいた先人たちの知恵の御蔭で今私たちはこの調理法をもっています。

他には発酵や乾燥、冷凍、焼く、水で洗う、干すなどもすべて常温保存のための知恵です。特に水が多い日本では、水を上手に活かして保存していきました。どんぐりなどのアクの強いものも水にさらすことで食べれるようにし冬の間の保存食にしました。干し野菜や焼き米なども同様です。

つまりは、今のように冷蔵庫や保存料、防腐剤などがなかった時代、如何に栄養がありいのちが充実し飢餓や飢饉から身を守ろうかと生み出した知恵でもあります。特に燻製は、動物性の肉を保存するには最適でした。普通にしていたら腐ります。それが燻製になると腐りにくくなります。そこには熟成という知恵が働きます。

この熟成は肉の中に酵素という物質があり、それが肉のタンパク質を分解し旨み成分であるアミノ酸に変わる工程のことをいいます。酵素がタンパク質を分解するには日数が必要です、その間、腐敗に傾かないように塩漬けにしておきます。この塩漬けは、水分を脱水し味をよくするためです。水分が残ると腐敗がつよくなりますから、そこに塩を入れて腐敗の微生物たちをおとなしくさせておくうちに熟成するのです。

なぜ人は熟成するものを美味しいと感じるかというと、化学的にはタンパク質がアミノ酸やペプチドに変化し増量するからだといわれます。人間の舌はこのアミノ酸を旨味として捉えておいしいと感じるからだといわれます。また人間の体はのたんぱく質は、そのままでは吸収されずペプチド・アミノ酸に分解され吸収されますが熟成肉はすでにアミノ酸になっているのでそのまま栄養が吸収されるそうです。

肉は腐る前が一番うまいという言葉もあります。この熟成の技術は、食べるものをよく観察することで得られるように思います。むかしの人たちは、どこまで食べれるか、いつまで食べれるか、そしてどうすれば長持ちするかとその3つを真摯に研究してきたように思います。

今のような飽食の時代、ありあまり食料を捨てている時代にはわからなくなっているでしょうが本来は食べるという営みの源流はこの保存食の知恵にこそあります。

子どもたちに保存食の意味を伝承していきたいと思います。