種のメッセージ

私は伝統の在来種の高菜を育てて守っていますが、種は同じにみえても実際には大きく異なることがわかります。また収穫する時機になると、その違いがはっきりと出てきます。一般的に、野菜のことになると改良された種のことなどはそんなに抵抗なく取り組まれている農家がほとんどです。しかし、もしも人間でとなると遺伝子組み換えやキメラの問題などは道徳倫理に関係すると抵抗します。

実際には、農業ではすでにそのようなことが当たり前に行われておりクローンのようにコピーできたり、かなり改良が進んで本来の野菜の原型とはかけ離れたものも食べられていたりします。また農薬をはじめ化学肥料、そして遺伝子組み換えによって防虫や成型の改良も進んでいます。

例えば、種であれば伝統の在来種と改変されたF1種を比べてみると下記のような違いがあるといいます。

在来種は、作物の大きさや形が均一ではなく、その生育の時期がそろわないので収穫時期にばらつきが見られます。また味が濃厚で個性的な豊かな風味があります。そしてその種は自家採種によって命をつなげていくというものです。

そしてF1種は、先ほどとは全部逆で大きさが同じで均一した形をし生育が早くなります。また色がきれい。柔らかく、味が甘いなど、薄味で調理人向きの味です。また花粉を作れない株の一種で不妊植物と呼ばれてもいます。一代限りで、種はとれません。以前、このF1種の種を翌年に植えたことがありましたがまるで違う作物のような実がなりました。

これは今、農業では当たり前に行われている常識になっています。そんなに家庭菜園をする方も、在来種かF1種かなどは気にもしていません。

しかしこれを人間の子どもで置き換えたらどうでしょうか?

今の教育や、日本の子どもの育て方はどこかF1種的になっているような気がします。どちらの作物の方が仕合せにその一生を過ごすことができ、どちらの種の方がいのちが充実しているでしょうか。簡単に想像したらすぐにわかります。

私たちの体は食べ物でできています。どのようなものを食べるかは、細胞のレベルでも影響されます。野菜の一生を私たちは取り入れますから、どのように暮らしている野菜かでその栄養だけではなく意識にも影響を受けるように思います。それは量子力学など科学的にも証明されてきています。

子どもたちの未来や仕合せを思うほどに、在来種を守りたいという気持ちが強くなります。保育に関わるほどにその思いも強くなります。子どもを守るためには、環境も一緒に守る必要があります。

引き続き、自分が気づいたことからそしてできることから改善を進めていきたいと思います。

環境とは

どのような生き物も進化していきます。この進化は、植物の種であろうが動物や昆虫であろうが行われていきます。しかもとても速い速度で変わっていきます。それだけ生き物は環境に対して適応していくということでもあります。生き残りをかけて、その与えられた環境ですぐに順応できるように進化を止めません。

例えば、ある動物は人間に飼育されることによって野生で生きる力を失います。人間に守られているという環境に適応するから人間がない生活ができなくなります。どういう動物を野生に戻すとあっという間にほかの動物の餌食になる生きていく術がなく餓死してしまいます。しかし、それを繰り返す中でひょっとしたらまた野生の環境に適応するものが出てきます。そこからは野生の中で生きていく方に進化をはじめていきます。

私たちはすべて身を置いている環境によって自分を育てているともいえます。都会の便利な生活で生きると、都会に合わせて順応しますし山のなかや大自然のなかに身をおけばその生活に順応して体も精神も意識もまた変わります。

そこから少し考えてみると、私たちは環境の中にいて別のものではないということです。自分の存在をその環境の中に移動させればすぐに進化や適応をはじめるということ。その新しい感覚によって自分の何かが変わっていくし、変化をはじめていく。旅行などでも、今までではない場所にいくと自然にその環境に自分自身が合わせていこうとする。

そうやって、環境と一体になるというのが私たちの存在ですから私たちは環境の一部として生きているということでもあります。その環境をつくるのも人間で、私は場を調えることが多いのですがその場において人の進化や変化の姿を表現するものでもあります。

どのような環境こそ、本来の人間らしい暮らしができるか。もともと人間が人格を磨けばどのような環境になっているのかなど、環境の在り方を通して人間の生き方を伝承しているともいえます。

引き続き、子どもたちのために環境を磨いて人間の進化に貢献していきたいと思います。

土と共に歩む 士魂を磨く

いのちというのは、どこから来るのか。それは私は土から感じます。土から新しいいのちは芽生え、そして土に還ります。土は私たちのいのちを支えている存在です。この土とは何かということです。

私たちの住む地球は、天地によって存在します。天は、空であり宇宙です。そして地は土のことです。土がある御蔭で私たちは食べ物を循環させることができ、水を貯蔵することもできています。

植物などは、土からいのちをもらい一生を廻り子孫をつくり循環しています。その植物を食べて私たちも循環しますが、よく観察するとそれは土が巡っているということです。つまりは、土こそ私たちの正体でありその土が豊かであればあるほどに私たちは安心して暮らしていくことができます。

土は、生死のめぐりが豊かであるところほど豊かです。様々な生き物たちが住んでいる、そして共生して生死を無限に繰り返すなかでますます土は発酵していきます。もともとこの発酵というものは、いのちが活かされ、いのちが好循環をするなかで行われていくものです。

自然界では、すべてのいのちが輝き活き活きすることで喜びあえます。土はその喜びを貯蔵したものであり、土があるから新たな喜びが生まれ続けます。農というのは、本来は自然の摂理に生きることです。

農薬を撒いたり、工業化したり、化学肥料を使ったりすることが本当の農ではありません。農的暮らしをするというのは、土と寄り添い、土に生き、土と共に歩んでいくといういのちの道に生きるということです。

私は有難いことに、農的な暮らしを実現されておられた人物との邂逅によってそれを深く学ぶことができました。その方の足跡を私は追いかけ、そしてその足跡の先を往きます。

土とともに、ますます士魂を発酵させてこれからさらに一歩進めます。

ありがとうございます。

尊敬する大好きな人

一昨日、尊敬している大好きだった方がお亡くなりになりました。私の人生にとっては、かけがえないご縁の存在の方でした。自然やいのちのことを学びつくし、何が自然で何が不自然かを知り尽くしておられた方でした。

また自然と同じく、謙虚で足るを知る暮らしをし私の晩年にはこうありたいとベンチマークさせていただくような方でした。いつも変わらずに丁寧に真心を込めて人に接し、優しく親身になって心を寄せてくださる方でした。

実際には、現代の資本主義や消費主義の偏った文明社会の反対を歩まれ、思想家だけではなく技術を持つ実践主義者の方でした。農業の本来のあるべき姿とは何か、そして農的な暮らしの本質とは何か、それを実体験や共有を通して人々の心の中に深く影響を与えておられました。

今では、その方から学んだ生徒たちが日本中、あるいは世界に存在してその生徒たちが指導者になりその思想と技術が伝承されています。あくまで組織にはせず、誤解などおそれずにまるで仙人のような立ち振る舞いで世の中へ改革を促しておられました。それも終始、自然体のままに無理をせずに正直に。

私の人生においては、メンターであり、普遍的な大道を歩んだ偉人の一人として生きた教科書でした。もう生きている姿でお会いすることはできません。今は、私の心の中で魂と一緒に歩んでおられます。そして実践して形になるとき、再会し続ける関係に代わりました。

不思議ですが、以前いただいた言葉はもう私の言葉になっています。そして今は深い寂しさが残ります。同時に大好きな方との有難い思い出に感謝の気持ちが上書きされます。

一度きりの人生の中で、心から大好きで尊敬する人に何人出会え、どれだけ一緒に過ごすことができるのでしょうか。一期一会は、出会いも別れも再会も導きます。今は、このあとの足跡を受け継ぎ、その先へと一歩踏み出していくことに覚悟を決めています。

ご冥福を心からお祈りしています。これからも魂と共に。裏の逝く末をお守りください。

天命を歩む

天命というものがあります。天命を感じるのはどういうときか。それは誰かの評価や価値観などを気にせずに、与えられた場所で自分の本当に好きなことに出会いその喜びを深く味わっているときに感じられるように思います。理由などなく、すべてをお任せして委ねている喜び。そして心がいっぱいにその今に充たされていきます。

なぜその光景が観たかったのか、なぜその景色に出会えると確信していたのか、あとになって考えてみると「そうしたかった」だけです。理由などは後付けですし、困難や不安や恐怖などは感じていてもどこ吹く風のように流れていくだけ。やっている最中には、ただ偉大な存在と一緒一体なっているという感覚。周囲の嫉妬や批判、差別やプレッシャーもそんな時に当てられてしまいますが、純度の極みのようなその状態に誰も止めることはできません。

そもそもさらによく考えてみると、子どもというのは本来はそういう存在ではないかと思います。子ども心に純粋にやりたいと思ったことを、そのまま思いきりやらせてあげること。それは天の命に素直であることです。そのやりたいことは、完璧にはできなくても今の時代ならこういうやり方があると環境を調えたり、周囲のことを考えて喜びになるのならこうやったらいいと仕組みを整えたりと、色々と大人は工夫するのです。

やってはいけないとそれぞれの天命を尊重しなくなったのなら、人間はその瞬間に仕合せを感じられず人間らしさを失っていくように思います。ある意味で、先人たちの声や子孫たちへと遺してくださった生きざまや言葉もまた天命を生きることの大切さを忘れないようにと伝承してきたものです。

子孫たちはその姿から未来を安心し、魂を発揮させて一度きりの地球の楽園での生を全うしたのでしょう。天命に生きる人はそれだけ仕合せですが、同時に周囲にも本来の仕合せを甦生していきます。

私は私の天命を歩んでいきたいと思います。

つながりを磨く

人と人とつながりというのは、不思議ですが古い場所に新しい人たちが入ってくるというつながりがあります。都会では、みんな新しい人たちばかりでしたが田舎にいくともともといた人のところに新しい人が入ってくるものです。その関係において、私は都会にも田舎にも、そして故郷に帰ってきていますから両方とも体験しています。

むかしは家を形成して、その範囲や親類、縁故のなかで人はつながりました。出家などをすると、それぞれの場所で生きていきますがそれも稀なことでした。村では村としての縄張りのようなものがあり、それを分け合い、時には争い生きてきました。

それぞれに生き物には、自分の生活圏のようなものがあります。エリア別にそれぞれに生活を維持する範囲のようなものがあってそこで生業を持っていました。現在は、インターネットや物流、交通が発達してその生活圏が広い人もいます。貿易商人、いわゆる商社などは世界の各地とつながり仕事しています。その中では、現地で亡くなり墓地がありそれを現地の人がいつまでも大切にしてくれている場所もあります。

人は、縄張りなど目先のことで争いはあっても長い年月の歴史を顧みると貢献しあったり、助け合った関係は子孫へとあるいは、その場所の新しい方々とつながり続けているのです。

そこから私が感じるのは、決して古くて懐かしい場所や祈りの石像など、あらゆるものはいつの日はまた別の人々とつながり大切にされていくという確信です。この時代は、消費文明で無縁社会というか人のつながりが希薄だとされています。特に田舎では、新旧の人たちの関係が難しいともいわれています。しかし、それは一時的なものであってまた人間はそのつながりを取り戻していくものです。

そういう長い目でみて物事を捉えていけば、目先の縄張りのことなどで争わない方を選び、尊重したり譲ってもいつかはまた素晴らしいつながりが子孫たちによって結び直されていくことを直感して安心できるものです。

経年変化というのは、本当の繋がりを甦生させていくものです。

子孫たちに託していくからこそ、今も私は心穏やかに和やかに丁寧につながりを磨いていきたいと思います。

石のお手入れ

昨日は、守静坊の工事を行いました。人数がいないとできないことばかりですが、大工さんはじめスタッフの皆さんと一緒に取り組んでいると心地よいチームワークに仕合せを感じます。

むかしはこうやって、みんなで知恵を合わせて助け合って作業をしていました。そして一つのものをつくりあげてきました。家を建てることや家を治すには、本当に多くの人たちが関り、その中で家族をもって一家の仕合せを願いました。

あの時、皆さんに助けてもらったという記憶や喜びはいつまでも場に遺り、その場をあたたく包んでくれるものです。そのぬくもりの中で暮らしていけることは何よりも仕合せなことです。

宿坊のお手入れをしていてもっとも興味深いものは石組みのことです。石垣をはじめ、あらゆるところに石が活用されています。土を少しでも掘れば石だらけです。石だらけで作業が進まずに嫌になるように思いますが、その石を邪魔ものにするのではなくその石を活かしています。石を活かしている建物だから、あちこちに石をうまく活用した環境整備が施されています。

私は特に石組みを勉強したことはありません。しかし先人たちがどう組んでいるのか、そして石はどうされたがっているのかということを観察して配置していきます。違和感があれば、それを直します。そうしていると、石にも意思があることに気づきます。

例えば、もっとも安定するように置いてほしいことや、どちらを上、どちらが下などの向きがあること。また場に対して、どこを中心にするか、個性があります。そういうものをよくみて、配置していきます。風の通り道や水の通り道、そして光が当たる方まで気にしています。植物や苔との共生をはじめ、割れているところなどの配慮も必要です。

石のお手入れはとても心が静かになるものです。引き続き、子どもたちに石の豊かさを伝承していきたいと思います。

梅雨の味わい

アジサイやアヤメの花が満開で雨に濡れて水の気配を引き立てています。梅雨に入ったころでしょうが、長雨が続き水気が増しています。今日は久しぶりに晴れて明日からまた雨ですが、せっかくの晴れ間に進まなかった宿坊の工事が集中して行われる予定です。

そもそも梅雨というのは、どういう言葉でしょうか。調べてみると、中国から由来した言葉で江戸時代には「つゆ」と呼んでいたとあります。日本歳時記にも「此の月淫雨ふるこれを梅雨(つゆ)と名づく」と出ています。

この梅雨の感じの梅は、もともとは梅ではなく黴(かび)からともいわれます。黴の生えやすい季節なので、中国では「黴雨(ばいう)」と呼んでいたそうです。それがイメージもよくなかったので別の響きで梅の字を当てたということや梅が熟す季節の雨だから、梅雨ともしたともあります。中国語は、つゆとは呼びませんが日本では露から来たともいわれます。食べ物がダメになるから「費ゆ」は「潰ゆ」となったとも。

どちらにしても、青い梅や熟した梅を連想しやすい梅雨の季節の雰囲気にぴったりのの言葉です。

この時期はよくみると、陰気の中に強い陽気が働きます。植物たちや野菜たち、お米や茄子などもこの時期を待っていたとばかりに成長していきます。私たちは水によって生きていますが、水が大量に動き働く季節に私たちはその成長を促されていきます。

カビ対策は大変ではありますが、生き物たちが活発に成長しあう大切な季節。この季節の味わいを楽しんでいきたいと思います。

葛と見え方

宿坊の周辺の木に蔓が巻いていてそれを一つずつ取り除いています。長い年月、人が住んでいませんでしたからあちこちが蔓植物に巻き込まれています。このつる植物が巻き付くと、木も捻じ曲げられたり、枯らされたりもします。家にまで入ってくるものもあれば、屋根を含めまるごとのみこむものもあります。

この蔓というものの生態は、とても厄介で何回も取り除いてもこの時期に出てきます。実際に自然界では共生の原理が働いていますが、わかりやすいものもあればわかりにくいものもあります。ひょっとすると、木自ら求めて蔓を巻かせているものもあるのかもしれません。

山の中では、あちこち蔓が巻いていますから木の高い方で大量に巻き付いていると剪定がとても大変です。また倒木するにも、蔓があちこちにひっかかっていますから木も倒せません。

台風や災害などあれば、この蔓が支えることもあるのかもしれません。しかし葛などは木にとっては、あまりメリットがあるようには見えません。作業をすると苦労ばかりです。

しかしむかしの民芸などを観ていると、この葛をつかって様々な生活道具に活用してきました。強い紐やロープのような役割をしあちこちで活用されています。縄文時代においては、この葛は家や道具に使われたのかもしれません。

人はものの観方次第で、どうにでも活用することができます。ただの厄介者とみるのか、ちょうどいいとありがたいと感謝でみるのか。ないものねだりをするのか、足るを知るようなあるものを活かすのかでは全くその結果も変わってきます。

山にいると、色々なものの見え方を学び直します。子どもたちに、山で学んだことを伝承していきたいと思います。

祈りの喜び

昨日は、英彦山にある烏尾観音堂のお手入れと甦生を遺志を持つ方々のご家族と一緒に行うことができました。法蓮上人が観音霊場をはじめたとされるとても大切な場所で、この場所を守り遺そうとする方々の想いに触れることができました。

場所というのは、単なるplaceではなく、そこには今も生き続けている歴史がある場です。場というのは、想いが宿る場のことです。何百年と連綿と続けられ人が祈り続けていた場所には人々の想いが生き続けています。最近、場の量子論をはじめ量子力学の解明によって場は空であるけれど空ではないということ。つまり中庸として目に見える物質的なものと、目にはみえない不思議なものが共に存在することが観えてきています。

今の時代は、物質文明で物質主義ですから目には見えないものは怪しいと思われます。しかし、本来、空気も気体も、風も光もよくよく科学で観察したら目に見えないものの集合体であることは誰でもわかります。むかしの人たちは、その目には見えないけれど、五感や六感で直感的にその存在を感じとる感性を研ぎ澄ませていたように思います。

その一つが、祈りというものです。

祈りに触れるためには、自分をまず清浄にしていく必要があります。その清浄になるには、色々な澱みや穢れを洗い流す必要があります。つまりは、自分の心や目が何か清浄であるか、何が透明であるかを感じる感性を研ぎ澄ます必要があります。そのために、人は己を磨き、場を磨き、志を磨き合うような関係によって場を調えるのです。

場を調えれば、自然に目には見えないけれどそこに生き続けている何かに触れることができます。昨日も、みんなで徹底して掃除をしお堂を磨き、清らかに無心に没頭することによって瞑想のような心地で磨き合いました。磨き合うことで、心は研ぎ澄まされ、晴れやかで清らかな気持ちになって喜びを分かち合いました。

本来、私たちは嬉しい仕合せ、楽しい感謝しますという心地のときに祈る喜びを感じるものです。祈りというのは、つらいことや悲しいこと、大変なときだけにするものではなく、日頃の喜びを味わうように行うものです。

偶像崇拝のように形ばかりを祈るのではなく、自分の心の中にある真の喜びに触れる祈りがこれからの時代には必要になってくると確信しています。子どもたちに伝承が結ばれ、子孫たちが喜びに生きられるように丁寧な暮らしと甦生を続けていきたいと思います。