煙の価値

宿坊では囲炉裏での生活が中心になっています。私はもともと炭を使うのが好きで、炭での暮らしをしますがここでは煙を使う暮らしが増えています。もともとむかしは、今のような電気も水道もない時代でしたから煮炊きなどは山の水を汲み、薪をつくり火を熾していました。日々の生活の中で、火を使い水を沸かす。こんな当たり前のことを繰り返しながら、住んでいる家も一緒に生活を守っていたように思います。

もともとむかしの古民家は、藁ぶきやかやぶきの屋根でしたから煙で燻すことで家を強くしていきます。煙には防虫や防水効果などもあり、家を燻すことで家を長持ちさせたのです。

また料理も、秋田の郷土料理のいぶりがっこのような沢庵を燻したもの。あるいは鰹節や燻製の料理のように保存するために囲炉裏の上を使っていたのです。さらには、衣服をはじめ腐らせたくないものや長持ちさせたいものも煙を使いました。この煙というのは、お香をはじめ身近にありますがあまりその効果や素晴らしさを認識している人が少ないように思います。

もともと煙が出る理由は科学的にいえば、酸素が足りないという不完全燃焼から起こることです。煙は気体ではなく、液体や固体であり水蒸気をはじめ不完全燃焼のものが目に見えて現れることです。酸素が十分に足りていたら炎になりますのでほとんど煙はでません。ガスの火も同様に煙はでないのは完全燃焼をするからです。

つまり煙とは何か、それはもともとあった物質を火によって別のものへ転換したということになります。私は宿坊では、杉やひのきの葉、あるいはヒバのチップなどをよく煙を出すために使います。これは屋根の防虫効果を高めるためです。もしも体によいものを浴びるのなら、よもぎなどのハーブを使います。

アフリカにヒンバ族という美しい先住民族がいますが、あの民族もお風呂は煙で燻すようにして煙浴というものを行います。実際に、煙に燻されると木酢のような薫りが体に染みつきますがこの御蔭で虫が寄ってきません。

虫にとっては、煙というものは火を連想させるもので嫌いなのでしょう。また菌やウイルスなども、煙のバリアが苦手なようであまり寄り付かないともいいます。

香水もお香も元々の原理は、この煙で燻すことから発展したものだと私は感じます。私は石風呂やサウナもつくりますが、特に大事にしているのはこの何を転換して何を浴びるかということです。

私は英彦山にいますが、ここの空気を毎日浴びるだけで体が健康になります。それはこの場所の水を浴びているからです。私たちが気体だと思っている無色透明なものであっても、そこには物質があります。その転換された物質を吸収することや浴びることでその気を纏うことができるのです。

今の時代、目に見えるものばかり、また転換していない便利な物質ばかりのなかで生活していますがもっと本質的に先人の知恵を浴びる必要性を感じています。子どもたちにこの煙の価値をこの場所で伝承していきたいと思います。

縄文の心

縄文のころの台所を甦生していますが、もともとの暮らしから見つめ直しています。そもそもその頃は、土の中で火と水と草や木々を上手に活かして暮らしを紡いでいました。土に何の力があり、火に何の力がありと、それぞれの持っている神秘性を感じながら組み合わせに感激し、不思議な力に感謝していたように思います。

現代では、火も水も当たり前に認識し、科学の力で便利に活用しています。しかしそれは物としてのあるいは、科学的なものとしての見え方であって神秘性を常に見ていたのではないように思うのです。

先人たちは便利ではない暮らしの中で、便利ではないものを観続けていました。その便利ではないものとは、不思議な力を持っているもののことです。不思議な力を観続けているなかで、自分に具わっている不思議ないのちにも感性が反応し続けていたように思います。

例えば、なぜ息を吸うのか、なぜ耳が聞こえるのか、なぜ排せつや涙がでるのかなどもです。それを知識として理解していたのではなく、神秘なものとして理解していたように思います。その神秘の理解は、次第にすべてのいのちが遠くからきて循環していたのに気づいたようにも思います。

なので男岩や女岩などの性器の形をした岩などをお祀りしますが、身体の一部にとても不思議な力が宿っていると直感したのです。

むかしは土にどのような力が宿ったと思ったのでしょうか。なぜ土の中でいのちが再生すると思ったのでしょうか。自然を観察していたからだとも思います。

今回の縄文キッチンから、その縄文の心を伝承していきたいと思います。

陰翳の生き方

陰翳というものがあります。この陰翳の翳の字は、手や物などでおおうこと。おおって陰にすること。また、そのもの。あるいは、おおうように手や物を上や前に置くこと。また、そのように置いたものとあります。そして陰という字は、「丘」「雲が太陽を覆い包み込む」の象形から成っています。 そこから「くもり」や「かげ」の意味で使われるようになったといいます。

この陰翳という言葉で有名なものは『陰翳礼讃』(いんえいらいさん)というものがあります。これは谷崎潤一郎の随筆でまだ 電灯がなかった時代の今日と違った日本の 美の感覚、生活と自然とが一体化し、真に風 雅 の骨髄を知っていた日本人の芸術的な感性について論じたものです。

私がよく陰翳を感じるのは、古民家での暮らしです。常に薄暗いつくりになっていて、どこを観ても陰翳が映り込みます。わかりやすいものは、障子です。障子から光が透けて物に反射するとき私たちはその陰翳を感じ取ります。ぼやりとしたうす暗い中に、何かの存在が浮き上がっています。

私はこれを中庸であると感じています。

はっきり見えない、そして見えないわけでもない。その二つの中間にあるもの、それが陰翳なのです。私たちは目を強くすればするほど、見れば見るほどに物質界の影響を強く受けます。そして目を閉じれば閉じるほど今度は霊界や幽界といった想念や空気の影響を受けます。しかし陰翳の中に入ると、その両方が見事に合わさって感じられるものです。強く見すぎず、見えないわけではない。こういうものの感じ方や見え方が私たちの精神を磨いてきたように思います。

私が甦生するものはすべて陰翳が入ります。それは観に来てもらえれば一目瞭然です。その理由は、いつも私はそのもののいのちと対話し、そのものが甦生するように取り組んでいるからです。

これは生き方であり、実践でもあります。徳というものもまた、その陰翳の中に存在するものです。陰翳は、決して影ではない。真の陰とは、本体を映し出すものです。その本体とは、磨き抜かれた魂のようなものです。

この世のすべては季節をはじめ、様々なご縁と結びついて陰翳が顕現しています。その陰翳を如何に感じて大切に生きるかは、日々の暮らし方によります。先人の生き方に倣い、暮らしの中の知恵を集めて子孫へと伝承していきたいと思います。

天地自然の学問

早朝から鳥の鳴き声が聞こえてきます。鳥はなぜ鳴くのか、それぞれに縄張りを知らせるからや雌への求愛からなど一般的に言われています。私たちはほかの生き物を認識するとき、人間が特別で別の生き物は別のもののような認識をします。

しかし実際には、目もあり耳もありそして手足もあります。共通するところをよく観察すると似ているところがとても多いことに気づきます。違いばかりを探すよりも、似ているところを観察すると自分というものと同じところがあることを認識します。すると次第に、その生物のことを深く感得していくことができるように思います。

そもそも多様性というものは、尊重するために必要な言葉です。生物も何らかの天性や個性があり、固有の意識や魂もあります。それぞれに意味があって生まれてきて、この自然界の中で大切な役割を果たしていきます。それを尊重しようとするのが多様性を理解する本質だと思います。

鳥もまた、季節ごとに活動していますが自然の役割があります。その役割をよく観察するとき、豊かに生きることや仕合せであることなどが共通していることに気づきます。

鳥が鳴くのは、私の感覚では感情があるからです。単なる合図だけで鳴いているのでもなく、対話をするだけではなく、私たちが自然に感情がこみあげてくるように鳥にも同じように感情が湧きます。私は烏骨鶏を長いこと飼育していますが、その日その日の感情で鳴き声が微妙に異なっているのがわかります。悲しいときには悲しい鳴き声を発し、怖がっているときには怖がっている鳴き声を発する。自分の感情を鳴き声で伝えているのです。

私たちの体は感情を伝えるように機能が発達しています。例えば、目というもの。目は口ほどにものをいうともいわれますが目は自分の感情をそのままに現わします。鳥もまた同じく、苦しそうな時には苦しそうに目が表情を映します。楽しそうなとき、うれしそうなときも同じように表情が出てきます。

そしてこれは鳥に限りません、犬にも猫にも同じことがいえますしもっといえば、虫や植物にも同じことが言えます。つまりこの「感情」というものは、この地球のすべてのいのちに宿っている共通のものということです。

私たちは変に勉強しているうちに細部がわかっても全体がわからなくなっていきました。本来は、自分と同一であるということを忘れて人間だけが特別かのように勘違いしていきました。ここから学問は崩れ、専門家たちのものになり本来の天地自然を尊敬し尊重するという意識が薄れてきたように思います。

本物の学問は、天地自然を相手にするものだと私は思います。古来の普遍的な大道を生きた先達たちような生き方をこれから結んでいきたいと思います。

水を守る

梅雨入りをしてずっと激しく長雨が続いています。水という物質はいまだに謎が多いもので科学でも完全に解明することはできません。というより、解明したのはほんの一部でありそのほとんどが謎というのがこの自然界の特徴でもあります。

それなのに人間は知った気になって考えることをやめてしまっていますが、好奇心というのはその謎を畏敬し直感するときに湧いてくるもののようにも思います。

宇宙で様々な科学があるのもまた、その好奇心から宇宙の物質の一つを解明する過程で新しい技術は開発されてきました。それでもなお、宇宙の謎に完全に迫ることはなくそれくらい奇跡の存在がこの私たちであるという事実がわかります。

近年、水が一つの性質のものではなく二つの性質が混ざり合って一つになっていることがわかってきています。液体に氷が浮くというのもその二つの性質が存在するからともいわれています。不思議なことですが、この世の中心は陰陽という二つの性質が混ざり合って構成しています。その構成したものを先祖たちは理解して、その原理を活用して物事の本質を見極めていったのでしょう。

水に話を戻しますが、私たちの地球は水の惑星ともいわれています。水が惑星全体を覆い、その水が循環することで私たちは存在できています。人間の身体の構造もまた、水が全体を覆い、その水を循環させることで生きています。こう考えてみたら、そもそも水がなければ成り立たず、私たちの存在は実は水ではないかとも思えるほどです。

水がいのちであり、いのちが水である、そして人間もまた水ということになります。その水は色々なものを溶かしていきます。そして変化して已みません。その水を私たちの体も通して別の生き物に循環していきます。その循環する過程で、ろ過をして伝達していきます。あらゆる場所、物、空間すべてを水が透過していくのです。温度を持ち、変化し、そしてまた形を変える。そうやって巡り続けていくことで水は存在します。

この水の惑星地球は、水が覆っているから地球でありその水が別の惑星にいけばそこが新たな地球にもなります。火星にも水があるといわれていますが、むかしあった大量の水はいったいどこにいったのか。なぜ流れなくなったのか、循環しなくなっていったのか。そこに水の性質が二つあることを連想させます。

水が永遠の謎ですが、この永遠だからこそ水の本体を顕現させているのです。

子孫のためにも、水に守られていることを忘れず、水を大切に守り続けていきたいと思います。

天命という考え方

最近、若い人たちの間でコスパやタイパという言葉が流行っていることを聞きました。これはコストパフォーマンスとタイムパフォーマンスの略だそうです。コスパの方は、損得勘定で如何に得をしたかという考え方、タイパの方は、如何に時間が稼げたかという考え方。これは消費するものを前提に考えたときによく使われる言葉ではないかと私は思います。

そもそもコストパフォーマンスはビジネス用語として使われたそうです。費用対効果がいいということで、価値があるという意味になります。その価値は、費用とはある事をするのに必要な 金銭 。 また、ある事のために金銭を使うことをいいます。お金を使うのだったら如何に価値がある方に使うかという意味になります。

なんでもお金で換算するということができればいいのですが、世の中にはお金に換算できない価値というものもあります。時として費用にできない無駄と呼ばれているものでもそこには真の価値があるものもありますからすぐにコスパで考えるというのは大事なものを見失ってしまうこともあるかもしれません。同様に、タイパというのは時間のことですが時間もまた同様に価値はその人のものです。時間が無駄になったかどうかは、その人の生き方や何を学んでいるかにもよるので結果だけをみてスケジュールのみを考えて価値があったかどうかというのを考えるというのも本来の時間という誰にしろ平等に与えられている唯一無二のものを大切だと思うことを忘れてしまうかもしれません。

一般論として、世の中全体がコスパやタイパというものを基準に判断し行動する社会になってきたともいえます。効率や効果ばかりを優先した合理的な社会を推し進めてきたことによるのかもしれません。機械やロボットなどはまさにこのコスパとタイパを極めたところにいるような存在でもあります。

現代、人間というものの価値や人間であることの意味などを考える機会も増えています。本来は、真の豊かさとは何なのか。真の仕合せとはどのようなものか、そういうものを見つめ直す時代に入っているともいえます。子どもたちは将来にどのような希望をもつのでしょうか。周りの大人はどのような生き方をしているでしょうか。

生き方や考え方はそれぞれですが、むかしから変わらない大切な人生の仕合せや喜びなどは子孫へと伝承していきたいものです。引き続き、世の中の風を感じつつも自分の天命を全うしていきたいと思います。

薬草の知恵

この時期の英彦山にはジキタリスという花を見かけます。一本の茎から下向きにたくさんの花弁をつけます。傍から見ても気になる姿と形でインパクトがあります。山に咲いていると、気になって近づいてまじまじと見てしまいます。

この花は、ヨーロッパ西部・南部原産で和名はキツネノテブクロといいます。この花は、心不全の治療薬として世界で初めて臨床応用された薬剤になったものとして有名なものです。1785年頃に老婆が用いた民間薬をヒントに臨床薬として検証され、その後ずっとこのジギタリスは急性、慢性心不全患者の治療薬として数百年にわたり使用されてきたそうです。さらに調べてみると、古代から切り傷や打ち身に対して薬として使われていたともあります。

英彦山には、数々の薬草が存在しています。気が付かないだけで、よく観察するとむかしから効果のあったものが発見できます。それを知恵として伝承し、あらゆる薬をつくっていたのかもしれません。

今のように化学の力でなんでも薬を調合する時代ではなかったころ、私たちは植物をはじめ自然の中から薬を見出してきました。毒が薬になることを知っていた先人たちは、その用途において使い分けをしていたのがわかります。

例えば、有名な有毒植物にトリカブトがあります。この植物の名前の由来は、その美しい花の形が祭礼に用いる鳥兜という冠に似ていることや、鶏のトサカに似ているからともいわれています。これはキンポウゲ科の多年草で、その根を乾燥させた附子には強い毒性があります。かつてはアイヌの狩猟用の矢毒として使われていたそうです。しかしそのその一方でこの附子は生薬として漢方薬に用いられています。夜間の頻尿対策として高齢者に処方されることが多い八味地黄丸にも含まれているといいます。腎臓機能を回復させるのに使われる薬です。

このように毒は薬にもなり、またその逆もありますが用途と分量次第ではとても役立つものにもなります。

先人たちは、毒をただ悪いものだと思うのではなくなぜ毒があるのか。その毒は薬にならないかと、すべての自然の効果を活用して学び転用してきました。そこには自然への畏敬や、植物への尊敬があったように思います。

薬草の持つ効果や知恵を学ぶことが増えていますが、子どもたちに自然との関りや植物からの恩恵などを伝承しながら未来へ先人の知恵をつないでいきたいと思います。

暮らしの甦生

人は真理というものを外に求めていく人と内なるものに求めていく人がいます。それぞれに外にも内にも見出せるのかもしれませんが、そのアプローチが人によって異なるものです。実際には外側にあるものを信じさせるようなことが多いと、偶像崇拝のようになって形式的なものになっていきます。本来は、形にこだわるよりも中身だということがわかっていても中身がわからないからより外側にまた推し進めていくように思います。

形にこだわりすぎると中身が薄くなっていき、中身にこだわりすぎると形がなくなっていくということは往々にして行われていくことのように思います。それではどうしたらその両輪、総合的にバランスよく行われるかといえばその中庸というか中心の実践によるものだと私は思います。

例えば、自然というものがわかりやすいものです。自然というものは形もありますが中身もあり真理もあります。私たちが自然に沿って自然と一体になって暮らしていると、何が自然で何が不自然かということがわかってきます。旬なものは旬なものしかないし、変化し続けて変わらないものはありません。人工的な生活をしていたら、不便なことばかりですがそれは中身と形が不自然になっていた証拠に気づかせてくれます。

空調がなければ、自分の体の方をコントロールするしかありません。その時、呼吸をはじめ心身を調えることに意識を向ければ真理というものが自己の内面に具わっていることに気づきます。ヨガなどをするとそれを感じられるのも同様のことのように思います。また自然農で畑をすると、自然の植物や生き物たちがどのように生育して活動するのかで外側との共生や調和に真理が顕現します。自分もその生命圏の一部として営みを共にしていくなかで真理と一体化していきます。

この真理という言葉は、宇宙や自然の道理とも言えます。別に教科書や文字で真理を理解しなくても、山にいき一日、山で暮らしてみれば自然にその道理や調和を学べるものです。

私たちは知識によって真理を得る方ばかりを優先してきましたが、そのせいで当たり前の徳の存在や、自分に与えられている様々な知恵を忘れてしまっています。そういうものを思い出すことは、これからの時代を生きていく子孫への偉大な伝承になっていくように思います。

時代が変わっても、普遍的な真理をどうそのままに継承するのか。そこに私は、暮らしフルネスの役割があるように感じています。本来の先人から伝承されてきた本物の暮らしは、実践するほどに自然に内外と結ばれ真理と調和していくからです。

暮らしを甦生して、本物を伝承していきたいと思います。

暮らしフルネスの体験

楽観的な意識というのは、足るを知る心と通じているものです。私たちはすでにあるものに感謝しているとき、充たされています。一つの型としての暮らしフルネスはその意識の実践ともいえます。

どのような状況であっても、すでにある方に常に感謝を忘れていない。いただいているすべてに感謝できているというのは、常に今を楽しく味わっているということになります。これが楽観的であるということです。

おかしく聞こえるかもしれませんが、不安や迷いや心配、悲しみも苦しみもそして怒りも、本来は味わえるものです。どのような気持ちを今、自分が感じているのかということを味わえるというのはそこに感謝があります。

感謝というのは、何かしてもらったり、得られたりするときにするもののようになっていますが実際にはすでにあるもの、具わっているもの、その徳に対して行うものです。

例えば、味わえるというのは体がなければ体験できません。そして感じられる環境、宇宙や自然がなければその場もありません。さらに物語というのは関係性やご縁が結ばれていなければつながりません。これらは自分で創ったのではなく、最初からあるものをいただいているのです。

こういう初めから存在する徳に感謝している状態こそが、私たちが仕合せを感じている根源ということになります。そしてその徳に報いるというのは何か、それは感謝して前に一歩進めて道を歩んでいくということです。

前向きというのは、楽観と意味が同じようにいわれますがこれもまた感謝の別の顕現したものです。

暮らしというのは、そういう意味ではその徳がすべて具わったものです。この意識や感覚を私と一緒に体験するというのが暮らしフルネスの体験の意味でもあります。それは頭や知識では教えられませんから、体験するしかありません。しかし人生の大切な節目や、本来の自分の魂や天命を見失っているときなどは非常に得難い邂逅になります。

日々の過ごし方のなかで、どのような学びをするのかはその人次第ですが誰と一緒にやるのかというのはまさに徳が結ばれているからでしょう。子どもたちの今と未来のため、子孫の仕合せのためにこれからも味わい深い暮らしフルネスを楽しんでいきたいと思います。

天命と存在

居場所というものがあります。これは自分のままでも存在が認められる安心基地があるということです。別の言い方では、愛されている実感がある場所ということです。いくら人があなたを愛していても自分が愛されているという実感がなければ愛が枯渇しているように人は感じるものです。

自分が自分のままでもいいと思えなくなったのは、色々と事情がありますがその一つに教育による評価というものがあります。頑張ったら認められると人は刷り込まれると、頑張らないことは悪であると信じ込み我慢して耐え、自分を殺してまでも頑張ろうとするものです。それによって病気になったり、もっとも悲惨なのは自死を選んでしまうのです。

本来、この自然界に不必要なものなどあるでしょうか。そんなものはありません。誰かが不必要とするからゴミが生まれ、居場所がなくなるだけで本当はこの世の楽園というものはみんなで存在していい場所です。誰のものでもない、みんなのものです。そして自分もまた、自分だけの存在ではなくみんなの存在の一つです。

例えば、ただ生きているだけの存在になったとするでしょう。それは生きているだけだと不必要と思うのならすべての生命は不必要になります。みんな何かしらの役割があり、必死ですが楽しく暮らしています。それはまず大前提として生きる喜びを知っていて、その中で苦しいことはあっても喜びだから楽しむのでしょう。この時の楽しむとは、味わうという意味です。味わいたいと思うから、体験したいと思って生きるように思います。誰かの評価を気にしていたら、自分自身が味わう喜びを忘れてしまいます。味わいたいと感じる人は、ないものよりもあるものに気づきやすいように思います。それが愛であっても仕合せや感謝であってもです。

ないと思っているから求めていきますが、すでにあると思っているとないものねだりはなくなってきます。そうしてすでにあるものに感謝していくと、次第に自分の与えられている天命に気付けるようにも思います。

自分の体も、与えられた環境も、そして人生を振り返ってもあるものを観ていけば味わえるように思います。それを天から与えられた道というのかもしれません。道は、楽しく愉快に歩んでいくことで旅も楽しくなります。

道は夢の途中ですから、この夢が豊かに幸せになるように自分を調えていきたいと思います。