天命と存在

居場所というものがあります。これは自分のままでも存在が認められる安心基地があるということです。別の言い方では、愛されている実感がある場所ということです。いくら人があなたを愛していても自分が愛されているという実感がなければ愛が枯渇しているように人は感じるものです。

自分が自分のままでもいいと思えなくなったのは、色々と事情がありますがその一つに教育による評価というものがあります。頑張ったら認められると人は刷り込まれると、頑張らないことは悪であると信じ込み我慢して耐え、自分を殺してまでも頑張ろうとするものです。それによって病気になったり、もっとも悲惨なのは自死を選んでしまうのです。

本来、この自然界に不必要なものなどあるでしょうか。そんなものはありません。誰かが不必要とするからゴミが生まれ、居場所がなくなるだけで本当はこの世の楽園というものはみんなで存在していい場所です。誰のものでもない、みんなのものです。そして自分もまた、自分だけの存在ではなくみんなの存在の一つです。

例えば、ただ生きているだけの存在になったとするでしょう。それは生きているだけだと不必要と思うのならすべての生命は不必要になります。みんな何かしらの役割があり、必死ですが楽しく暮らしています。それはまず大前提として生きる喜びを知っていて、その中で苦しいことはあっても喜びだから楽しむのでしょう。この時の楽しむとは、味わうという意味です。味わいたいと思うから、体験したいと思って生きるように思います。誰かの評価を気にしていたら、自分自身が味わう喜びを忘れてしまいます。味わいたいと感じる人は、ないものよりもあるものに気づきやすいように思います。それが愛であっても仕合せや感謝であってもです。

ないと思っているから求めていきますが、すでにあると思っているとないものねだりはなくなってきます。そうしてすでにあるものに感謝していくと、次第に自分の与えられている天命に気付けるようにも思います。

自分の体も、与えられた環境も、そして人生を振り返ってもあるものを観ていけば味わえるように思います。それを天から与えられた道というのかもしれません。道は、楽しく愉快に歩んでいくことで旅も楽しくなります。

道は夢の途中ですから、この夢が豊かに幸せになるように自分を調えていきたいと思います。

 

初夏の声

今朝がた、ホトトギスの声で目が覚めました。この鳥は渡り鳥で日本では初夏を知らせる鳥としても有名です。夏の季語にもなっています。有名な俳句に「目には青葉 山時鳥 初松魚」江戸時代の俳人、山口素堂のものがあります。

江戸時代、初夏になったと感じるのは新緑の美しさとホトトギスの鳴き声と初ガツオを食べることだったのでしょう。その頃の情景や風景を感じます。

この鳥は、朝も夜も鳴きますがこれはメスに自分の縄張りを知らせるためです。このエリアに後から飛来してくる雌に自分の場所を知らせて交尾をします。この鳥は、托卵といって鶯に自分の子どもを育てさせるそうです。卵のときはほとんど同じ大きさと色と形でも、大きくなったら2倍近くになりますから鶯も違和感があってもそこで放っておくことはできないのでしょう。またこのホトトギスは、他の鳥が食べないような毛虫を食べるそうです。餌が被らないように工夫して、それぞれに同じ場所で生活をします。そして托卵したらまた渡り鳥ですからまた故郷へと飛来していくといいます。

自然界のこの共生の仕組みは、絶妙になっていると感じると長い時間をかけてお互いに折り合いをつけてすみ分けてきたのがわかります。それぞれ同じ地球の恩恵をいただくもの同士でそれぞれに工夫をして篩にかけた結果ということかもしれません。

ホトトギスが夜に鳴くのは、飛来してくる時間が夜になることもあり、また日中に雌に出会えなかった雄たちがなんとか出会おうと必死に泣いているともいいます。あちこち場所を換えては自分の縄張りで鳴いている姿を感じると、自分の居場所を知らせようという鳴き声につい自分の耳も反応してしまいます。

鳥の鳴き声にも、色々な感情が乗っています。その感情を感じ取り、他の鳥も感応していきます。声や音というのは、とても不思議で私たちの心に響いてきます。

「ほととぎす 初夏の響き 余韻する」 藍杜静海

初夏の余韻を味わい、暮らしを伝承していきたいと思います。

発酵の生き方

楽健寺酵母というものがあります。これはこの酵母は奈良県にある磐余山東光寺の山内宥厳住職が50年以上をかけて育てあげてきた天然の酵母です。この方は、高野山真言宗僧侶で東光寺住職でもあり、詩人、楽健法という足でふむマッサージを考案された方だといいます。

私はお会いしたことはありませんが、この楽健寺酵母を通して知人から楽健法も体験したこともありご縁が色々なところが結ばれました。

私もこの酵母にはとてもお世話になっていて、暮らしのなかで健康を下支えしてくださる有難い存在です。パンだけではなく、他にもあらゆるものに活用して食べています。

もともと私たちの体は、微生物によって成り立っています。腸内にもたくさんの微生物がいて食べて物を分解してエネルギーにしています。これを触媒ともいいます。触媒というのは、そのものではなくそのものが何か別のものに転換したものが私たちの何かに大きな影響を与えるということです。

例えば、酵母というものは微生物のことです。先ほどの楽健寺酵母も色々な微生物が混然として一体になり発酵をさせていくものです。この発酵はシンプルに言えば、微生物が何かを食べてその代謝物として酵素が出てくるということです。パンでいえば、微生物が小麦粉などを食べておならをします。そのおならによって発酵されたことになり膨らんでいくという原理です。

私は酵素玄米をよく食べていますが、この酵素玄米は、玄米と小豆を一緒に炊き込み、保温して発酵させることで酵素を含ませる仕組みです。微生物の発酵による酵素が腸内の悪玉菌を減らし、善玉菌と日和見菌のバランスを整え、腸内環境を調和させます。ここでも酵素という言葉を使いますが、これはいわゆる酵母が発酵して醸した酵素があるということです。

酵母は微生物ですが、それを維持するためには餌が必要です。先ほどの楽健寺酵母ではその微生物たち、つまり生物を飼育していくのにりんご、にんじん、長芋、玄米、砂糖やはちみつなどを使います。

長い年月をかけて、微生物との関係を結んでいる人はとてもよい関係を醸します。発酵はまさに神業で、この身近にいる健康を守る神様と結んでいくかが生き方に反映していきます。

子どもたちのためにも、この発酵の生き方を伝承していきたいと思います。

腸が喜ぶ生き方

腸内というのは体の状態を司っています。お腹の調子がいいと、肌をはじめ血液の流れもよくなります。ほとんどの生き物は、口から食べて腸で分解吸収して排出します。生きるために食べていますが、本来は生きることをよりよくするのなら何を食べるか、どういう食べ方をするのかというのが重要になります。

私は炭を使う料理が多く、炭に料理をしてもらいます。じっくりと炭火の遠赤外線などをつかって素材の味を引き出していきます。理想の状態になればなるほどに美味しいと人は感じます。

その美味しいという感覚はまず舌で食べているときの感覚、もう一つはいのちを食べている感覚です。本来、私は素材の味とは何かというとそれはいのちの味わいというものだと感じています。

そのもののいのちを引き出していく、いのちをいただいて細胞レベルで自分の体に取り入れていく。そこにいのちの移し替えが行われているように感じるからです。

私たちのいのちというのは、熱量があります。その熱量が何かほかのものに移動することによっていのちは充実していきます。いのちが活き活きと活動するもののエネルギーを吸収することは元氣になるということです。

その元氣を司るところが腸内ということでもあります。

腸内には膨大な数の菌がいます。菌が活発になっているところが腸内です。その腸内は、毎日何かを食べては分解してそのエネルギーを細胞へと届けています。腸内の菌が喜ぶような食べ物や生活をすると元氣はましていきます。

つい無意識に目先の便利な食で済まそうとするものですが、腸がどう思うかなと一呼吸置けば食べるものも少し変わってきます。そして日本人の伝統食こそ、ほとんどが腸が喜ぶものになっています。医食同源とは、それだけ先人たちは健康を優先して食べてきたという証拠でもあります。

日々の暮らしの小さな食事から、子どもたちのために見直していきたいと思います。

塩こうじの知恵

昨日は来客があり、塩こうじ鍋を振る舞いました。もともとこの日本人はむかしから麹を食べるという文化の場所です。麹は米・大豆・麦などを蒸して、表面にコウジカビを繁殖させたもののことです。よく日常的に使われる味噌、しょうゆ、日本酒や焼酎、みりんなどを作るのも麹が醸します。この麹は、コウジカビというカビが醸して発酵します。通常は有害な毒を発するのですが、日本の風土で長い時間を経て進化したこのカビは人間と共生して私たちの健康を支えてくれました。

よく感染症が流行る時期などは、甘酒をつくりみんなで飲んで免疫を高めて乗り越えたという文献がたくさん出てきます。塩こうじは、この甘酒の塩版のようなものです。

以前、秋田の三五八漬けにはまったことがあります。これは塩と米麹とお米の割合のことをいい保存食として活用されてきました。塩こうじの起源もこの三五八漬けが起源ではないかといわれています。今のように調味料になったのは最近のことだそうです。ウィキペディアにはこうあります。

「古くは本朝食鑑の鱗部の巻「鰯」の箇所に「或有甘塩者有糟漬者有塩麹漬者号曰黒漬」という下りがあり、「塩麹漬」という文字列が見られる。この後長らく「塩麴」に言及した資料は見当たらないが、2001年になって、料理漫画『おせん』の中で、塩こうじが紹介される。2007年、大分県佐伯市の糀屋本店 浅利妙峰が漬け床ではなく、調味料として使う塩糀料理のレシピをブログや本で広めたのが呼び水となり、2011年後半頃からさまざまな利用法で人気を博すようになった。塩麹を利用したさまざまなレシピが書籍や料理教室で公開されており、最近では乾燥タイプや液体タイプも登場している。」

効果効能はたんぱく質を分解する「プロテアーゼ」、でんぷんを分解する「アミラーゼ」という物質がでて消化を助けます。そして麴菌が生成する必須アミノ酸やビタミンB群には代謝促進作用もあります。

調味料でうまみが出るだけではなく、腸内環境を調え、さらに消化を助け、ダイエットにもなるといわれます。この漬け込むというお漬物の日本人の伝統文化は麹が支えているのです。

御蔭で、次の日はおなかの調子もよく肌もつるつるです。医食同源といいますが、食べ物は本来は薬です。薬と思って食べることによって、私たちは健康への感謝を忘れません。食欲を単に満たすものではなく、有難い健康を保つものだとして食べていくなかに先人たちの願いや祈りもあるのでしょう。

子どもたちにも伝承の食が繋がっていくように、暮らしを調えていきたいと思います。

水の徳

水というのは不思議なものです。現在、英彦山の宿坊の井戸を甦生していますがもう随分長い間使われていなかった井戸で最初は禍々しい感じがしていましたが井戸さらいを終え、綺麗に洗浄し、井戸の中をお手入れしたら出てくる水の気配が変わってきました。

どう変わったかというと、最初は硬い冷たさがあり生き物の気配が感じにくいものでした。それが井戸の甦生後は柔らかい水になり、ぬくもりをも感じる気配になっています。そこには確かに生命や生物の気配があり、水が優しくなっています。

こういうものは単なる感覚だといわれそうですが、水は感覚によって感じ方がまったく異なる性質のものです。同じ水といっても、水道水と山の湧水が異なります。飲んでみればすぐにわかりますし、肌に塗ってみてもすぐに違いが判ります。科学的にはミネラルの成分がとか、アルカリだとか酸性だとか調べられますがそれは感覚で感じる水とは別のものです。

水というのは、もともと流れるものです。流れているときにいのちの感覚が強くなり、止まっていると次第に眠っていきます。水をどのように扱うかは、その人の感性ですが水の不思議はいまだに解明されていないほどです。

私は、火と水をよく使い浄化を遊びます。例えば、火は炭火で弱く長く水に当てます。他には、石を使って蒸気にします。あるいは汲みたてや流れている最中の水を使って味わいます。どれもが澱んでいるものや、曇っているものを澄ませていく仕組みです。

水がよいというのは、それだけで私たちの人生にとても大きな影響を与えます。むかしの人は、水がよいところに好んで住んでいました。今のような景観や便利なところに住むのではなく、水で決めたのです。

私は有難いことにいつも水のよい場所に巡り会います。そういうところばかりに、住ませていただき水を大切に味わう暮らしをしています。この当たり前の水というものにどれくらい本気で気づいているか。ここに私はよりよく生きるためのヒントを感じています。

水が活き活きと流れ出す季節、水の徳に感謝して味わっていきたいと思います。

いのちの伝承

いのちや生き物と、生きていないものという違いがあります。有機物や無機物ともいわれたりもします。科学的には一酸化炭素や二酸化炭素をのぞく炭素があるかどうかなどもいわれます。しかし、いのちというものは感覚のものですからそれを分けることはできません。

これは自然界も同じで、人間も自然の一部でその自然も宇宙の一部です。その宇宙も何かの一部ですからこの世の中はつながっていないものなど存在せずそれがいのちの姿ともいえます。

しかしそれを感じられるか、感じられないかはそれぞれに異なります。

人にとっては、常にいのちを意識しながら過ごしている人もいればそうではない人もいます。つまりいのちの正体は、意識するかしないかで変わってくるということです。そのままそこにあっても、感じることがなければ感じられない。ここに中庸の本質、そしていのちとの繋がりがあるように私は思います。

例えば、私はあらゆるものをお手入れし甦生していきますがそこにはいのちがあると感じながら取り組みます。この時のいのちの感覚というのは、言葉では説明できないのですが大切な生きている存在として尊敬し接していく感覚に似ています。

何かを気づけば、気づかずにごめんねといい、とても素晴らしい風景に室礼できれば似合っているよといい、存在に深く感謝してありがとうという。それを形で示すために、様々なお手入れがあるという具合です。

コミュニケーションの取り方も、言葉だけで行うものではありません。人間には手があり、目があり、耳があり、ぬくもりというものもあります。そういうものを感じながら、真心で接していくとき私たちはいのちに触れていきます。

何もないようでも、いのちはあらゆるところで羅網のようにつながって影響しあいます。どのような生き方、どのような過ごし方、どのような接し方をするかで人生は変わります。

子どもたちにいのちの伝承を続けていきたいと思います。

山に住むとは

英彦山では昨日から雨がずっと降っています。ここ数日、沢の水が減ってきたなと思っていたらまた雨によって水の量が回復しました。流れている水が多いとき、少ないときで山の中では何が行われているのか。平地との違いなどを色々と考えることがあります。

明らかに違うのは、森林があることです。平地では、田んぼが広がりあまり森はありません。実際に、人間は森に何をみたか。その一つの機能として貯水というものがあるように思います。田んぼもある意味で貯水装置でもあります。海に流れていく水をいかに貯水することで生態系が豊富になり活発になるかを自然から学んでいたように思います。

傾斜面には基本的には水は貯まりません。重力の関係もあり水は高いところから低いところに流れていきます。その水を貯めるためには、木は山に落ち葉などを落とし水を貯水しやすい土壌をつくり、根から葉にいたるまで全体に水を貯めます。雨が降らない間は、その水を少しでも効果的に使うために土の中の隅々まで貯めた水をうまく吸収していきます。また大雨などのときは、なるべく水を吸収して貯めこみ土壌が流されていかないようにしています。山は木々にとっては効果的に日光を浴び、雨が降りやすく過ごしやすい場所です。その場所を住処にするためにも山を森にしてきたのでしょう。

山に住むというのは、木々の中に入り、木々と共に暮らすということです。それは山の一部になるということです。宿坊に住むと、風の通りや光のたまり場、また水の配置などあらゆるものが山に呼応していることを感じます。気持ちいいと人間が感じるのは、その山の場が人間が生活していくのに調っているからです。

人間はなんでも調和するというものに心地よさを感じます。これは自然も同じです。心地よくあるためには、そこに住む人間がまず心地よさを感じる必要があります。それは私の言う場づくりの基本です。その心地よさは、その自然との一部として共に暮らしていくなかで磨きあっていくものです。

お互いの存在を尊敬し共に磨きあう中に、調和の場が生まれます。山に入ればアッという的な山の存在に埋没しそうになりますが人間が山と共に歩めば、人間が山のように場を創造します。

仙人というのは、ある意味そういう山と共生するもっとも自然的な存在だったのでしょう。その山の存在感を纏っていたからこそ、人間にはない超越した存在を感じたのかもしれません。

山に住み、色々と学び直しています。

 

種の役割

昨日は固定種の種から苗を育てた野菜を畑に移植していきました。もともとこの固定種とは、農家が自家採種といって種から野菜を育て種になったもののことをいいます。本来は、それは当たり前だったのですが種苗を扱う会社や組織ができて最近では品種改良やバイオテクノロジーを扱うところなども増えて種はもう買うものになっています。

農家にとって種はとても大切で、よい種、よい土は長い年月その土地に適応してきて馴染んだものです。その場所にとても密接です。今のように、人が都会に移住したりあちこちに移動するのが当たり前になりましたがむかしはその土地の地縁と結ばれたら基本はずっとその土地と共に人生を全うしていました。

だからこそ種もまた、その土地の大切なパートナーでありその土地に馴染んだものになっていくのです。私たちの体は土でできています。土が化けたものが野菜ですから、その野菜を食べているというのはその土地の循環の一部になっているということです。

その土地の循環の一部になっているというのは、その自然の一部になっているということ。その自然に近づき、その自然そのものに順応する。それが私たちの暮らしの基本になっていったのです。

寒い地域、乾燥した地域、水の多い地域、それぞれに出てくる自然環境は異なります。その異なる環境の中で、自分の体も、食べ物も、過ごし方、暮らし方、考え方や生き方に至るまで変わっていきます。その土地のものになっていくのです。

その土地になるというのは、そこで暮らしてその自然の一部になっているということです。子どもたちもまた、その土地から湧き出てきます。それが種です。種はあらゆる記憶をもって誕生し、前に体験したことを身に着け次の世代へとつなぎ結んでいきます。種と共に生きるのは私たちは自然に入るための大切な作法のようなものかもしれません。

引き続き、自家採種を楽しみながら自然農に取り組んでいきたいと思います。

場を思い出す

昨日は、暮らしフルネスで自然農の体験をしたいという方がきて夏野菜の畑を一緒に取り組みました。はじめてこれから農的な暮らしをはじめるとのことで、何もしたことがなくてもやる気はとてもある方でした。

思い返せば、私も幼いころより祖父の手伝いで畑にはよく連れていかれましたが自分が本格的に野菜やお米をつくるようになったのはまだ十数年くらいなものです。しかも仕事をしながらの隙間時間でだったので、失敗も多く、思ったようにならないことばかりでした。

今では、野菜の性質をしり、土を理解し、風や水の通し、虫や動物への対策なども体験し自然に畑をつくり収穫をしています。しかも、どうやったら美味しく食べられるかも学び、自然農家のような暮らしができるようになりました。合わせて、今では山での暮らしもはじまりもう一歩前に進めて山での暮らしを体験しています。

みんなはじめは初心者です。誰が偉いとか、誰がすごいとかではなく、あのすごい人も偉い人もみんなはじめては初心者です。それを継続していくなかで、様々な失敗や成功を繰り返し実力が磨かれ結果としてできるようになります。

初心者だからダメではなく、いつかはできるようになる人のことを初心者というのです。私も現実的には、不可能と思えるようなことをたくさん体験してきました。特にはじめてやるときは現実に直面してたじろくこともありました。

しかしそれでも周囲に支えてくれる人や、見守ってくださる方が顕れ気が付くとできるようになっていました。こうやって人は、思いがあれば仲間が集まり伝承されることで継承されていくのです。

特に土を触ることや、野菜を育てることはもう何千年も前から私たちの先祖がはじめたことを私たちは今も取り組んでいることになります。できないはずはなく、忘れているだけです。

忘れているものを取り戻すことこそ、私は真にできることであろうと思います。問題は、どのように思い出すかということです。子どもたちのためにも、思い出すことが忘れないように場を調えていきたいと思います。