ビジョンを楽しむ

世の中は変化していきます。変化というのは、人々の意識の変化です。変化があるから進歩もありますが、その変化にはビジョンというものもあります。そのビジョンは、リーダーが描きます。例えば、世界をどのように変化させていくことが最善かというのをそれぞれに描きます。それが人々の心をつかむようなものであれば、そのビジョンに向かって人類は進みます。

歴史を顧みると、それぞれの時代にそれぞれのビジョンがありました。これはその時代のリーダーが描いた世界の姿です。特に強烈なビジョンを描いているリーダーに、人は着いていきました。その世界を誰もが信じて取り組むことでその世界のためにいのちを懸けました。自分が世界の役に立てる喜び、そして仕合せのためにいのちを投入していきました。その結果、世界は変わります。しかしそこがゴールならそれで終了ですが実際には続きがあります。世界が変わった後、また続くのです。

すると世界にはまた新たなビジョンが出てきます。そのビジョンに向かってまた人類は世界を変えようとするのです。このビジョンこそ、世界の中心を司っているというものになります。

世界には多数の国が誕生し、それぞれにリーダーが出てきました。そのリーダーが好き勝手にそれぞれに描いたビジョンがありますからその摩擦が発生します。それを戦争ともいいます。ビジョンを維持するためにも、他国と争うのです。これはビジョン次第で正義も変わりますからそれぞれの正義がぶつかることで他者をねじ伏せて正義を保つというのはいつの時代も変わりません。

太古の時代には、仏陀や孔子、他にもアリストテレスなどがすでにビジョンを示しました。そのビジョンはとても偉大なものです。時代が変わっても、諦めずにそのビジョンを追い求めている人々が世界には多数います。

世界はどのようになっていくのか、この時代の変化を味わい新たなビジョンを楽しんでいきたいと思います。

不動の徳

英彦山をはじめ私の郷里には巨石の岩や巨大な岩窟、そして滝などがあります。先人たちはこの場所で修業をして悟りを開き、人々の幸福のために徳を積まれました。修行は様々にあり、決して山中の修行だけではないですがなぜこれらの場所で修行をしたかということです。

岩は簡単には動かすことができません。あまりにも巨大で重機をもってしても山のような大きさがある岩が動きません。動かないもの、動かせないもの、ここには普遍的なものが具わっています。英彦山にいると岩と石ばかりですが石もまた大きなものばかりで簡単に動かすことができません。

その巨大な岩や石の隙間には水が流れています。最近の大雨で、大きな石も流されますが岩はびくともしません。岩の上をすべるように流れる水もまた、岩を動かすことはありません。まさに不動の徳です。

人間は立ち止まることで、自分と向き合い本来の姿を見つめることができます。立ち止まるというのは、動かないということです。動かない存在になってみてはじめて、動いているものの正体などに気づくことができます。動いているもの、それは水です。水が流れるように、滝に打たれているとその水が強く体に沁みてきます。しかしその水は巨大な岩に囲まれ、岩のなかで水を感じると自分が置かれている境地に気づくものです。

岩と水、この二つが和合することで私たちはいのちや徳のもつ不思議な感覚を味わえます。畏敬の念もこみあげてきます。何百年も前からなぜ人々は、磐に坐り、滝に打たれるのか、不思議ですが俗世のあらゆる煩悩を見つめるのに動かないことが徳に昇華されたのかもしれません。

引き続き、子どもたちに不動の徳を伝承していきたいと思います。

今と暮らしフルネス

現代は、過剰な経済競争と都市化によって様々な心身の病気が増えています。また将来のためにとこうすれば幸福になれるという方法論や動機を増すことを教育やメディアによって日々に発信されています。先日、友人の送料がDOINGとBEINGの違いを説明していましたが、まさにどうすれば幸福になれるかといったDOINGばかりを躍起になっている世の中ともいえます。

そんな中、マインドフルネスをはじめ未病のために色々と工夫する方法なども増えてきています。おかしな話ですが、大金をはたいてマインドフルネスの体験をしてまわっているビジネスマンもいます。経済効率をあげ、さらに能力を発揮するためにマインドフルネスを活用するという具合です。それもまた先ほどのDOINGと同じではないかと思うのですが、今の世の中ではなんでも経済、なんでもお金にしないと評価されず、そして認められません。

そういう時代背景こそが病んでいるのではないかと思うのですが、現代は病気も個人の問題として社会や時代のことは他人事のようになっていますから結局はあまり改善することはありません。

私は暮らしフルネスという仕組みを考えて、日々に実践していますがそれは今に集中することができるからです。そもそもこの今に集中するというのは、日々の暮らしを調えていくということです。頭で考えていても、実際には日本古来からの暮らしを丁寧に取り組んでいたらあまり頭で考えるだけで時間を使うことはできません。

朝起床してから夜就寝するまで、実践することが多すぎて考えるだけの時間がありません。なので五感を用いて体を使って暮らしを実践していると気が付くと今に集中しているということになっています。

今から離れることで、人は不安になり体調が崩れます。生きているのが今ですから、今しかないのです。今ではないことを考えるのは、今から切り離されるからです。今に居続けるというのは、今を味わうということです。

頭でわからないことは実践することで身についていきます。引き続き、子どもたちのためにも今と暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

徳の伝承者

私は伝統在来種の高菜を育てて食べていますが、これは伝承のために行っている実践の一つでもあります。伝統古民家や宿坊の甦生もすべて同じところからの実践です。

もともと短期的に自分の世代のことだけを考えて生きていたら、今までいただいてきた恩徳や先人たちの知恵と実践への感謝などを感じにくくなってきます。今の私たちがあるのも、今の仕合せがあるのもそのすべては先人たちが私たちに繋いできてくださった徳があるからです。その徳は、つながっている中ではじめて享受され感じられるものです。

先ほどの伝統在来種の野菜であれば育て続けて種を守り続けていただけなければもうそこで途絶えてしまい食べることはできません。それまで数百年から千年以上、その土地で大切にいのちのめぐりを一緒にしながら美味しく元氣に育ってくれたいのちがなくなるのです。

現代では、種も遠くのものを買えますし、野菜も自分の地域ではないところから送られてきたものを食べています。しかし本来は、食文化というように私たちのいのちそのものこそが文化です。つまり、その場所この今はいのちの文化の延長上に存在しているとも言えます。

いのちの文化は、長い時間、何世代もかけて繰り返し守り続けてきた中に存在します。だからこそその一員になることが今の仕合せを守っていくことになるのです。人は永遠に仕合せでありたいと願うものです。その永遠は、どうやって守っていくのか。それはいのちの文化を守り続けることで得られると先人たちは生き方で伝承してくださってきました。

自分のことだけを考えていたらその仕合せが長続きしないことを歴史や経験から学んだ先祖たちがみんなで徳の伝承者になる道を選んでくださったからこそ今があるのです。

時代が変わっても、普遍的な道は変わることはありません。それが自然であり自然の道だからです。不自然な道は長続きしないのです。子どもたちのためにも徳の伝承者としての実践を続けていきたいと思います。

生き方を見守る教育

先日、国東半島で重光葵という人物のことを知りました。この方は日本の外交官で政治家の方ですが、戦後にこの人物がいなければ日本は公用語は英語になり通貨もドルを使うということになっていたともいいます。そう思うとぞっとします。

敗戦国として状況が悪い中でも、諦めずに日本の未来のためにと尽力された方です。本来、仕事だからや公務だからとかいわゆる職業的な政治家ではなく志を持ってその職に当たる人物が歴史を変えてきました。

そういう人物は生き方が徹底していて、常に覚悟を持って歩んでこられました。日本は運がいいことに、大事な局面でこういう人物がいた御蔭で今まで残ってきたともいえます。

そしてその人物たちに共通するのは、それぞれに素晴らしい教育を受けて育っているということです。その教育は、父母の生き方、天命を全うし徳を生ききることの大切さを説き、信じ切る教育です。そして子もまた、その親に孝行したいと願いながらも感謝を忘れずに自分の与えられた役割、志を貫遂させているということです。この重光葵さんの外交回想録には、父は大分の三浦梅園『贅語』と帆足万里を好んだ漢学の徒であったが「大いに英語を勉強するがよろしい」と言い聞かせていた。母は子どもの教育を片時も忘れる人ではなかった。「御用とあらば会わなくても心残りはない」が母の最期の言葉だった。重光は中国への赴任時に、「汝らの芝居は世界が舞台ぞと 老いたる父も笑みて送りぬ」という歌を詠んでいるとあります。両親の死に目にあえなくても、使命を全うするよう信じ切った親子の深い絆があります。

そして重光葵さんの別荘には「志四海」(向陽)という額が飾ってあったといいます。これは四海を志す。志が全世界を覆う。志を全世界に及ぼすという意味だそうです。

吉田松陰も同じような父母との話がありますし、立派な教育者の陰には常に立派な両親がいます。日本の教育の真の素晴らしさは、この「生き方」を優先し、それをどう成就させるかという見守りによります。つまり「生き方を見守る教育」ということです。

私は今、カグヤという会社を経営し、生き方と働き方を一致させ、生き方を優先しあい尊重しあう社会を目指し試行錯誤しています。時折、現代の価値観との相違から迷うこともありますがしかし子どもや子孫のことを思うとやはり日本のなつかしい教育をいつまでも伝承していきたいと思うのです。

引き続き、先人の生き方に倣い、徳に報いて今の自分を磨き上げていきたいと思います。

徳を引き出す

場所には、目的というものが具わっているものです。何のためにその場所があるのかということを守り続けることができたのならその本質は守られます。しかしその場所の目的が変わってしまったら、その場所そのものが変化してしまいます。

例えば、何百年も人が修行をして大切に磨いてきた場所が単なる消費者のための観光施設や歓楽街などになったらその場所は元の場所ではありません。目的に対して、目的ではないものがあるから穢れがはじまりその場が澱み濁ります。そもそも澱みや濁りというものは何か、それは目的が変わってしまうということです。

これは経営でも同じことが言えるように思います。理念や初心、目的がありはじめた事業もそれを忘れたり変わってしまえば目的が失われます。そうなることで、その場所そのものが磨かれなくなり変わってしまうのです。

私はお手入れやお掃除などをよくあらゆる場所でしますが、その理由はその場所が本来どのようであったのかという目的を探るためです。それを探すには、長い時間をかけて磨いてきた人々の真心や実践をなぞっていきます。

そうやって見つけることができたのなら、そこからまた新たにその場所を本来の場所へと目的を磨き直します。磨き直していくなかで、目的を甦生させそこに関わる人たちに場所の持つ力や意味を伝承していくのです。

歴史というものは、目的がセットです。目的のために命を懸けて人生を賭して取り組まれたものがあります。その尊さを知り、そして敬い、それを伝承していくことは、先人への御恩を忘れず、子孫へとその徳を譲り渡していくことになります。

自分の世代のことだけ、自分のことだけ、その時だけその場限りという生き方では、目的など感じられなくなってしまいます。もっと長い目でみて、何のためにそれをやったのかとみんなが感じていけばその目的の尊さに触れて人と場は磨かれていくのです。

引き続き、私は私なりの徳積を実践していきたいと思います。

慈悲の経済

私は徳積循環経済の世の中を実現しようとブロックチェーンを活用していますが、そもそもこれは本来の経済を甦生しようとする試みです。そもそも経済は、いつもブログで書いていますが経世済民のことでそこから徳治が失われて単なる金融消費、資本主義だけになると人々の本来の幸福や仕合せから乖離していきます。

むかしから政治と経済も切り離すことはなく、どうやったら人々が幸福に暮らしていけるかというのが人々が最も関心があったものです。自然災害をはじめ、飢餓飢饉、そしてあらゆる困難を乗り越えていくために人々は社会をどのようにすべきかと向き合って様々な創意工夫で今まで生き延びてきたともいえます。

現代は、物質文明で消費経済のなか、自然環境は破壊され、過剰な欲望や個人主義による分断など、あらゆることが調わない状況が増えています。しかも、第3次世界大戦の様相で世界は今、まさに人類にとって大切な局面を迎えています。

こういう時こそ、私たちは歴史に学び直し、かつての先人たちがどのように社会を調えて人類が道を誤らないようにしたのかを発掘し直す必要を感じています。

現代、私が取り組む徳の循環経済はむかしの講の仕組みに似ています。結を形成し相互扶助の仕組みを実現して、人々の心を調えていくのです。これは単なる手段ではなく、目的であり人々が安心して幸福に暮らしていくために助け合いや協働の喜び、結び繋がりを大切にする仕組みです。先人の有名な講に佐藤信景の内密救助講、三浦梅園の慈悲無尽講、佐藤信淵の積立講、二宮尊徳の五常講があります。最近の世界ではグラミン銀行などムハマドユヌス氏が創立したものもあります。これは五常講に似ています。

私が今、ご縁がある三浦梅園では慈悲無尽講といい、国東の村中で事故・病気・飢饉などでまとまった額のお金を必要となったときに、金銭を用立てするための方法、およびそのために構成される組織を実現していました。

これによって、社会はもっとも弱い立場の人たちや経済一辺倒で失われていく生活文化を丁寧に守っていたようにも思います。貧困というものは、徳が失われると同時に発生していくものです。その貧困は、決して単なる物質的な貧困ではなく心の貧困です。心の貧困は、人々の心の中の孤独や無慈悲によるものです。

三浦梅園がなぜ慈悲無尽講を実践してきたのか。

その心の在り方や、あるべき本来の社会のありようを学ぶことは今こそ大切だと私は思います。本来の自律分散型の相互扶助の仕組みは何か、歴史に学び、今に甦生していきたいと思います。

経世済民と暮らしフルネス

徳が循環する経済をと取り組んでいますが、もともとはこの世はすべて徳が循環することでいのちが繁栄しているともいえます。経済を単なるビジネスという視点で観るのか、それとも経世済民というように暮らしや幸福として観るのかではその結果も目的も変わります。

そもそも貨幣経済は方法論ですが、はじまりは政治が深くかかわっています。つまり、どのように社会を修めていくかという仕組みです。これは、すでに中国で論語の大学で「古之欲明徳於天下者、先治其国、欲其国者、先斉其家。欲其家者、先脩其身」と示されています。有名な一説、「修身斉家治国平天下」です。

まず自らを修め、家を修め、国を修める道こそ天下が幸福になると。そのためには経済をどう修めるかということを説くのです。国東にある三浦梅園もまた、その著書、価原のなかで道徳と経済の意味を説いています。

この道徳経済の一致は、他にも二宮尊徳や渋沢栄一、石田梅岩なども同様に実践と意味を発信してきました。結局たどり着くのは、何のための経済か、そもそもこの仕組みの初心は何かということを忘れるから何度も時代を超えて説かれるのです。

人間は、置かれた環境の中で多くの刷り込みを受けます。今の時代であれば、お金持ちというだけで大きな立場が得られて誰からも勝手に尊敬されます。良し悪しなどは、関係なく社会のなかで大きな地位や名誉、立場をえます。しかし、政治を考えたとき、何を規範にするか、どう修めるかをみんなで取り組むことで本来の政治は調いました。

徳を実践する人がいない世の中になれば、どうなるでしょうか。便利さや効率、そして合理的な判断が優先され政治はずる賢い人たちが世の中を統治するようになります。国家が乱れ、戦争が起きるのはそういう状態になっているときでしょう。それは歴史が何度も何度も証明しています。

だからこそ、国を修めるためには先ほどの修身斉家治国平天下という道徳=経済、つまり経世済民の思想と実践が必要だと何度も語られるのです。人は、油断をすると実体がないものを実態があるかのように仮想かして現実を塗り替えます。自然と不自然がわからなくなるのもそこからです。

本来、何が自然であるのか、何が当たり前であるのか、そういうところから今を見つめ直し、どうあるべきかをみんなで考えて取り組むのが学問の本質のように私は思います。

子孫のことを思えば、先人がどのような道を歩んできたかを観てもらい、その道が今どのようになっているのかを検証する必要を感じています。つまり歴史に学び、故人の遺志を伝承するということです。

小さなところから、ご縁のあるところから、徳の循環する経済、徳積経済と暮らしフルネスを体験を通して弘めていきたいと思います。

郷里の食文化

福岡の郷土料理にもつ鍋があります。以前、東京に住んでいるときにもつ鍋を食べたことがありますがもつが美味しくなくびっくりした記憶があります。故郷や地元で食べた方が鮮度も味も抜群です。特に私は炭を使いますし、水も井戸水などだしもこだわりますから遠方からの来賓のおもてなしで喜ばれています。

このもつ鍋の福岡での歴史はそんなに長くはありません。もともとの起源は、終戦して間もないころに当時炭鉱で働いている朝鮮半島の人々がもつとニラを一緒にアルミ鍋で炊き、醤油味で味付けして食べていたところからだといいます。もともと朝鮮半島の料理はチゲもですが、ニラや肉や魚の内臓をいれて煮炊きします。日本では、動物の内臓はもともと食べないことが多く元々は捨てるものであるとされていたことから関西弁で捨てるものを「放るもん」ということから「ホルモン」と呼ばれるようになったといわれます。私たちの郷里でも、捨てることを放るといいますから関西弁ということでもないのかもしれません。

内臓を食べる料理というのは世界中にあり、栄養価が高く健康にも優れているということもあります。それに戦後の食糧難で、どんなものでも大事に食べて健康を保とうとした工夫からもあります。もともと薬膳鍋のような効果もあり、消化にもよく、疲労回復や美容効果もあるといわれます。

もつ鍋に使うそれぞれの食材が栄養豊富なので、もつ鍋一食で摂れる栄養の種類も多く一つの鍋で多種類のビタミン・ミネラルを一度に摂ることができる優れものです。

その土地にある歴史を感じながら食べるということを私たちはつい忘れがちです。本来は、その土地に何かの文化が創造されたからこそ食文化も誕生します。その歴史の上に今の私たちがいることを忘れてはいけません。

今、私たちが住んでいる町はそれだけ文化が誕生し今でもその文化を伝承し、さらにもう一歩、その文化を甦生し創造していくことでいつまでも食文化も発展していくように思います。食べるということは、本来は文化を伝承しているということです。

子孫たちへ食文化の誇りも伝承していきたいと思います。

骨の人

反骨精神という言葉があります。意味は「反骨精神(はんこつせいしん)」の意味は、「不当な権力や世の中の不正に立ち向かったり、時代の風潮や世論などに反抗する心持ちや気概」だとあります。ただ、反抗的な態度という意味ではなく、長いものに巻かれろといったみんながそうだから自分もとはならず、自分に正直に生きるというものに近いように思います。

しかしその語源は一体何だろうかと調べてみると「反骨」は、中国の古い逸話が語源で「叛骨」とも書くそうです。これは中国の仙人が、骨をひっくり返して自分に施術を行い、体調を整えたとの逸話です。「反」にはひっくり返すという意味があります。

一度は見てみたいものですがどうも三千年に一度体調をととのえるため自分に施した術で、骨をひっくりかえすことだといいます。三千年に一度というのは、どういうことかなと感じます。

この「反骨」と同じようにな意味の言葉に「気骨(きこつ)」があります。この気骨とは、自分の信念を貫く強い心のことだそうです。そう考えると、骨とはどのようなものか。私たちの体は最後は骨だけが残ります。その骨がどうなっているのかという意味から考えると、見えてくるものがあります。

世の中には、権力や権威があります。それに媚びる人もいます。長いものには巻かれた方がいいと勧めてくるものです。別に権力や権威に反抗したり反対したいという気持ちがあるわけではないのです。それぞれに大切なお役目や役割があり、それを真摯に全うされている方もたくさんいます。問題はそういう状況の方が楽だからと、身近な側近や周囲の方がうまく立ち回り不誠実さを感じることの方が多く、そうはなりたくないと距離を置くだけです。裸の王様のようになっていくのは、権威や権力が強すぎるからで謙虚さを保つことが環境的に難しくなっていくからです。

私はもともとあまり権力や権威が入ってきません。なぜだろうと思うと、媚びるのが苦手だからかもしれません。媚びることがわからないのです。尊敬するからこそ、媚びたくない、尊重するからこそ媚びられない。媚びろと言われて試しに媚びてみても、媚びた真似になってしまい媚びていないのです。

媚びていないから反骨精神の人といわれたりします。そうではなく、なぜかうまく周りのように媚びれないだけです。そのうち諦めてしまううちに、今の自分が醸成されていきました。

なぜ媚びれないのかを分析してみると、「何のために」という目的意識が強いのと、「もともとはどうなのか」という元来や根源に興味が強すぎるからです。そして自分がそうなりたくないなと思うと自分ごとになって他人事のように対応できなくなるからです。

そう考えると、権力や権威というのは組織や集団、人間の集合意識が生み出したものです。だからこそ、そんなものよりもその人そのものを大事にしたいと思うほどに反骨精神が出てきます。

仙人の境地にはとてもまだ入れませんが、仙人を目指して気骨を鍛えて磨いていきたいと思います。