野見山広明-子どもたちの未来を願い徒然なるままに書き綴るカグヤ社長の惟神の道blog。

暮らしの実践

観えないものを観る力というものは、実践によって磨かれていくものです。日々の掃除をはじめ、日々の内省、初心に向かってコツコツと新鮮な気持ちで取り組み続けることで観えないものが観えるようになる境地の会得というものがあるように思うのです。

これは武道をはじめ、伝統継承の方などもその境地の会得によって一般的に観えないものを観えるようになっています。その証拠に、それを言葉にして実際に見せることができるところまで結果を出しているからです。

続けることというのは、変化を観続ける力です。継続は力なりとありますが、本来は力の本質は継続にこそあるということでもあります。最初は自分が観えるようになるまで実践をし、観えるようになったら気になりますからそれをお手入れし保ちまた時代の変化にあわせて革新し続けるように精進するようになります。

バランスという中庸もですが、中庸がわかるというのは中庸でいるということですがこの中庸は中庸を実践し続けている状態、観えないものが観え続けている状態、たとえば自然の循環やいのちが観え続けている状態のように意識がバランスを保つこと調えてある場に定着して離れないほどに取り組む状態であるということでもあります。そしてこれが暮らしの実践でもあります。私の暮らしというのは、本来その意識を保つためにあるともいえます。

現代は、資本主義などにょり仕事や経済活動が中心になって暮らしはその隙間に少しだけある程度で語られます。経済の中にある暮らしは、道具を販売したり、衣食住がよくなるため、またそれを実践するワークショップや講演会をやったりと経済と紐づいているものとして語られます。しかし本来の暮らしは、そもそも生き方のことであり生き方が暮らしにまで昇華されているということでもあります。

日本人の先人たちは、自分たちの生き方を暮らし方にまで到達させてきました。それを徹底して実践することで、自己の修養や精神、魂を磨き上げてきました。日々が精進と修行のような暮らしをしていますが、その中で感謝に満ちた足るを知る生き方を実践してきたのです。いのちを活かし、ものを活かす、徳に報いて喜ぶ仕合せの境地を会得しておられました。

私の提唱している「暮らしフルネス」はそれを今も先人たちと同じように体験することによって、日常のなかで幸福や仕合せを味わえる生き方を体得できるようになるという仕組みになっています。しかし、これも境地の会得までは実際には実践しないとあくまで一過性の体験で暮らしが変わることにはなりません。

暮らしを変えていくということは、実践をしていくということです。

子どもたちに先人たちの遺してくださった生き方や暮らしの真の豊かさを伝承していけるように引き続き暮らしフルネスの実践を味わっていきたいと思います。

善は急げ

「善は急げ」という言葉があります。「善は急げ」は、仏陀のダンマパダ(法句経)が由来の言葉です。 ここには「善を為すのを急げ、悪から心を退けよ、善を緩くしたら心は悪事を楽しむ」と紹介されています。

この善を急げという言葉は、日常的にはすぐに良いことはやったほうがいいという意味で用いられます。それが次第に、すぐにやることのことを指すようになっています。

しかしよくこの仏陀の言葉を吟味していると、実際には心が悪事に流されないように常に善いことを続けよという意味合いの方が強いことに気づきます。別の言い方にすると、「徳を積むことを躊躇わずに実践し精進しなさい」という言葉にも聴こえてきます。

気づかないうちに悪いことに影響を受けるのに躊躇うことはあまりありません。ちゃんと悪いと思ったらやりませんが、知らないうちに悪いことに巻き込まれてしまっていたらどうしようもありません。

今の時代のように、自然環境破壊や自利的な経済の競争社会の仕組みの中で過ごしていたらそれだけで気づかずに悪事に参加しているようなことは多々あるものです。それをしないようにといくら気を付けていても、圧倒的に社会が悪が強くなれば気づいたら善行の量よりもそうではないことの方が増えてしまいます。

悪をなさないと気を付けることも大切ですが、それよりも善行をしたいという強い気持ちで実践を続けることで心を調えていくことができるのかもしれません。それに善し悪しもそれがわかるというのは、それだけの視座や視野があるともいえます。だからこそこれが善いこと、悪いことと簡単には決めつけることもできません。人間は不安だとせっかちになって、早く解決したいと結果を望むものです。しかし、善いことをするのにせっかちで早く結果を出したいと思うかといえば善行は長い時間をかけて見返りもなく、徳が醸成されていくまでゆっくりと待ちます。

だからこそ不安な世の中の情勢に悲観して諦めるのではなく、それよりも善は急げとみんなで徳を積む喜びを味わう方が人類は幸福に近づいていけるように私は思います。

また「随喜功徳」という言葉もあります。これは他人が善い行為を修めているのを心から喜び、それを賛嘆することをいいます。まさに自他一体の喜びが徳になるという教えですが、善は急げということの意味深さもここにあります。

正しいことをやることや理屈で良いことを述べたり批判評論するよりも、まさに徳を積むことをどんどんやろうとみんなで善を急げの方が喜びも豊かさも倍増し幸福も訪れるように思います。これが私が思う、徳積循環の経済をみんなで伸ばしていくことでもあります。

子孫たちが、いつまでも真に豊かな心の世界が伝承されていくように善を急いで取り組みたいと思います。

 

覚醒と初心

物事には始まりというものがあります。始まりが何か、それを初心とも言います。人はみんな今があるのはそのはじまりがあったからです。そのはじまりにどのような心であったかを知ることで今がなぜこうなっているのかがわかります。

不思議ですが、時代が変わっても時間がどれだけ経ってもその初心は変わることなく受け継がれていきます。初心が変わらないから時代に合わせて実態は変化していきます。変化するのは初心を守るからであり、初心があるから時代が変わります。

例えば仏教というものもあります。最初に仏陀が誕生してからあらゆる変遷を経て今に至ります。その間は、何度も迫害にあり消滅しかけたこともあれば、国家運営に取り入れて世界に拡大していくこともあります。しかし最初は仏陀からはじまったものであるのは普遍的です。そしてこの仏陀もまた、その前の初心に出会ってその初心に気づいてから目覚めたのかもしれません。

真理を追究してどこまでも瞑想によってにたどり着いて目覚めたからこそ、サンガという相互扶助の実践に生きたのかもしれません。そしてその初心は、もともとあるもに気づいたからでしょう。偉そうに資格もないのに仏陀を語るなという批判もあるかもしれませんが、幸福とは何かと求めて掘り下げれば誰でも似たような境地を感得する気がしています。

地球や自然界は、共生や助け合いによって循環しています。本能的に私たちは一つの身体を調えようと思うとき、一つの身体になるような利他の心が必要になります。まるで内臓がすべての臓器を思いやるように、それぞれが助け合い身体を保ちます。身体を深めていけばいくほどに、この世の真理は何かということに気づいたのかもしれません。

かつての僧侶は医療にも長けたのは、それだけ身体の真理を悟っていたからかもしれません。日々に気候が変動するように、日々に身体の調子も変動していきます。ほんの小さな変化が積み重なり嵐にもなります。同様に人間もまた、どんな小さな善行でもそれがのちの大きな徳となって報われることもあります。

当たり前に気付ける感性というものこそ私は目覚めたものだと定義しています。

もともとどうであったかを深めることは、自分の初心を省みるのにとても役立ちます。子どもたちのためにも、初心を忘れずに磨いていきたいと思います。

時代の中のバトン

本物とお金という関係があります。これは真心と言葉という関係にも似ています。本物に価値をつけてお金にする作業によって本物はお金に置き換えられるようになっていきます。同様に真心も言葉で飾って上手にデザインすれば真心に置き換えられるようになっていきます。しかし、本来は本物や真心というものは何物にもかえられないものであるのは明らかです。これはいのちとお金でも同じです。いくらお金をもらえるからといのちと交換といわれてもかえられないのと似ています。

私たちは目先の損得というもので物事を判断することが増えています。長い目で観てというのは目先の損得よりも大切なものを優先しようとする生き方です。しかし、国家や政治をみていたら本来は長い目でみて対応していく必要がある事案が短期的で目先の問題ばかりを解決しようとするあまり先ほどのような置き換えられないものまで無理やりに置き換えて済まそうとする世の中になっています。

例えば、気候変動や自然災害が発生すると今までの生活が一変します。食べ物がなくなり、今までの豊富な物流が止まり、資源のあるなしで急に危機が訪れます。それまでは肥料も農薬も物流も経済もインターネットもすべて整っていましたがそれをも破壊するような災害に出会うと人は無力です。しかしそんな時こそ、先人が乗り越えてきた知恵の出番です。

食料の保存、薬草などの医療、自然と循環する暮らし、相互扶助の仕組みやあるものを活かす工夫など知恵が活躍するのです。

今の時代は人類にとって滅亡の危機に直面するような災害には遭遇していません。戦後は物が豊富にになりなんでも捨てては消費することの繰り返しでしたからより危機のイメージもありません。

しかし長い目で思索をすると、先人の知恵が如何に大切になってくるのがわかります。短期的には今の便利な道具や知識が価値があると思ってしまいますが、長期的に見たらやはり先人の知恵の方が確かです。

換えのきかないもの換えないようにすることや、伝承すべきことをちゃんと伝承することは有事の時に必ず大きな手助けになって子孫を守るはずです。自分たちの代ではないから知恵はいらないと捨て去り蔑ろにするのではなく、子孫のためにもしもがあるから今から調えていこうとすることで目先の損得に負けない克己心も磨かれるように思います。

一人一人は小さな存在ですが、先人たちの繋いできたバトンを子孫へそのまま渡せるように時代的に意味もなく価値がなくなったものでも変わらずに丁寧に伝承していきたいと思います。

自然の災害

昨日から英彦山の守静坊では滝のような大雨と地震のような雷、周囲の濁流の轟音であまり眠れませんでした。こんなにも降るのかというくらい豪雨が止まらずに降り続けています。

自然の猛威の前には、人間はなすすべもなくただ祈ることしかできません。人間が作り出した仮想空間のような世界ならまだしも、現実の地球規模の変化や宇宙はあまりにも壮大でコントロールなどできるわけがありません。

私たちは洞穴の中で、その洞穴を少し快適にする程度しかできません。それを勘違いして世界を自分の思い通りになると信じてしまうことが浅はかであり視野の狭いことのように感じます。謙虚さというものは、自分たちの思い通りにはならないという現実を直視する心から訪れるようにも思います。どうにもならないからこそ、その中でどこまでは許されるのかと現実を見つめ直すのです。

地球では動植物たちもまた似たように生きています。私たちは、脳を使って様々な集合意識を重ねることで生きていますが気が付くと現実を麻痺してしまうものです。特に権力や権威、傲慢さ、欲を優先するような環境にいればいるほどに現実は隠れてしまいます。文明というものはそうやって何度も繰り返し現実逃避によって滅んできました。

本来、私たちの先祖たちはそうならないように自然と共生し循環と共に謙虚に歩んできました。それは残された先人の知恵を観れば明らかです。翻って今の時代を見直してみるとどうでしょうか?

経済を優先し、何が本来の危険であり何が現実の危機であるのかさえわからなくなってきています。自然が安定していて、たまたまその許容範囲内で暮らしていけるから安心することができています。しかしひとたび、自然が人間にとって都合が悪くなったら今の世界は維持していくことができるでしょうか。

本来、危機だからなんとかしようとするのは手遅れで危機に備えて丁寧に慎んで準備を怠らないようにしようとするのがまともな精神です。しかしそうならないのは、それだけ何らかの不自然な現実を信じているからともいえます。

自然の災害はいつも人間に何がもっとも大切なことなのか、どう暮らしていくことがもっとも大事なことかを思い出させてくれるものです。

子どもたちが未来も仕合せに豊かに平和に安心して生きていけるように、現実を直視して本来の在り方、そして自然と共生する生き方を伝承していきたいと思います。

仏陀の絆

現代の私たちはあまりこの150年の間の歴史を知りません。明治に入り激動の時代を超えて今がありますが、この150年間で一体何が起きて何が変わったのかを検証されることもなく前へ前へと進むことばかりに注力してきました。

しかし、時代が変わっても忘れてはいけないものがありますし、今の私たちがなぜこういう生活ができているか、その御恩もいつまでも覚えておく必要があると感じるからです。「懸情流水受恩刻石」という言葉があります。これは受けた恩は石に刻み、かけた情は水に流せというものです。人として、いつまでも恩を忘れす、恩に報いていこうとする生き方は子孫繁栄のためにも大切なものです。

明日、スリランカから来客があり英彦山でおもてなしをする予定があります。

このスリランカというのは、実は私たちは大変な御恩があります。それは1951(昭和26)年9月6日午前11時からのスリランカ代表のJ・R・ジャヤワルダナのサンフランシスコ講和会議です。

実は私たちの日本は、第二次世界大戦の敗戦後、分割統治をされバラバラになるところでした。今のように一つの島国ではなく、ありとあらゆるものが解体され日本という国も失われる寸前でした。戦争に負けるというのは、大変悲惨なものであり歴史をみると文化も人も財産もすべて消失するほどの出来事に遭遇するものです。

その大事な局面が、サンフランシスコ講和条約でした。世界から49か国が署名してくれて私たちの国は主権を回復しました。そこには先ほどのスリランカの故ジャヤワルデネ元大統領が対日賠償請求権の放棄などを訴えた演説がありました。その演説がなければ、今の日本はなかったほどです。こんな大切な徳のことを子孫へ伝えないのは恥ずかしいことです。

その演説では「憎悪は憎悪によってやまず、慈愛によってのみやむ」との仏陀の言葉を引用して語られました。スリランカもまた第二次世界大戦の犠牲をたくさん受けており、損害賠償を請求する立場にあったにも関わらずすべてを放棄され仏陀の言葉を実践する演説をしたのです。他の国々もこの演説に感動して同意してくださった御蔭で、今の日本の主権は守られました。

先人たちが掲げた独立自尊の精神、本来、植民地で支配されるような世の中ではなくそれぞれが尊重しあう社会を求めて国々が平和を結んでいこうと感じたのではないでしょうか。もちろん、歴史ですからそこには大小さまざまな思惑などもあったかもしれません。しかし人の心を打つ演説にはその人の生き方が出ていますからこのJ・R・ジャヤワルダナ元大統領が目指した理想をみんなが共感したからに他なりません。

この方は、そのあとも日本と交流を続けられその後は「自分はこれからもスリランカと日本という二つの国の行く末を見守りたい。だから、二つの目の角膜の一つをスリランカ人に、もう一つを日本人に移植してほしい」と願い、そのこの遺言どおり、片目の角膜は群馬県に住む女性に移植されたといいます。

中国の老子に、「怨みに報いるに徳を以ってす」という言葉もあります。お互いに恨み憎しみあう先に、戦争はなくなりません。戦争をなくすというのは、愛と許しが必要ですがそれは一人からの勇氣ある行動によってからだと感じます。

戦争はいつの時代もいつまでも終わらないものです。憎しみや恨みは停戦しても失われず、溜め込んでは爆発し、冷戦のような陰湿なものになるだけで真の平和は訪れません。難しいことではありますが、平和のために人々はみんな一人一人の中で平和のために仏陀や老子のいうような実践を結んでいくしかありません。

私たちが日々の暮らしの中で、恩や徳に報いていこうとする生き方を実践することで世界の平和も革新していけるように私は思います。仏陀の教えに守られてきた日本とスリランカとの歴史や初心からこれからも平和の絆を維持していきたいと思います。

いのちの知恵

私は循環という言葉をよく使います。この循環には様々な意味があります。例えば、めぐるという意味、あるいは全体調和という意味、他にも様々なところで用いられます。

私の場合は徳が循環する経済という言い方をして表現しますが、これは現代の価値観の中で表現するギリギリのところです。そもそも徳というものが何か、そして循環とは何か、経済とは何かということがあっての組み合わせの言葉です。

そもそも言葉は組み合わせでできています。私たちが何かを理解するとき、基本的には全体を理解して一部を切り分けてそこから全体の何がそれなのかという理解をします。

地球を理解するには、宇宙の中の地球になりますし日本になれば世界の中の日本となります。常に全体を広げて相対的に理解するとき私たちはその意味を自分の知りうる認識の海の中で全体のどこに配置するかを定めることで知識を得ます。

しかし古代、古来、本来は知識というものになる前はどうだったでしょうか。言語がなかった時といっていいかもしれません。それは知恵があったということです。知恵とは、言語ではないもの、相対的でも全体でもないもの。存在そのもののいのちのようなものが知恵です。私はこの知恵を表現するのに徳といい循環といい経済といいます。そもそも徳は循環のことです、切り分けられることのないいのちすべてのこと。その姿そのものは循環しています。循環の中にあるから知恵です。これは水の中に流れているものこそ水としていのちとし循環と観るのと似ています。また経済は経世済民のことです。社会のことであり共生や貢献しあう相互扶助の関係のことです。これは体の内臓がすべて循環して助け合い体を維持するようにすべてが繋がり結ばれ調和するから経済になっているということです。

現代の経済は、経世済民の徳治の経済ではなく単なる手段としての経済になっています。それは今の医学のように、内臓のその部分だけをみてそれをよくすればいいという短絡的に切り取られた知識としての経済のことです。

知恵というものは、私たちの伝承の文化の中にこそ生き続けているものです。その知恵こそ野生であり本能であり、偉大な知識の集大成であり結晶です。先人たち、あるいはその知恵を持ち続けていきている先住民族たちはみんな当たり前に徳も循環も経世済民も知恵で一体となって調和し続けています。

言語が増え続けてさらに知識は細分化されて増大していますが、そろそろこの過渡期に終止符を打ってもいいのではないかと私は思います。AIはますます知識の切り分けによっていのちから遠ざかります。

遠い昔、先人たちが実現させた知恵を今一度、子孫たちもバランスよく得られるような環境を甦生していく必要を感じます。日々の暮らしフルネスを通して、いのちの知恵を伝承していきたいと思います。

欲と不安と暮らしの知恵

欲と不安というのは、火と薪のような関係を持っているように感じることがあります。火が穏やかでおさまっているときはいいのですが、そこに薪をくべて火が燃えていくとさらに欲は増大して不安も同時に増大します。その逆に、火が小さく穏やかでいるだめにはあまり火を大きくしないようにすればいいのですがいつか消えるのではないかと不安になっています。

最初から火があることで安心していますが、火がなくなることで不安になるのです。人間というものは、便利なものをたくさん所有すれば所有するほどに所有欲が増大ししていきます。その所有欲はさらに不安を増大させ、さらなる所有をしようとするのです。

私のところによく来て一緒に過ごしている禅僧は、所有欲がほとんどありません。あればいいし、なければなくてもいい。いただけるものはすべて有難いと受け取り、なくなればそれでおしまいという具合です。火がいつも調っているようなまるで炭のような存在です。

私は炭を深く尊敬していますが、炭は一度火が入れば、静かに灰になるまで燃えていきます。もちろん炭をくべればその炭はさらに燃えるのですが、それでも激しくなることはあまりありません。しかしその炭は、もともと薪だったものです。その薪を丁寧に炭にすると火との関係性も変わっていきます。

火の扱い方になれるというは、ある意味で欲の扱い方になれるというということに似ています。そして不安というものもまた、静かに調えていくと身の回りを自然の知恵と共に暮らしていけば安心できることもわかります。

先人たちは、暮らしの知恵をたくさん持っていました。これは欲と不安と上手に向き合うコツを伝承していたのかもしれません。自然と共に暮らし、そして自然の持つ偉大さをいただきながら永続する今を味わう。

自己との向き合い方もまた、この欲と不安が深く関与しますから日々の暮らしを調えていくことが自己を磨き高めることになります。

引き続き、暮らしフルネスの実践を充実していきたいと思います。

暮らしフルネス~もてなし~

もてなすの語源は、「以って為す」が由来といいます。何を以って何を為すのかは、その人が感応して決めるものです。例えば、聖徳太子は和を以って尊しと為すといいました。和こそ、何よりも尊いとみんなで取り組んでいこうとしました。

そしてある人は、真心を以って商いを為すといいました。何を以って何を為すか。これこそが、ここに道徳の極みがあるように私は思います。つまり、徳を以って道を為すということです。

漢字というものは、二つのものが一つになることでその意味を反復するものです。つまり同じ意味を成すことがあります。本来は反観合一であり、すべてのものは一つになりバランスを保ちます。一つに統合するには、何を以って何を為すかを覚悟して実践していくことで実現するように思うのです。

おもてなしというのは、本来は生き方のことです。その人がどのような生き方をしているか、そこに裏も表もなくその人が正直に自分を生ききることでその姿に人々が感銘をうけてその生きざまに感謝しているように思います。

生き方というのは、別に誰かに認められたいというものや見返りがあるものでもなく、効率も効果も意味も必要がなく、その純粋な純度の高い精神と実践で行われているものです。

つまり生き方を以って、人生を為すということでしょう。生き方が尊いからこそ、その生き方を優先してその人らしく人生を盡していくなかで心を味わうのです。決して、消費者に媚びたり、過剰なサービスをしたり、他人軸にあわせてやることを決めたりなどはしていないものです。現代のおもてなしも意味が変わってきているかもしれません。形だけが模倣され、中身がなくなったものが海外に文化として輸出されるもの残念なことと思います。

私はこの場所で、日々に暮らしフルネスを実践しながらご縁のある方々を自然体でもてなしています。いつも行っている実践を一緒に味わう。それだけですが、これが私のもてなしです。そして人生だけでなく仕事もまた、自分がこれが道だと感じることを愚直にやり続けます。評価もされず批判をされることもありますが、これが私のおもてなしであり生き方ですから徳を以って己を磨くことを為すものです。

子どもたちが日本人の生き方を伝承し未来に誇りをもって生きていけるように、丁寧に暮らしを紡いで背中で伝えていきたいと思います。

視野を広げる

塩野七生さんという歴史作家がいます。「ローマ人の物語」というローマの1300年の興亡を描き切った方です。私も読めていないのですが、文章のところどころに視野の広さや戦略のこと、政治と軍事のこと、本当に深く洞察されております。

歴史は、よく見直し洞察すると現代でも起きている戦争や政治の混迷などほとんど似ていることが発生します。似ているということは、過去から深く洞察し歴史から学べるということです。

「戦略は、現状を正確に把握していさえすれば 立てられるというものではない。 過去、現在、未来を視野に入れたうえで、 それらを統合して立てるものである。そうでないと、たとえ勝利しても それを有機的に活用することができない。 活用できないと、戦闘には勝ったが戦争には負けたということになってしまいがちだ。 「自覚」が重要なのは、これこそが一貫した戦略の支柱になるからで、 それが確立していないと、 戦争の長期化につながりやすい。戦争は、攻められる側だけでなく、 攻める側にとっても悪である。 「悪」なのだから、早く終わらせることが何よりもの「善」になるのだった。」

本来の戦略とは統合されているものということ。統合できる視野があることを洞察されています。今のウクライナやロシアの戦争もまた、どのように終わらせればいいか、どの視野でこれをリーダーたちが理解できるかどうかによります。

「兵士を率いて敵陣に突撃する一個中隊の隊長ならば、 政治とは何たるかを知らなくても 立派に職務を果せる。 しかし、軍務とは何たるかを知らないでは、政治は絶対に行えない。 軍人は政治を理解していなくもかまわないが、 政治家は軍事を理解しないでは政治を行えない。人間性のこの現実を知っていたローマ人は、 昔から、軍務と政務の間に境界をつくらず、この間の往来が自由であるからこそ生れる、 現実的で広い視野をもつ 人材の育成のほうを重視したのであった。」

政務と軍務も本来は統合されたものです。それを分業することで視野が狭くなります。広い視野とは、分けないということ。それは一体であるという認識を持つことです。違いを認め合い、お互いの持ち味を活かすことこそ視野の広さを醸成していきます。

組織を含め、分けていくのは簡単ですが分けることで視野はどんどん狭くなるものです。どうやって共生するか、そして統合し思いやりのあるいい状態を創造するかに視野は育つように思います。

他にも塩野七生さんの遺した言葉があります。共感するものばかりです。

「危機を打開するには、何をどうやるか、よりも、何をどう一貫してやりつづけるか、のほうが重要です。」

「戦争は、死ぬためにやるのではなく、生きるためにやるのである。戦争が死ぬためにやるものに変わりはじめると、醒めた理性も居場所を失ってくるから、すべてが狂ってくる。」

「 100%の満足を持つなんて、自然ではない。天地創造主の神様だって幾分かの不満足は持ったに違いない。本当の仕事とは、こんな具合で少々の不満足を内包してこそ、実のあるものになるのだと思う。」
「危機の時代は、指導者が頻繁に変わる。首をすげ代えれば、危機も打開できるかと、人々は夢見るのであろうか。だがこれは、夢であって現実ではない。」
どれも高い視野で語られている言葉です。ローマという国がどのように興亡したのか。そこには歴史の深い教訓があります。人類は今こそ、歴史に学び直す必要性を感じています。
身近な実践から見つめていきたいと思います。
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