本来の伝承

修験道のことを深めていると、時代の変遷を経て様々なものが混淆していることがわかります。はじめは山からはじまり、その山で修業し暮らした人たちが持っていた様々な知恵が里の人を救うための仕組みとして伝道していきました。本来の根源的なものは何だったのか、そういうものに触れることで私たちは歴史から原点を学び直すことができるように思います。

ざっくりですが、修験道をはじめすべての神仏混淆したものはそのはじまりは日本の場合は自然崇拝からはじまります。自然と自分と結んでいるもの、自分の心身を構成しているものとのつながりの中にいのちや、その存在の妙を直感し、自然にいのりはじめたことがはじまりです。縄文時代の遺跡や文化にも、祭祀を行い、自分を活かしているもの、自分のいのちを存続させてもらえる有難い存在、それはご先祖さまを含めて大切にいのり続けたことからも理解できます。

それが時代の変遷を通して、数々の人たちとその時代の価値観と融合してあらたな信仰として変化してきました。自然崇拝からの巫女さんたちが神道に混ざり、そして仏教が入り尼になりと、様々な暮らしの中で信仰が結びついてきました。さらに、政治的な宗教も入り、共同体としての豪族から領主的なものとしての統治に代わるなかでまた組織ができ、信仰も形を変えていきます。また明治に入り様々な宗教が区別されていくなかで、混淆していたものを分類わけして今に至ります。

本来の始まりはどこかということも、今であまり重要視されていません。しかし私は、分類わけして複雑になってそれがいがみ合うほどになっているのなら原点回帰することが自然ではないかとも感じています。それもまた自然の仕組みの一つだからです。

自然というのは、はじまりから終わりまで循環を続けます。ただその循環は何が循環しているのかということが重要です。自然界であれば、いのちが形を変えて循環を続けます。そのいのちがまるで水のように移り流れることで、私たちは生き続けて活かし続けられていきます。

本来のいのちがあるものは、そういう原点や根源的なものを失ってはいないものです。今の時代は、物質文明でいのちを物として扱い、便利さや効率を優先して経済効果を最大化するという仕組みで成り立っています。だからこそ、原点や根源的なものをあまり意識することもなくなってきました。

しかし、山は変わらずに今私たちの前にあります。その山と対話することは、今の私たちが忘れてしまっている原点や根源を思い出す大切な機会になるように思います。

子どもたちのためにも、はじまりから学び続ける姿勢を伝承していきたいと思います。

変化の正体

私たちの日常は同じ日々、同じものがあるように感じられていますが実際には同じというものは一つもありません。同じであるものを探しても、いくら同じ型で大量生産したとしても同じではないのです。時間もたてば、そこで使われている材料やタイミングも異なります。そしてそれに触れた時点で、また同じものではなくなります。

ミクロでみても、人間や生き物も細胞一つ一つは常に入れ替わっていきます。体にいる菌においても、あらゆる組み合わせで一緒に生きています。同じということはありません。またマクロでみると、私たちの地球も時速1,600kmで自転しながら、太陽の周りを時速10万kmで公転しています。しかも太陽系は銀河系の軌道を時速85万kmで公転し、銀河系は膨張する宇宙とともに秒速630km(時速約216万km)の速度で移動しているともいわれます。

止まっていると思っている時間や場所であっても、私たちは猛スピードの中で遠くへと運ばれている最中ということで同じ時、同じ場所はないのです。常に一期一会であり、二度と同じ今はないともいえます。

しかし人間は、妄想というか概念の中に同じものを無理やり構築していきます。同じではないことにクレームを出したり、いつまでも同じ状態が続くことが当たり前だと思ってしまうものです。健康も、いつまでも元気だと錯覚していますし空気や太陽などもいつまでもあるものと思うものです。

それが時として災害や病気、死に直面した時などにバグが発生します。こんなはずではないや、こんなことが起きるはずはないと思うのです。しかし、よく考えてみると同じような日々が送れることが奇跡そのものであり、同じであると思えることが当たり前ではない有難いことであることがわかります。

同じものはないからこそ、同じようなものに感謝の気持ちが湧いてきます。

この今も、今日も、同じようにあることが如何に奇跡であるか。そういうものに気づく感性は、変化に気づく感性ともいえます。変化し続けているものに合わせて、自分も変化させ続ける。そうやって万物は全体と調和し続けています。先ほどのミクロであれば、体の変化に意識を合わせていくこと。そしてマクロであれば銀河や宇宙の動きそのものに意識を合わせていくこと。

人間は自分の都合で変化をやめるとき、知恵から離れます。知識というものは、意識の固定に役立つのであり知恵の活用にはほとんど役に立ちません。私たちの感覚というのは、それだけ変化に適応するように備わっているということです。

この世の中は、感覚といのちが構成されているもので本来は成り立っています。そういういのちの繋がりやいのちの変化にいかに感覚を研ぎ澄ませていくか。これからの時代、人間が社会を切り取って同じであると洗脳する意識のなかで本来の変化に適応する力がそれぞれに求められるはずです。

こういう時代だからこそ、先人が研ぎ澄ませてきた感覚を大切にしていく必要を私は感じます。子どもたちにも感覚の大切さに気付いて、それを磨き直していくための環境をととのえていきたいと思います。

自分らしく自然体で場を調える

自分らしく生きるというのは、自分の心の声に従って生きていくことに似ています。今は心の声や魂などというと、非科学的なものや宗教とかいって嫌いな人もいますが実際には自分というものとの対話は生まれてから死ぬまでずっと行われるものですからそれを否定するのは難しいものです。

この自己との対話を続けていくと、現実と精神世界のような二元的な話になることがあります。しかし実際には、自分のあるがままや自然体でいるというのはある意味では心のままであり魂のままであるから現実も精神世界も一致したありのままの姿に近くなるということでしょう。

そういう意味では、自然界のすべての生き物たち、特に人工的に人間が関与していないいのちたちは自然体そのものであり霊的そのものといえます。

朝になれば、鶯が綺麗な声で鳴いています。そして朝陽をあびてキラキラと光輝いています。これはまさに霊的なものです。ほかにも、雨上がりのあらゆる植物たちが朝露と光で眩く揺らぎます。これもまた自然体であり魂のままあるがままです。

子どもたちも生まれたばかりの赤ちゃんや幼児期のころまでは、自然体で魂のままです。三つ子の魂とも呼んでいるものです。その自然体である子どもたちが、安心して自己との対話ができるように見守ることは、自然の中で循環する幼いいのちたちが自然体であれるように余計なことをせずに環境を調えることに似ています。

本来、人類は万物の霊長と呼ばれるように自然体であるいのちを見守る役割を持っていたように思います。それは上下の関係ではなく、知識や知恵を持つからこそあえて自然のままでそれが壊れないようにと自分たちを律して自然を調和するように努めてきました。

特に縄文期のような時代には、それが果たされ長い年月、地球の調和や平和が保たれていのちが自然体で謳歌していたように思います。今の時代は、自己からも離れ、迷走するばかりです。

大事なことを忘れない、そして忘れていたものを思い出すのは、目覚めに似ています。魂の目覚めともいうのかもしれませんが、自然体ということがどういうことかを気づくところからがはじまりかもしれません。

子どもたちが安心して暮らしていける世の中になるよう、場を調えていきたいと思います。

観音様の生き方

観音様を深めていますが、観音様の真言というものがあります。この「真言」とは古代インド語のサンスクリット語でマントラ(Mantra)と言われる言葉のことで「真実の言葉、秘密の言葉」という意味です。空海の般若心経秘鍵によれば「真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く、一字に千理を含み、即身に法如を証す」記されます。私の意訳ですが、真言はとても不思議なものである。この真言をご本尊を深く実観するように読んでいると知らず知らずに目が覚め、一つの字の中に無限の理を感じ、直ちにそのものと一体になり悟ることができるという具合でしょうか。

この観音様の本来の名前はサンスクリット語では、「アヴァローキテーシュヴァラ」(avalokiteshvara)と記されます。もともと般若心経などを翻訳した鳩摩羅什はこれを「観世音菩薩」と訳し、その観世音菩薩を略して観音菩薩と呼ばれるようになりました。この鳩摩羅什(Kumārajīva)という人物のすごさは、母国語がインドでも中国でもなくウイグルの地方の言葉が母国語でしたがその両方の言語の意味を深く理解し、それを見事な漢訳の言葉に磨き上げたことです。これは仏教の真意を深く理解し、それを透徹させてシンプルになっているからこそ顕れた言葉です。これは意味を変えないままに言葉と事実の折り合いをつけその中庸のまま中心が本当はどういう意味かという真意を的確に理解しているからこそできたものです。これによって仏の道に入りやすくなったということに厚い徳を感じます。

今でも私たちはそのころに漢訳されたお経を読んで生活しています。西暦400年ごろから今でも変わらずそれが普遍的に読み継がれるのはそれだけその言葉が磨かれ本質的であるということの証明でもあります。そこから約200年後、三蔵法師で有名な玄奘三蔵はこの観音経の真言を「ava(遍く)+lokita(見る)+īśvara(自在な人)」とし観自在菩薩と訳します。つまり鳩摩羅什による旧訳では観世音菩薩とし、玄奘三蔵の新訳では観自在菩薩となりました。

それを私の観音経の解釈では「円転自在に物事の観方を福に循環する徳力がある」と現代に訳します。つまり、自分の物事の観方を変えて、すべてのことを福に転換できるほどの素直さがある仏ということです。これは観直菩薩でもいいし、調音菩薩でもいい、観福菩薩でも、そう考えて訳している中で当時最もその人が深く理解したものを言葉にしたのでしょう。大事なのは、その意味を味わい深く理解し自分のものにしていくということが親しむことであるしそのものに近づいていくことのようにも思います。

最初の観音様の真言に戻れば、観音菩薩の真言は「オン アロリキャ ソワカ」は「Om arolik svaha」といいます。これもまた私が勝手に現代語に意訳してみるとこうなります。

「おん」=私のいのちそのものが

「あろりきゃ」=穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを

「そわか」=心からいのります

『私のいのちそのものが穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを心からいのります。』

とにかく「善く澄ます」ことということです。実際にその言葉の意味をどのように訳するかは、その人の生き方によって決まります。その人がどのような生き方を人生でするかはその人次第です。それは自分でしか獲得できませんし、他人にはどうにもできないものです。しかし、先人である観音様がどのように生きたのか、そしてどのような知恵があって自ら、或いは周囲の人々を導き救ってきたか、それは今もお手本にできるのです。

私たちが目指したお手本の生き方に観音様がとても参考になったというのは、私たちのルーツ「やまと心」が何を最も大事にしてきたのかということの余韻でもあります。

時代が変わっても、響いて伝わってくる本質が失われないように生き方で伝承していきたいと思います。

 

 

謙虚さ

時間の経過を観察していると様々なことがわかってきます。自然界ではありのままに移るので道理に従っていることが自明します。人間関係においては、どのような思い込みであったのかということも次第に明らかになってきます。人間はそれぞれの観念や思い込み、あるいは自分の価値観で相手を見ますから都合よく認識するものです。

思い込みが発生するのは、自分の感情が大きく影響するものです。ありのままのことをあるがままに受け入れることは素直な感情です。しかしそこに自分の過去のトラウマや、こうなってほしいという願望などが入ってくると現実を歪めてしまうものです。

特に執着などがあれば、その執着ゆえに事実も受け入れられず様々な問題をつくりだしていきます。執着を手放すといってもそう簡単には執着はなくなりません。思い込みもまたこだわりや思いの強さでもあったりするので、善悪で考えられるものでもありません。

しかし真に豊かであったり、真の喜びのさなかに入ればそれぞれの存在を丸ごと味わうといういのちの姿になっていくとき執着も思い込みも中和されていくものです。

真心を盡したり、人を大切にしたり、ご縁を丁寧に結んだりしていく人は、様々なことを調えていくことができるように思います。しかし、強い思いで何かに取り組むときはどうしても心がほかのことに使われてしまいそれができないものです。

謙虚さというものは、そういう時に磨かれるもののように思います。自分の力でやっているけれど、それは大きな力をいただいてさせていただいているという感覚。主語を自分にせずに、主体を全体にして自分もその中の一部になるような感覚。

そういう無我というか、真我の境地のなかにこそ思い込みを超えたやさしさや思いやりがあるように思います。

人生は色々な方法でその境地にアプローチできるように思います。日々の学びを磨き、自分らしく自分のままにいのちを歩んでいきたいと思います。

命の経済と徳の循環する経済

ジャックアタリ氏という人物がいます。この方は、1943年、アルジェリアの首都アルジェ生まれで思想家、経済学者、文筆家と言われます。具体的にはフランスのミッテラン元大統領の経済顧問を務めた後、欧州復興開発銀行の初代総裁、経済成長に関する仏政府委員会委員長などを歴任されています。

最近、「レコノミー・ド・ラ・ビー(命の経済)」という著書が出て早速購入してみました。すると、私の目指している徳積循環経済や暮らしフルネスに近いことが書かれていて驚きました。

知の巨人による近未来の予測は、現実的には歴史に則ったもののように私は思います。ジャックアタリ氏も、利己主義がつくりあげた経済ではなく利他的なものが必要ではないかと、私は二元論は嫌いなのですが敢えて両輪という言い方をし、片方だけではなく同時にもう片方の車輪をまわしていく必要性を実践で伝えています。

ジャックアタリ氏の命の経済にはこういう文があります。

「私が今後の世界で鍵となると考えるのが「利他主義」だ。他人のために尽くすことが、めぐりめぐって結局は自らの利益になる。例えばマスクを考えてみよう。他人を感染から守るために着けるが、同様に他人も着ければ自分の身を守ることにつながる。「利己的な利他主義」の好例だ。自らに利益がなければ、人は利他的になりにくい。外出制限は利他主義の対極にある。自己の中に閉じこもるだけの愚策であり、経済危機も引き起こした。パンデミック後の世界は他者としての将来世代の利益を考慮しなければならない。何が将来世代にとって重要なのか。政治家らも考える時だ。人類の安全保障や将来のため、生活のあり方や思考法を変えて「命の経済」に向かわなければならない。新型ウイルスに限らず、気候変動による危機なども叫ばれる中、国際社会には総力を挙げた取り組みが求められている。」

言い換えれば、もっと子孫のための経済をつくろうということです。縦の糸のことです。本来は、縦軸という連綿と続いてきた人類が最初からずっと大切にしてきた徳の循環があってその中に横軸としての地球規模というものがあるということです。

利己的というのは、今の自分たちの世代のことしか考えず判断したり行動することです。それぞれ一人一人が、己に打ち克ち己を律するのは子どもたちや子孫のことがあるからです。

将来世代のことを思えば、自分たちはもう一度今の暮らしそのものを見つめ直す必要があると感じています。それが私の提唱する暮らしフルネスです。暮らしを変えていけば、おのずから生き方も変わります。暮らしは、人の生き方の顕現したものであり、どのような暮らしを続けるかは子孫に譲り残していきたい徳を積むことになります。

まさに今の時代は、誰かに依存したり特定のリーダーや国家に命を委ねるのではなく自らの命を自らが責任を持ち、いのちが喜び合うような社会づくりをみんなでできるところから実践していく必要を感じます。

暮らしフルネスの実践を使命感をもって取り組んでいきたいと思います。

場の伝承

むかしの遺跡に巡り会うとそこには色々な人たちの思いが結ばれている痕跡があります。かつての人がどんな思いを持ってその場に関わったのか、そこには物語があり歴史があります。

静かに思いをその場所に佇み、巡らせているとその場所から聴こえてくる音があります。この音こそ思いの本体であり、その音を聴くことによって人々は心が結ばれ調和していくようにも思います。

この音とは、物語でありその物語をどのような心境で聴いたかという生き方が顕現したものです。私たちは生きていると、手触り感というものを感じます。体がある感覚であり、それを触れるという感触です。いのちはこの感覚を通して生きていることの実感を得られます。物語というのは、まさにその感覚の集合体でありその物語に触れるときに人は感覚が目覚めるともいえます。

遺跡というものは、触れることによって目覚めていきます。教科書や本に書いているものをみても伝わってはきません。その場所にいき、お手入れをしてこそ感じられるものです。

そもそも修養するということや、修行をするというのもその場所によって磨かれるものです。その場所とご縁を結び、その場所から感得したものを共感し伝承していくなかで顕在化していきます。

その感性は、五感や第六感と呼ばれるものによって得られており知識ではなく知恵であることは自明の理です。

本来のあるべき姿、人々が何千年も前からどのように様々な知恵を伝承してきたか。その仕組みは、知恵を知恵のままに感受するものです。

子どもたちの未来のためにも、本来の伝道や伝承が知識にならないように実践を継承していきたいと思います。

即興と甦生

私は場を研究し、実践するので即興であることが多くなります。この即興は、辞書をひくと「型にとらわれず自由に思うままに作り上げる、作り上げていく動きや演奏、またその手法のこと」をいいます。また音楽、詩作、舞踊、演劇などの分野では「事前の準備なく、その場で作り、その場で表現すること」を意図して使われるとあります。

これは常識やそれまでの通念よりもその「場」の持つ空氣を優先するということです。世間から常識知らずや刷り込みがないとかも言われ、時として誤解されて批判されることが多いのですがそれでも場からの声や、場が喜んでいるかどうかを優先していきます。

私が古民家甦生するときも、基本は常識に従って丁寧に甦生していきます。町家であれば町家、農家であれば農家のようにと最初は型かた入ります。そのあと、その家の歴史や立地、そしてそれまでの物語やご縁や関係性が出てくるなかでその家の独自性やその家の持つ初心のようなものをくみ取っていきます。その声に従いながら即興で工事や大工をしていきながら最後はその家そのもののいのちが循環するように調えて仕上げていきます。これは場を優先している私の甦生の特徴です。

先人たちの知恵を尊重しながらも、今はこうあったほうがいいというのができるのはその先人たちと同じ心を伝承しているからです。その心の伝承は純度が必要でどれくらい、本気の覚悟で先人とともに歩んでいるかということも問われます。

この時代に今も先人がそのまま生きているとしたら、どうするかということを突き詰めるのです。私が即興を重んじるのは、即興かそうではないかではなく先人ならどうするか、今、私も先人と同じならどのような決断をするかと正対していると次第に即興になり柔軟に判断していくことが増えるだけです。

時代は移ろい、本質もその時々で変化します。本質が変化するのは、それだけ全体快適であるか、どれだけの視野で決めるかが微細に左右されていくからです。最後は、純粋に穢れや曇りのない初心で決断していくしかありませんがその直感に頼るときまたそれが外から観たら即興に感じられるということでしょう。

自分の即興、直感は先人の真心とつながっていると信じてこれからも甦生に取り組んでいきたいと思います。

いつまでもご縁

人生は出会いと別れの連続で存在しています。生まれる前から出会いが始まり、死んでも別れは終わりません。常にご縁に生き、ご縁に死に、生死をめぐるご縁というものがあるだけです。そのご縁は、いろいろな理由をつけては関係性が結ばれますがある時には親子になり、またある時には夫婦になり、またある時には敵味方に分かれていきます。

その関係の中で、お互いに生き方を重ねながら学びあっていきます。学びあうというのは、成長しあうということでもあり一緒にご縁を磨きあっていのちを分け合っていきます。

このいのちの分け合いというのはご縁の本体でもあります。どのようにお互いのいのちを分けたのか、分け合ってきた歴史こそご縁の軌跡でもあります。その分け合ったいのちが、次の何のいのちに結ばれていくのか。それは出会い別れを繰り返しながらかたちを変えては循環していきます。このいのちの循環こそが、ご縁の素晴らしさであり奇跡です。

この今も、私たちは何かを食べ、そして飲み、空気を吸って吐いてはいのちを保っています。これも何かのご縁でそうなっていて、また私たちはそのいのちを分け合い新たないのちに甦生させています。

そもそも甦生というのは、いのちが循環することをいいます。私はいのちとしてそのものを感受し、そのいのちを新たないのちとして結び直すことを意識して暮らしを紡いでいます。本来、自然がわかるというのはこのいのちの道理や仕組みのままで存在しているということであり人間はそのとき、真の仕合せに気付けるように思います。

そしてそれを私は徳を積むとも定義しています。もともと存在するもの、そのいのちに感謝して新たないのちのご縁でいる。

いつまでもご縁であると思えば、この今のご縁を深く味わうことこそが人生の醍醐味であることに気づきます。子どもたちとのいのちのご縁がどうなっていくのか、とても楽しみです。

龍の徳

今朝がた、龍の夢を観ました。この龍は、想像上の生き物ですから私は実物は見たことがありません。なので夢の中の龍も水だけです。よく水墨画やアニメなどに描かれている蛇やワニのような姿ではなく私が観る龍はいつもその活動の余韻の方です。

例えば、今朝がたであれば龍が深い水の淵に潜んでいて水面に落ちたものを深く静かにゆっくりと吞み込んでいきます。すると、水が動き始め滑らかに緩やかに滑るように大きな揺らぎや流れをつくります。その水の流れ方が、まるで蛇のように蛇行しそしてぞっとするような静けさと佇まいを放ちます。まるで、とても大きなものが動いたような水の動きです。その時、私はそこに龍が潜んでいるのを直観するというものです。これは夢ですが、似たような経験を何度も深い池の淵や山間の溜池、大きな川の深いところで感じたことがあります。

この龍というのは、水の化身のようなものです。この時機は、七十二候では雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)に入ります。これは春雷のことです。この春雷を呼ぶのは何か、それは龍であるといわれます。

秋の終わり頃から冬の間、深い淵に潜んでいた龍が雲の上へとあがっていきます。春霞のうちにきっと天に昇ったのでしょう。そして雲の上で活動をし、雷をつくるのです、この雷は稲を助け、田んぼに豊作の兆しを導きます。そして田んぼを見守り秋になると、雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)となってまた水中に帰ってきます。

この水の運行をむかしの人たちは龍と呼んだようにも思います。水のカタチは一つではありません。雨だけでも千差万別の様相があり、霧や霞、そして川の流れ、滝、海に至るまでその姿は微細なものからダイナミックなものまであらゆる姿に変化していきます。

まさにその姿こそ龍の本体であり、その本体を人が直観するとき龍を観たとなったのではないかと私は思うのです。人間の身体も水が流れていますし、すべてのいのちは水が橋渡しをして結んでいきます。

4月1日ですから、エイプリルフールでもあるので今朝龍を観たといってもみんな笑って聞いてくれると思います。みんなの龍はどのような龍なのか、それぞれの龍をもつ人たちがその水の徳に感謝して偉大な龍の流れを味わっていけたらいいなと思います。

この日本に産まれ育ったこと、そして新たな一日になることに感謝しています。