初心伝承の人生

誕生日を迎え、多くの友人たちからお祝いのメッセージをいただきました。思い返せば、あっという間にこの歳まで過ごしてきました。日にちでいえば、赤ちゃんとして外の世界に出てきてから17194日目になります。また今日もその日に一日を積み重ねていきます。あと何日、この世で体験できるのか。そう思うと、貴重な日々を過ごしていることを思い大切にしたいと願うようになります。

誕生日というのは、そういう日々を過ごす原点を思い出しこれまでの日々に感謝する日かもしれません。どの一日も、よく考えてみたら当たり前の一日ではなく尊い日々です。

その時々の人と出会い、語り、何かを共にする。いのちを使い、いのちを守るために、他のいのちをいただいて暮らしを紡いでいく。どの日々もつながっていないものはなく、どの日々も結ばれていないものはない。

一日一日をリセットしているようで、それはリセットではなく新たな一日をさらに新しく体験させていただいているということになります。そして身体も衰え、次第に死に向かっていきます。死を想う時、この今が如何にかけがえのない一日かは誰でもわかります。

一日を何に使って生きるのか、自分のすべての日にちをどんなことに懸けて生きるのか。

有難い一日にかけがえのない喜びを感じているとき、人は仕合せに回帰します。どのような一日であったとしても、その一日は二度と戻ってこない一日。一期一会だからこそ、生き方を見つめ、生き方からいのちを発して光を放っていきたいと思います。

我が初心伝承の人生。

残りの日数で、できる限り真心で尽力していく覚悟です。

先祖返り

先祖返りという言葉があります。これは一般的には何代も前の先祖がもっていた遺伝上の形質が、突然その子孫のある個体に現れることをいいます。人間以外でも、植物や虫、動物などにも起きる出来事です。この先祖帰りというのは、原点回帰ともいえます。本来の姿がどうであったのかを思い出すのです。

もしも歴史を巻き戻すとしたらどうなるか、そうするとみんな先祖返りします。その時の先祖になるのです。時代は何回もそれを繰り返し、歴史を新しくしてきました。歴史が新たになることでまたやり直してきました。文明実験というものは、人間の一つの挑戦でもあります。

過去の遺跡が世界中のあちこちに遺っていますが、どれもむかしは大きな文明が栄えた跡です。その跡をみると、なぜ今、こうなっているのか。その時は一体どうやっていたのかということに思いを馳せます。

考古知新というのは、そのむかしを思い、そして今を知るために必要なことです。そして先祖返りとは、今を見つめ直しこの先の未来のためにもう一度、歴史から学んだ最も徳で治まった豊かで幸福な時代に原点回帰して結び直そうというという試みです。

こういう試みを遺伝子を含め、いのちは生き残るために何度も繰り返してきました。変化成長し、発展するようにできていると同時に原点回帰できるようにもなっているのです。それが変化そのものの本質であり、私たちがいのちのリレーをし循環のなかで生きている証拠でもあります。この多様化というものは、変化に適応するためです。この変化は、環境の変化もありますが精神の変化というものも同時にあるように思います。

これから精神がどう変化していくのか、環境問題とは別に精神問題というものがあります。だからこそ私たちは、かつて先祖たちがどのような精神で真の豊かさを築いたていこうとしたか、子孫に何を祈り、徳を積んできたのかを学び直す必要性を感じています。

世界にとって日本という場所と日本人は、とても大切な役割を果たします。子孫をことを考えれば、ツケを遺す生き方ではなく徳を遺す生き方に転換していきたいものです。先祖返りはもっとも尊敬する偉大な先祖の心に触れるところからはじまります。人間的にも成熟し、知恵を磨き、徳を養う、そういう先祖に近づけるように先祖返りの人々と志を合わせて結を繋いでいきたいと思います。

徳の道

天道と人道というものがあります。天の運行に対して、人の定めともいうのかもしれません。その中心にあるものは徳です。そしてその徳の循環を道とも呼びました。この道徳というものは、すべての根源でもあります。そして天と人を結んでいるもの、それを道徳と経済ともいいました。

本来、自然の循環と一緒一体になりながらその中でどのように私たちは暮らしてきたのか。自然の利子をいただいて、その分だけを有難くいただき足るを知り倹約をしてその豊かさの真実を観るというのが徳の道に入る原点かもしれません。

私は幸運なことに、自然のいのちが喜び合う風景を何度も観る機会をいただいています。すべてが喜びあう世界は、とても調和しそこには徳が満ち溢れています。羅網のような結び合いとつながりの世界です。

本来、むかしの人は目の前の小さなご縁が宇宙全体に結ばれているのを直観していたのではないかと思います。夜空の星をみては、その星の結びつきを感じる。そして身近な小さな植物の変化で気候の全体を直観する。それくらい私たちは身近なものの徳を感じ、その徳が循環するなかで如何に日々を暮らしていくかを考えていたのです。

本来、経済という言葉は経世済民であり世の中を自然になるように修養することです。自然であるというは、自然の循環を邪魔せず如何に調えるかということです。山が調和して神聖であるように私たちの先祖は自然の調律を丹誠を籠めて感謝し調和させていた暮らしをしていたように思います。

現代は、なんでも人間の都合を優先し効率第一で画一化、均一化したことでその循環は見事に破壊されていきました。その結果として、徳が失われていきました。この徳というのは、日々の小さな心がけがもっとも効果があります。そしてそれは自分のいのちを調え、健康に仕合せに生きるためにも必要なことです。

未病と言って、病気を未然に防ぐにも日ごろの暮らしをととのえていくのが一番であるように徳もまた得だけを回す車輪にならないように徳と得の両輪を丁寧に回していく必要があります。

その両輪が走るところは道です。その道は、元々あった普遍的な道があります。その道が逸れてしまいそうなら軌道修正してまた元の道に戻る必要があります。そうやって今も私たちは歴史を創っているからです。

先人の人たちの歩んできた道を尊敬し、子孫たちのための道を尊重する。そのために今の私たちはどのような道を歩んでいるのかを反省し改善する。この繰り返しで、徳は醸成されていきました。徳の道を精進していきたいと思います。

人間らしさ

人間らしさとは何か、それは感性を磨くことで顕れるように思います。もともとの姿が最初にあって、それが次第にわからなくなってくる。その分からなくなってきたものを思い出すためにも私たちは原点を学びます。その原点の中に、真の人間らしさがあるように思います。

例えば、私たちの五感や六感という感覚があります。この感覚は、頭ではわからず体験を通して実感するものです。体験というのは、全身全霊で感じるということです。それをしているうちに、自分がどういうものであるのか感じているさなかに驚きと共に実感できるものです。そこには心がありいのちがあり、繋がりなどもあります。

言語化するというのは、ある意味この体験を形式知にして分類分けするものです。そうなると体験そのもののままでないため、人間らしさというものから遠ざかっていきます。

私たちの身体的感覚というのはとても正直で他の動植物や昆虫のように本能のままに存在します。私たちは手を使いますが、この手もまたなぜこのように動くのか、そしてその手をどのようなことに使うのかでその人の人間性をはじめ人間らしさとなるのです。

自分の根源的なもの、その原点のようなものを人間が感じられるときにこそ人間らしさが出てくるということでしょう。

最近は、あまり感覚を使うことがなくなりそれを機械や便利な道具にさせることによって余計に人間らしさが失われてきているように思います。感覚が失われた世界が、新しい世界だとすると人間らしさはますます消失していくように思います。

AIや道具ができないこと、それは人間らしさでしょう。人間も自然の一部ですから、自然から離れずに人間の感覚を大切にして進化発展していきたいと感じます。

子どもたちにもこの体験というものを通して、人間性や人間力、人間らしさが磨けるように場をととのえていきたいと思います。

不思議さ

一昨日から長いお付き合いのあるメンターの方が場の道場に来られています。御年85歳ですが、まったく年齢を感じさせず目もキラキラとまるで10代のようです。一期一会の哲学を教えていただいてからメンターとして尊敬して、何度か生き方をみせていただきました。その御蔭で、私も将来、どのように生きていけばいいかの指針をいただきました。

メンター自身も親の介護があり、またコロナもあったのでほとんど移動もせずに生活していたこともお聴きしました。しかし、相変わらずの好奇心であらゆる体験を大切に学び、体験から得られた驚きをたくさん私にしていただきました。

この体験からの驚き、まさに好奇心ですが英語ではセンスオブワンダーともいわれます。この解釈は色々とありますが、神秘的な体験としてもいいし、五感をフル稼働して直観的に得られる体験でもいいですがそのどれもが不思議だという驚きと共にあるものです。

私たちは生きていく中で、不思議だと思う感覚や驚くことが減ってくるものです。知識が増えれば増えるほどに、経験をすればするほどに驚きは減っていきます。

私もよく文章や言葉で伝えることも多いのですが、不思議さが観えない人たちはよくだいたい分かったという言い方をします。何がだいたい分かったのかもよくわかりませんが、そのだいたい分かったという言葉が不思議な言葉だなと感じることもあります。

そもそも不思議なことを不思議なままに理解するというのは、純粋な心が必要です。まるで子どもが最初にこの世の自然の道理や現象に触れた時のように驚きの連続です。

冷たいものを触って冷たいと感じる、誰かに声をかけられて耳に音が入ってくる、そして目に映像がうつってくる、そんな驚き、不思議さに触れた感動です。

そういう感動をいつまでも忘れないことは、私たちがいつまでも瑞々しい感性で神秘や不思議を追い求める子どものような心を持っているということでもあります。

私は子ども第一義を理念に、子どもに遺したい憧れた生き方や働き方、あるいは子孫への徳を伝承したいと思っていますからこのメンターの実践は尊敬し私もそうありたいと思うものです。

一期一会に生きるというのは、不思議さや神秘性、そしてご縁を結んでいく生き方です。いつも有難い邂逅とご縁に感謝しています。これからも驚きを味わい、豊かで仕合せなご縁を結んでいきたいと思います。

供養の心

昨日は、郷里の落雁を製造する友人のところで落雁づくりをみんなで体験してきました。米粉に砂糖、あとは水を混ぜ合わせ、菓子型にいれて固めてから取り出し乾燥させるというシンプルな手仕事です。

しかしシンプルな手仕事はとても奥が深く、味わいがあるものでした。落雁のことはこのブログでも以前書きましたが、日本古来からある伝統の和菓子です。お寺にはきってもきれない関係があり今も大切にされています。

現代は、見た目が落雁である落雁風のものも増えています。本来は、砂糖がなかった古代において甘いものというのは大変貴重で高価なものです。それをまず仏様にお供えするという心が落雁には宿っています。

このお供えというのは、感謝の気持ちそのものを伝えるものです。今の自分があるのは、その前の有難い何かをいただいたことからはじまっている。そのものに深く感謝をする気持ちがお供えをする心でもあります。

亡くなった人や、もう随分前にお世話になった人にはそこでお会いすることも直接感謝することも物理的にはできません。だからこそ、心を伝え、心で接するようになるのだと思います。

心で接する時、心は体と一体ですから心を籠めて手仕事をすればそのものに心が宿るのです。心は宿ったものをお供えすればその心は、感謝というものに転換され届けることができるのです。

お供えものをお供えする側の心の中に、相手の心もあります。心というのは通じ合うことで伝わりますから、自分の心が通じ合うように調えることはとても大切なことだと私は思います。

宿坊で、供養の心を伝えていこうと考えていましたが落雁はとてもいい体験になるように思います。子どもたちに、先人たちの心、そして今を生きる私たちが大切にしていきたい心を伝えていきたいと思います。

生き方の病気

人は知らず知らずに病気になります。その病気は、肉体だけでなく人生の生き方の病気というものもあります。この生き方の病気というのは、魔が差すような甘い汁を吸ってしまうことが当たり前になってしまったり、肉体であれば便利すぎる環境で生活習慣病で自堕落したりするものもあります。常に心身を身ぎれいにし、日々に調えていくことは、本来の健康とは何かを磨き続けることです。

つい自分の都合で周りがやっているから自分も大丈夫だろうとしたり、誰かのせいにしてその仕返しにと勝手な正義を振りかざしてしまうと何が真に正しく、何が本質なのかもわからなくなってしまうものです。うまく見せようとしたり、周囲への見せ方がうまくなってくると嘘で塗り固めているうちに嘘が本当のように勘違いしてしまうものです。

生きていれば必ず周囲の影響を受けてしまいます。それくらい今の時代は、純粋性を保つことが難しい時代ともいえます。例えば、食べ方一つ、お金の稼ぎ方一つ、日々の過ごし方、人への接し方、暮らし方などはすべて生き方から出てくるものです。自分の生き方が、歪まないようにするには自分の初心を確かめたり、周囲に耳を傾ける謙虚さがあったり、間違っていないかと畏れたりと、平常心を意識して反省し改善を続ける必要があります。それでも必ず知らず知らずに無意識に歪むものです。人間はそういうものです。すると何かしらの出来事があって、半強制的に反省させられるものです。そしてその時に反省して悔い改めても、それがきちんとすぐに実行、改善され続けられなければまた同じことが別のカタチになって繰り返されるのです。

王陽明にこういう言葉があります。

『反省は病を治す薬だが、大事なのは過ちを改めるということだ。もし悔いにとらわれているだけなら、その薬が元で別の病がおこる。』

薬だけで治るのではなく、本当に自分が治すのだと決意して生活習慣病や生き方の方を改善しなければ必ずまた同じことが別のことで発生するということです。周りに流されたり周りのせいにする前に、自分自身が自分自身を正し続けるという修養に集中するしかありません。

ある意味、人は誰でも失敗や後悔を通して人は生き方を見つめ直す機会を神様や天に戴きます。それはとても恵まれていることで、いつも見守られているともいえます。その時に、本当に素直な人は気づいてすぐに反省し変わります。人は変わる生き物ですから、その時々に変わったものが真の価値なのです。

失敗や後悔をして別の方法を探す前に、「もう二度とこの生き方はしない」と心に決めて後は行動、実践していけば改善が福になり運も善くなります。運が善くなるというのは、自然の運行、天地の道理にかなってくるということです。

自分が真に自分らしく自分の道を歩んでいくためにも、反省させていただけることに感謝して謙虚に素直に改善していきたいと思います。

ありがとうございます。

子孫のために今できること

ものづくりをするとき、捨てることを考えてものづくりするよりも売れるものを考えてものづくりを優先するところがほとんどです。その結果、大量のゴミが発生します。しかも、そのゴミの中には分解できないようなものもあります。それはそのまま土に埋めたりしていますが、何万年も何十万年も土の中で分解されずに循環しない環境にしてしまう有害なものが多くあります。

みんながそんなことをしていたら、この地球には循環しない場所がたくさんうまれその後処理に子孫たちが大変な思いをするということが予想されます。

私は空き家のことや古民家甦生を通して、それを実感してきました。本来は、子孫のためにと先人たちが知恵を結晶して建てたものが今では負の遺産となり破壊され続けています。そしてその逆に、環境を汚し後片付けもできないような建物ばかりを建てています。

自分の子ども、そしてその先のずっと子ども、孫たちや子孫たちがどんな思いをするのか、想像力が欠落してしまっている現代ではまるで空気のように当たり前になってしまい解決しようとすることもありません。

それくらい今は、消費経済、資本主義の流れを換えることができません。自転車操業をして今の体制で走り続けなければこけてしまうからです。一度、コロナで立ち止まってもまた周囲の流れに乗っかってしまい元の木阿弥です。

では孫たちのために、子孫たちのためにどうすればいいのか。

それは私は徳積循環経済を創るしかないと思っています。今の循環を換えるのです。ちゃんといのちや、純粋な子どもの心のような思いが循環していく世のなかにしていくのです。そのためには、どうにかしてでも別の流れを仲間を集めみんなで創っていくのです。

それが私の考える結づくりの意味です。

本当は、そうやって先祖代々、先人たちは孫や子孫のために本当の経世済民に尽力してきました。石田梅岩が倹約を中心にしたのも、二宮尊徳が報徳を中心にしたのも、三浦梅園が正徳といったのも、渋沢栄一が道徳経済合一としたのもすべては子孫のためです。

今の自分のことだけ、自分の世代だけのために経済をやるというのはあまりにも寂しいことだと思います。そしていつまでもそれをやっていたら、冒頭で話したようにいつの日か子孫たちに大きなツケをまわしてしまいます。それは先人たちも先祖も望んでいないことは簡単に想像できます。

だからこそ、私たちは今こそその本質に気づき徳積循環経済に舵を切る必要があると思います。これは、誰にでもできることですしすぐにでも実践できるものです。しかし一人では流れを換えるまではかなりの時間がかかります。だからこそ、みんなで結づくりをしてその勢いを強くする必要があると私は思います。

この場所で、まずはその徳積循環経済をつくる体験と結に参加してほしいと思います。子どもたちの未来のために、今しかやれないこと、自分にしかできないことをご一緒していきたいと思います。

貝に導かれる人生

昨日から私が尊敬する友人が来庵しています。この方は、真言宗の僧侶で法螺貝を愛する人物ですが生き方が共感することが多く話をお聴きして学ぶことや気づきをたくさんいただけます。

もともと法螺貝の音色もとても情熱的でまっすぐで、その振動は全身から汗がでてくるように水を揺らします。夜中まで法螺貝談義で盛り上がりましたが、その中でも特に貝に導かれる人生についてのところは有難い気持ちになりました。

私の貝との最初の出会いは、宮崎の日南海岸です。出張で、車で海岸沿いを走っていたら海の中に光る不思議なものを発見し、スーツでしたがズボンをまくり上げて数十メートルの浅瀬を歩いていき手を伸ばした先に小さな巻貝がありました。

その体験の時の出会いが忘れられず、終生お守りとして大事に保管しています。その後の留学や海外での仕事、東京での一人暮らしのときもこの巻貝をいつも持って一緒に暮らしてきました。眠れないときは、耳に当て海を感じ、一期一会を思い出すときは手にとってお手入れをしていました。

そこからは千葉で貝磨きの方と出会い、貝を磨くことで光ることを学び、素晴らしい貝に出会うと磨き上げていました。そして、気が付けば法螺貝に出会い、法螺貝を磨き吹くことで多くの人たちとの出会いがはじまりました。

尊敬する友人も、法螺貝に導かれる人生を送られていました。幼いころにお父さんが吹いていた法螺貝に憧れ、そこから法螺貝に魅了され修行を積まれます。今では、貝がどのようにしてほしいかを直感し、貝の手入れをされ指導や修繕などを手掛けられます。

あくまで法螺貝を優先するので、法螺貝を売るのではなく法螺貝の声を届けるという生き方です。

私も古民家甦生をはじめ、あらゆるものの古いもの、懐かしいものの声を届けることを実践しています。それは同じ感覚で、古民家を売り買いしたいのではなく家がどうしたら喜ぶか、そしてこのいのちがどうやったら甦生するかということしか興味もなく、行動もしません。

たまにこれを仕事にすれば儲かるなどという人もいますが、そもそも動機や目的が子ども第一義からきているものですから、生き方が純粋でなければ、そして本志本業が一致していなければ生きている意味がありません。

生き方というものは、昔の人たちはとても大切にしていました。自分を守るために、切腹するほどに大切な生き方を優先していました。自分を守るということは、自分の純真や純粋性を守るということにほかなりません。

私の周囲には、そういう方がたくさんおられます。私自身も刺激され、生き方を磨く環境をたくさんいただけています。今回も、貝がつないでくれたご縁です。ありがたく、貝の声を聴き届けていきたいと思っています。

法螺貝に感謝して、法螺貝とともにこれからも歩んでいきたいと思います。

徳が循環する結づくり

昨日は、伝統固定種の堀池高菜を収穫しました。もともと30年間、耕作放棄地だったところを畑にし無肥料無農薬でもう10年以上になりますが今年の出来栄えもまた素晴らしいものでした。

虫もほとんどついておらず、葉も青々とし、茎などはまるで樹木のような頑丈さ。鎌で刈り取るとその周辺には高菜の香ばしい香りが満ちてきます。今回は、一緒に取り組んでいる仲間も参加しみんなで和気あいあいと畑ライフを楽しみました。

みんなで畑で歓声をあげながら、高菜の出来栄えを喜びそして分け合うと深い喜びと仕合せを感じます。種を蒔いてから半年間の間、猪被害に遭い、草とりもあり、何度も足を運んだことが報われる瞬間です。昨日はそのまま高菜を天日干しにし、高菜漬けをつくりこのあと古漬け作業に入ります。

高菜漬けもまたみんなで行いましたが、こうやって素材そのものが出来上がるプロセス、そして素材が美味しいままにみんなと分かち合える仕合せ。これはゼロから生産するからこそ味わえるものです。

私たちはいのちのバトンというものを繋いでいく存在でもあります。そのバトンをつなぐことが大切なのは当然ですが、実際にはそのバトンをつなぐまでの喜びが仕合せが幸福でもあります。

与えられた場所で、与えられた種と共に一緒に育ちあい、そして一喜一憂しながらも様々な物語を体験し感謝してみんなと分け合う。こんな仕合せは他にはありません。

私はこのような取り組みをする仲間を集めたいと、徳が循環する結づくりをしています。それが子どもを見守ることになり、私のバトンをつなぐことにもなります。

この人生は、自分のものですが自分だけのものではない。いのちはみんなのものであり、みんなとつながるなかで私たちはその恩恵や恩徳を実感できるのです。

私にとって今日の日は、特別な日の一日でもあります。陽気な春の気配と、ひなたの喜び、いのちがイキイキと躍動して仕合せを分け合える日。こういう素晴らしい日のような心のままに歩んでいきたいと思います。