懐かしさとは

むかしの遺跡や和歌を深めていると、その時の情景や心情がどうだったのだろうかと感じるものです。今は、ほとんど景色も様変わりしており、遺跡の周囲は近代的な建物や資材置き場など価値のない場所として使われています。そもそもこの価値が変わってしまい、昨日ブログでも書いた種よりもお金が大事になり、歴史よりも経済が大事になればその土地の本来の価値も失われていくのは当然かもしれません。

私達が懐かしいと思うものは、ただ思い出があるものだけではありません。そこには、今にも「つながっている心」であったり、その当時から人間が持っている普遍的な情緒や感情、気持ちに「共感」するときに懐かしいと感じるのです。

この懐かしいという言葉は、慣れ親しむもの、手放したくないものという意味でもあります。つまり、いつまでも失いたくないもののことのことでしょう。

私達が懐かしいという言葉を語る時、忘れてはいけない初心や、いつまでも失いたくない大切な記憶のことをいうのです。

今の時代は、懐かしいものが減ってきています。ほとんど懐かしいという言葉を使うことがないほどに、なんでも新しくし、近代化を進め、過去を否定し、価値を換えてしまいました。

しかし、子孫のことを思う時、これはいつまでもなくしてほしくないもの、そして忘れてはいけないもの、そういう先人たちも一度きりの人生で深く味わった大切な体験をずっと宝ものとしていのちのままとして後世に伝承していけたらと思うのです。

伝承は、この懐かしさと一体になっているものです。

初心伝承をしながら、子どもたちに懐かしい未来をつないでいきたいと思います。

素直な生き方

先日、素直を座右にしている人とお話する機会がありました。自分の実体験でそのまま気づき感じたことを哲学にされておられそこから同じような体験が必要な人たちへ気づきを共有し導くようなお志事をされておられました。

考えてみると、自分の実体験というものはその人だけのものです。他の人では似た体験であっても同じ体験をすることはありません。それだけ人はその人だけの味、その人だけの人生の意味を送っているともいえます。その時、体験して気づいたこともその人だけのものです。しかしその気づいたものが大切で有難く、そして人生を変えてしまうような感動するものであればそれを伝えたい、共感したいと思うものです。

あるがままに感じたことをそのままに大切に生きるということは、とても素敵なことでありまさにそれが素直さであるようにも思います。ご縁というものもまた同様に、素直になることで味わい深くなるものです。そういう人は運に恵まれ運に運ばれ、運に導かれる人生になるようにも思います。

ご縁や運や素直さというものは、すべて繋がっているところに存在しているものです。その繋がっているところこそ、いのちの生きているところであり心が存在している在処です。

人は生き方というものがなぜ大切なのか、それはその人のいのちがそこにあるからです。生き方を優先できる人は、感性がいつまでも瑞々しくそして初々しいものです。初心を忘れずに、いつも本当の自分と対話し続けています。

自分と対話している人は、自分の喜びに気づきます。一日のはじまり、そして一日の終わりに自分に対して感謝することもできます。現代の日本は、自己肯定感が問題になっていて様々な事件を引き起こしているともいえます。人間は社会を形成する動物ですから、真に豊かな社会にするかは一人一人の自己肯定感の在り方にもかかっている気がします。

本来、みんなが素直に生きられるような認め合う世の中、素直であることを誇りにできるような正直な世の中になることが理想なのでしょう。教育に携わっているからこそ、自分の問題として社会のせいにせず、自分の責任として新たな「場」を創造していきたいと思います。

同じような生き方を志している人がいることは仕合せなことです。みんなで一緒に、子どもたちのためにも自分のできるところから実践を味わっていきたいと思います。

伝承の結

昨日、郷里の偉人でながのばあちゃんという名称で有名な長野路代さんとお会いしました。聴福庵に来庵いただき伝統や伝承の話を私たちのスタッフたちと4時間ほど語り合いましたが目的や想いを共有することができとても仕合せなお時間になりました。

また私が大切に育ててきた伝統固定種の堀池高菜を食べていただき、とても褒めていただきました。この高菜とのご縁のキッカケには深い悲しみがありましたが、供養で続けてきたいのちがこのタイミングで甦生していることに不思議さと有難さを感じています。

長野さんは、そのものがもつ素材本来の美味しさをつくりだしていくことに長けておられます。その加工の方法は現代の単なる大量生産のときの人工的な加工とは異なり、自然そのものを自然の知恵をつかって自然に加工をする方法を取ります。それは例えば、その地域独特な環境や風土、そして先人の知恵を結集してそのものがどうやったらさらに美味しくなるかを追求するのです。

想えば、先人たちはその場所にはその素材しかないものを工夫してどうやったら最高の状態で人々がその価値を味わえるかを追求してきました。それは魚、植物、木の実、野菜、野生動物や昆虫、あらゆるものをその土地にしかない味としてその素材を活かしきろうと創意工夫をしたのです。

本来の特産品というものは、他所からもってきて借りたものではなくその土地にしかないもの、その風土でしか味わえないもののことです。その価値をどう磨き上げるかというのが先人たちの伝統でした。その伝承をしっかりと受け継がれ、今でも時代に合わせて創意工夫をされている長野さんの経験や知恵はそのまま伝統食の根源と呼んでもいいものでした。

本来、調理というものはどういうものか、和食というものはどういうことか。その根源を突き詰めていけば、ある場所に辿り着きます。その場所は、日本人と日本の心、そして日本の風土であることは間違いありません。

私たちは今まで唯一無二の歴史を辿りそのなかで伝統を伝承してきました。それは、加工技術の中にも垣間見れます。例えば、私の取り組む漬物の伝統もどうやったら美味しくなるか、自然のもつ素材を味わいきるかを考えつくした形が今のものです。さらに言えば、今の高菜は改良された現代のものとは異なり歴史をもったあるがままの姿です。これ以上ないほどに完成されている自然体の高菜ほど見事なものはありません。

私は自然農でずっと育てていますが、この伝統固定種の高菜の御蔭で高菜とはここまで美味しいものだったのかということに気づいて感動し涙しました。これも伝統を受け継いだからこそ感じる実感です。他にも、私は古民家甦生をはじめあらゆる日本の暮らしを甦生していますが仕合せに包まれる豊かさに感動することばかりです。

私たちは日本文化という宝を持っています。その日本文化を語ることなしに、何を語るのか。その原点を忘れてお金儲けや便利さばかりを追求すれば、私たちは和食というその伝統も失うように思います。

子どもたちには、本物の調理、本来の日本の伝統を伝承していきたい。ますます私の覚悟や意識を再確認できました。この出会いに心から感謝しています。これから、この場所から伝承の結をはじめます。

徳積帳とご縁

私は結というものを通して様々なことを結びなおそうとしています。生きている間は、さまざまつながりがありその結び目に気付きます。それを丁寧にほどいてまた新たに結んでいくこと。ほどくことも結ぶことも生きていることの醍醐味であり、人生の妙味はそのご縁の最中にこそあるように思います。

振り返ってみると、産まれる前からいただいてきたご縁によって導かれ今があります。それをほどきながら新たな結びをつなげます。それを生きているときにまたほどければいいのですが、ほどけないものは次への持越しになります。次の持越したときに、あまりにも結び目がきつすぎたりすればほどけません。それに絡まり合っていたらそれも時期が来なければほどけません。

不思議なことですが一つほどけ、二つほどけ、周囲が、あるいは誰かが、もしくは何かが偶然におこり奇跡によってほどけるものがあります。ほどけたとき、みんながまたそこから結びなおして調えていく。美しい結び目ができれば喜び、複雑に絡み合えばまた執着する。人間というものは、こうやって何度も心の循環を繰り返していくように思います。

自然界というものも結んでいます。そして生死を繰り返してほどけていきます。連綿と網羅し繋がっているこの宇宙で私たちは何度も結んではほどいてそのいのちを循環させていくのです。

新たな結をつくるのに大切なことは、あまり強い結び目にならないことです。すぐにほどけるようなゆるいつながり、そして何かあればすぐに結べるような柔らかで寛容な結び目を繋がり続けること。

徳積帳でこれから行っていこうとしている、私の結の本質はこのほどくことと結ぶことの中の場にこそあります。ご縁に導かれるように、ご縁を味わい、ご縁とともにいのちのつながりを子どもたちに結びなおしていきたいと思います。

野性と呼吸

先日、呼吸法を体験する機会がありました。私たちは酸素を取り込んで呼吸していますが、取り込んでいるものは酸素だけではないことが体験するとわかります。身体の隅々まで、呼吸を行き渡させると全身の感覚が研ぎ澄まされていきます。

日頃は使うところを中心に呼吸は使われますが、改めてじっくりと意識して呼吸をするとそれがありとあらゆる感覚に用いられていることがわかります。特に毛細血管をはじめ全神経を活性化させていきます。

もともと私たちの人間は野生の知性を持っていました。今のように暖房設備や洋服がなくてもほとんど裸に近い状態で山野を駆け巡っていました。今の野生動物たちのように、自然に適応していく強靭な身体と精神力があったともいえます。

それが長い時間をかけて減退し、気が付くと心身をはじめ精神も軟弱になってきました。そのストレスから、様々なことを怖がり傷みに対する考え方も過敏になってきたようにも思います。

私達の祖父母、その先の明治のころの人たちの生き様や生き方、心身の強さをみたら驚くことがあります。すべてに対して今の平均的な元氣さよりも数段元気さを感じるからです。

産まれ育った環境が厳しいと、その分、生きる力や免疫力は研ぎ澄まされています。コンピューターや科学が発展していくなかで、突然大きな災害が発生してもしも電気が止まるのをはじめ水道やガソリン、ガスなど生命のパイプラインが使えないとなったらどうするのか。その時はあるもので生き延びていくしかありません。その時のあるものというのは、自分の肉体であることは大前提です。

自分の身体が強く、心も精神も鍛えているのなら多少の災害でも乗り越えていけます。それだけの日々の鍛錬をしていくことは今の時代は、なかなか現実的ではありません。しかし歴史を省みると、如何に平常時にもリスクに備えるか、それが先人の語る生きる知恵そのものでした。

自分の感覚が野生から離れないよう、私も色々と暮らしを試みていますがこの呼吸法もその一つにしていきたいと思います。子どもたちに安心して生き延びていける世の中にするためにも、リスクに備えていきたいと思います。

労を労う

労を労うという言葉があります。労が二つ使われますが、労は心身をつかって努力すること、労うはその苦労や骨折りに感謝していたわるという意味になります。この労うという言葉の語源は、奈良時代の上二段動詞「ねぐ(労ぐ)」で、神の心を和らげて加護を祈るという意味になります。その相手の労苦をいたわる言葉です。そこから「ねぎ(禰宜・神職の一つ、神の御心を休める者の意)」、「ねぎらう(労う」、「ねがふ(願ふ)」の言葉になったといいます。

よく考えてみると、生きていくというのは有難いことの連続です。食べて寝て起きて何かをするにも本当は大変なことです。病気になると余計にその労苦を感じます。当たり前ではないことを身体がやっていたことに気づくと労う気持ちが満ちてきます。

さらに日ごろは気力で何かを為し遂げようとします。志であったり夢であったり、努力をしては挑戦を続けています。その行いにおいて願いや祈りを働かせます。その願いや祈りを神様に届けようとする仲介役をするのなら確かに苦労やその努力に対して労わる心で接したいと思うものです。

報恩や報徳で真摯に努力精進していくことは、それ自体は喜びかもしれません。しかしそのために父母からいただいた身体をどのように大切にしたか。そしてそれを支えてくださっているすべてのいのちやその御蔭様に感謝しているか。そう思うと、この労を労うという言葉は個人に対してだけではなくすべての存在に対して有難くもったいないものへ行われていることに気づきます。

食べ物ひとつとっても、そこにはいろいろないのちの犠牲があります。ご苦労様ですという気持ちと、その苦労に対して供養する気持ち、感謝があります。

みんなが共にいのちとなって一体になりこの世で有難く生きていくということが心を和ませることにもなります。ただ苦労をしたことを思うのではなく、その苦労というものをみんなで行ったことに対する調和が和らげるということかもしれません。

和ませる和らげるという言葉に、和があてられているということが素晴らしいように思います。

和の心は、労を労うことからはじまります。

子どもたちにも和を感じられるような取り組みと場をこれからも醸成していきたいと思います。

人類の甦生

自然というのは毎日変化しています。変化しないものはありません。人間はあまりにも人工的なところに甘んじていくと、変化することを避けるようになるものです。例えば、都会にいけば冷暖房も完備され、大きなビルなどは総合空調です。毎日、建物の中に入ればいつもの温度でいつもの部屋、ビルに入っている飲食店も季節感などはなくずっと同じメニューです。そこに変化はほとんどなく、たまに何かお店が入ったり、人が変わったりすれば変化したと思うくらいです。

このような状況の中で日々を過ごしていると、変化しないことの方が当たり前になっていきます。先ほどのビルの総合空調であれば、温度が少しでも寒いとビル管理に連絡して寒いので温度をあげてと連絡します。昨日と比べて少しでも異なったことが変化ということになるのです。つまり人間は、自分の設定したいつもの状態であることの方が当たり前となってしまうとそうではないことがおかしなことになっているということです。

しかし自然界を観ていたらどうなっているのか、毎日、気候も温度もすべての自然物たちは季節の巡りで変化していきます。特に今の時機は三寒四温で日々に寒暖の変化が激しく、また植物たちも次々と芽生えてきています。その季節の巡りにあわせていこうとすると、毎日が変化です。常に変化する方が自然で当たり前になっているから、その状態に自分を合わせていくことの方が当たり前なのです。

この当たり前の違いというものが、自分の意識にとても大きな変化をつくります。人工的なものが当たり前の常識と、自然的なものが当たり前の常識とでは使っている感覚が異なるからです。前者は脳みそで少し考えて対応すれば終わりですが、後者は全身全霊と感覚を駆使しなければなりません。前者は変化しなくても済みますが、後者は常に変化でいないといけません。

生きる力というものは本来、地球で生き残る力です。大きな災害があったり、あらゆる自然の猛威のなかでも子孫へとつなげていく必要があります。それが世代の使命の一つです。

今の時代は、人工的な環境をつくり変化を止めてあらゆる生き物たちが絶滅しています。人間には都合のよい環境でしょうが、自然にとっては生きていけない変化しない環境を与えられます。自然と共に生き残ろうと選択してきたからこそ、人間の人工化に適応できないのです。

この先人類はどうなっていくのでしょうか。

子どもたちのことを思うと、変化することの大切さを真の意味で学ぶ場が必要だと感じます。私が暮らしフルネスに取り組むのもまた、その理由もあります。そして生き残るというのは実は仕合せになるということに似ています。ただ生きるのではなく、変化と共に生きることの仕合せがあるのです。全身全霊の感覚を使うことはいのちの充実でもあります。そうやっていのちが結ばれつながり地球と共にあるという安心感は格別であり唯一無二のこの世の楽園です。

子どもたちのためにも引き続き、人類の甦生に取り組んでいきたいと思います。

感情と心

怒りというものがあります。怒りには一次感情と二次感情というものがあるといわれます。表面上で怒るのは、自分の思っていたのと違うという感情や自分の価値観では当たり前である常識やこうあるべきというものと異なるときに防衛手段として怒るのです。しかし、その背景やその奥には悲しみや苦しみ、そして自分の心や魂などの叫びなどもあります。感情というものは、ある意味で心や魂の一次感情です。その奥にあるものこそがその発端になっている元にあるものでもあります。

人は感情をバネにして成長していくものです。喜怒哀楽があるように、その感情は心で感じたことを表出させさらにそれを外に出していくことで新たなものが入ってきます。感情をコントロール事が大事なのではなく、その感情を味わい内省することが感情を調えていくことにもなるように思います。

悲しみには時薬というものがあります。ずっと荒波のように荒れていることはできず、海が静かにさざ波だつように心も感情も一つになり修まります。宇宙の心がどうなっているのか、地球の心はどうなっているのか、味わうことは風に吹かれ、雨に打たれ、光を浴び、星々と月の影に触れると心に沁みます。

私たちは常日頃、天候や気候、季節の感情に触れてはそれを味わいその心の奥深さに触れていきます。私たちの心は偉大なものと結ばれていて、その結ばれているものが自然の偉大な恵みを循環させています。

感情を見つめると心が観えます。そして心を観つめていくと天命に気づきます。天命に気づけば穏やかです。目に見える現実を直視することは、真理を探究するのに似ています。その蔭にあるもの、隠れているもの、深遠を辿ると静けさが来ます。

あるがままの弱さ、甘さも受け止めて、その時々の感情の奥にある己心と正対して今に精進していきたいと思います。

カグヤの由来

カグヤという会社の名前はかぐや姫から名付けられています。これは1000年前も今と変わらず語り継がれるような物語を子どもたちに譲り遺していこうと名付けたものです。歴史や物語には、普遍的な本質がありそれが子どもたちの心に深く響きます。自然の篩にかけられて遺ってきた物語には時代を超えた生き方があるものです。その生き方を遺し、それをつなぎ、甦生するというのは偉大な経糸や縦軸の伝承になります。

このカグヤの「かぐ」というのは、古語では光を意味したともいわれます。「かげ」という字も光を意味していて、月影や星影といったように影とはその光の余韻や陰影に映る光全体の様子を顕現したものです。そして火の神様をカグツチと呼び、天の香久山もカグヤマというのはこれも光を顕しています。

ちょうど昨日、天の香久山の歌枕を郷里の香春神社で詠みましたが、近くに銅鏡をつくる場所があり山頂で儀式をして古代には白い光を放ったいたことが想像できました。光を集めて、光を放つというのはある意味今もリーダーの役割であり心の明かりを燈す大切な古来からの徳の生き方です。

私は元々この世に存在したものを徳と呼びます。そしてこの光というものもまた徳の側面です。光はいつからあるのか、それは初めからあります。つまり初心です。その初心を思い出し、その光に感謝すること。これを御蔭様ともいい、御光様ともいいます。

この光の生き方とは何か、それは古代の人たちがしてきた生き方を今も自然に行うことです。私にとっては、鞍馬寺での信楽香仁さまがその一つの憧れた生き方であり御光様そのものでした。いつも天にお任せしてお気楽に極楽でいる生き方。暗闇すらもぬくもりにし、日々のお山の空気そのものに喜びと仕合せを感じておられました。

私たちは初心を忘れています。

改めて、カグヤという名前、そしてカゲという在り方。かんながらの道を邁進していきたいと思います。

実験の醍醐味

血の巡りというものがあります。「血が巡っている」と最初に言った医師はウイリアム・ハーベイというイギリス人医師だといいます。今では当たり前ですが、その当時は結歴は抹消に流れるとそこで消えると信じられていました。心臓に戻ってこず、一方通行で送るだけで消費されるという概念でした。それを実験と観察を通して、血が巡っていることを突き止めたのです。他にもこの医師は生理学に貢献します。それまでは血液が固まって胎児ができると信じられていましたが、動物は卵という共通の源基によって形成されることを突き止めました。

この医師が突き止める手法すべては「実験」にとって行われました。この実験というのは古来より最も大切で、それまで固定概念や常識、思い込みを取り払うことではじめて本質的な観察がはじまります。正解を疑うというより、本当のことを知りたいという純粋無垢な心からです。これらの本質的な実験をする人は真摯に真理を探究する人ですから、観察も洞察も磨かれていくのです。少しでも楽をしそういうものだからと決めつけ当たり前や常識を鵜呑みにするというのは、それ自体が本当の間違いに繋がっていきます。刷り込みのない知性は、子どもの好奇心と同じなのです。

世の中を純粋無垢に観ることではじめて私たちはこの自然の摂理や宇宙の真理に触れていくことができるように思います。そのためには自分を信じ、常識を忘れて実験していくしかありません。私が日々に取り組む実践もまた、実験のようなものです。

この血の巡りでいえば、私たちは人間の動力は水と火でいのちを形成しています。水が固まり、熱を与えれば沸騰する。この簡単な原理ですが、私たちはこれを使って循環をして生命を保っています。すべての内臓や機能は、この血の巡りによって活動しそして入りと出を繰り返しながら循環を保ちます。

水を細かく分析すると、結晶化しますがそこに結晶化潜熱が発生することが現代科学で実験されています。水は熱を放ちながら変化するということですが、これは水が火と一体で活動することを意味するように私は思います。

朝起きたら太陽がでて、そして夜になります。その間、空気をはじめ地面、地球、あらゆるものは熱を移動させていきます。その熱の移動と共に水も火も循環しています。巡り続けているのです。この巡りこそ熱の正体であろうと私は思います。私たちは変化するとき、必ず熱を発します。熱を発するということは、それだけ水と火が和合して変化を繰り返すのです。

目には観えませんが、心魂を燃やしたり、感動して震えたりすることで熱量は放たれます。すると、心臓のようにそのものが巡りはじめるのです。私たちの成長というものは、この最初の巡りからはじまります。そして巡りをやめて固まります。

温冷によって自律神経がととのっていくのもこの原理のように思います。この時機は、三寒四温といって春に入り次第に気温が温冷を繰り返してととのっていきます。すべてのいのち、生命たちもまたこの変化の熱によって目覚めていきます。

もっとも原始的な感覚を通してこの世を観察し、実験を繰り返していきたいと思います。