自然と聴く

私が尊敬している教育者、東井義雄さんに「ほんものはつづく。つづけるとほんものになる」という言葉があります。時間をかけて伝統や老舗を深めていると、理念が本物であるからこそ続いているのがわかります。

この本物というのは、自然に限りなく近いということだと私は思います。自然は人工的なものを篩にかけては落としていきます。自然に近ければ近いほど、自然はそれを自然界に遺します。つまりは本物とは自然のことで、自然は続く、続いているものは自然に近いということでしょう。

この自然というものは、人工的ではないといいましたが別の言い方では私心がないということです。自然と同じ心、自然の循環、いのちの顕現するものに同化し一体化しているということでもあります。

私たちが生きているのは、自然のサイクルがあるからです。水の流れのように風の動きのように、ありとあらゆるものは自然が循環します。自然の心はどうなっているのか、自然は何を大事にしているのか、そういうものから外れないでいるのならそれは「ほんもの」であるということです。だからほんものは続くのです。

歳を経て、東井義雄さんの遺した文章を読めば読むほどにその深淵の妙を感じます。生きているうちにお会いしたかった一人です。

その東井義雄さんが遺した言葉に、こういうものがあります。

「聴くは話すことより消極的なことのように考えられがちですが、これくらい消極的な全身全霊をかけなければできないことはない」

私は、聴くという実践を一円観で取り組む実践者でもあります。この聴くという行為は、全身全霊で行うものです。ただ聞き流しているのではなく、いのちの声を聴くこと。万物全ての自然やいのちからそのものの本体を聴くということ。そういう自然の行為をするのなら、この世の中は福に転じます。

私が日本を立て直すという聴くことの本意はこの自然と聴くというものに由ります。子どもたちに少しでも善い世の中にて推譲していきたいと思います。

日和見実践

体調を崩すと自分の身体の免疫の御蔭で健康でいられることに気づきます。もともと健康が当たり前と思っていると、健康のことなどを気にしません。空気があること太陽、水があることのように当たり前になるとそれがなくなれば死んでしまうように本来はこの身体が健康であるから私たちは生きていられます。

その健康は病気になって気づけますから、人間というものは両極端、陰陽があってはじめて様々なことに気づく力を持っているともいえます。

人間の大腸にも、善玉菌と悪玉菌、そして日和見菌というものがあります。この菌たちの絶妙なバランスで免疫を保っているともいえます。この善悪も善し悪しだけではなく、悪も必要で病気と同じように免疫を助けてくれています。その際、日和見菌というのはどちらでもなくその時々の状況で善玉菌になったり、悪玉菌になったりします。腸の中の善玉菌と悪玉菌の割合は、2:1だといいます。善玉菌は全体の20%で、悪玉菌は10%、日和見菌は全体の70%という構成です。

この日和見とは、江戸時代頃の日本の天気観察から来ている言葉です。事の成り行きや様子を伺いながら、形勢を見て有利な側方に追従するというような意味です。そう考えてみると、中庸的な存在が日和見菌でありバランスを保っているという見方もあります。善玉菌が常に優勢の方が健康とありますが、全部が善玉菌になることはないというのはそこに意味があるように思うのです。そして全部が悪玉菌ということもない。しかし、見方によっては全部が日和見菌であるという見方もできるように思います。

現在分かっていることに腸は第二の脳と呼ばれています。脳も本来は心身を守るために、調和を保つための機能を持ちます。同時に腸もまた心身の様子をみて腸内でバランスを調えようとする。これは脳も腸も自然の天候と同じように、常に日和見であるということです。

人間はもともと自然と共生しているときこそ日和見を重視していました。船を出港するのも、山に入るのも天気や雲、気候をよく観察して判断をしていました。それだけ自然の調和に近づき、その調和に逆らわないという生き方をしてきました。よく天候が荒れたり気圧が変わると頭痛や体調が悪いこともありますがその当時の暮らしの身体の名残かもしれません。

この身体はいわば自然の一部ですから、腸がどのような状態か、そして脳がどのような状態か、そういうものをよく日和見することで自分の状態をよく観察することは大切なことだと思います。

自分を知るということは、簡単ではありませんが日々によく日和見実践をして暮らしを調えていきたいと思います。

帰る場所

人は心が帰着する場所というものがあるように思います。それは安心する場所のことです。ある人にはそれは帰る家があるともいい、またある人は心の故郷と読んだりもします。帰るところがあることは仕合せなことです。人はそれぞれに安心できるところがあるかが重要です。それは仕合せであるかということと通じているからです。

例えば、生まれてきては親という存在があります。自分一人だけでは生きてはいけない存在で誕生し、どうしても親の助けが必要です。自分のいのちを守ってくれる存在に出会うことで私たちは安心を得ます。その安心は、偉大な信頼でもあり幸福でもあります。自分を守ってくれるという絶大的な安心です。これがあることで、私たちは多少不安なことがあっても心配があっても前進していこう、挑戦していこうという気持ちが湧いてきます。守られているということを実感するところが帰る場所ということでしょう。

そういう意味では、私には帰る場所がたくさんあります。気が付くと、私たちは安心の場所を求めては移動して心を守り育てています。私たちは安心の繰り返しで心身が成長していくのであり、見守られたことによって自他自己に対する偉大な信頼が醸成されていきます。一度きりの人生において、守られて生きたということの幸福や感謝はなにものにも代えがたいことです。

人が家族をつくり、仲間をつくり、助け合い、守り合うのはみんなにとっての大きな安心、帰る場所を創造しています。同時に、今まで守られたことを思い出す場所や、今も守ってくださっていると感じるご先祖様や、深い関係性を築いたお守りのような存在も帰る場所です。

帰る場所があることは仕合せです。

人の仕合せを増やすことは、安心基地をその人の心に増やすことです。私が取り組んできた半生はその帰る場所づくりだったのかもしれません。これからも人々の幸福、そして子どもたちの仕合せを創造していき自分がいただいた感謝を多くの方に光を伝承していきたいと思います。

いつもありがとうございます。

原風景と原風土

私たちが産まれ育った風土や風景というものは、自分の価値観にとても大きな影響を与えるものです。特に、故郷の山、あるいは川にはじまり歴史的な建物や農作物なども同様に自分というものを形成します。

私たちはその土地が産み出したものですが、日ごろはあまり気にしないものです。しかし、大海原の小さな島で産まれ育った人や人里離れた山奥の奥地で産まれ育った人はその感性や感受性、道理の理解や直観などもその影響を受けています。

そしてその後は、また新たな風土や風景に出会い少しずつまた価値観が影響を受け変化していきます。どういう変化かといえば、自分の中にある風景や風土が地図のように広がって繋がり結ばれていくのです。ぼんやりとしか見えなかったものがクリアになっていくように明瞭になっていきます。

そう考えてみると、人間は本来はすべてを知覚していてその場所やその機会に触れることで自分の中のイメージを鮮明にしているものかもしれません。戸が開かれていくように、隠れたものを探し出すように、あるいは霧が晴れていくのを待つように体験していくのです。

旅路というものも同じく、自分が旅をするなかで出会うものによって世界や価値観が変化していくように心の風土や風景も変化していきます。自分の観たかった景色、あるは自分の信じた景色、またあるいは心に焼き付いている懐かしい景色を求めていくのです。

人生の旅路というものは、結果よりも道のりに好奇心があるものです。

今度はどのような風土や風景に出会うのか、それがワクワクするから人はまた道を歩んでいきます。どうしても出会いたいと思うほどに旅は続きます。風景や風土に見守られていることを忘れていない人は、心にふるさとを持っているものです。そのふるさとは、原風土や原風景といい、自分の旅の出発点のことかもしれません。

はじまりがどこであったか、その結び目はどこからだったか。それはあまり自覚していませんがとても大事な自分の天命を宿しているようにも思います。旅はそれを思い出す機会にもなります。

価値観の地図はどのようになっているのか。

みんなで地図を語り合い聴き合い、新しい地図を調和させ未来の原風景や原風土を守っていきたいと思います。

思い込みを手放す

人間は思い込みを持っています。ほとんどの世の中のことを自分の価値観や経験で思い込むものです。その思い込んだことが集積すると、この世は本来の世の中ではなく自分の勝手に思い込んだ世界になってしまいます。そういう人が増えたら、本当のことを確かめるよりも自分の思い込んだものが正しいはずとより意固地になったり頑固にその自分の思い込みに囚われていくものです。

相対性理論のアインシュタインが「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。」と言いました。これは思い込みも似ています。思い込みが先にくると、他人の話を素直に聴かなくなります。そうなると真実はさらに遠ざかっていくものです。

だからといってなんでも従順に鵜呑みにすればいいというのではありません。思い込みで聞かないようにすること、つまりは「素直に聴く」ことを心がける必要があると思うのです。

この素直に聴くとは何か、これは松下幸之助さんは素直をこう定義しました。

「素直な心とは、寛容にして私心なき心、広く人の教えを受ける心、分を楽しむ心であります。また、静にして動、動にして静の働きのある心、真理に通ずる心であります」

まさにこのような聴き方は、先ほどの思い込みを取り払う実践そのものではないでしょうか。ではなぜ思い込むのか、それは自分の中にある感情、私心、都合の良しあしが影響をするからです。そして不安、恐怖、疑心、欲望など自分というものをあまりにも優先するからそうなっていくものです。思い込みに囚われれば自滅していくものです。常に素直でありたい、そのために謙虚でありたいと先人たちはみんな「素直に聴く」努力と精進をしてきたのでしょう。

先ほどの松下幸之助さんは、素直の十箇条というものをつくり自戒していたといいます。「第1条 私心にとらわれない 第2条 耳を傾ける 第3条 寛容 第4条 実相が見える 第5条 道理を知る 第6条 すべてに学ぶ心 第7条 融通無碍 第8条 平常心 第9条 価値を知る 第10条 広い愛の心」です。参考になると思います。

最後に、人はみんながもし素直に物事が観えてお互いの話を素直に聴くことができるならこの世から争いはなくなっていくように思います。真の平和というのは、それぞれが真実を知り、世の中の実相があるがままに観えて、それについて対話するなら協力するのは当たりまえになります。

世界では、戦争が激化してきていてそれをよく観察するとお互いの思い込みで恫喝しあいリーダーはじめ物事を決める方々の私心の押し付けあいにも観えます。時代の先を観て、どのように生きていけばいいか。そのためにはまず脚下の実践を守る必要があります。

この素直に聴くということは、思い込みを日々に手放すことです。そして思い込みを手放した分だけ未来を子孫へ譲り遺す大切な徳になると思います。引き続き、素直に聴くことを守るためにも聴福人の実践を続けていきたいと思います。

カグヤの行事

カグヤでは、継続して行っている行事のようなものがたくさんあります。その一つに、初心会議や一円対話などがあります。これは私たちが、もっとも仕事をしていく上で大切にしていることを振り返る場の一つです。

この場の一つというのは、仕組みの一つという言い方もできます。つまりは、環境や習慣にすることで大切なことを忘れないようにすることや、私たちが日ごろから自然に協力して助け合う風土が醸成されるように配置された知恵のようなものです。

日本では古来より、生活文化の中でたくさんの知恵を配置してきました。その代表的なものの一つに日本家屋というものがあります。玄関にはじまり、床の間やおくどさん、箱庭や縁側、仏間があり奥の間もあります。その一つ一つの家のつくりはまさに見事に自然風土と一体になり、如何に知恵の結晶であるかがわかります。

その中で暮らしていく家族は、使っていく道具も知恵ですが行事がさらに相乗効果を高めています。つまりむかしの日本人の知恵の取り入れ方は、ごく自然に、もっとも大切なものを優先できるような場を用意されていたのです。

この仕組みを私はカグヤという会社に取り入れ、日本的経営を行ってきました。この日本的というのは、むかしの知恵を守る経営とも言いかえれます。老舗の日本の店舗や伝統的な会社が理念を大切にしているように、ごく自然に家の中が治まるための仕組みを行事で実践しているのです。

外から見ると、変な価値観がある会社や、真面目な会社、余裕がある会社とか色々といわれますが実際には日本の知恵を守り、社員家族の仕合せを優先するための大切な私たちの暮らしの実践なのです。

その御蔭で、私だけでなく社員、またお客様にいたるまで皆さんこの実践によって守られていきます。理念や初心を忘れないこと、そしてみんなで和合して調えあって働きやすい環境を優しく包んでいくこと。人は何のために働くのか、それは仕合せになるためです。仕合せをいつも確認し合える環境があること、その場そのものこそ仕合せであるというのが本来の知恵でしょう。

子どもたちには、長くて短い人生の中で上質な生き方、働き方をしてほしいと祈ります。その一つのモデルとして、自分たちが実践していくことが将来を豊かに、今を感謝にしていくことのように思います。

この取り組みの輪が広がっていくのを楽しみにしています。

全体快適と一円対話

世の中には、完全なる善人や悪人はいません。みんなその両方を持っています。なぜならある方向からみれば善でも別の方向から見たら悪になるからです。ただ、自分がされて嫌なことはしないとか、思いやりをもって接するとか、善であることを優先して心がけようというものがあります。自分だけが正しいと思い込むと、そうではないという正しさがまた出てくるものです。だからこそ、人は価値観の相違を超えて協力して助け合うとき有難い徳や恩恵がいただけるようにも思います。

自然というものも同じです。自然の変化である生き物たちは辛いことになっても、同時に別の生き物には有難い感謝になったりもします。自然は全体最適ですから、部分最適なことは循環しているなかでは些細なことです。人間の身体も同様に、意味のない臓器も活動していない細胞もなくすべては調和して内外で全体最適をしています。寒くなれば、それだけのことを活動して熱をつくり健康を守ります。

自分の視野をどのようにととのえるのか。この実践の中に逆転の発想や、禍転じて福にしていくような知恵があります。なので自然界ではほどほどがよく、足るを知るものがいいともいいます。しかし人生を色々と体験したい、味わいたいと思っている人は極端になり強欲になることもあります。どれもが完全ではないのです。不完全であるからこそ、全部を持っているからこそ全体快適を目指そうというものです。

私が一円対話で大切にしていることは、この全体快適です。森信三先生はこれを「最善観」ともいい、中村天風先生はこれを「絶対積極」ともいいました。つまりは、自然の中心と共に一体であれば善悪が消え一円のように丸くなるということです。

この丸くなるというのは、日本では「和」ともいいます。和とは、調和の和です。調和の調は、言葉を周るという字で形成されています。これは言葉に神経がゆきとどくという意味でもあります。物事というのは、なかなか全部にはゆきとどきません。しかし、みんなで和合して協力し助け合えばそれを補完しあうことができます。これが一円融合です。

みんながそうなるような「場」をどれだけ醸成してきたか、そこに自然の妙法や智慧があります。今は、個が歪んで歪な関係になりやすい場が増えています。今一度、場を調えることの大切さを子どもたちに伝承していきたいと思っているのです。

私の一つの使命ですから、これは復興、甦生の大事業の一つです。

同志や仲間と共に、世の中を明るく全体快適にしていきたいと思います。

大寒こそ福

もうすぐ大寒を迎えます。この大寒というのは一年でもっとも寒い時期を指し、1月20日から2月4日ころまでをいいます。むかしからこの時機はどのように過ごしていたのか。先人の知恵をどのように伝承していたのか深めてみたいと思います。

まず大寒の朝に汲んだ水は「寒の水(かんのみず)」と呼ばれ縁起物として知られています。大寒の朝に汲んだ水は1年間腐らないと言われ、昔の人達は長期間保管していたといいます。今は水道水で塩素も入っているから腐りませんが、むかしは井戸水や湧き水などでしたからどうしても生活の中で腐ることもあったように思います。

気温が高くなるときに汲んだ水というのは、すぐに細菌が繁殖してしまいます。しかし、大寒の日の朝は凍てつくような寒さ。そしてこの時機の水は雑菌も繁殖できません。そこで大寒の水は質が良いといわれていました。

なのでこの時期に味噌や醤油、お酒などの発酵食品をつくります。いわゆる寒仕込みというものです。発酵は、腐敗するスピードよりも発酵するスピードが速くないといけません。そのバランスが調和しているからこそ発酵するのです。

この寒仕込みであれば、ゆっくりと発酵して腐敗もできず上手く菌が醸成されます。一度発酵してしまえば、あとはお手入れだけですからこの時期にこそやることが重要でした。あとは、大寒に食べるとよいものとしては大寒たまごというものや脂ののった「寒ブリ」や「寒サバ」があります。実際に寒い時期はニワトリが水をあまり飲まずエサをたくさん食べるため縁起物というだけではなく、栄養価も高いからというのもあるそうです。ブリやサバは脂がのって美味しいということです。

他にも代表的なものは甘酒があります。もともとこの甘酒も寒の水が使われていました。大寒の時期に仕込んだ甘酒は美味しく新鮮だといわていて現代でも製菓会社では、大寒を「甘酒の日」と定めるところもあるそうです。

むかしの人たちは、この寒い時期だからこそできることをやりました。まさに禍転じて福にするのです。かつての日本人は、寒いから嫌だではなく寒いからこそと善い方を観ました。そして立春を迎えます。

こういう四季折々の自然の流れに逆らわずにそれをうまく活用して善いことにし、さらなる躍進につなげたというのは素晴らしい知恵です。先人の生き方に倣い、子どもたちの憧れる生き方、働き方を実践していきたいと思います。

試練の砥石

人は何かを志せば試練というものがやってきます。その試練は、その目指した志に対してどれだけ学び乗り越えて自らを磨けるかということになります。自分を磨き、志を達するには試練が砥石になるということです。

その時の砥石に対してどう磨くか、それは刀身を削り落としていくことになります。荒い砥石からはじまり、最後はきめ細かな砥石に移行していきます。大きな試練から日々の小さな試練、そのどの試練も大切な砥石になるということです。

その砥石は何かということになります。これは私は「天」であると直観します。西郷隆盛は人を相手にせず天を相手にせよといいました。これも偉大な砥石であろうと思います。

天がなぜこの試練を与えようとするのか、天は何を学ぶようにとご教授いただいているのかと、天と正対して自分を磨くのです。さらに言えば、天道地理義理人情に照らしあわせて世の中でそぎ落としていかないといけない「私」を磨くのです。

誰かと何かを一緒にやっていくというものもお互いに試練が必要です。共に己を磨き高め、精進していく実践が伴います。目指している志に対して、どれだけ自分が純粋にそのことにいのちを懸けて取り組んだか、それを共にすることで相乗効果を発揮していくのです。

目的を一致させることは、天道地理に必要です。そのうえで、筋道や思いやりが必要です。そのどれもが大切な自分の試練になり、その試練が真に志を成長させます。試練には四苦八苦が伴います。その中で、何を学ぶか、何に気づくか、どう自分を磨くかは自分次第です。

天を相手にして、天命に従い、人事を盡していきたいと思います。

人生の味

人は病気になることで健康の有難みがよく深くわかります。人は何かを深くわかるために、その陰陽の二つを同時に折り畳みその中で混ざり合ったものから味を感じ取るものです。

本来、その両極のものは同質のものです。健康を深く味わいたければ病気の味を知り、病気を深く味わいたければ健康の味を知る。このように味というものはその両方を感じる中で複雑な妙味を感じるのです。

他にも年数というものがあります。経験もあります。時間をかけて何度も振り返ることで、その深い味わいの意味やその理由などがわかります。人生というものは、深く味わうなかで様々な体験を通して感覚と記憶を直観するためにあるのかもしれません。

コロナに感染して、臭いや味がなくなると今まで如何に臭いや味があったことが有難かったを知ります。食べ物がおいしいのは、もちろん体全体が調和して美味しいと感じるのですがその感覚が一つ、二つ失われるだけで味わえなくなります。この味わえなくなることの辛さは言葉にできないものでした。

以前、私がイギリスに留学しているとき親友からある言葉を教えてもらったことがあります。その中には、苦しみを避けて通るのではなく苦しみは味わうことができるというものがありました。いやだなと思うのではなく、その苦しみはどのような味かを感じることができるという選択肢があることで人はその苦労の味の深さを学びます。

苦労というものは、例えば人格を磨きます。そして愛を学びます、他には感謝ができます。それをさらに時間をかけて忍耐強く正対していたら、苦労の醍醐味というか得難い体験をさせていただいていることに気づくものです。

そうするととても逆説ですが、苦労は嫌だけれどもなぜか苦労をしたくなってくるというように味をしめてしまいます。苦労の味を知ってしまうと、わかっているはずなのに苦労をしたくなってしまうのです。

大変な方を選択したり、苦労する方を選択する、他にも自分にとって困難だと思えるような道を選んでいく。それはどのような味が体験できるのだろうかと、人生を味わう方を選択していくからです。

一人一人の人生はそれぞれに天命があります。どのような天命かは、その本人にしかわかりません。しかしその天命をどう玩味するか、妙味を味わい尽くすかはその人次第であります。

どんな意味があるのか、なぜこの時機なのか、そしてこの環境なのか、この出会いか、一つ一つを深く丁寧に味わうと善悪正否を問わず人間はいただいているご縁の味に触れて感動するのです。

味を学び、意味を知り、その人生の最幸の味付けをするのは自分次第です。

初心と原点、一期一会に触れながら日々を味わっていきたいと思います。