遊行の源流

暮らしの中の遊行巡礼をはじめると、空也上人とのご縁が出てきました。もともとこの空也上人という方は平安時代中期に活躍した念仏僧で、阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人(いちのしょうにん)とも呼ばれています。生れは延喜3年(903)とされ、醍醐天皇の皇子とも言われています。

もともと空也上人は、「優婆塞」と呼ばれ、「俗聖(ぞくひじり)」とも呼ばれていました。得度しても僧名の光勝を名乗らず自らは空也の沙弥(しゃみ)を名乗っていたといいます。

「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら道路や橋、井戸や寺院をつくり町中を遊行して乞食し、布施を得れば貧者や病人に施したと伝承されています。そして遊行のありさまは絵画や彫刻にあるように短い衣を脛高(はぎだか)に着て草鞋(わらじ)を履き、胸に鉦鼓(しょうこ)台をつけて鉦(かね)を下げ、手に撞木(しゅもく)と鹿角杖(わさづえ)を持ち行われていたといいます。この遊行の鑑のような生き方をなさっておられた方でその後の一遍上人などにも多大な影響を与えています。

有名なものに木造空也上人立像があります。死後250年以上経ってから制作されたものですがまるで、目の前にいるかのような一度見ると忘れられない像です。これは運慶の四男 康勝の作といわれます。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、草鞋履きで遊行する姿です。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられています。

これは「南無阿弥陀仏」の6文字を唱えると、空也上人が阿弥陀如来の姿に変わったという伝承を表しているからだといいます。

六波羅蜜を遊行を通して実践し、それがその時代の人々の心を癒し苦しみを安らげ、心魂を鎮めたのかもしれません。

また私は鞍馬寺に深いご縁がありますが、空也上人が鞍馬山に閑居されていた話も知りました。その閑居していたときに、いつも鳴いている鹿を愛していましたが定盛という猟師が射殺しました。これを知った空也は大変悲しみ、その皮と角を請い受け、皮を皮衣とし、角を杖頭につけて生涯離さなかったといいます。また、鹿を射殺した定盛も自らの殺生を悔いて空也の弟子となったともあります。これは英彦山の伝説とも似ていて共通点があります。そのことから鞍馬寺は浄土教の聖地として発展したといいます。鞍馬山にはその旧跡という「空也の平」という名の場所もあるそうです。

大分では国東に空也上人の開基した興満山興導寺というお寺もあります。また九重町の宝泉寺では空也上人が諸国遊行の途中この場所に経ちより農家に宿泊したお礼として持っていた杖を大地に立てたといいます。その杖がのちの大杉となり、天禄三年(972)この地に大地震がありその大杉が倒れたあと根元より突然温泉が湧出したといいます。そこで驚いた村人たちは、わき出る温泉のほとりに一宇の寺院を建立して空也上人が宝の泉を下さったということで寺を平原山宝泉寺と定 め本尊に空也上人と大日如来を安置したという伝承もあります。

歩きはじめて、まさかのご縁がこの空也上人でした。てっきり法連上人かと思い込んでいましたから、道はやはり歩いてみなければわかりません。引き続き、遊行を深めながら知恵を学び直していきたいと思います。

暮らしフルネスの秋

暮らしフルネスで暮らしを調えることは、病気にならない生き方に似ています。そもそも病気は、病気になってからでは間に合わず病気にならないような日々の暮らしを調えることに軸足を置くことからはじまります。

例えば、当たり前のことですが季節を感じながら五感を調える。生活リズムを自然に合わせる。旬なもの、またいのちが豊富にあるものを丁寧に食べて調える。呼吸を整え、今ここに集中して心身を調える。またよく歩き、重力や自らの身体の動きによって身体を調えるなど色々と暮らしを調えることができます。

医者にも、色々な医者がいます。今は緊急事態で応急処置ができる人がよい医者といわれますが、本来は病気にならないように見守って日頃から病気の根源や原因を防ぐような人がよい医者ともいわれました。今のような保険診療や補助金のようなシステムになってからは、診察や薬を出さなければ生計が成り立ちませんから名医はみんな治療する医者になってしまいました。本来は、病気にならないようにする生き方の模範が名医だったように思います。僧侶やむかしの医師はきっと、健康で長生き、そして精神も心身も調えることを日頃から実践されていた方だったように思います。そしてそういう生き方を目指して取り組まれていたのでしょう。

私も暮らしフルネスを実践していますが、自分が完璧にそれができるから提唱者というわけではありません。自分もそうありたいと挑戦をし、一進一退しながら七転び八起きをしながら日々に取り組んでいます。心も精神も体も調えるというのは、暮らし方を磨き続けていかなればできません。

今日は、昨日よりも少しできた、またはできなかったと反省しながら感覚を磨き、徳を積んでいくのです。しかしそうやって実践していくなかで本当の自分、本来の自分というものを忘れなかった一日はとても豊かで幸せです。

できた人がすごいのではなく、できない人がダメなのではない。大事なのは、先人の生き方を尊敬して自らも暮らし方を見倣って子孫のために精進していこうとする思いや行動にこそあるように私は思います。

引き続き、秋のこの静かで澄み切った月夜や空気に包まれながら晩秋の暮らしを味わっていきたいと思います。

遊行の妙

遊行を実践してみると、一人ではなく二人でいることがわかります。もともと四国巡礼では同行二人という言葉があr、常に弘法大師と一緒に巡っているという意味で用いられます。しかし、実際には自分の中のもう一人の自分、自我と真我という言い方もしますがこの二人が常に対話しながら歩んでいるともいえます。

瞑想も同じく、この二人が次第に静かになって一つに纏まっていきます。すると、次第に静かになり穏やかになります。他にも、五感を調え六根清浄をするときにも一つになっていきます。

つまり歩くことで、別々のものが融和して一つになっていくということかもしれません。

そもそもこの世のすべては、二つが一つになっています。その最小単位は、火や水や風など五元素をはじめあらゆる一文字で語られるものが二つから形成されているからです。

火というものも、二種類のものでできています。熱いものと温かいものです。水もまた固まるものと固まらないものです。これらがバランスよく一つになっているものをみて私たちは火や水を認識しています。

そして二つが一つになるのは、静止しているときではありません。動いている時にはじめて一つになっている様を感じることができます。地球が太陽系をめぐり、自転しているとき私たちは地球を丸く感じられるものです。同様に、動的なときにこそ静止しているように感じられます。

道を歩くというのはその行為に似ています。そしてこの遊行は自らを知り自らになる道でもあります。

子孫のためにも、道を歩んだ人たちのあとを学んで伝承を味わっていきたいと思います。

信仰と感謝の暮らし

この時期の英彦山の宿坊は、空氣が澄み渡っていてとても心地よい季節です。あちこちの木々の葉も紅葉づいて秋の静けさに合わせて綺麗な光が差し込んできます。夜の月も清浄で美しく、明けの明星も一際煌めいています。守静坊では、囲炉裏の火がゆらめき、煙の懐かしい香りの余韻が充満していて穏やかです。

季節季節に喜びはありますが、この秋の豊かさは何よりの贅沢です。

そして今の英彦山は、水が少なく井戸の水量が激減しています。いつもは宿坊の周囲の小川もさらさらとたくさんの水が流れていますが今はほんの少しちょろちょろと流れる程度です。

水がなくなってくると、生活に利用するための水をもったいなく丁寧に使うようになってきます。

以前、鞍馬寺ですべての水道の蛇口に「お水さんありがとう」と書かれたものが括りつけてありました。それに感動し、すぐに自宅の蛇口にも同じように括りつけて忘れないようにと実践していました。しかし、水道水は蛇口をひねれば自由に出てくるためそんなにもったいないと感じにくいように思いました。今でも、ついシャワーなどは高温が出るまで出しっぱなしで水のことなどあまり気にしていません。

しかし英彦山の宿坊に来ると、水がなくなるとまた水量が元に戻るのにかなりの時間がかかってしまいます。そこで少しでも水が使い過ぎにならないように気を付けながら使います。すると、自然にお水さんありがというという気持ちになり、お水の使い方も変わってきます。あまりお水を使わなくていい方法を模索したり考えたりするのです。

洗い物や洗濯、水洗トイレ、シャワーなど今では当たり前に水があることが前提の生活用品や生活家電であふれています。水が足りないところでは使えないようなものばかりです。

不便によって本来の当たり前が変わっていくことで、意識も暮らし方も変わってきます。しかしその暮らし方の中に、もったいないと感じる豊かさと有難さがあり、感謝や信仰の仕合せもまた味わえるものです。

暮らしフルネスの一つに、このもったいないというものを味わうことがありますが英彦山の宿坊はお水のことをいつも深く感じられることが多くあります。一年中、水で溢れる梅雨や冬から春までの大雪にいたるまでお水の影響をかなり受けます。お水のありがたさを感じるほどに、また火の有難さも感じる場所です。

都会や都市にはない、真の豊かさはかつての信仰と感謝の暮らしのなかにこそあります。いつまでも大切な恵みを忘れないように、場をととのえていきたいと思います。

徳の戦略 

江戸中期の徳の実践家で思想家の三浦梅園に、「悪幣盛んに世に行わるれば、精金皆隠る」があります。これは、西洋ではグレシャムの法則といって、「悪貨は良貨を駆逐する」が同じように有名です。私は、徳積循環経済に取り組み、ブロックチェーンの技術を徳で活用していますからこの辺の話は参考にしています。

そもそもこの三浦梅園が自著「価原」でなぜこういうことを言ったのか、それはこの明和9年(1772年)から発行された、南鐐二朱判は一両当りの含有銀量が21.6匁であり、同時期に流通していた元文丁銀の一両当り27.6匁と比較して不足している悪貨であったといいます。このことが南鐐二朱判を広く流通させ、このような計数銀貨が次第に秤量銀貨である丁銀を駆逐していったということもあったといいます。これよりも前の元禄8年(1695年)に行われた品位低下を伴う元禄の改鋳後にもまた良質の慶長金銀は退蔵され、品位の劣る元禄金銀のみが流通したともあります。

そしてグレシャムの法則の方は、16世紀のイギリス国王財政顧問トーマス・グレシャムが、1560年にエリザベス1世に対し「イギリスの良貨が外国に流出する原因は貨幣改悪のためである」と進言した故事に由来しています。これを19世紀イギリスの経済学者・ヘンリー・マクロードが自著『政治経済学の諸要素』(1858年)で紹介し「グレシャムの法則」と命名してできた言葉です。

他にも調べると、似たようなことは古代ギリシアでも行われていました。劇作家アリストパネスは、その自作の登場人物に「この国では、良貨が流通から姿を消して悪貨がでまわるように、良い人より悪い人が選ばれる」という台詞を与え、当時のアテナイで行われていた陶片追放(オストラシズム)を批判していたといいます。

今の時代もまた似たようなものです。これは貨幣に限らないことは半世紀ほど試しに人生を生きてみるとよくわかります。市井のなかで、「本物」と呼ばれる自然な人たちはみんな私心がありません。世間で騒がれている有名な本物風の人ばかりが情報消費に奔走し、あるいは流通し、同様に消費されていきます。実際の本物は粛々と自分の持ち場を実践し磨き上げ場をととのえています。そこには消費はありません。

そういう人たちは、世の中では流通せずにそれぞれに徳を積み、そうではないものばかりが資本主義経済を拡大させていきます。そもそも人間の欲望と、この金本位制というのは表裏一体の関係です。そして金本位制を廃止してもなお、人間は欲望のストッパーを外してはお金を大量に発行して無理やり国家を繁栄させ続けようとします。すでに、この仕組みで動く世界経済は破綻をしているのは火を見るよりも明らかです。国家間の戦争も歴史を省みればなぜ発生するのかもわかります。

かつて国富論というものをアダムスミスが定義提唱し、富は消費財ということになりました。この辺くらいから資本主義の行く末は語られはじめました。如何に現代が新しい資本主義など世間で騒いでみても、そもそものはじまりをよく観ればその顛末は理解できるものです。ジャッジするわけではありませんが、歪みを見つめる必要性を感じます。

実際の経済とは、経世済民のことです。その経世済民を支えるものは、相互扶助であり互譲互助です。つまりは、人は助け合いによって道と徳を為すとき真に富むということです。この時の富むは消費財ではなく、絶対的な生産であり、徳の醸成です。そういうものがないのに経済だけをブラッシュアップしても片手落ちです。

本来、テクノロジーとは何のために産まれるのか。それはお金を増やすためではありません、世の中を調和するためです。だからこそ、どのように調和するかを考えるのが技術まで昇華できる哲学者たちであり、思想を形にする実践者たちです。

私はその調和を志しているからこそ、ブロックチェーンで三浦梅園の生き方を発信していきたいと思っているのです。そこには先人への深い配慮や思いやりが生きています。

先人たちのこれらの叡智、そして知恵は何世代先の子孫のために書き綴られそれは魂と共に今も私たちの中に生きています。少しでも子孫たちの未来が今よりも善くなるように私の人生の使命を果たしていきたいと思います。

徳あるものは永遠に生きる

山本玄峰先生という方がいます。百万遍念仏のことを調べていて知ったのですが、素晴らしい生き方をされ示唆をいただいております。終戦にも深く関わっておられ、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・」という言葉に影響を与えた人物としても知られている方です。

多くの政治家をはじめ、リーダーたちを指導して国を導きました。まさにあの頃の国師のような存在です。

この山本玄峰先生は、若い時に失明を宣告され絶望をして死地を求めてあらゆるところを探し回りました。そしてどこでも死にきれず、四国巡礼の道を開いた弘法大師に願をかけ「自分は死にきれずここまで来ました。私が少しでも世の中の役に立つものならば、結縁をおさずけてください。役に立たなければ、早く命を引き取って下さい」とお遍路に最後の希望を懸けました。

そして7回目の巡礼の三十三番目の高知県の雪蹊寺(せっけいじ)の門前でついに行き倒れました。その後、無銭宿泊所の「通夜堂」で、3、4日過ごしついに出家を決意して同寺の太玄和尚に相談します。

「自分は紀州の山奥で育って、目も見えず、読み書きもできませんが、坊さんにしていただけますか」と。

すると太玄和尚は答えます。

「いくら目が見えても、障子一枚向こうは見えない。いくら耳が聞こえても、一丁先の声は聞こえない。目や日が悪くても、心の眼が開けたならば、世界中を見渡し、天地の声を聞くことができる。葬式や法事をする坊さんにはなれなくても、心の眼が開ければ、人天の大導師になることができる。これは誰にでもできることだ。お前でもやればできる」と。

その後は、すべてを手放し出家して修行にあけくれました。その師匠の言葉どおりの人物になり、葬式や法事をするためではなく、真理を開眼するような大導師になったのです。

その山本玄峰先生は、こういう言葉を遺しています。

『力をもって立つものは、力によって亡ぶ。金で立つものは、金に窮して滅び、ただ、徳あるものは永遠に生きる』

何を拠り所にすることが、もっとも生きるのか。死を求め続けて、生きることの真の意味を悟られた先生の法の言葉は深く心に沁みます。

暮らしの中で禅で生きるというのは、暮らしのすべてで徳を積むということだと感じます。実際にはとても難しく、先達の偉業に深く尊敬の念がこみあげます。

今に集中して、暮らしフルネスで徳を実践していきたいと思います。

純善たる伝承

レッジョエミリア教育というものがあります。これは、イタリアのローリス・マラグッツィという人物の思想や実践が一つの形として表現されたものです。

もともとこのレッジョエミリアは、第2次世界大戦後1946年の北イタリアの町の名前です。その街の郊外のヴィラ・チェラという村でガレキの中から復興を志し、幼児教育に力を入れようと熱心な親や町の人々が教育者、専門家と一体になって立ち上げたことがはじまりでした。このチェラでは、戦後に住民たちが戦争で残った石やレンガを使って、幼稚園を建てるためにドイツ兵が残した戦車やトラック、馬などを売って運営資金にしていたといいます。その後の数年間でレッジョ・エミリアでは女性たちを中心にして60にも及ぶ幼稚園が開園・運営されました。

戦争で子どもたちを保育する場所を自分たちの手で母親たちが主体的に復興するのです。そしてようやく1963年にイタリアで最初の公立の幼児学校がこのレッジョ・エミリアで誕生しました。そこから公立の幼児学校はイタリア全土に広まっていきました。

そもそもイタリアは元々昔から地方分権が強い場所でレッジョ・エミリアはファシスト政権に対する「レジスタンス運動」の本拠地で市民たちの自治意識が高い土地だったといいます。

その当時、教師やジャーナリストとして活動していたレッジョエミリア教育の中心となるローリス・マラグッツィは地域の教育活動に尽力していきます。

このローリス・マラグッツィは「100の言葉」という詩を書きその理念や哲学の中心になるものを残しました。そこにはこうあります。

「子どもには 百とおりある。
子どもには 百のことば 百の手 百の考え 百の考え方 遊び方や話し方
百いつでも百の聞き方 驚き方 愛し方 歌ったり理解するのに 百の喜び
発見するのに 百の世界 発明するのに 百の世界 夢見るのに 百の世界がある
子どもには 百のことばがある…それからもっともっともっと…

​けれど九十九は奪われる
学校や文化が 頭とからだを ばらばらにする

そして子どもに言う 手を使わずに考えなさい
頭を使わずにやりなさい 話さずに聞きなさい
ふざけずに理解しなさい 愛したり驚いたりは 復活祭とクリスマスだけ

そして子どもに言う 目の前にある世界を発見しなさい
そして百のうち 九十九を奪ってしまう

そして子どもに言う 遊びと仕事 現実と空想 科学と想像 空と大地 道理と夢は 一緒にはならないものだと つまり百なんかないと言う

子どもはいう でも 百はある 」

自分なりの意訳ですが、それぞれの子どもにはそれぞれの子どもの人生がありその人生には正解などなく、それぞれに自分らしい人生があるということのように思います。この時代、いや今の時代も、子どもが真に尊重されているかといえば教育はその真逆で今でも軍隊のように権利を奪われ、画一的に個性をつぶし、あるいは大人の都合で子どもが主体的に自分のままであることを認めないものばかりです。

「子どもは無限の可能性をもち、あらゆる権利を持っている。そして、それは誰にも奪われず、主体として大切にすることが教育のあるべき姿だ。」とローリス・マラグッツィは静かに諭します。

その後、1991年に「ニューズウィーク」誌は、レッジョ・エミリアのすべての市立幼児教育センターと保育園の代表として紹介し園長を務めたディアナ保育園を世界のベスト10校の一つに挙げました。今では、グーグルやディズニーでも採用され世界中に実践が広がっています。

そう考えてみると、日本ではどうでしょうか。

どのような保育こそが、真にその子どもの主体性を保障し、無限の可能性を奪っていないのか。私は自然農法なども行い、暮らしフルネスを実践しますが日本人はいのちとの繋がり、つまりは物も人もすべていのちの顕現したものという意識を持ちます。

本来は、子どもがもっとも世界で仕合せに暮らす国だったように思います。そういう文化の国が西洋からの古臭い教育で色々な歪が出てきました。今一度、本来の日本にある伝統の教育を今に甦生する時機に入っているように思います。

私が実践する暮らしは本来の日本の保育そのものです。それを大人がまず実践することで、子どもたちにその保育を伝承することができます。大人か子どもかではなく、共に生きる、つまり一緒に暮らすことで実現するのです。これは働き方と生き方の一致でもあるし、過去と未来と今の一致でもあります。

いのちの共生、ものも人もすべて繋がっている場をつくりだす。これが日本式の子どもを育てる伝承法である。それを純善たる伝承とも呼ぶのでしょう。

時機が到来していることに仕合せを感じつつ、かんながらの道を真摯に力強く動き出していきたいと思います。

 

月心

昨日は中秋の名月で夜が神々しく輝いていました。特に、水面やススキ、そのほかの植物たちに反射して全体が照らされ暗闇が一層優しく映りました。この中秋の名月は、いつの時代からみんなで眺めるようになったのかと思いを馳せました。

あくまで空想ですが、縄文時代の人たちやまだ電気などがなかった時代、夜というのはどう感じていたのか。そしてその中にある月をどう観ていたのか。夜に静かになっていく空を見上げて、何を思っていたのか。

きっと現代とは、まったく異なる見え方をしていたように思います。月は観る人の心を映し出します。ある人は、大きいと観えたり、またある人は蒼いと観えたり、またある人はウサギがいるように観えたり、人によって観る心境を鏡のように映しだします。

千人いれば、千通りの観え方があります。

よく考えてみると、人の目は同じものはありません。私たちが太陽や月、そして色などもなんとなく共通したものを観ては同じだろうと認識していますがそれが本当に全く同じかというと怪しいものです。なぜなら、人間の目には非常に微細で通常には感じられないようなものを観ているものもあります。

それに心は、観える世界を変えていきますから同じものであるはずはありません。私たちが中秋の名月を眺めるとき、なぜ美しいと感じるのか。それはその心の中にある、微細なゆらぎを味わう感性と結ばれていることからのように私は感じるのです。

その証拠に、月を眺めたときに感じるものは色々と変化します。音も色も、味も、月をよく眺めたらその感覚が変わっていくのを感じるのです。そしてこの変化こそ、心の中の変化であることがわかります。

私たちは毎日、月を観ても、月は同じことはありません。月も変化し続けているのです。その変化を観ては、自分の心の中に移る観念を変化させていく。そこに無常の喜びや仕合せも、または心の住処もあるように思います。

中秋の名月をあとどのくらい眺めることができるのか。人生は一期一会です、仲間たちやご縁ある方々と共に月と共に心を清め磨き歩んでいきたいと思います。

市長との別れ

昨日、飯塚市の片峯市長がお亡くなりになりました。ブロックチェーンストリート構想をはじめ、色々と故郷を復古起新していくために一緒に尽力してきたのもあり志半ばでこの世を去ることになり心中如何ほどだろうかと思います。

最初にお会いした時は、同じテーマである教育の話で花が咲き、私が場をつくることの大切さを説き、片峯さんは国際化やICT化などの新しい教育環境の必要性を説いていました。教育に力を入れることは夢があることで、子どもたちが安心して学べる環境をどう用意していけばいいかなど示唆のある話で盛り上がりました。また、実際にその後に故郷の地方創生などで関わった方々が片峯市長の教員時代の生徒だった方も多く、その多くが市のため貢献したいと取り組んでおられたのが印象的でした。

また私が甦生した古民家に、東京からの移住者を受け容れる際にもわざわざ忙しい時間をさいてきていただき「こんな素晴らしい方に飯塚市民になっていただきありがとうございます」と握手をされておられました。

リップサービスも多い方でしたが、そのどれもが相手を喜ばせよう、気持ちよくなってもらおうと配慮したものばかりでした。そういう心のあたたかい方でしたので、きっと市政の難局や厳しいかじ取りに心を砕くことが多かったのかもしれません。

本当に、たくさんお世話になりました。今はただ、心安らかに穏やかにお休みいただきたいと祈ります。

これからの道の続きは、私たちで結んでいきます。最初の大変な道を拓いていただくのにご一緒できたことを幸せに思います。目を閉じると、笑顔で「よろしくお願いします」という声が聴こえてきます。

人はいつかこの世を去る時がきます。論語の子在川上曰、逝者如斯夫、不舎晝夜とあるように光陰矢の如し、時は瞬く間に過ぎ去っていきます。ご縁をいただいているからこそ、その時に報いていきたいと思うばかりです。

これからはいただいたものを故郷の子どもたちに橋渡していこうと思います。

人口の問題

世界は人口が80億人を超え、このままいけば2100年頃には160億人にまでなると予想されています。世界は先進国と発展途上国という言い方をしますが、先進国になっているということはそれだけ経済的にも裕福になっているということでそれは人口が増えているということになります。

例えば、現在はアフリカなども急速に発展を遂げ、最短で先進国入りをする勢いで経済を伸ばしています。インフラも、医療も、あらゆるものが先進国に追いつく追い越せのスピードで導入されて発展しています。

この背景には、資本主義経済によって未開拓のところを開発することで得られる利益があるゆえに競争しては未開の地を発展させていきます。結局、植民地支配を広げるのと似ていてそれが経済という仕組みで今も行われています。

ただ本来は、そういう経済とは無縁な自然と調和しているような小さな場所やそのままにしておけば特に問題もないような場所まで色々な理由をつけては先進国と同じ道を歩むように干渉していきます。

すると問題は、今の人口爆発につながっていきます。医療も食事も栄養もあっという間に便利に短期間で改善されるので人口も増えるのです。しかしこれはあくまで短期手的なもので長期的には人口は減っていきます。地球には限られた資源しかありませんから、人数が増えたら食べ物がなくなります。お金でどこかのものを買っても、それを作る人たちがいなくなれば食べ物は増えません。

小さな畑や田んぼしかないのに急激に大家族になった人数を養おうと思えば、どこか外から持ってくるしかありません。あるいは、工業化して大量生産する仕組みを考えるしかありません。

結局は、今の大量生産大量消費の仕組みはこの植民地化経済を世界の果てまで追い続けるのをやめないから発生しているともいえます。そして人口爆発は、その副産物でもあります。

だからどちらも両輪になっていきます。アフリカからすれば、飢饉もなくなり病気もなくなるのは有難いことです。子どもは家族を守る大切な労働者の一人として多子多産を続けていきますから、経済が発展するまで産み続けます。そうやって増えたら、今度は子どもを養うために経済をさらに追いかけるようになります。

そもそも何千年も同じように暮らしてきた場所に、別の価値観を入れたらもとに戻ることはできません。自然や野生の生き物を飼育するのと同じで、一度飼育してしまえば元の野生や山には戻せません。適応してきた力をなくしてしまうからです。

私たちはそういう意味では自然と共生し調和してきた力を捨ててきました。今さら元に戻れといわれても、身体も精神もそして社会も簡単に適応できません。

これは果たして本来の発展と呼べるものなのか、みんなで気づかなくなっていますがそれは子孫が証明することになります。発展と呼んでいるものこそ、実際には減退であり、科学を進化していると思っていることこそ、不自然を積み重ねているのかもしれません。

子孫のためにも、バランスを保ち続けられるよう本来の経済のあり方から換えていきたいと思います。