暮らしは実践そのもの

自分の生き方を日々に選択するにおいて、判断は何処で行うか。それは「実践」であるかどうかということだと私は思います。実践というのは、認識よりも深い自然体の一部に近い行為です。それを日々に取り組んでいることを私は「暮らし」とも呼びます。

つまり暮らしは実践そのものということです。暮らし=実践です。例えば、朝起きて太陽を拝み、神仏にいのり声と意識とお水を捧げる。そこから食事を準備して、丁寧にいただき朝の作務を調えつつ、内省し日々の心の持ち方を定めていくとします。これは暮らしの実践です。

実践しているようで暮らし、暮らしているようで実践する。

私の場合は、一日の中に何度も実践をする項目があります。お手入れの回数は毎回あり、掃除にいのり、また場づくをし続けます。暮らしているように場づくりをし、場づくりをするように暮らします。これもまた実践です。

人の人生というのはあっという間に過ぎていき、終焉を迎えます。

だからこそ何を大切にして生きていくかというのは、人生の一大事です。

その一大事を忘れないように初心を定め、実践によってその人生を括ります。その継続で、最後に実践してきたことだけが遺り譲られていくのです。いのちの連続性や循環、そして関係性は実践が結ぶのでしょう。

実践が結ぶと信じれるからこそ、その時々の年齢の覚悟も決まります。

今日も、大切な一日として実践していきたいと思います。

新体制

夏至から七夕までの大切な時季に、株式会社カグヤは新たな経営体制に甦生しました。野見山広明は代表取締役会長に就任し、眞田海が代表取締役社長に就任します。

なぜ今、代表を交代するのですかと尋ねられることがあります。なぜか若いのに悠々自適な生活を送るのかといわれたり、仏門にでも入るのかなどともいわれます。世代交代や事業承継ですかともいわれます。

しかし本質は「甦生」の実践です。これは古民家甦生でも、結の甦生でも、暮らしその甦生でも同様にいつも取り組んでいるものの一つです。

そもそも自然界には、永遠に同じ姿のままで存在するものはありません。諸行無常ともいいますが、実際には変化し続けるものです。植物でも人間でも生死は循環します。しかし、そのいのちは姿を変えては永続し続けます。これが自然の徳です。

伊勢神宮に1300年以上続いている「式年遷宮」というものがあります。これは二十年ごとに社殿を建て替えながら、技術も祈りも精神も受け継がれていく知恵の実践です。これは新しくなるのは建物だけではなくそこに携わる人が育ち、次の役目へと移り、その人がまた次の世代を育てていく実践です。どんなに変化しても、その初心は伝承していくという仕組み。神道ではこれを常若といいます。

常に環境の変化や時代の変化を受け容れながらも初心を忘れずに甦生し続けることが、先人が私たちに遺してくれた大切な経営の知恵です。日本にある数百年も続く老舗などもその知恵を経営に取り入れてきました。

株式会社カグヤは創業以来、「子ども主体」の保育を通して、未来の子どもたちが安心して暮らせる社会を目指し経営してきました。

これからもそれを変えるつもりはありません。新体制は、その使命を果たすための新しい一歩でもあります。これまでカグヤを支えてくださった皆様への感謝や御恩返していくためにも、これからも「子ども第一義」の初心を忘れることなく、徳を循環させ、場を醸成し、甦生の歩みを続けていきます。

七夕の短冊に願いを籠めて。

一期一会 野見山広明

徳の循環

式年遷宮というものがあります。これは20年ごとに社殿を建て替える伝承の取り組みです。今は63回目、次回は2033年に64回目になります。見事に甦生され、いつ拝見しても新しく若々しく瑞々しさが保たれています。まさに永遠の象徴です。

この式年遷宮は、人は変わっても同じ精神・技術・形を何度も新しく活かすという仕組みです。この20年というのが絶妙な期間で、これが100年になれば職人たちも不在になり失われてしまいます。20年に一度というのは、職人の人生であれば3回は立ち会えます。最初の1回目の若い頃は年配のベテランの技術者や宮司はじめ神社関係者に指導されます。2回目、3回目は今度はそれを指導する側として同じことを取り組みます。

いくら同じ精神、技術、形があっても材料も人の環境も気候も価値観もすべて異なります。

それでも永続して初心を守ろうと取り組むところに、甦生の本質があります。

此の世の真理として死なないものは一つもありません。誰もが産まれては老い、死にます。死なない存在はありません。それがこの世の摂理です。だからこそ、人は死なないことを永遠とするのではなく「循環」することを永遠と定義したのでしょう。

循環し続けても、本質は守り続けるという実践。

日本にある老舗はみんなそれを守っています。式年遷宮と同じことをずっと繰り返しているのです。私の友人の会社や寺院も何世代も続いているところがあります。今でも何百年前のままに老舗を経営しています。

時代は廻ります。

たとえば、戦争の時もあれば平和な時もある、あらゆる天災人災に遭います。しかしそうであってもその時々の人が初心を守り本質を維持していたから今でも元氣に若々しく経営を続けています。それはそれぞれの老舗が「循環」を守ってきたからです。そしてこの循環には思いやりが必要で、次世代のためにと生きた先人たちの存在が不可欠です。

それを私は「徳」と呼びます。

徳が循環するというのは、永遠に甦生するという知恵の伝承なのです。

引き続き、人類、および子どもたちが安心して暮らしていける世の中になるように残りの人生も真摯に働いていきたいと思います。

場徳の実践

むかしの五穀田に古代米の苗などをお手植えしていきました。赤米の藁などは氏神様や家のしめ縄に活かします。どのようなプロセスでお米を見守ったか、しめ縄にはその力も宿ります。

周囲の田んぼはほとんど機械植えになっています。少ない人数で多くの田んぼでお米づくりをする農業ではお手植えなどをする時間も労力もありません。むかしは、機械が発明されていませんでしたから人数を集めて地域や村のみんなで協力して行っていました。

一緒に田んぼに入り、共に食事をし、労い合い太陽の光と風と泥まみれになって暮らしを編んでいました。

お手植えは確かに時間も労力もかかりますが、まるでお米が自分の分身になったかのような感覚が得られるものです。

一本一本、一株一株を持ち、丁寧に泥の中に差し込んでいく中で土やお水や光や風への感謝が湧いてきます。一つのいのちが自然にはぐくまれることへの偉大な恩恵に謙虚さが湧いてきます。

昭和の農聖と呼ばれる松田喜一先生は、「農は天地を相手にする魂」であるとも言いました。自然を相手にすると、自分が自然の一部であるという感覚が得られます。自分がお手植えする一株が自己の分身のように感じるものです。

松田喜一先生は「農魂は忘我育成の魂である」といいました。つまり神人合一のように、農人合一するのです。自己という存在を忘れるほどに、田んぼと一体になっていくとき人間性が磨かれるということかもしれません。

一年の四季折々を通して、田んぼを見守りながら同時に自己が見守られているという境地を學ぶということ。お米が育つためには、八十八の手間暇と同時に、あらゆる天候や自然の循環の恵み、そして自然災害をはじめとした変化との対処があります。

自己を謙虚に見つめ、自然に學ぶこそが「人間作れ、土作れ、作物つくれ」になるということでしょう。田んぼには、自然の偉大な恩恵である田徳があります。その田徳にどう報いていくか。

私にとって「徳」とは積むものではなく「磨く」ものです。

田んぼは人間を磨く、唯一無二の道場ということです。自然物によって己をどう磨くか、これは田んぼだけではなく法螺貝でも同じことです。

場づくりを學ぶものは、徳を學ぶものです。

忘我育成、場徳の実践を先人とお米から學び続けていきたいと思います。

心の結

田んぼにお水が入り、田植えの準備がはじまりました。周辺の田んぼは田植え機で行っていますが私たちのむかしの五穀田はすべて手植えで行います。同じ田んぼであっても、見た目が同じでも実は全く別のことを行っているということは多々あります。

これは暮らしも同様です。

私はすでに自然に遵って徳を磨く農の場づくりを東日本大震災以降から15年間取り組んできました。本来の人間性を磨き、徳を養う修養道場のような場づくりをしてきました。

田んぼの中でいのちが活き活きする場を観て、自立する元氣な稲と触れ、太陽や月や雨、風や光や音などが育つ場をつくることを学んできました。

いのちが育つ場とはどのような場なのか、それを只管に追及してきました。

その中で、自然のリズムを学び、仲間を学び、自分を学び、感謝を学び、見守ることを学び、一緒に生きることを学び、いのちの循環を学びました。

本来、人間性が甦生するための修養の場とはどのようなものでしょうか?

それは単に知識を増やすことではなく、技術を身につけることでもなく、むかしは自分の心身を整えることや、人格や徳を磨くこと、天地自然との調和を学ぶことだったのではないでしょうか?

そのような場づくりをしたいと、古民家和楽と田んぼの場で取り組んでいくのが暮らしフルネスの人づくりなのかもしれません。

暮らしフルネスの人づくりは、「人と自然と共同体を再び結び直し、人間の本来性を甦生させるための場づくり」でもあります。

これは英彦山で行っている日子山仙螺講などと同じで、「結」という日本人のもつ真心や思いやりの天分や天稟、徳が喜び合うような場にしていこうと実践実験していこうとする試みです。

一期一会の田植えには、一期一会の結があります。

心の結でつながることは、安心と人が育つ大切な土台や基礎を育みます。

私が一生で取り組んできた、いのちが見守り合う喜びもそこにあります。

ご縁とご参加を楽しみにしています。

 

 

丸ごと治す

今年、韓国の智異山に訪問している中で許浚(ホジュン)という人物のことを深めました。この方は朝鮮王朝中期の名医・王室医官で、韓医学の古典『東医宝鑑(とういほうかん)』を編纂した人物です。この『東医宝鑑』は1613年に刊行され、アジアをはじめ日本にも伝来し大きな影響を与えた書物の一つです。2009年にUNESCO「世界の記憶」に登録されました。

このホジュンは王を診た名医だっただけでなく、民衆のために医学知識を体系化し、薬草や治療法を使いやすくまとめたことで朝鮮の養生文化が醸成されました。一部の特権階級でしか受けられなかった医療や、専門書や中国にしかない薬草を身近な朝鮮の山野草に変換、翻訳され、また民間療法や未病につながる生活習慣の改善の仕組みまでも記されます。これにより韓国料理のナムルのように野草を日常から取り入れる習慣や微生物を活用した発酵食などにも大きな影響を与えたのではないかと私は思います。まさに医食同源の実践です。

ホジュンが編纂した『東医宝鑑』では「病気になってから治すのではなく、病気にならない生き方を大切にする」という思想が入っています。つまり人の健康は薬や治療だけでなく、食事、睡眠、呼吸、心の持ち方、人との関係など、日々の暮らしそのものによって育まれると考えられています。これは私の提唱する暮らしフルネスの実践とも一致しています。

畢竟、人間の暮らし方が変わらなければ本質的な病はなくなりません。いつまでも病気になるような生活を続けてその対処療法ばかりをしていても、根源的な人間性の甦生、つまり人が本来持っている力や幸福感が発揮される暮らしが調わなければ真の健康とはいえません。病を治すと同時に、どう人を治すか。教育とか医学とか、分類わけされていますが本来は「人間を自然に調える仕組み」のことです。

むかしから医者には「小医は病を治し、中医は人を治し、大医は国を治す」といいます。ホジュンという人物はまさに養生文化によって民衆の未病を促すまさに大医の実践をした方のように思います。大医は場を通して人間を丸ごと治していくのです。

人間の生き方や働き方を調えることは、まさに養生をすることです。保育の世界にも養護という言葉がありますが、これは養生から発生した言葉です。養生を守るということです。見守ることの大切な要素の一つです。

何かを足すのではなく、もともと具わっているものを甦生する。つまり徳や天分を引き出すような環境、場づくりをするということです。それによって自然に育つ力が発揮されるということです。

本来、人間に免疫力が具わっているように自然に人間性も回復していくものです。そしてそれは暮らしが土台になっているのは歴史が証明しています。真の豊かさは、養生からはじまるのでしょう。

自分を養生することは、周囲を養生することになります。場が調和していけば、自然に養生される人々が増えていきます。私の尊敬する二宮尊徳もまた大医の実践者でした。

時代や国を超えて、大医の実践から學ぶことばかりです。

初心の文化論

子ども心というものがあります。これは遊び心や好奇心などともいわれますが、私は人間性の初心のように定義しています。子ども第一義というもの、元々具わっている子どもの人間性を忘れないという意味で使います。つまり人類の原初の思いやり、孟子でいう惻隠の情のことです。自然に湧き出てくる人間の真心ともいえます。

保育園で子どもたちの会話を聴いていたり、質問をするとまるで神がかかっているような言葉や行動をみることがあります。子どもは優しく思いやりがあり、刷り込みがありません。あるがままのこの世の中をあるがままに観て、自然体です。赤ちゃんが神々しく感じられるように、人間は本来は神々しく感じる存在です。

そのまま大人になった人物を仏陀ともいい、観音様などとも呼ばれています。

しかし人間は発達する過程で、その人間性や初心を忘れていきます。それは与えられた環境や欲望が心を曇らせていくからです。それをどう取り払い、本来の人間性を回復させていくか。それが私が暮らしの甦生に取り組む本意でした。

もしも仏陀や観音様が今、目の前にいてどのような暮らしをしているかを観れば人は何が人間性であるかを思い出すかもしれません。実際には、まったくそういう場がなく見ることもなければ気づくこともないでしょう。

だからこそ、時代を超えて人間性を磨き、初心を忘れない仕組みを暮らしを通して伝承する大切さを感じます。

子どもたちは本来、人間性や徳が溢れる存在です。その存在が、ずっと初心を守れるように見守ることが私が感じる保育の本質です。つまり子ども心とは人間性の初心であり、暮らしの甦生とは、その初心を忘れずに生きるための場と文化を未来へ伝承するということでしょう。

同じ言葉を使っても、その人の思想や人生観、そして生きざまや実践が言葉に宿ります。私が思う文化論をどのようにカタチにしていくか、まだまだ精進していきたいと思います。

地域の文化

地域の文化というものを観察すると、その地域に根付いてきた習慣や生き方、人々の暮らしがよく観えてきます。本来、地域で循環をしあらゆるものが地域の単位で調っていたころは地域文化はよく育ちました。そして地域文化が育っている場所では、よく人も育ちました。これは育つということの本質が、よい土壌が調っていることが前提になっているからです。

田んぼでも畑でも土壌がやせ細って硬く生き物もいないようなものになればよく育つことはありません。ではなぜそんなに土壌がやせ細り衰えているのか。これは畑や田んぼならすぐにわかります。目先の収穫をしようとして、農薬や化学肥料を大量に入れては効率優先に取り組むからです。すると、作物は一時的に大量に収穫できても土が弱ってくるから次第によい作物が育たなくなります。そのうち水耕栽培のように、土がなくても育つように遺伝子を組み替えたり色々とその場しのぎの技術で乗り切ります。そのうち何をしても効率がよくないとし、その場所を捨てて別のところに移動していきます。

地域の文化はこれと似ています。育つ環境が失われていくと似たように文化も荒廃していきます。

本来、経済というのは経世済民といい文化づくりの言葉です。文化づくりは地域の徳が循環する中で育つものです。つまりは土づくりは徳を積むことで醸成されていくということです。

これは太古のむかしから、山が平地を潤すように水が流れあらゆる生命を活性化するように徳が循環することで土地や地域は発展を継続してきて今もあります。そういうものを無視して、目先の損得や個々の欲望を最大化させれば土はやせ細り衰えてしまうのです。

ずっと住み続けたい町とは、文化や暮らしが甦生し続けて徳が循環するような場がある町ということだと私は感じます。

近代、時代背景を観るとほとんどこのようなことは言葉の定義も異なり、常識から外れ思想のように言われますがそのうち時間が経過すれば誰しもが現実に向き合う日はやってきます。

世界の潮流や競争、比較、分断などよりも足元の土をよく観てよく味わい直すところから文化づくりは続いていくように思います。引き続き、子孫や未来のためにも丁寧に暮らしを調えて実践を磨いていきたいと思います。

暮らしの夏至祭

一年で最も昼の長さが長くなる2026年6月21日、英彦山守静坊では暮らしの中の夏至祭を行います。夏至は太陽の恵みを最大限に享受する日として、世界各地で独自の祭りや儀式が行われています。例えば神道では半年間の穢れを祓う「夏越の禊」も、夏至の頃に行われる代表的な風習の一つです。太陽と地球の関係性のエネルギーがあり、そして中庸になる一期一会の光で人々は自然への感謝と無病息災を祈ります。

現在、お山の暮らしを甦生していますがお山との関係性を磨いていくとかつての日本人が忘れてはいけない大切な初心や生き方、そして場があることに氣づきます。

現代は、時間に追われ忙しさや無理をして頑張る生活の中で自然感覚が麻痺してしまう人も増えています。この自然感覚とは、暮らしの場が失われているということです。

今回の夏至祭では、自然感覚と仏道を修養された仙人も一緒に参加し、生き方や場づくりを共にしながら先祖供養の大切さや日々の自己内省や環境づくりなども学び合います。

また夏至は陽極陰性ともいいます。陽が極まり陰が産まれる、つまり一陰来復です。冬至が光がやってきて陽に転じるのに対して、夏至は光が陰になっていきます。しかしこれが自然の法理でり、陰もまた好循環の兆しなのです。盛者必衰であり、老化していくのはいのちの循環です。

その大切な節目に、よく内省し養生し今を受け容れて甦生することがいのちを逞しくし健康にしていきます。無病息災を祈り、長寿を祝い、ご先祖様に感謝する大切な暮らしの行事なのです。

日子山仙螺講の方々と、法螺貝を立て、法螺貝を磨き合います。お水と紙やすりで丁寧に手入れします。英彦山の倒木を片付け、場を清め調えて、甦生した石風呂サウナを実践しお山の霊水で禊をします。

また音のご奉納や神事後の直会なども予定しています。

私たちが大切にしているのは、「場づくり」です。人は個人で回復するよりも、場によって人間性は回復します。純度の高い場、そして純度が磨かれ続ける場は、人間の自然感覚を呼び覚まします。

環境や場は、人を見守り続けます。

成長と成熟~自我との折り合い~

人間は人格が磨かれないと自我との折り合いがつきません。自我とは調和であり、自然体の姿でもあります。これは一人の人格の中に二人の人がいるような感覚です。神経では、交感神経と副交感神経との関係に似ています。

通常、成長成熟は人間的にも才能的にも技術にも完璧になった人のように語られます。地位も名誉も人格も身に着いた人物のように言われます。

しかし実際には、良寛さんやあるいは名も知られずとも地位がなくても見事な生き方をした僧侶や医師がいたりします。最近では、ウルグアイのホセ・ヒムカ氏などもそうです。

艱難辛苦がその人の自我を調え、見事に調和した「一人」になっておられました。つまり自我が調い、真の人間性を生きることができたということです。

そこから逆説として、では何が成長成熟なのかということを洞察してみると人間はどのような状況でも自己を深く探求し学問を続けることができるということ。また人間の理解が深まり、何が未熟であるのかがわかるということ。そしてどのような状況かであってもどう生きるかという生き方を磨いていくということが真の人格、自我との調和には関係していることがわかります。

人生は一度切りですが、生き方はそれぞれが決めるものです。

そして真の資質とは、その人がどのような状況でも本質が保てるかということに他なりません。

本質を学び、本質のままでいることは人格を高めることです。同時に、本質を守る人の周りには同じく人格を磨きたい人が集まってくるものです。孔子の一生が十五にして学を志し、七十にして心の欲するところ矩をこえずといったのは、本質を学び続けて遂に自然体の一人になれたということでしょう。

本質を保とうとすれば必ず苦労は訪れます。

残りの人生も、意味を味わいながら自我の調和を暮らしの中で調えていきたいと思います。