いのちを守る実践

土地本来の樹木で森を再生する植林活動に長年取り組んだ植物生態学者で横浜国立大名誉教授の宮脇昭さんが先月、お亡くなりになりました。森林再生で「宮脇方式」(ミヤワキメソッド)を発明して4000万本の木を植え世界に貢献しました。

宮脇さんは、現在の多くの土地や森は過度な土地の開拓や、商用林の過剰などの現代人たちがやってきたことで土地本来の多様性や強さを失ってしまったといいます。その土地に適した植物を使って自立する森をつくることで自然本来の姿に戻そうというのが宮脇さんの提案することでした。

シンプルに言えば、本来の森に帰す、森の育ちを邪魔しない方式、自然農も同様に自然を尊重する甦生の仕組みということになります。

具体的なメソッドの特徴は、「本物の自然に帰す」「混色して密集させる」「毒以外は資源にする」「スコップ一つで誰でもできる」など、生態系を活かす知恵が仕組みの中にふんだんに取り入れられています。この方式で、300年の森を30年で実現させ、都市部にも生態系との共生を実現させています。つまり世界のあちこちで日本の伝統の鎮守の森をつくり守り育てる活動が広がっているのです。

地球温暖化で、一昨日から故郷では記録的豪雨で水害が起き、世界では熱波や山火事、そして砂漠化や砂嵐、バッタなどの大量発生、ウイルスなど気候変動はもう待ったなしで人間に襲い掛かってきます。この原因をつくったのは人間ですから自業自得ともいえますが、だからといってこのまま指をくわえて何もしないというわけにはいかないのです。子どもたちがいるからです。

未来のために何ができるか、そこでよく考えてみるとやはり唯一の方法は「自然を敵視せず、自然を尊敬し、自然と共生する」しかないと私は思います。そのために、どうやったら自然と共生できるかをこの日本から世界に発信していく必要があるのです。

私の提案する暮らしフルネス™の中には、この生態系と共生する智慧も暮らしの実践の中に入っています。発酵の智慧も、自然農の智慧も、生き方の智慧も、この森林甦生の智慧もまた暮らしの一つです。

日本人は、本来、スギやヒノキや松は暮らしの中で活用することが前提で植樹を続けていました。その暮らしをやめてしまっているから潜在自然植生も失われて森が荒れてやせ細っていったのです。近代の文明を全部をやめて、商業的利用をすべて停止してなどといっているわけではありません。

本来の豊かな暮らしは、半分は自然との調和、半分は人間社会での発展というバランスの中に心と物の両面の真の豊かさと和、仕合せがあります。極端な世の中になっているからこそ極端な対策が出るのであって、最初から調和していればそれは日々の暮らしの小さな順応で十分対応できたのです。

最後に宮脇さんの遺した「いのちの森づくり」の言葉を紹介します。

「日本には、世界には無い『鎮守の森』がある。木を植えよ!土地本来の本物の木を植えよ!土地本来の本物の森づくりの重要性を理解してください。土地本来の森では高木、亜高木、低木、下草、土の中のカビやバクテリアなどいろいろな植物、微生物がいがみ合いながらも少し我慢し、ともに生きています。競争、我慢、共生、これが生物社会の原則です。いのちの森づくりには、最低限生物的な時間が必要です。潜在自然植生の主木は深根性、直根性で、大きく育った成木を植えても育ちにくいものです。大きくなる特性を持った、土地本来の主木群の幼苗を混植・密植します。生態学的な調査と知見に基づいた地域の潜在植生による森づくり、いのちと心と遺伝子を守る本物の森づくりを今すぐ始めてください。潜在植生に基づいて再生、創造した土地本来の森は、ローカルにはその土地の防災・環境保全林として機能し、地球規模にはCO2を吸収・固定して地球温暖化の抑制に寄与します。生態学的には画一化を強要させている都市や産業立地の生物多様性を再生、保全、維持します。さらに人間だけではなく人間の共生者としての動物、植物、微生物も含めた生物社会と生態系、その環境を守ります。本物の森はどんぐりの森。互いに競争しながらも少し我慢し、ともに生きて行く、というエコロジカルな共生を目指しましょう!あくまで人間は森の寄生虫の立場であることを忘れてはいけません!森が無くなれば人類も滅びるのですから。」

私が感銘を受けたのは、本物は耐える、そして本物とは何か、それは「いのち」であるということです。一番大切なものは「いのち」、だからいのちの森をつくれと仰っているように感じます。

いのちの森は、鎮守の森です。鎮守の森は、古来よりその場の神奈備が宿る場所、それを守り続けるのはかんながらの道でもあります。子どもたちの未来のために、私も子どもたちのために未来のために、いのちを守る実践を公私ともに取り組んでいきたいと思います。

 

年中行事の意味

お盆に入り、ゆったりと休みを過ごしています。もともと以前にも書きましたが、お盆の行事は西暦606年からはじまります。江戸時代までは一部の武家、貴族、僧侶、宮廷だけで執り行うものでした。それが蝋燭や提灯など、必要な道具が安価でできるようになり一般庶民にも広がっていったといいます。

江戸時代までの日本は、休日といえば正月とお盆くらいしかなかったといいます。基本的には、日々の暮らしの中で仕事をするのではなく「働く」という意識で生活共同体を組んでいましたから日々の暮らしの中では休みと仕事の境界線はありません。今では出勤しているときとそうでないときで分けていますが、家で働く丁稚奉公などの場合も含め一緒に住んでいますからほとんど家事手伝いのように協働しながら暮らすのです。

お盆休みという風習は、「藪入り」といって江戸時代の商家に広まったのがはじまりといいます。最初はお嫁に行った女性が実家に帰る日のことで関西では親見参、六入りとも呼ばれていたそうです。まとまったお休みが取れ実家に帰ることができるのが、正月とお盆だけというのは今の人たちにはびっくりするかもしれません。今のような便利な時代には、いつでも家を空けられ仕事も交代できますが少し前まではそんなことができないほど社会で構成されていたのです。今では、日曜日が休みになっているのは当たり前ですがこれも第二次世界大戦以降のものです。テレワークなどというのは、この150年の間での働き方でいかに大きな変化であるのかがわかります。

話を藪入りに戻せば、江戸時代は将来、仕事として職人や商人などになるために、13~14歳くらいから師匠や商家を選んで丁稚奉公をする時期でした。基本的には、弟子入りするのだから奉公人たちには、ほとんど休みはありません。しかし今のように学校にいかなくても働きながら現場で身に着けて、時にはその稼業を継いだり、暖簾分けをしたりとして後継者を育成していた暮らしの智慧だったのでしょう。

正月とお盆に、丁稚奉公や嫁に嫁いだ娘が実家に帰ってきてゆっくりと休んだり、親孝行をするという文化は今でも色褪せなく残っているように思います。今はコロナで帰省をするなと政府は言いますが、なぜ帰省しようとするのかをよく共感して話す必要があると私は感じます。

離れていて、なかなか会えないからこそこの貴重なお盆と正月にみんなに会いたいと願うのは日本の生活文化であり、日本人の家族を大切に思う真心と生き方です。

休みをどう使うのか、それはその人の自由です。しかしその休みには本当はどんな意味があったのかはちゃんと伝承していく必要を感じます。日本にはとても素晴らしい年中行事がたくさん残り今でも継承しています。西洋文明が入り、旧暦が新暦になり、カレンダーやスケジュール、また商売的な行事が増えて本来の日本の伝統行事は薄まってきています。

しかし意味があったものをただ意味もなく続けることは、かえって本来の行事を喪失させていくことになります。これは理念というものも同様に本来、意味があっている理念を思い出しもしないでただやっていると理念が形骸化し本当の意味も喪失していきます。伝統行事もまさに同じく、私たちはちゃんと意味を思い返しながら実践していくことが遺したいもの譲りたいものを次世代へとつないでいく責任であり、智慧は私たちの代で終わらせるものでもないのです。

自然の篩にかけられて消えるのならいいのですが、不自然な篩にかけられて失うのは本意ではありません。子どもたちにいつまでも大切な願いや祈りが伝わっていくように、私たちは意味を甦生させ紡いでいく役割があります。

お盆休みの意味を味わいながら、あと数日ほど大切に過ごしていきたいと思います。

自然と離れず

気候変動が気になるニュースばかりが世界で放映されています。今年は作物をはじめ季節のあらゆるものが2週間くらい前倒しになっているのを感じます。また寒暖差も激しく、今までの緩やかさがなくなってきているようにも思います。

世界はコロナであまり話題になっていませんが、実は本当に深刻なことはこのコロナではなく気候変動から発生する様々な自然災害だと私は感じます。

自然災害といっても、大雨や地震などのほかにも緩やかな災害というものがあると思います。それは時間をかけて砂漠化していくものであったり、逆に水没していくような環境の変化です。他にも、動植物が変化に耐えられず死滅していくことなどもその一つです。

こういうことを話すと脅しているように感じたり、極端な意見という人もいます。しかし人間はもしもに備えるからこそ災害に対応できるのであり、その予兆を直観できなければ自然と調和して対応していくこともできなくなります。

都会的な生活は、自然環境を無視して存在します。もしくは自然を敵視し、徹底的に排除していきます。その生活が慣れてしまえば、自然への畏敬を忘れてしまい自然をなめてしまいます。そうなると、ほとんど対応がでずに思考停止してしまうでしょう。

そうならないように自然から半分は離れずに半分は寄り添う生活をしていくことが日本人の伝統的な暮らしの智慧であったのです。その証拠に、古民家は半分は自然で半分は人工的です。

これを今の時代も上手に調和させていけば、時代が変わっても私たちは自然と共生しながら人類の社会を永続的に発展させていくことができるように思います。

時代的に今は、大きな分水嶺を迎えています。暮らしフルネス™の実践にそって、これからの生き方を子どもたちに伝承していきたいと思います。

場の甦生~みんなの場~

昨日、有志たちと一緒に故郷の滝行の場にある古い建物を解体してきました。ここは、非常に歴史のある山岳信仰の場所で800年以上前には非常にたくさんの山伏たちがここに立ち寄り修行をしたところと言い伝えられています。

その後、明治以降に炭鉱の採掘の関係で韓国人の方々がたくさん来られその中でこの滝行の場を使って参拝していたといいます。山岳信仰や自然崇拝は古来から、世界の各地にありますからむかしは宗派なども関係がなくみんなで自然に祈祷をしていたのでしょう。

この信仰の場も、以前はいろいろな人たちが各地から集まり国を超えてみんなで参拝していたといわれます。争うこともなく、互いに尊重しながらその場所をみんなで大切にしていたといいます。

現在は、すぐに誰の土地であるかと土地争いばかりをしている話をききます。境界線で争ったり、相続で争ったり、売買で争ったりと、本来の土地の持つ「場」の意味は失われ個人主義の中で利ばかりを争います。

本来、場所はみんなのものであり誰かのものではありません。これは地球も同じく、自然も等しく、人間だけのものではなくすべての生き物たちが共有しているものです。権利の主張し法律で裁けば、自分のものになってしまっていますがそんなものは本来一つもないのです。

みんなで共有の場を持つというのは、お互いにその場所を大切にしようと思うようになります。あくまでその場をお借りするという意識があれば、いつまでも借りたままに大切にします。それを自分の土地となると好きににしていいとなれば、なんでも自分の利益と都合のよいようにしていくのでは廃れていく一方です。

みんなのものだからこそ、大切に守っていく心も育ちます。そのためにも、みんなものという意識を持つための「場」を整えていく必要があるのです。

「場」が整っていくというのは、みんながその場に対して深い絆を結ぶことにもなります。場というのは、言い換えれば「みんなの場」であり一人でできるものではありません。

その場に集まった人たちが、どれだけ場を大切に思い磨いたかでその「場」は清らかにもなり美しくもなり、そして力も持ちます。善い場所には、必ずみんなの働きがあり、聖地のような場にはそこに関わってきた人たちの祈りや願いが場に遺っています。

私は場道家を名乗っていますから、場を磨き整えることが暮らしの中心です。子どもたちにいつまでもみんなの場が活かされていくように場の甦生を磨いていきたいと思います。

文化財の本質

文化財のことを深めていますが、実際の文化財というものは有形無形に関わらず膨大な量があることはすぐにわかります。私の郷里でも、紹介されていないものを含めればほとんどが文化財です。

以前、人間国宝の候補になっている高齢の職人さんとお話したことがあります。その方は桶や樽を扱っているのですが50軒近くあったものが最後の1軒になり取り扱える職人さんもみんないなくなってしまい気が付けば自分だけになったとのことでした。そのうち周囲が人間国宝にすべきだと言い出したというお話で、その方が長生きしていて続けていたら重宝されるようになったと喜んでおられました。

このお話をきいたとき、希少価値になったもの、失われる寸前になると国宝や文化財になるんだなということを洞察しました。つまり本来は文化財であっても、それが当たり前に多く存在するときは文化財にはならない。それが失われる寸前か、希少価値になったときにはじめて人間はそれを歴史や文化の貴重な材料だと気づくというものです。

そう考えてみるとき、私たちの文化財というのもの定義をもう一度見つめ直す必要があると感じます。実際に、私は暮らしフルネス™を実践していますが身のまわりのほとんどが伝統文化をはじめ文化財に囲まれてそれを日常的に活用している生活をしています。

これを文化財と思ったこともなく、当たり前に日本の文化に慣れ親しみ今の時代の新しいものも上手に導入して流行にも合わせながら生き方と働き方を一致して日々の暮らしを味わっています。

そこには保存とか活用とか考えたこともなく、ごくごく自然に当たり前に暮らしの中で文化も文明も調和させています。農的暮らし、ICTの活用、和食に文明食になんでもありです。

そしてそれを今は、「場」として展開し、故郷がいつまでも子どもたちが安心して暮らしていけるように新産業の開拓と古きよき懐かしいものを甦生させています。私は文化財が特別なものではなく、先人たちの有難い智慧の伝承を楽しんでいるという具合です。

本当の問題は何かとここから思うのです。

議論しないといけなくなったのは、何か大切なことを自分たちが忘れたから離れたからではないかとも思うのです。山岳信仰も同様に、山の豊かさを味わい畏敬を感じてそこで暮らしているのならそれは特別なものではありません。そうではなくなったからわからなくなってしまい、保存とか活用とかの抽象論ばかりで中身が決まらないように思います。今度、私は山に入り山での暮らしを整えるつもりです。そこにはかつての山伏たちの暮らしを楽しみ、そして流行を取り入れて甦生するだけです。

何が文化財なのかと同様に、一体何が山岳信仰なのかも暮らしフルネス™の実践で子どもたちのためにも未来へ発信し歴史を伝承していきたいと思います。

人間がわからなくなっていくときこそ、初心や原点に立ち返ることです。この機会とご縁を大事に、恩返しをしていきたいと思います。

季節感の幸福

私たちの暮らしには季節感というものがあります。この季節はこの風物詩というように季節のリズムと共に歩んでいます。四季折々に私たちは小さな変化を季節から感じとって自然の流れに身を任せていきます。

なぜそれをするのかといえば、その方が豊かで仕合せなことだからです。私たち人間のもっている感性の磨き澄み切った場所にある幸福感とは自然と一体になることです。

自然から離れ、私たちは便利な世の中にしていき人間社会を発展させてきましたがそれと反比例して幸福感というものの感性は鈍ってきました。精神的にも病む人は増え、空しい比較競争ばかりで疲れてきています。

本来、私たちすべての地球上の生き物は足るを知る暮らしを知っており自然と共に生きていく中で真の幸福を味わい、この世に生まれてきた喜びを心から享受してきました。

何もない中に深い味わいのあるいのちがあり、そのいのちが活かされていることを知り自分の役割を知らずして知るという具合に存在そのものへの感謝を味わい暮らしをしてきたのです。

そういう意味で、四季折々の変化を味わうということが幸福感と直結していることは自明の理です。

忙しすぎる現代人において、只管お金を稼ぐために色々なものをそぎ落として暮らしを喪失していきましたが子どもたちには本当の豊かさ、真実の幸福を味わえる環境を用意していきたいと願います。

暮らしフルネス™の実践と場が、未来を幸福にしていくことを祈り今日もご縁を結んでいきたいと思います。

気づくことの大切さ

人は何でも失ってみてはじめてわかるものがあります。ある時は、当たり前と思っていてもなくなってしまうとどれだけ大きな存在であったかということに気づくのです。

私たちの心には、いつも繋がっている存在がありその存在によってご縁を結んでいます。その結んでいるご縁の存在にどれだけ心が救われているのかと思うと計り知れないものであることに気づきます。

例えば、居場所という存在、信頼する人とという存在、心の拠り所というものがあります。

私たちは生きていく中で、お互いを支え合い助け合い自分を立てていることに気づきます。自分の人生の中で、深く関わっているご縁は安心基地を醸成していきます。その安心基地の存在は年齢と共に少しずつ変化していきます。

私たちは人生の中で、最初に父母に恵まれ、家族に恵まれ、友人、仲間、あらゆるものに恵まれてその人生を成り立たせていきます。どの存在も深く自分というものに結ばれているもので、そのどれが欠けても自分というものはできません。

そう考えてみると、この自分というものを形成するのは周囲の存在があってこそということに気づきます。その存在が喪失していくことの深い悲しみ、そして新しい存在が誕生することの仕合せ、こうやって私たちの心はそれぞれに拠り所と出会い人生を彩るのです。

失ってみてはじめてわかるのは、自分の心の拠り所の一つであったという事実。そして一緒に生きてお互いに助け合い支え合って生きてきたという事実。さらに、お互いに愛を与えあい結ばれた存在であったという事実があるということです。

ずっとあると思えば、どうしても粗末になってしまうのが人間です。なくならないと思うから大切にしなくもなるのです。しかし、加齢とともに出会いと別れを繰り返していくとそれがいつかは失われていくことに気づいていきます。

だからこそ、このかけがえのない一瞬、一期一会を大切にしたいと心が感じるようになるのです。失いかけて気づくものもあれば、失って気づくものもある。そして失わずに気づくこともあります。

私たちは気づきをし、心を取り戻していきますから大切なことに気づく日々を過ごしていきたいと思います。子どもたちにも、このかけがえのない日々に感謝できる環境を見守り続けていきたいと思います。

場を磨く

私の故郷は、もともと庄内村ですが嘉麻郡を経て嘉穂郡となり飯塚市なっています。この嘉麻郡の由来は日本書紀巻18に安閑2年(535)安閑天皇の条に筑紫の穂波屯倉・鎌の屯倉等を置くというものが由来です。

和銅6年(713)に諸国の郡郷名に好字を付けることが命令されそのときに嘉麻の字になりました。そして明治29年(1896)に嘉麻郡、穂波郡が合併して嘉穂郡となるまで約1,300年間は嘉麻郡のままでした。そしてこの年、嘉麻郡と穂波郡が合併して嘉穂郡 となりました。その後はこの嘉穂郡の一部が飯塚市の中に組み込まれて今があります。

少しだけ前に遡った明治22年ころまでは、庄内村は綱分村、赤坂村、筒野村、高倉村、入水村、山倉村、有安村、多田村、仁保村、大門村、元吉村、有井村で構成されていました。現在まで私が住んでいた場所は、この中の綱分村と有安村です。

この綱分村にも綱分八幡宮を中心に歴史があり、有安にも獅子舞をはじめとした文化が遺っています。

現在、合併を続けていく中で、それまで大切にされていた村やその場所の歴史も次第に失われていきます。小さく分かれていた時は、その小さな中で文化の誇りや遺徳、信仰なども細かく語り継がれてきました。それがなくなっていくというのはとても残念なことです。

合弁して簡単に一つにしますが、本来その場所は風土によって環境も文化も完全に異なるものです。日本国土が自然豊かで多様性があるように、その場所場所は多様性に富んでいます。

地名が一つなっても場所の魅力というのはそれぞれで異なるのです。その場所を知り尽くしている人は、その場所の魅力を知り磨き続けていくことができます。私はこの庄内村出身ですが、この場所のもっている徳や歴史が身体に沁みこんでいます。だからこそ、この場所の活かし方や使い方、もっている魅力を引き出すことができるのです。

こうやってそれぞれの故郷でみんなが魅力を引き出し磨きだせば、日本という国は多様性に富んださらに温故知新された場所に甦生していきます。すぐに東京や大都市圏に憧れてそこにいきますが、本当はその産まれた場所を磨き上げていくことが子孫たちの使命でもあります。

引き続き子どもたちのために暮らしを整え、場を磨き上げていきたいと思います。

そうめんの由来

昨日は、藁ぶき古民家の和楽で息子たちが青竹から準備してくれて「流しそうめん」を楽しみました。まさに夏の風情というか、雰囲気でだけでも涼が味わえ豊かな時間を過ごすことができました。

この「流しそうめん」は、最初は青竹で器をつく井戸水で冷やしたそうめんを食べたことで発想されたものではないかともいわれています。そのそうめんを流すようになったのは宮崎県の高千穂峡の真名井の滝の傍にある「千穂の家」が発祥といわれます。発案は、もともと江戸時代に琉球で薩摩の役人をおもてなすときに那覇湾の崖の上から落下する綺麗な泉流の上源からそうめんを流して、途中ですくって食べてもらうということをやっていたものがありました。このことをヒントに昭和30年頃にこの高千穂峡で本格的に流しそうめんがはじまったのです。

もう一つ、似た名前のものに「そうめん流し」があります。呼び方の順番が逆になっただけですが、実際には違いがあります。これは鹿児島県の指宿市にある「市営唐船峡そうめん流し」として昭和37年に発案されたものです。最初は同じように流しそうめんではじめていますが、途中で当時の町の助役さんが回転式のそうめん流し器を発明しました。回転式ですから、みんなで囲んで丸くなってそうめん流しを楽しめるということで珍しさと面白さと相まって人気が出ました。この助役の人はそのあと町長になっています。

ということで、竹で縦にそのまま流すのが流しそうめんで回転式のものがそうめん流しということになります。

このそうめんの呼び名の由来はもともとは「索麺」と書き、中国大陸から伝わったものです。「索」とは「なわ、つな」という意味でそこに麺が入り、小麦粉を練った細長い食べ物という意味になります。つまり「なわ、つわのような麺=そうめん」と呼ぶようになったのです。

このそうめんが伝来したのは隋か唐の7~8世紀頃(飛鳥時代~奈良時代頃)といわれますが、北宋の時代や室町時代などまちまちです。この「索麺」「索餅」という字が現代のように「素麺」となるのは麺が白いことから白い意の「素」の字を当てたとする説や、「索」の字を書き間違えたとする説もありますが今はほとんどこの「素麺」になっています。

むかしは、そうめんは庶民が食べれるものではなく宮中の七夕などの行事の時に用いられました。それだけ高級で敷居の高い食べ物でした。現在では、どの家でも夏は素麺というくらいみんな一年で一度は食べる夏の風物詩になりましたが歴史が長い食べ物の一つなのです。

こうやって一年で、節目節目に伝統的なものを上手に現代に活かしながらその大切な要素はそのままに新しくしていくことに豊かさを感じます。夏はまだまだこれから暑くなっていきますが存分に夏を味わいたいと思います。

和歌のはじまり

日本最古の和歌集に万葉集があります。これは7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂されたものです。全20巻、約4500首の歌が収められています。和歌には天皇から農民まで幅広い階層で詠まれた土地も東北から九州に及びます。

実際の記録にあるこの万葉時代は天智天皇や天武天皇の父に当たる629年に即位された舒明天皇にはじまり、万葉集最後の歌である巻二十の4516番が作られた759年(天平宝字三年)までの約130年間だといわれています。

この万葉集という言葉の意味は、「葉」は時代の意味で、それが「万」世まで伝わるようにと祈念してできたものとも言われます。この万葉集は、一人の編者ではなく多くの編者と複雑な過程を経て最終的には大伴家持により20巻にまとめられたのではないかといわれます。

また分類としては「雑歌」「相聞」「挽歌」と分かれます。

「雑歌」は行幸や遊宴、旅などさまざまなときに詠まれたものです。そして「相聞」はお互いの消息を交わし合う意で恋愛などのものが詠まれます。もう一つの「挽歌」は人の死に関するものです。

万葉人たちは、人生の節目に和歌を詠みお互いにその心情を確かめ合ったり伝え合ったり、分かち合ったりしたのかもしれません。日本人が情緒豊かである理由もこの和歌から伝わってきます。素直で純粋に美しい心を持ち、それを文章にしていく。美しい四季や自然の畏敬をそのままに言葉にしていったのでしょう。

例えば、天平のころの光明皇后が詠んだ歌があります。この方は、仏教を信仰し興福寺や東大寺をはじめ、仏教を重んじた光明子は民のために悲田院等の慈善活動に邁進された方です。以前、石風呂のことで東大寺の施浴のことを書きましたが1300年前に社会福祉のお手本の実践した方でもあります。3つほど、万葉集に収められています。

「我が背子とふたり見ませばいくばくかこの降る雪の嬉しくあらまし」第8巻1658番歌

「朝霧のたなびく田居に鳴く雁を留め得むかも我が宿の萩」第19巻4224番歌 

「大船に真楫しじ貫きこの我子を唐国へ遣る斎へ神たち」第19巻4240番歌

意訳ですが一つ目は、夫婦でこの美しく降る雪が眺められたらどれだけ嬉しいものか。そして二つ目は朝霧が出てきた田んぼ我が庵の萩が雁をとどめてくれようか。そして最後は、大船に乗っていく唐の国にいく我が子らをどうか神様見守ってください。というものです。

この3つからも光明皇后の人柄、その情景が心に映ります。こうやって、むかしの人たちは素直に自らの心情を和歌によってあるがままに語り合いました。今では、言葉が膨大に増えてあらゆるものは言葉で説明できるほどになりました。

しかしかつてのようなシンプルで純粋な言葉は失われ、本当の気持ちや心情が読み取れないほどになっています。複雑なものは実は本当はとても純朴な言葉になるのであり、現在のような複雑さはかえって本当のことが見えにくくなっています。私のこのブログの文章もまた、そういう意味ではまだまだまったく研ぎ澄まされているものではありません。

言葉が増えた時代のコミュニケーションと、言葉がなかった時代のコミュニケーション。時代が変わっても、万葉人たちが伝え合ったような言葉を今でも大切にしていきたいと思います。

子どもたちにも、本当の言葉が伝わっていくように和歌を学び直していきたいと思います。