腸活を楽しむ~智慧食~

私たちの郷土料理の中の一つに「ぬか炊き」というものがあります。ぬか漬けの漬物を知っている人は多いと思いますが、そのぬかを使って料理して味付けをし煮込んだものがぬか炊きといいます。

そもそもこの「ぬか」は、玄米を精白する時に出る、胚芽(はいが)と種皮とが混ざった粉のことをいいます。それを壺や木桶などに入れて、塩水を加えて練れば「床」ができます。そのぬかの床ができるから「ぬか床」(ぬかみそ)とも呼びます。このぬか床は人間に有益な微生物や乳酸菌などの棲家になりそこでの発酵の循環で産み出されたものを摂取することで人間にとっても豊富なビタミンやミネラル、栄養価を得られます。

この微生物と人間との調和、そのものを「発酵」と呼び、私たちは伝統文化として暮らしの中に取り入れてきました。野菜等の保存食としても最適でもあるためこの智慧を伝承されてきたのです。今では冷蔵庫=保存するものになっていますが、自然界にはそんなものはなく微生物と共生することで私たちは生き残るための智慧を獲得してきたのです。この時の保存は単に傷まない腐らないための仕組みではなく、「永続的に健康でいられる仕組み」まで入っていたのです。

以前、確かこのブログでも書きましたがぬか漬けの歴史は奈良時代の「須須保利(すずほり)」という漬物がルーツだともいわれます。米糠のことも734年(天平6年)の正倉院文書の尾張国正税帳にあるといわれています。それだけぬかを使った暮らしには歴史があります。

その「ぬか」を使った「ぬか炊き」は一般的なぬか床のような漬物として使わずにぬか床を調味料にして青魚のサバやイワシをぬか床で長時間炊くのに使います。つまり「ぬか+炊く」から「ぬか炊き」ということなのです。このぬか床を長時間炊くことで保存期間が延びさらに青魚特有の臭みも消えぬか床のうま味が魚に入り絶妙な味わいが得られます。健康になる上に、寿命が伸びるという発明食です。福岡での伝統郷土料理としてのはじまりは小倉藩主の小笠原忠政公が前任の信濃国から保存食用としてぬか床を持ち込んだのがはじまりです。

今の時代、添加物をはじめいのちの入っていない便利なサプリや加工食品ばかりが広がっている中で腸内環境を整えるといった「腸活」が流行ってきていますが現代社会でも心身の健康恢復の救いになるのがこの「ぬか漬け」と「ぬか炊き」であることは間違いありません。日々の暮らしの中で如何に腸内フローラを活き活きさせていくか、それは暮らしの中の日々の食の智慧と工夫にこそあります。

つまり伝統保存食は単なる長期間腐らないものではないのです。本来の伝統保存食とは、健康な暮らしを維持継続させるための智慧食のことです。私たちは日々に心身が整っていけば、それだけで仕合せを感じます。日々の暮らしは、私たちの人生を美しく彩り、明るくしていきます。

「食」という字が、なぜ「人が良くなる」と書くのか。それは食によって人間が磨かれていくからです。そしてそれは「腸内環境」からというのはまさに的を得ていると感じます。

コロナウイルスのことで、暗く辛い報道も増えていますが、いつまでも子どもたちが安心して元氣で健康で幸せになれるように私も腸活を楽しんでいきたいと思います。

 

渋い生き方

昨日、藁ぶきの古民家の壁に伝統的な渋墨の塗料を使い塗装していきました。松煙を使った黒い塗料ですが、塗った後の板の木目がまさに「渋い」感じてうっとりとしました。

この渋いという言葉は、室町時代の「渋し」が起源であるといわれ未熟な柿のような酸味、苦味の事を元来は意味していたといいます。

そこから「渋い」、現代でも「落ち着きがある」「趣がある」といった意味とし使用され、現代でも渋いことは格好良いものの一つとして使われています。

この渋さは、ただ見た目だけのカッコよさをいうのではないのは古民家甦生に手掛けてわかるようになりました。聴福庵では5年前に施した渋墨の板壁が今では本当に黒光りして磨き上げられた壁のように艶があります。

これは長年をかけて熟成されてさらに雰囲気があり格好よくなっています。渋いことに似た言葉に「いぶし銀」というものもあります。時間をかけて磨き上げられた美の魅力を表現する言葉です。

この「いぶし銀」は「銀」の持つ性質のことをいいます。一般的に金属の中には錆びていきますが「銀」の場合は、化学反応によって硫化し表面が硫黄銀で覆われていきます。すると黄味がかった色が黒へと時間をかけて色合い・風合いが出て魅力が上がっていきます。いぶし銀は、ピカピカするような輝きは失せまずがその分、「渋い」感じが出てくるのです。

この「いぶし銀」の持つ渋さや奥行きになぞらえて、「いぶし銀の活躍」などという言葉のように「魅力的な人」の代名詞になっています。

このいぶし銀の持つ、渋さは本物の実力を兼ね備えた人ということです。渋い人というのは、真の魅力を持っているということの意味でもあるのでしょう。私は、古民家甦生をするときによくこの渋い黒を用います。黒が好きということもありますが、私は正確にいうと熟成されていくのが好きなのです。なので発酵も大好きですし、時間をかけて醸成させていくのにもっとも興味があります。

9年物の高菜漬けを漬け続けるのもまた熟成されたものでしかでない芳醇な香りと品のある味を学ぶためでもあります。

「渋い」というのは、一つの生き方でもあります。

渋い生き方ができるように、伝統や日本人の美意識から学び、子どもたちに伝承していきたいと思います。

 

尊重する世界

世界にはまだ100以上の外界と接触していない民族や部族があるといわれます。アマゾンの奥地であったり、山の高地であったり、あるいは孤島の中であったりします。そこには独自のユニークな文化や生活様式を発展させ、少数ながらもその風土に適した暮らしを実現しています。

グローバリゼーションの中で、世界はあらゆるところに行けるようになりあらゆる文化や生活様式を一変させてしまいました。工業製品などは、安くて便利なものがあらゆるところに行き渡りその土地の生活様式を変えてしまいます。

今までよりも便利なものが外から入ってくればそれが今まで風土に合った手間暇かかるものよりも価値があると欲を優先してしまうのでしょう。そうやって日本も江戸時代から明治にかけて西洋文化や工業製品などが膨大に流入してそれまでの文化を手放していきました。

特に若い人たちは携帯電話をはじめ、目新しい道具を使って力を手に入れることに敏感ですからあっという間に広がっていきます。そうやって世界はどこにいっても、同じような価値観の社会を広げてきたのです。

しかし同時に、外界と関係を断っていた民族は外からやってくる病気やウイルスに対する抵抗力もありません。なので、あっという間に蔓延して絶滅したところもたくさんあります。またその反対に、今まで関係を持たなかった地域の危険な風土病が世界に広がっていくということも発生します。

お互いを尊重してそっとしておくような関係が維持できれば、その場での平和は保たれるのでしょうが現代のグローバリゼーションはそこに資源を取りにいき、経済成長のために浸食していく仕組みですからそっとすることは不可能です。このまま最後は、世界のあらゆるところに隙間がないほどに入り込んでいきます。

そのうち、宇宙人というものを地球外に見つけそこに向かって移動していこうとするでしょう。そして現在の少数民族とのやり取りのように病気を持ち込み資源を奪い、また経済成長のためという大義をもって浸食していくということは簡単に予想ができます。

よく考えてみると多様性というものは、尊重されることで維持されるものです。尊重せずに浸食すれば多様性というものはありません。その尊重は、無理やり折り合いをつけるのではなくお互いの最適な距離感の中で見守りあっていくことであろうとも思います。これは自然界の仕組みそのものでもあります。

世界は、何で一つになるのか。それがいよいよ人類に問われている時代だと私は思います。

後悔しないように子どもたちの憧れるような生き方を譲り遺していきたいと思います。

結友の仕合せ

昨日は、また藁ぶきの古民家で結友の仲間たちと掃除やべんがら塗を行いました。大変な作業もみんなで助け合って取り組めば心地よく、家も人もみんなが元氣になっていく感覚があるものです。

また人は一緒に何かをすると、その人の個性や人間性が観えてきます。対面で相手の様子を伺うよりも、一緒になって作業することでお互いの特徴や人柄、そのほかの得意不得意などを知り、心が通じ合っていきます。

掃除の効能は、一緒に取り組むことでお互いを尊敬しあうことができることです。一般的には現在はすぐに比較や競争、評価ばかりが重んじられていてなかなかお互いを尊重して認め合うことができません。一緒にやるよりも、個々の専門分野の人の役割のように配置されているものです。しかし実際には、自分にはない多様な能力や個性がありますから力を合わせた方がいい仕事をすることができます。

ここでのいい仕事は、決して完璧に仕上げることではありません。豊かさやつながり、また楽しみや喜びを感じることができるいい仕事になるということです。一緒に取り組むというのは、それをたくさん味わう時間が持てるということです。

私は、結果よりもプロセスのタイプでみんなで一緒に取り組んだり、味わったり、振り返ったりする方が楽しいと感じるタイプです。終わらせることや目標を達成することだけがいいのではなく、そのプロセスが如何に豊かであったか、仕合せであったかを確認するものです。そのためには、お互いを認め合い、一緒に取り組むという体験を増やす必要があるのです。

それは別に能力があるかないかだけではなくです。昨日は、小学生や大学生が来ていたり、シェフや主婦の方などがそれぞれで一緒に作業しました。みんなで取り組むことで、その人の仕事ぶりが観えてうれしくなります。それはその人がここがダメだとか、ここは直さないととか評価は全く入りません。むしろ、下手でもその人が主体的に取り組んでいることが楽しいのです。子どもたちも最初はみんな上手い人はいません。みんな下手です。そのみんなが協力し合って取り組んだものは下手でもそこには楽しみや喜びがあります。それはみんなの心を通じ合わせて取り組んだからです。

本来の価値とは何か、それは人が仕合せになることです。その仕合せになるために、結果があるのだからあまり上手いとか能力があるかとかにこだわる必要は私はないと思っています。

なぜなら、それが認め合い尊重することになり慢心を戒め、人が謙虚に感謝しあい助け合うための基礎になっていくからです。本来の教育とは何を教えるものか、それは評価や比較ではないと私は思います。なぜならそれで幸福を感じにくいからです。幸福を感じるためには、みんなで下手でもお互いで教え合い知恵を出し合い許しあい、認め合い、助け合うことです。

結友の集まりはいつもそれを実感させてくれます。

こういうプロセスを経て仕上がっていく藁ぶきの古民家は心のふるさとです。子どもたちのためにも憧れるような生き方を増やしていきたいと思います。

ご縁を実践すること

昨日、35年前に近所に住んでいた先輩と久しぶりに再会するご縁がありました。小さいころにソフトボールやラジオ体操などを一緒にやったことを覚えています。思い返すと、小さいときは3つ歳が離れていたら大きなお兄さんです。

後輩や子どもたちの面倒見がよかった先輩のことは心のどこかで覚えているものです。35年も経ちなんとなく面影が残っていると、安心するものもあります。歳をとっていくと3つの歳の差などほとんど気にならなくなってきます。

縁あって再会し、同じテーマで話ができたり、それぞれに困難に挑戦している共通点を感じると不思議な時のつながりを感じるものです。

人間には、ご縁というものがあります。

どのようなご縁で結ばれていくかで、日々は変化していきます。ご縁には場所とのご縁もありますが、時機とのご縁があります、そして人とのご縁です。

最初からその場所、その時、その人と出会う運命であったのではないかと振り返ると思うことばかりです。私は、日々に様々な方々とのご縁がありその時々でそのご縁に対処していきます。時として、あれは夢ではなかったかなと思うようなご縁もたくさんあります。

心の余韻にいつまでも残るような仕合せなご縁もたくさんありました。また同時に、傷つけあって一つの絆になったご縁もたくさんありました。あの人たちたちは今、一体どうしているのだろうかと思っても今は連絡も取りようもありません。ただ、未熟者同士で磨き合った思い出が遺っているだけです。

そういうご縁は、その後の人生でさらに深くし輝かせていくことができるものです。それはご縁を大切にするということに尽きるように思います。人のご縁は意味あって存在し、自分が如何にそれに執着しても思い通りにはならないものです。思い切って諦めてみることで、自分に相応しいご縁が訪れていることを自覚するものです。

それもまたご縁を大切にする一つの実践ということでしょう。ご縁を如何に大事に過ごしていくか、それは日々の内省によります。一期一会に生きるというのは、先人の遺してくださった大切な文化であり生き方です。

子どもたちのためにも、日々のご縁を内省により紡いでいきたいと思います。

 

子どもが憧れる社会

人は信頼する仲間がいることで強くなれるものです。一昔前の教育では、強くなることは誰にも頼らずに自分で全部できる人になることでした。一人でなんでもできるようにならないといけないと、学校では指導されたものです。

実際には、今でも宿題は自分一人、学校でも教え合わないでと指導している教育をしているところばかりです。先生が一方的に一人で教壇にたって生徒に指導する。生徒は自分で正解を探して答えを出す。この正解があるところでの勉強というものは、一人で全部できないといけないのでしょう。

しかし世の中に出てみたら、ほとんどのすべてが正解などありません。正解があるような勉強もありません、なので正解を持っている人ばかりを探している人は裏切られる毎日を送るものです。正解などはないと開き直っている人から、試行錯誤することや意味を深め学べるということをはじめていくものです。

そこで正解がないとわかってしまうと、一人でできないことがわかってきます。言い換えれば正解がないというのは、やっていくことがすべて答えになるということです。その答えを生きるなかで協力し改善し、よりよくしていくことが人生ということになってきます。

その時、信頼できる仲間がいるかどうかは何よりも重要になってきます。そして信頼というのは、頼れる人がいるかということです。心を開いて素のままで弱音が話せ、助けてもらえる人がいるということは信じる姿の一つです。

信念でやり遂げようと必死に取り組んでいるからこそ弱音が出せない人もいるでしょう。それを共感し察知し理解して手を指しのべる人もまた信頼し合っているともいえます。お互いの弱音や本音を言いえるほどの信頼関係があるというのは、心を安んじることができるものです。

安心できる関係があること、それが信頼関係です。お互いが安心して本音本気で一緒に取り組める場には、居心地のよさと共に不思議な力が宿るものです。

これからも未来のふるさとの甦生のために子どもたちの憧れるような社会づくりをしていきたいと思います。

風土甦生とひとづくり

私は故郷に戻ってきて色々と実践が増えてきていますが、よく地方創生をやっているということを言われることがあります。私はこの地方創生という言葉が実は好きではありません。それにまちづくりをしているともいわれますが、またこれも好きではない言葉です。

なぜだろうかと少し考えてみると、色々と思い当たるところが出てきます。例えば、地方という言い方も私は東京に19年住んで2拠点生活をしてきましたから、東京でいうところの東京以外を、特に大都市以外のところをみんな地方と呼んでいました。私は、日本という国でしかもふるさとには両親や家族がいて、東京も一緒に目的を共有している社員たち(私たちはカグヤ一家と呼ぶ)がいてそこを行き来していただけで東京か福岡かということを意識したことはほとんどありませんでした。なので、地方創生という言い方に違和感を覚えたままなのです。せめて、地元創生ならなんとなく理解できますがさらに踏み込めば私がしていることは「風土甦生」の方が近いのです。

もう一つのまちづくりにおいては、さらに違和感があります。そもそも何をもってまちづくりというのか。誰かが箱ものをたくさん建てたり、経済が活性化できるような商売をはじめたり、衰退したものをまた興隆させたりする人たちがまちづくりをした人といわれます。つまり極端な言い方をしたら、田舎を都会にした人たちがまちづくりの第一人者のように呼ばれているのです。動物たちや虫たち、自然がイキイキとして風土が輝いているような場所をわざわざ人工的に整備して都会のようにして、さらに大都会の人と経済がつながり田舎が活性化したことを評価されてまちづくりをしたと呼ばれる喜ばれることが好ましくないのです。せめて、風土を磨いて魅力を引き出したとか、徳を積んで本来の地域の人々を薫育した「ひとづくり」に取り組んでいる方が近いのです。

私は日本の美しい風土をこよなく愛しており、その風土が永遠にこのままであってほしいと願うばかりです。だからこそ、風土を壊さずに美しいままであるために風土の甦生をしながらひとづくりをしていきたいと思っているのです。

本来、その地域にはその地域にしかない風土があります。それはその地域の徳のことです。それはその地域の歴史であったり、文化であったり、暮らしであったりするものです。それを大切にする人たちを醸成しながら、その中でその地域独特の生き方を通して日本全体の風土の一部として力を発揮していくこと。まるでどこにいっても金太郎飴のようになってしまった地方も人もそんなものは日本の未来にほとんど役に立ちません。ながらく保育や教育の世界を観てきても、十把ひとからげに同じようになるように型に嵌められた人を増やしてもそれは本質的にまちづくりの人を育てるはずはないのです。それにどこかで見た風景ばかりで同じ道路と同じチェーン店ばかりが連なっていてどこも同じ配置・配列になっているものが地方創生とかいっていたら田舎に出てきて東京が理想という状態をみんなで目指すだけになるのです。

なんだか長くなってしまいましたが(笑)、ミニ東京に憧れるのをやめ本質的に日本全体のために「風土甦生とひとづくり」をすることに原点回帰していくことが未来の子どもたちのために徳を譲り渡していくことになると思います。

引き続き、我が道をいきながら楽しく豊かに醸成を積み発酵していきたいと思います。

人類の失敗

先日、ある実験がアメリカで行われていることを知り自然の道理についてまた考える機会がありました。その実験は、蚊を遺伝子操作し子孫が生まれなくなるようにするものです。具体的には、遺伝子操作した雄の蚊を何千万匹と野に放ちその蚊が雌と交配することで子孫が生まれなくなり全滅させるというものです。

実験は1週間ごとに45万匹の遺伝子組み換えの蚊が放たれ27か月間行われました。結論としては失敗に終わったようで、雌の蚊が子孫を残せない雄を見分けて交配するようになったのではないかといわれています。当初は減少傾向があったそうですが、18か月後には元の数に戻ったそうです。

人間でもわかりますが、子孫を残せないとなると選択して子孫が残せるようなものを選ぶのはわかります。蚊はそうしないと思ったことがまず不思議ですが、自然の道理としては当然のことです。

問題はここからです。

本来、子孫を残せない蚊を放ったから遺伝子組み換えの蚊は同時にいなくなると仮定していましたが実際には交配するなかで野生の蚊から遺伝子組み換えられた蚊の遺伝子を受け継いだ個体が多数発見されたのです。その遺伝子組み換えられた蚊から同じ組み替えられた蚊が3~4パーセント誕生するようです。つまり人為的に遺伝子を改造された子孫がその後も引き継がれて野生に誕生しているということです。

この遺伝子を組み換えられた蚊のグループは、従来の蚊よりもさらに強い抵抗力や強毒性のようなものを持つことが考えられるそうです。

遺伝子を組み換えて操作するはずが、かえって手が付けられないものを作ってしまうという事実。これはコロナウイルスにも似たようなことが起きているのではないかと私は感じます。

人類は、この遺伝子組み換えという技術の危険性をよく理解せずに使いますが自然のバランスを壊せばどうなることがあるのかを必ず知る日が来るはずです。この遺伝子というものは、何億年も何千万年も前からある私たちの姿を創造するいのちの根源です。それを操作すれば、奇形をはじめあらゆる問題が発生します。

遺伝子を傷つけるようなもの、それを組み換えるようなものをすればこの世に本来存在するはずもなかったような不自然な存在が現れます。人工的に人為的につくられたものは、自然のバランスを崩すだけでなくかえってそれを今度また元に戻すために膨大な量のエネルギーや犠牲を払うことになります。

本来、自然を無視した人工物や人為的なものを取り払って自然に沿ったものにしていこうとなれば自然はバランスがととのいやすくなります。しかしその逆をやればどうなるかといえば、かえって人間にとって不都合なことばかりが発生するのです。

このまま、学び直すことなく人類が突き進めばそのうち「人類の失敗」という歴史が本に掲載される日も来るように思います。その失敗は、すべて以上のように自然界のバランスを崩した出来事や内容で埋め尽くされるはずです。

日本人の先人たちは、それをよく学んでいました。それによって山や川を大切にし、生き物たちや自然を深く崇拝し、自然と共生しながら永続し循環できるバランスの中心を持てる生き方、つまり伝統的な「暮らし」を実現させました。

最近、コロナウイルスは台湾モデルが世界に賞賛されていると聞きます。なぜ、日本がそうならないのか。残念に思います。どちらにしても、人類は失敗から学び改善するところに成長もあります。現実や事実を直視し、暮らしフルネス™が世界を導けるように実践を続けていきたいと思います。

資源のもと

私たちの身体をはじめ、この世のすべてのものは資源でできています。原資になっているものは土ですが、土から化けて形になり最後はまた土に還ります。そしてその土とは、水と火と木と石などあらゆるものが融和している存在です。

私たちは資源を使い、この世で生活をして暮らしを成り立たせています。自然は、それぞれ資源の共有によって共生し合い助け合ってその暮らしをより豊かにしています。

衣食住もまた資源を活用することでつくります。その資源のもとは、自然の他の生き物や存在から得ているものです。当たり前に食べている卵も、またお米もそのどれもが資源でありそれを使うためにはほかの資源の暮らしを保障する必要があるのです。

その仕組みを自覚していた先人たちは、如何に自然が豊かになるか、お互いの豊かさを活かし合っていけばいいかに知恵を絞りました。それが里山循環の仕組みであったり、現在の風土に見合った衣食住の仕組みであったりするのです。

お互いが資源であるからこそ、その資源を大切に活かしきろうとしたのです。私たちの人生も一生も資源を使うことでできています。この身体を使って何をするのか、どう豊かな人生を送るのか。つまりこの貴重な資源の使い道を選択できる自由が一人ひとりにあります。

ある人は、資源を使い私利私欲を満たすためだけに使います。またある人は、それを社会貢献のために使おうとします。本来、貴重な資源を使って私たちは暮らしているのですからその資源がまたほかの資源を豊かにし共生していくことの方が仕合せを感じます。なぜなら、ずっと活かされる存在であり続けることができるからです。

それは言い換えれば永遠のいのちを持っていることを実感できるからでもあります。自分の資源がいただいたもので存在できており、またその資源が子孫や他をずっと活かすためにあると思えるからです。

私たちは資源という見方をすれば、多くの存在の助けによってできた資源です。その資源への恩恵や徳をどのようにお返ししていくか。気づいた人たちはそのために一所懸命にその土地で恩返しをしていきます。それが故郷の資源に還っていくことです。資源を使い消費することばかりを楽しむのではなく、新たな資源を産み出し、その資源でふるさとが豊かになるような取り組みをみんなではじめていくことです。

子どもたちにさらに豊かな資源が譲り遺せるように、真摯に手入れや修繕を通してその意味を伝道していきたいと思います。

 

自分で考える

人は自立していく上で大切なのは「自分で考える」ということです。この自分で考えるというのは言い換えれば「自分で気づく」という力のことです。人生はあらゆることが自分の中での気づきや発見で彩られていきますから誰かの人生を代わることはできません。

常に自分が自分の人生の主人公になって生きていく必要があるのです。その時、大切なのがこの自分を生きるために、自分で気づく人になるということです。

自分で気づく人というのは、説明が要りません。よく私は変わったことばかりをしているように周囲が見えるようで、またとても遠くのことのために歴史を遡り、損得を度外視して行動していきますから意味不明のことをやっているようにしか感じられないのかもしれません。

その時、説明をするようにいろいろと聞かれますが説明はしても全体のことが伝わるというのはほんのごく一部だけです。その時に、説明がわかりにくいという人もいます。説明ができないからよくないというのです。

確かに人に伝える技術というものを持つことで、わかりやすく誰にでもわかるようにすることは大切です。しかし、それはテレビや報道、記事など、もしくは広告宣伝をする時などにはいいかもしれませんが志や実践、もしくは学ぶということにおいては説明よりも気づくことの方が大切なのです。

気づくというのは、説明は要りません。自分の中で、その実践に近づいていき自らがその本質を掴むために気づくのです。気づくことで、人は真に成長しますし、気づきによって本当のことを掴むことができます。

つまりどんなに説明しても理解できないのは、説明する側の問題ではなく気づく側の問題だということなのです。私は今までの人生で、人生の達人といわれるような一道を究めた人たちに何人かお会いして学びをいただく機会がありました。

その人の説明の仕方がわかるかどうかではなく、どうやって近づこうか、どうしたらこの人の学びの深淵に触れることができるのかと謙虚に気づこうと真摯に取り組んできました。

その人の存在から醸し出される片鱗を感じ取り、言葉にならない実践や生き方などを直観して気づきで近づいてはじめて少しだけ悟りに触れるという具合です。それでも実践してまたお会いすると、気づきの差が観えてさらに学びを深めようとする意欲が高まります。

これを説明してくださいとは言いませんし、わからないのは相手の説明が悪いなどとは決して思うこ思うことはありません。最初から説明してもらおうという学びもないし、そんなに甘えていたら自分で考える力が失われてしまうのです。

今の教育は、なんでも先生や上の人が下の人に教えることが当たり前だということになっています。そして気づくことよりも、教え方がいいとか悪いとか相手のせいにばかりしては自分で気づくことの大切さが伝わっていません。自分の問題だと気づかないくらい、気づくことが失われているともいえます。

畢竟、人生は「気づく」ことができるかどうかで意味が変わります。そして自分で考える喜びや気づくことの仕合せが人生を真に豊かにするのです。

子どもたちのためにも、自ら気づける生き方を伝道していきたいと思います。