真の暮らし

スリランカの先住民たちとのご縁から原初の人類の暮らしを見つめています。もともとスリランカは、暮らしの中に紀元前からの智慧が今も生きている国です。アーユルヴェーダなどにもそれを発見できます。特に先住民、ワニヤレットの人たちは自然に寄り添い、自然と生きてきました。そこに流れている時間は悠久で静か、祈祷や行事を大切にしています。

昨日は、野生の像がいるような原生林を歩きました。また食事や骨折の治療をしているところも体験しました。ここ数十年で劇的に生活が尊重されなくなってきた現代でも、大切なことを守り穏やかに暮らしていました。

この場所にいて実感したのは、先住民たちがもしも地球からすべて滅んだときこそ現代の人類が滅ぶときだろうということです。そこに氣づくためにも、私たちはこの原初の先住民の方々から真摯に學び、人間らしさとは何か、真の暮らしとは何かということを見直す必要を感じます。

世界中で起きている先住民族は、ずっと先祖から続いてきた当たり前の自由、当たり前の生活が現代文明に奪われできなくなっています。それは土地を失ったり、木を切られたり、外からの移住者を入れたり、知識や便利な道具を整備することで奪われていきます。

文明人が与えたことは、実はそれは奪っていることになっているということに氣づく必要があります。これは自然を尊重することに似ています。何もしないというのは、ただ見放しているのではなく見守っているという考え方です。

私たち現代文明人たちの価値観は、便利さを優先します。便利は幸福、不便は不幸だと刷り込まれます。そうすると、不便な暮らしをしている人をかわいそうだと思い便利な道具をどんどん渡します。しかし、その便利な道具にはそれ相応の危険性をはらんでいます。これは戦争の武器も同じことです。簡単に人を殺せる道具が、倫理観を失わせ戦うということの仁義礼智信なども奪いただの大量虐殺兵器になりました。

私が暮らしフルネスを提唱するのは、これらの理由からです。

便利さが新しいと思うのは大変危険なことです。だからといい不便だけが正解で善でもありません。だからこそむかしの人たちは、便不便のバランスをきちんと取りました。人類は、ここにきて一つ次元を超えていけるかどうかが試されます。そのためには現代の価値観をよく見詰め直し、本来の人間らしさとは何かからよく見直し実践しすることかもしれません。自然と寄り添う中にこそ、真の人間性は発揮されるからです。

最後にワニヤレット長老からの言葉で締めくくります。

「現代は何らかの社會に所属して競争を続けている物質化された世界になっている。人間性の本質を見失っている。自然はいつも人々に寄り添ってくださっている。自然の驚異や猛威は人間らしさを失うことへの警告でもある。もしこの先も自然に寄り添わず、お金ばかりで競争を続けて人間らしさを見失うなら必ずいつかは死に絶えることになる。それに氣づいて、それをやめることです」

現地語とシンハラ語、英語と通訳を介した関係で多少の意訳や私の認識も入っているかもしれませんがこの数日間で現地に滞在し場で味わい沁みこんだ言葉でした。

陰極まって陽になる、そろそろ一陽来復です。

これからまた新たな挑戦をしていきたいと思います。

人類の大先達

スリランカのヴェッダ族のことを深めていると、驚くことが次々と出てきます。このヴェッダ族は人類の起源にまで遡るほどの歴史を持っている奇跡の民族です。ヴェッダ族に触れることは、人類の起源に触れることにもなります。人類のルーツが何か、これは私は保育の仕事に取り組んできたからこそずっと追い求めていたテーマの一つでした。今回の訪問では、これからの未来の子孫たちの行く末のためにも人類の深淵に出会ってきたいと思います。

もともとこのヴェッダ族は、古代、中石器時代に生きた最古の人類であるバランゴダ人 (ホモ・サピエンス・バランゴデンシス)の直系だといわれます。これはスリランカの大多数のシンハラ人とは異なります。洞窟の遺跡から発見されたバランゴダマンは少なくても紀元前 38,000 年前には定住していたともいわれます。別の科学者によれば、50万年紀元前からこのスリランカの地にいたともいわています。

人類の原初の暮らしを今でも持続し保ち続ける奇跡の民族、このヴェッダ族は地球と共生してきた人類の原型です。今でも狩猟採集民としてスリランカの森や自然環境と密接に結びついた暮らしを続けています。

もともとこのヴェッダという言葉の語源は、ウェッダー(Vedda)です。弓矢を持った狩人を意味するサンスクリット語の「ヴィヤダ」に由来します。実際のヴェッダ族は自らを「ワンニヤレット(Wanniyalaeto)」(森の民)と自称します。

日本の古神道の杜と同様に自然崇拝で、あらゆる自然の叡智と共に場を守り暮らします。自然や森の精霊を尊び、いのちの循環する宇宙の真理と共に生きます。私たちが文字や映像などで見聞きした何よりも神聖な空間と結界を守り続けて今でも真実を生きています。

私たち現代の人類は、あらゆる欲望の成れの果てに今の人類のみの世の中を好き放題に席巻してきました。もはや教えというものも何が正しくて間違っているのかも、あらゆる宗教派閥紛争や権利権力の集中や歪んだ知識の上書きの連続でもはや原型すらとどめていません。時折、自然災害に遭遇し目覚めるかと思えばまた同じことの繰り返し、人類は歴史から学びません。

しかし現代のようにいよいよ人類の成熟期で文明の末期症状が出ているからこそ、私たちは原点回帰し今一度、真実に目覚める必要があるのではないかと私は感じます。その真実は、誰かの専門家や権威の知識ではなく、大多数が信じる何かではなく、説得力のある本質的な正論でも教えでも記録でもなく、「真実を生きてきた人たちの背中」から學び直すことだと思います。

人類は、過去に何度も滅びそうな目にあってもいざという時のために種を遺してきたから今も持続しているともいえます。種は改良してどうしようもないほどに改悪されても、もしも最初の種が残ってあればそこからちゃんと生まれ変わり甦生することができるのです。

その種とは単なるDNA的なものではなく、意識や精神、生き方や暮らし方などを保つ人々の生活様式などが統合された今も遺り生きる人々の叡智のことです。

私は暮らしを変え場を創ることで、人類は変わると信じている一人の人間でもありますが暮らしの根源を持つ人たちはまさに私にとって人類の大先達です。

大先達から人類とは何かを真摯に學び直し、子どもたちのために真実の道を結んでいきたいと思います。

お手入れの功徳

日本には古来から穢れという概念があります。これは別の書き方で氣枯れともいいます。元氣が枯れていくということで元氣がなくなるということでしょう。元氣というものは、どういうときに失われていくのか。それを一つ一つ見つめていると、わかりやすいものに病気というものがあります。病は気からという言葉もありますが、気が枯れることで病気になっているとも言えます。

そもそもこの病気の定義は、身体の病気、心の病気、精神の病気、あるいは環境の病気、場の病気、あらゆるところに病気はあります。その一つ一つを取り除いていくことが、穢れを祓うことであり、清めていくということになります。

この清めるというものは、どのようなものか。それは私たちは日常の中ですぐに感覚として理解できるものがあります。これは掃除です。掃除は、あらゆるものを祓い清めてくれます。先ほどの身体も心も、精神も場も清められます。私たち日本人が、清々しさを大切にするのは古来より気枯れを予防するような生き方をしてきたからです。

気枯れは、例えば不安、心配、恐怖、また苦痛や執着、猜疑心や嫉妬などあらゆる悩みからも発生します。また水が澱み、風通しがわるいときも発生します。他には、ゴミのように使わなくなったものが増え、消費や浪費が多いところにも発生します。不平不満をもって文句を言えばすぐに発生するものです。

人間は生きていれば、知らず知らずのうちにこれらの感情に呑み込まれていきます。特に現代のようなお金を優先にして比較されたり差別されるような格差環境では気枯れは容易に発生します。

だからこそ主体的にそれを乗り越えていくような祓い清めが必要になります。つまり気枯れではなく、「元氣」になるように生き方や心の持ち方を換えていく実践が必要になります。

心の世界は、心の世界で禍を転じて福にするために感謝や徳を積むという実践があります。精神の世界では、全てをお任せで安心の境地に入る実践があったり、身体の健康ではちゃんと真に元氣があるものを食べるような医食同源の実践があります。

しかしこれらを全部ひっくるめてやっぱり最も効果があるものは何かと突き詰めれば「掃除の実践」であるのは間違いありません。掃除は私はお手入れともいいますが、お手入れをして穢れを祓い清めるのです。

日々の小さな実践でもっとも効果があるのはこのお手入れの功徳です。丁寧な暮らしを通して、子どもたちと一緒にお手入れの功徳を積んでいきたいと思います。

井戸の豊かさ

昨日は、井戸の無事を祈願した神龍八大龍王神社に御礼参りに伺ってきました。今回の井戸は、最初から困難続きで不可能とも思え何度も諦めそうになることの連続でした。何度も絶体絶命で神様頼みをするなかで、何とか最期まで掘り抜くことができお水も申し分ないほどに湧き出るところまでになりました。

振り返ると、元々その場所は酒蔵で大量のお水が出ていたこと。そしてかつては家が繁栄していたのを井戸仕舞いをして衰退してしまったこと。室内に井戸があったといってもどこに埋まっているのかまったくわからなかったこと。また霊視できるある方から偉大な龍神がいて命の危険があること、傲慢さに気を付けるようにとご連絡をいただいたこと。何度も井戸を甦生するかどうかをギリギリまで議論し、最終的には何のためにやるのかと何度も吟味して決心し井戸掘りを費用度外視、歳月度外視で覚悟して取り組むことになったこと、他にも色々とありました。

気が付けば一年二か月という歳月を経て、約17メートルほど掘り下げた見事な井戸になりました。そしてこれをすべて手掘りで完成させました。今の時代、機械ボーリングで簡単便利に井戸は掘りますがむかしはみんなで井戸はいのちある存在として神事のように手掘りで掘り下げていきました。途中に岩盤があればそれを何とかしなければなりませんし、もしも作業中に井戸の周囲の土が崩壊すれば窒息死してしまいます。あらゆるリスクを想定して慎重に進めていましたが、保険にも加入しいざとなったらと私自身も後かたずけの覚悟を決めていました。井戸掘り職人の方は、天涯孤独の身であり心配ないと言われましたが常に心は井戸に置きいのちの安全を祈願し続けました。

井戸職人からは時には、落雷で停電して井戸内のワイヤーが宙ぶらりになったこと、また急激に水量が増して危険だったこと、ポンプが泥水を吸い上げられなくなったこと、その他にも井戸掘り道具が壊れたり梯子が使えなくなったりとありとあらゆることが発生し困難を極めたことなどを聴き、昨日は祝杯を酌み交わし、ずっと泣き笑いしながら苦労を分かち合い、労い合いました。

畢竟すべてが終わってみると、最期までみんなで諦めなかったこと、だからこそ今、この瞬間があると感動してそこには不思議な多くの御蔭様があったことに深く感謝しました。

自然を相手に何かをするというのは、常に謙虚な気持ちで真摯に取り組んでいくことの連続です。思い通りにはならず、思った以上のご縁に巡り会い続けます。振り返ると、とても豊かなことであり一生涯の人生においてこのような仕合せはありません。

ある独りは、いいものを提供したいと願い、またある独りは、頼まれた以上は無欲に信頼に応えるといい、またある独りは丸ごと全てを最期まで信じ切るといい、その三人が独立自尊して力を合わせたからこそこの井戸は完成しました。まさにお水の神様、辰年に相応しい目出度い最幸の一年になりました。

さあ、ここからがいよいよ本番で家の甦生に入ります。

この井戸とお水に見守られながら建築や修繕に取り組めることは有難く、この上ない喜びもあります。そのお水が活かされるように、隅々まで心を運びながら来夏ころの老舗開業に向けて真心を貫ていきたいと思います。

心から井戸の豊かさとすべてのご縁に感謝しています。

愛と美しさ~魂の実践者~

昨日は、ご縁あって魂の実践者、サティシュクマールさんにお会いしてお話をすることができました。88歳とは思えない、快活で明朗、そして寛容で柔和な姿にも感銘を受けました。どの言葉も強い波動があり、声から伝わってくる熱意や情熱に圧倒されました。

お話もとてもシンプルでこの世の現実をよく直視しておられ澱みなく真理や真実を語っておられました。またその状況をよく分析し、自分はどう生きるかということもはっきりと伝道しておられます。実践から出てくるその言葉も、深く玩味して一つ一つを丁寧に歩んできた道から得られた知恵に満ちています。

私をご指導してくださったメンターの方々と全く同じように、安心することやお任せすること、今に集中すること、一歩ずつ丹誠を籠めて歩んでいくことなど生き方を優先するうえで大切なアドバイスをしていただきました。

環境活動家とも言われますが、環境活動はその主軸が人間になっています。しかし実際には自然から學ぶ環境活動家こそが本来の地球と一体なっている人間の使命だとも言われます。

私たちの身体の全ては、他の生き物たちと同じ素材と元素でできています。私たちも地球の一部です。そして大地を歩くとき、私たちは足から地球と結ばれています。地球から離れません。地球のものがなければ生きていけないのです。それは地球の循環といういのちの中で私たちも存在しているからともいえます。

そして何かをすることが役に立つのではなく、私たちがそのままであることが真に役に立つことといわれます。一つのりんごの木があり、そのりんごはただそこにあるだけで葉を落とし、根をはり、実をつけ、活き活きと枯れても養分になり周囲の生き物たちや自然に恩恵をあたえ一切の無駄もなくゴミなども出しません。自然は完全無比です。それを私は徳と呼びます。

サティシュさんがいう、ゆっくり味わい、小さく身近なものを大切にし、簡素でシンプル、迷いがない暮らしを生きることは自然そのものの徳の在り方だと私は感じます。私たちは親祖から今に至るまで自然の徳が循環するのを観てその偉大な叡智に救われてきました。

私も今、暮らしフルネスという実践をしていますが、お話の全てに共感するところしかなくさらにこれからも自然に深く真摯に精通していきたいと強い覚悟を持ち直す一期一会になりました。

日本の先人たちが、見つめてきたものを私も見つめる中でさらにそれをこの時代に甦生させて子孫たちへの道を切り拓き伝承していくことにいのちを没頭していきたいと思います。

仲間や同志、ご縁に深く感謝しています。私も、愛と美しさをいつまでも忘れないで最期の日までかんながらの道を一歩ずつ歩んでいきたいと思います。

ありがとうございました。

 

心のふるさと

家庭教育というものがあります。そもそもこの家庭教育はいつからはじまったかといえば、人類が始まった時からとも言えます。その時から代々、その家の家風や文化が産まれていきました。それは色々な体験や経験を通して、大切なことを親から子へと伝承していくのです。

つまりは家庭教育の本質は、伝承教育ということでしょう。

その伝承は暮らしの中で行われてきました。これを徳育ともいいます。私たちは徳を暮らしから学び、その徳が伝承していくことで代々の家は守られ持続してきました。私たちが生きていく上で、これは生き残れると思えるもの、自然界の中で許された生きるための仕組みを智慧として取り込んできたのです。

これは人間だけに限ったものではありません。鶏がもつ秩序であったり、虫たちがもつ本能であったりと、見た目は違ってみえてもそれぞれに家庭教育がありその一つの顕現した姿としての今の生きざまがあるのです。

人類は、その家庭教育をそれぞれの小さな単位の家からその周囲の家にまで広げていきました。親子で伝承してきたものを、その地域で伝承していくようになりました。善いものの智慧は、善いものとしてみんなで分かち合ったのです。助け合いの仕組みもまた地域の伝承の一つです。地域ぐるみでみんなで伝承してきたからこそ、その地域が豊かに発展し、存続してきたともいえます。

それが現代は破壊されてきています。地域の共同体も歪んだ個人主義により失われ、家庭教育も核家族化などによって環境が劣化していきました。今だけ金だけ自分だけという空気を吸い、家庭教育は学校任せです。こうなってくると、人類は今まで生き残ってきた力を失っていくことになります。

つまり生きる力の喪失です。生きる力が失われることは、私たちは心のふるさとを失うことでもあります。心のふるさとは、この代々の伝承のことでありそこをいつまでも持っているから故郷の心も守られます。

次世代のことを思うと、今の環境を変革すべきだと危機感を感じます。そしてそれは何処からかといえば、家庭教育の甦生からというのは間違いありません。家庭教育を国家などに任せず、それぞれが暮らしを丁寧に紡ぎ、地域の方々と一緒にかつての先人たちや両親、祖父母からいただいたものをみんなで分け合い守り続ける活動をしていくことだと私は思います。

私が故郷で行っているすべての事業もまた、その心のふるさとを甦生することに関係しています。保育という仕事に関わってきたからこそ、到達した境地です。

子どもたちのためにも、保育の先生方を支えるためにも信念をもって家庭教育を遣りきっていきたいと思います。

美味しいご縁

今、私は故郷の伝統在来種の高菜をリブランドし「日子鷹菜」としてこれから世の中へと広げる活動をはじめています。最初に在来種の高菜の種とお漬物の菌を譲り受けて16年目になるでしょうか。そろそろ頃合いかなとも感じての今の活動です。

人とのご縁があるように、種とのご縁というものもあります。私たちは何かのご縁で結ばれ今があります。そのご縁は大切にしていると発展していくように、出会いも広がっていくものです。

例えば、種と出会うと畑との出会いが結ばれます、同時にその畑に関わる人との出会いが生れます。そして場になり、その場でたくさんの物語に出会います。その場の中には、虫たち、植物たち、あらゆる周辺の生態系、そして町の人々、自分の思いや実践、その熱量などすべてと結ばれます。16年も経つと、写真を見ないと思い出さないようなこともたくさん増えました。しかし、その歳月で得られた智慧や技術、経験などは決して忘れることはなく全て染み付いています。そしてこれが私の高菜への信頼であり、自信と誇りになりました。

今では、どこに出してもまったく恥ずかしくない正直に取り組んできた全てを丸ごと公開できます。当然、肥料も農薬も一切撒かず、塩も故郷の天然天日塩、お水も地下水のみで木樽で家の裏の杜の発酵場で見守っているものです。むかしから変わらない先人の智慧通りのお塩と樽と菌のみの熟成。あとは、定期的にお漬物と対話しながらお塩や石の重みの塩梅をきかすだけです。

それを自分が毎日食べ、色々なこの高菜にしかない魅力や味を引き出してきました。他とは比べず、この高菜にしかない長所、善さを暮らしの中で発見し続けてきました。そうして、いよいよ家族や仲間から他の人たちへ食べていただく段階に入ったということでしょう。そこまでで16年、お金儲けのためではなく純粋に高菜と共に暮らしてきた有難いご縁の歳月でした。

これから世の中に出ていけば、色々な人たちや評論家などにこの高菜の値打ちが語られるように思います。人は色々なことを言いますから、他と比べて酷い評価をつける人もいるかもしれません。今の民主主義は、大人数が正義ですから大勢言えば真実ともなり悪い評判を出されればあっという間にダメになります。いい評判も、本当に心の底から私たちが感じているような美味しさを感じて出したものではない便利なものも出てくるでしょう。

結局のところ、真の値打ちは自分で育てて、自分を育てて、畑を見守り、畑で見守られ、共に暮らしを磨き、食べて慈愛や滋養を循環しあう関係で得た味わいは唯一無二でそれはその人たちにしか感じられないものということでしょう。

世の中にこれから出ていく日子鷹菜は、この先にたとえどのような評価が出たとしてもその真の値打ちは私が一番誰よりもよく知っています。だからこそ世の中にその美味しいご縁をリブランドしたいと思ったのです。過去や他人の評価などはどこ吹く風だと、この場で誕生した新たなご縁を信じてさらにもう一歩広げていきたいと思います。

子孫や故郷の未来に、この美味しいご縁を丹誠を籠めて結んでいきたいと思います。

守静坊の護符

今日は、一年のうちに7回しかないといわれる己巳の日と大明月が重なる日といわれます。この巳(み)とは、十二支の蛇のことで陰陽五行では土は金を生むということから蛇は金運、宝の神様とし弁財天のお遣いといわれています。また大明月というのは、暦では七箇の善日といわれ「物事の始まりを天が明るく照らしてくれる日」という意味があります。これが合わさった大吉日ということになります。

これから英彦山の守静坊で護符づくりを行います。この護符は、もともと御守りや魔除けとして太古の時代より伝承されてきました。今ではあまり護符や御札はその価値や意味も次第に薄れていますが、むかしは偉大な効果があるものとして人々の間で大切にされていました。これだけ悠久の歴史の篩にかけて今でも残っているのは、それだけの価値があるものだからということでしょう。

私は現在、英彦山で懐かしいお山の暮らしを甦生しています。護符づくりもその一つです。昨日から場を調え、周囲をお掃除し、隅々まで新しい湧水で拭き清めていき宿坊全体を清浄にしていきます。またこの場のすべてをご供養して室礼をし、供物などを捧げます。また護符用の和紙は、ご神木のサクラの木の下に一晩安置してサクラの徳が宿るようにいのります。

そして弁財天の祠をお掃除し、同様に供物を捧げ焼香や読経、法螺貝を奉納し場を清めます。私自身も食べものをはじめお酒も控え、麻やヒノキや和晒しで眠り早起きしてお水を換えて供物を調え火を入れて座禅をします。その後は、弁財天に祈祷をし前日同様なことを全て行い禊をしてから場をととのえます。この日は朝からは甘酒だけにし、鏡を磨いたあとは火と水と音だけで過ごします。

護符は、秋月の手漉き和紙ですが楮ではなくミツマタを使い今回は材料のところからこだわり何度も祈りを捧げながら半年かけて職人さんと共につくったものです。そして墨は200年前の固形墨を削ります。赤は辰砂を使い、龍脳の粉を少し混ぜていきます。そこに守静坊の汲みたての湧水を使い、版木は江戸時代のこの宿坊で伝承されてきたものを手で一つ一つ丁寧に押して力を篭めて入れていきます。

護符は丁寧に乾かし、最後に祭壇の前で法螺貝を吹き立てたあと大切に仕舞います。

ご縁のある方々がこの護符のご縁でさらによりよくなりますようにと真心を籠めていきます。よく護符は祈祷師の霊的力量次第ともいわれますが、私はそんな霊的力量に軸足を置かず、むかしの人たちが丹誠を籠めて丁寧に手間暇をかけて取り組んできたプロセスの方を尊重してつくるようにしています。

印刷機などの便利な道具で簡単にスピーディに大量につくれる時代だからこそ、長い時間をかけて、一つ一つの意味を噛み締めながら何一つ怠らず謙虚に真摯に真心を籠めて取り組むと不思議ですがそういうところにこそ神が宿るような気もしています。

そして己巳の日、大明日という大吉日に縁起を担ぐのも、このおめでたい日だからこそ「予祝」として先に叶うと丸ごと信じて、先人たちの生き方の実践し続けていきたいと思います。

暮らしの中の護符に感謝、おめでとうございます。

徳は永遠の道

「懐徳堂300周年供養祭×徳が循環する未来の甦生シンポジウム×ブロックチェーン経済」を無事に開催することができました。有難いことに徳を実践する方々やこれから取り組もうとする方々が集まり温かい雰囲気に包まれた「場」になりました。

最初は、みんなで場を調えることからはじめ蜜蝋などで場のお手入れをしました。そして床の間に集まり法螺貝奉納後、懐徳堂の創設者や學主をはじめ関りの深いご縁のある方々と、この活動を深く支援してくださった方々、また参加者のご先祖様たちをご供養して念仏とご焼香をみんなで行いました。

会場を移動し、真ん中のテーブルをみんなで囲んでシンポジウムを行いました。シンポジウムでは、懐徳堂のその当時の歴史的背景や人物模様、また資本主義がはじまったころから今の成熟していくまでのプロセスでそれぞれの人物たちが何を思い、どう語ってきたかなど先人たちの遺徳を偲び学び直しました。人と人の繋がりの中にある徳を積む話にはみんな深く共感していたのが印象的でした。また贈与や布施、徳積という人間本来の結び合いから新しい技術を通して懐かしい未来やこれからの可能性についても話しました。また世の中の変革は、上からではなく底辺から一人からというのも印象に残りました。

ブロックチェーン経済のところでは、この2年間の私の徳積帳の経過や反省点や課題点、そして可能性や思いなどについて話をしました。同時に、本来のブロックチェーン技術は循環や徳積であることが望ましいこと、技術の前に人間が自分に打ち克つことの価値などを同志や開発者から話がありました。

その後は、みんなで車座になって火鉢を囲み懐徳堂の甦生を試みました。34名ほどの参加者が、それぞれに尊敬する生き方や今回の学びで気づいたことを語り合いました。涙する人もいれば、深く自省している人もいて、またそれぞれの言葉に励まされ元氣や勇氣をたくさんいただいたという言葉が多かったのも印象的でした。それぞれの場で、それぞれに挑戦している人たちだからこそ一人ではないと実感されたように思います。

最後は、直来をして朝から地下水と備長炭で竈で炊いたむかしのお米のおむすびと、伝統在来種の高菜や自然食の副菜、きのこ汁をみんなで食べてとても豊かな時間を過ごすことができました。おやつには、日本最大饅頭の柏屋さんのお饅頭をいただきました。

多くの徳積スタッフがお手伝いいただき、居心地のよい場をつくってくれています。BAでは自然農の畑や田んぼのように、多くの自然に見守られ健やかにいのちが育つ場が醸成されています。有難いことで、自然の叡智には感謝しかありません。

論語に、「徳は孤ならず必ず隣あり」という言葉があります。

まさにそれを実感する素晴らしい一日になりました。懐徳堂も300年前、「人の道」を大切にしようと志してはじまったといいます、先人たちが志たような場をこれからも何度も甦生していくことでその遺徳を継いでいけるようにも思います。

長い時代のなかで、人はずっと人の道を大切にしてきました。少し時代が揺さぶられて道から離れてもそれもほんのわずかな時間です。また原点回帰して元の道に戻れば、そのあとを子々孫々たちが歩んできます。

徳は永遠の道です。

引き続き、場を磨き、場を調え、場と和しながら徳を積み、子どもたちのために今できることを真摯に有難く取り組んでいきたいと思います。

 

ふるさとの宝

私たちの暮らしている場所にはそれぞれに固有の風土があります。この風土とは、その地域の自然環境のことです。しかしその自然の中には、単なる気候や土や環境のようなものとは別にその地域の人々の気質や生活文化、そして醸成されてきた性格を含めて様々なものが混淆しています。これらを括って風土ともいいます。

その風土が生んだものの一つに特産品というものがあります。これはその地域でしかできない、その地域固有の個性です。食文化などもその影響を大きく受けています。私たちが観光である地域を訪れ、その地域の素晴らしさを実感するときにその地域の特産品をその場所で食べると驚くほどに美味しく感じ、その地域の魅力に深く魅了されます。

私もかつて旅行でその地域の特産品を食べて感動して、それを持ち帰ったり東京で食べたりしましたがあまりその時のような感動がありませんでした。その「風土の中で」というのが最も重要だったことがわかります。風土には、人物空間、歴史や伝統などありとあらゆるものが混然一体になっているということでそれを深く味わえるのです。

この特産品の「特」というのは、特別の特のことです。この「特」の字はもともと古代中国の象形文字です。元々は牛に関する特別な印を示す意味で、牛をさしていたとされています。それだけ他とは異なる最も優れたものが牛だったということでしょう。特許や特有などといってむかしから大切なものの総称としても使われます。

そしてこの特産品は辞書で引くと「ある特定の国や地域でのみ生産 されたり、収穫 される物品のことでその地域を代表しその土地の気候風土を生かした物品のこと」とあります。

似た言葉に名品、名産品というものがあります。これは「その土地でしか作られないわけではない」ものです。その地域で売れていたり有名なものが名産品です。

しかし不思議なことにこれだけ重要な名産や特産の違いはあまり気にされず、言葉の意味や使い分けの部分は曖昧なままに偽物が年々増えているように思います。産地偽装や原材料の不透明化、さらには加工している時に大量の化学添加物を入れたりその土地の人や道具、あるいはプロセスなども無視したものでもまるで本物のように出回ります。世間では原材料も一部は違っても100パーセントと言っていいとかの規制緩和があったりして?ですし、他にも色々と調べれはきりがないほど「グレーゾーン」な部分が増えるのが当たり前で世の中は誤魔化しばかりです。それこそDAOの技術であるブロックチェーン技術も今は偽装を防ぐためばかりに使われています。

海外ではブランド品が模倣され様々な問題になっています。信じて買ってみたら、実際には偽装されたものだったとなれば売る方も買う方も悲しい気持ちになります。そうならないようにと、色々と対策を立ててはいますが売り買いする方も見た目ばかりを誤魔化して販売してきたことで、本物を見分ける力も失われているものです。

例えば、食に関する特産品であれば生産から加工販売まで全てを正直に自分で取り組んでいる人は偽装はしません。首尾一貫して本物にこだわり、伝統文化を守り風土と共に生きる人は偽装できません。それを「現場に見に行けば」すぐに本物かどうかは見分けがつきます。ただ、儲けに目が眩んで正直に取り組まなくなれば品質は下がります。

農業であれば、農薬や肥料をつかい機械化し大量生産をし種を改良しとすれば本来の風土の味が劣化していきます。加工でも便利なものを使い時短をし添加物などで誤魔化せば味が劣化します。また販売する方も、見た目ばかりで消費者が買いそうなものにデザインし流通にのるように価格をコントロールすることでさらに味が劣化します。

つまり正直に取り組まないから味が劣化するわけで、正直に取り組んでいれば味はその風土を体現するような本物の磨かれた味わいが出てきます。味に出るから本来は誤魔化せないはずなのですが、味を目や脳みその思い込みで食べている時代はなかなか本物を見分ける本能や感性も劣化してしまうものです。

話を戻せば、特産品というものは本来は「ふるさとの宝」です。このふるさとの宝をどう甦生して、そのふるさとの魅力を開発していくかはその志事に関わる人たちの大切な使命であるはずです。

それに気づいている人たちが地域の宝を守り、その宝を守る時にブランド化するということでしょう。みんなで守ろうとしなければブランドはできません。まず何が地域の宝なのか、そしてその宝をどう守るのか、それが将来の子どもたちや子孫へ何を譲り遺せるかにかかってきます。私が取り組む古民家甦生もですが、現在の消費優先の利益吸い上げ型の仕組みに気づき宝を磨いて守っていくような経世済民型の仕組みに転換していく必要性を感じています。

核心は常にこの宝を何にするかにかかっています。

引き続き、人類の本当の宝を磨いていきたいと思います。