大切なことを忘れないDAY

昨日は、理念から3年前の震災の教訓をふり返るために「大切なことを忘れないDAY」として防災や教訓などを研修しました。

研修では「想定外」についての話し合いを中心に、釜石での事例や、釜石の子どもたちの実績などをDVDを使って学び合いました。

その中で気づいたことがあったのですが、人は想定外というものを考えるのに、想定内とか想定外とか言っていること自体が「想定」しているということだということです。

想定というのは、考えられる範疇での出来事ということで実際の災害は自分の考えが全く及ばないほどの巨大な存在というのが本当の意味で想定できない=想定外ということだということです。

それぞれに想定外の出来事について語り合いましたが、想定内のことばかりを話している姿に如何に自分たちが平和ボケしているのかを痛感します。

本来は、自分のいのちを自分で守ろうなどということは自然界の中では当たり前すぎて本能でいつもそれを発揮して生き残っているのです。しかし実際の今の世の中は、そういうシンプルな自然の姿すら分からなくなるくらい人間が自然から隔離した文明社会の中でどっぷりと安全や安心に浸かってしまっているのです。

そういう文明社会が壊れるような災害があった場合は、いのちを守ること以外できないはずですがそういう目にあったことがない今の世代ではぬるま湯の中でギリギリの感覚というものを喪失してしまうのでしょう。

人は本当の危機を肌で感じながら生きるのは自然への畏怖や畏敬を忘れないということです。神道では神様という偉大な存在に畏み畏み敬い常に謙虚にと私たちは日常から生きてきましたが今では自然を征服するという発想のもと、人為的に操作された人間中心の傲慢な暮らし方の中でそういう畏怖畏敬の心もなくなってきているのでしょう。

自然から離れるということが一体どれだけ恐ろしいことか、地球に住まう私たちが地球と住まうことを忘れてしまうところに文明の崩壊、否、人間中心の限界を感じてしまいます。

以前、「直視」ということをブログで書きましたが直視しないからいつまでも傲慢に胡坐をかいてしまうのでしょう。直視というのは、素直でなければできず謙虚でなければ視れません。自分の今の生き方が自然からどれくらい離れているのか、自然というものを常に意識して生きているか、あの教訓から学んだ本質は自然からの警告であったはずです。

人間が傲慢になって人為的に造りだしたものが、自然に破壊されるのを目の当たりにして自然の中で生きて活かされているのだから自然と共生していく方を優先しよう、あらゆる生きものたちとともに地球に活かされていることに感謝していこうと、初心を忘れずにいることが何よりも後人へつないでいくことではないかと私は思います。

最後に社内では、災害の教訓から新たに5つの鉄則をつくり今後実践することにしましたので紹介します。

【防災鉄則の5箇条】

第1条 危機意識の欠如、備えを怠るな

第2条 自然への畏敬を忘れるな

第3条 固定概念に縛られるな、最善を盡せ

第4条 自分のいのちを守ってから他人を助けよ

第5条 ピンチの時には野生の勘を取り戻せ

子どもたちに豊かな自然風土と幸福な暮らしを譲っていけるように実践を積み上げていきたいと思います。

変化を磨く

色々な体験というものは自分の価値観の世界を拡げてくれるものです。ここでの世界というのは言い換えれば自分が観ている世界ということです。

人は自分が観ている通りに世界のことを観ています。自分が観たいものだけを観て、自分が聴きたいことだけを聴くのです。

だからこそ、自分がどう観えているのか、どう聴こえているのかを客観的に観照し理解することで自分の今の世界観を知ることができてきます。その今の世界観は、同体験をした人達の感想や、一緒に何かを行う人たちの価値観を共有することでそれを感じることができるのです。

同体験を一緒にするというのは、共感する力が必要です。いくら同じ場に同じように過ごしても、共感して尊敬しあって学び合っていないのでは同体験を一緒に体験することにならないからです。

人は相手がどう思っているのだろうかと、自分以外の世界観を知ろうとするときはじめて自分の殻を破って飛び出していくものです。自分の殻を破るためには、知らないことを体験する勇気が必要です。そしてそこには、共にそれを一緒に味わってくれる仲間や友人、家族などの共感するパートナーがいるのです。

人は無意識に自分の思い込みで面白くないだろうとか、苦しいだろうとか、もしくは楽しいだろうとか嬉しいだろうとか独りよがりになっているものです。それを共にやろうや、一緒にやろうといった自他一体の境地になれば新しいことを常に学び続けることができるように思います。

世界観は、人との出会いと触れ合いによって変化していくものですから自分の世界だけで物事を観ずに、相手の立場で思いやり物事を観てみるとか、一緒にそれを学び合おうと尊敬と尊重で関わるときに自分の変化を実感するのです。

共感を磨くことは、自分の変化を磨いていくことです。

色々な人たちの体験を共にしつつ、同時に自分の変化を磨き続けていきたいと思います。

見守り待つ~痛み分け~

人は心に傷を負うと、その傷がいつまでも疼くものです。

それは過去の逃げ場のなかった時の苦しみを思い出すからです。人間は一人で辛く苦しいときは、誰にも相談できないものです。なぜ自分ばかりや、どうして自分だけというように一人の狭い世界に閉じこもってしまうからです。

それを周囲は見ては被害妄想だとか、自意識過剰だとか言いますが本当はそうではなくその人は傷ついているから防御したいのです。これ以上、傷つきたくないから助けを求めるサインであるのです。人間が何かをするのは、きっとそれ相応の理由があるのです。そっちを観てあげることが人間としての優しさであり強さであろうと私は思います。

相手が深く傷ついていると気づいてあげれば、その傷を分かってあげて待ってあげることができます。しかし傷は身体ではなく感情ではなく、心にあるのだからその傷が一般的には目には見えないのです。心の眼で観るときに、はじめて観えますがそのためにはその人が深く傷ついたことを傾聴し共感し受容できなければなりません。

人は心で相手を観ないでその人の表面上の行動や言動ばかりを感情というフィルターで見ると画一的な刷り込みも入り眼が曇りますから単なる被害妄想や自意識過剰、自己中心的で身勝手な人物かのように錯覚して誤認してしまいます。

しかし本来は、そういう人は何かそれ以上踏み込まれたくない傷がある、過去に何かきっと大きなトラウマを持っていると思いやり信じてあげることでその人の痛みを緩和してあげることができるのです。

逃げ場がない時に向き合えといっても、追い込まれて乗り切ってもそれは力でねじ伏せただけになることもあります。本当は、逃げ場があるときに向き合ってそれを自らで乗り越えて誰かと一緒にそれを称えあい認め合うときにだけ人は傷を癒せるように思います。

心が折れたことを思い出すと、もう二度と傷つきたくないと自分から先に相手に求めては諦めてしまいます。しかし、本来はそれでも自分が先に諦めない、相手に求める前に自分に求めようと勇気を出して世界を信じることで様々なことを自然に受け容れる日が訪れるものです。

そしてその過去の傷の痛みは、これから同じような体験をした人たちとの痛みの分かち合いで共に痛みを乗り越えていくことで人は出会いの感動に世界を癒せるのです。

準備ができるまでじっくりと待てばいい、その日が来るのを楽しみに待てばいい、共に傷つき辛かったからこその痛み分けをすることができればそこに同志や仲間、親友たちがいるということですから。

傷は待つことで癒えるのだから、じっくりと見守り待つことを自ら実践していこうと思います。

子どもの権利~社會とのつながり~

人は社會の一員として認められることで人権を獲得していくものです。

人権というものは社會の中に存在するものであり、無人島で一人で生きるなら別に人権などというものは必要ありません。

この人権が守られないとはどういうことかと言えば、社會から無視され否認されるということです。これら人権無視がなぜ起きるかといえば、一方的な価値観を押し付けてそれを守らせようとするときに個人の尊重を蔑にするということで発生するのです。

それが発展して、自分のことを自分で決めることを与えない、つまりは自己決定権すらない子どもたちが世界にはたくさん存在してしまっているのです。これは子どもだけではなく大人でもそうですが、自分で自分の人生を生きる権利をはく奪され誰かの言うことを強制的に従うようにと利権を優先されているのです。

学校などでも、無視が流行るのは本来はその人の個性や存在が尊重されるはずのものが認められず、何かその人が人権を発揮しようとするとき抑え込む作用が働くことでいじめの構造ができあがるのでしょう。

一つの価値観で無理やりに教育することは、子どもの権利条約に違反しているのです。

子どもは自らで生きる権利があるというのは、子どもは自らの生き方を尊重された存在だと認める事が大前提でしょう。その大前提を無視し、大人の都合で子どもを無理やり変えさせようとするのは何か強い圧力を感じます。

そしてそれは大人たち自らを苦しめている原因であることにも気づきます。
学校とは、そこで働く人たちそのものがもっともその苦しみを受けるはずです。

社會から隔離するのをよしとせず、社會とつながることが学校を改革する根源かもしれません。大人になって学校から実社會に出て観たら、あらゆるものが違っていました。それに海外に留学し海外で働けば、なおさら学校でのことはまったく役に立ちませんでした。

そう思う時、大人側の無理解こそが子どもの無理解であったことに気づきます。如何に子どもを理解するのかというのは、如何に自らを理解するかということなのです。世界に目を向けるということは、学校以外の世界が社會には広がっているという現実を受け止めるということでしょう。

このままでは社會というものを誤解した子どもたちがそのままおかしな社会を無理に創りあげてしまうかもしれません。教育に関わる者は、常に社會というものを直視し、その社會を担うものであることを決して忘れてはいけないと心から戒めました。

最後に子どもの権利条約の素になったヤヌシュコルチャックの言葉を紹介します。

「子どもを理解することは、大人自身が自分をいかに理解するかである。子どもを愛するとは、自分自身をいかに愛せるかということ。人は誰しも大きな子どもなのだから。」

今こそ、大人たちからまず自らに気づくモデルを示すときです。

機会を活かして学びを深めていきたいと思います。

歴史の重み~平和維持の本質~

先日、「鬼に訊け」宮大工西岡常一の遺言というDVDを拝見するご縁がありました。

この方は、法隆寺、薬師寺の宮大工棟梁として先人たちの思いを紐解いてその意義と価値を甦生された方です。映像を観ていたらとても大切な文化、伝統、そして伝承することの重み、また生き方、あり方に至るまでを実感することができました。

今回、印象に残ったお話の中で法隆寺や薬師寺の伽藍の修理などで国から派遣された学者や建築法などによって本来、木造建築の中になかったコンクリートや鉄筋を入れさせられたことでした。それに西岡常一さんが信念をもって意義を立てているうちに、法隆寺にはまるで鬼がいると揶揄されて「鬼」という綽名がついてしまったようです。

しかし少し考えてみるとすぐにわかるのが、1300年も数々の災害や自然現象を乗り越えて建っている建物の仕組みを尊重しようとはせずに、今の進んだと思っている文明の科学を押し付けていくというのは賢いやり方とは思えません。

文明では、人間が後ろ盾になって法律や学術理論によってその科学を証明しますが文化では自然の篩にかけられた歴史や時間が科学を証明するのです。

自分の浅はかな考えなどわずか数十年であるのに対し、歴史は自分を含めた何代も何代もかけて数百年、数千年と考えられた深淵なものであるのです。

その先人たちの智慧や仕組みを考えたうえで、今の文明の価値を試すのならいいのでしょうがその仕組みを知らないのに自分の考えが正しいというのはどうかと私も思います。知識というものは、理屈では合っているのです。しかし仮想ではなく実相実在する現実では理屈抜きにして合っているものがあるということなのでしょう。

それが自然か不自然か、調和か不調和かということを直観するのと似ているのです。

1300年生きた檜を使うからこそ1300年生きる、鉄もしっかりと打ち錬磨し叩いたものだからこそ1000年生きる、そういう長い年月いきたもののいのちをそのままに活かそうとする自然の叡智は、人間が加工してつくったものよりも価値があるということなのでしょう。

西洋文明というものは、ビタミンとか栄養素とか色々といいますが自然に野生で育ったみかんを一個食べそのものの「いのち」を身体に吸収した方がはるかに元気になるのも知らないかのように推し進めていきます。

人間の知能の方が、自然よりも勝っている。自然を人間が征服することが価値があると勘違いをするからこそ、おかしな文明が広がっていくように思います。文化というものは、自然を尊重して畏れ敬い生き活かされていることに感謝するから継承できるように思います。

明治以降、大切な文化が目先の利に迷って次々と否定され喪失していきました。まさに論語、「大学」にある「利をもって利とせず、義をもって利とする」ということを守らなかったからでしょう。道義や道理を蔑にしても利益があると勘違いするのは、人間が歴史に対して傲慢になっているからであろうと思います。

伝統が次々と文明に破壊されているのを観ているとまるで戦争のようです、西岡常一さんの平和を願う真心がこの映像より伝わってきて心に沁み込むものがありました。

現代建築ばかりが最高の価値があると思ってしまうのが世の常なのでしょうが、伝統建築の真の価値を知らずして世の常を語るのではないという声が聴こえてきそうです。

信念を貫くことを大切に、自然経営を心掛け初心を伝承していきたいと思います。

 

固定概念

人間には誰しも固定概念というものがあります。

そのものの本質を自ら考えるのではなく、誰かが何かをいっていたからと鵜呑みにしたり、流行や何らかの情報をそのままに思い込んで受け入れてしまったらそれが固定概念になるのです。

人は考えるのをやめることで、物事を単純類似化し画一的にしようとしてしまうものです。分類を分けることで、自分の中で整理するのは脳が行うのでしょうが本来は複雑なもので渾然一体となったものを分けて考えはじめたことから物事の本質が観えなくなっていくのでしょう。

しかも世の中には類似したものから取り組むということで、分業し技能を分けていきますからその技能からものをみたら分かれていない方が怪しいとか不可解に見えてしまうのです。

その最たるものが決めつけというものであり、きっとこうだろうとよくも考えず自分の固定概念に周りを合わせさせようとしてしまうところに失敗もまたあるように思います。沁み付いた固定概念を取り除くには、向き合って受け止めてもう一度ゼロベースで本質から考え直すプロセスを通過することが大切なように思います。

しかし実際は、同時に自分の中の感情が揺れ動き結果を先に思い込んで決めつけているからこそなかなかそれを覆すことができません。きっとこうだとか、きっとああだとか最初に分かった気になってしまっているからこそ自分の世界を変えていくことができないのです。自分の世界が変わらないということは、実際の世界も変わらないということですから同じところをループするだけになってしまうのです。

このループを抜け出すには、分かった気にならず勇気を出してやってみる、そしてそれを本質に照らしてフィードバックすることがあることで少しずつ抜け出せるように思います。

その本質が何かというのが理念でもあります。

理念は決して外罰的なものや外責的、もしくは外省的に誰かに押し付けるものではなく本来は内省的なものなのです。つまりは理念は自ら省みるものであってそれは本質に帰すのは自分自身であって自分以外の周りを本質にするわけではないということです。自分が正しい相手は間違っているというのも固定概念です。

本来の目的を忘れないようにすることで自分の固定概念というものの縛りを抜け出せるように思います。だからこそ何度も何度も日々に省みるものを持てるかどうかは本質的に生きる上においてとても重要ではないかと思います。

言われたことを盲信しただやるだけのステレオタイプになってしまえば、その時点で自分の固定概念の中でのみ生きてしまうことになります。如何に自分を通すときにそれを本物にするかは個々人各自が実践において行わないといけないものです。それが自分の人生だからにほかなりません。

これらの刷り込みを乗り越える先に、目指した本当の理想が存在します。生き方を貫くというのはなかなかすぐには理解されませんが、社業を洗練しより高度な技術を磨いていきたいと思います。

 

活かし合う人間社會

先日から江戸時代の生活を色々と調べていく中で、共通するものを感じました。

江戸はその時代はじめて世界で100万人以上が住んでいた都市です。その50パーセントは武家などの大名の家臣たちで、残り30パーセントが神社仏閣、そして残り20パーセントが町人や商人というような構成で成り立っていたそうです。

一年で特に正月から3か月で一日平均3回の火事に遭い、大火で全部消失することもあったのですら、長屋などもあまり豪華につくらず家具も持たないということで狭いところに簡単な作りの住居で生活したようです。

また親は子どものみんなの親、子どももみんなの子どもとして見守りあい、お年寄りや病人の介護も長屋や周囲の町の人達で交代で見守り、近所も家族同然にほとんどガラス張りの協働生活の中で助け合い、認め合い、分かち合い、義理や人情を優先して暮らしていたそうです。

人が他人を信頼するという仕組みを都市そのものが持っていたように思います。都市の中での善い暮らしがどういうものか、そういうものを究めていくと江戸のような文化が発展するのかもしれません。

そもそも都市とは何かといえば、人間が人間同士で創ろうとする理想の社會のことであろうと思います。自然の中にいけば、自然の中の社會ですから人間と自然の共生である天道地理の里山であったりします。

しかし人間が意図的に創造した家という社会の中では、人間同士の理想、そこに人間の調和がありますから義理人情の都市があります。

今の東京のように個々人が個別にお金を持ち個を尊重という名目で他人に干渉せずにバラバラに生活するのではなく、江戸では常にみんなの都市であることを尊重し個が義理と人情というつながりを優先し生活したのが分かります。

これには、自然観の中にある無駄なものは一切ないのだという思想から練り上がった社會だったからのように思います。西洋では、なければ侵略すればいいという発想があります。狩猟民族というのは、場所を変えては資源を探し求めて移動していく遊牧の民です。しかし農耕民族というのは場所から移動できませんから、その場所で如何に無駄のない生活をするかの智慧と工夫で様々な困難を乗り越えてきました。

私達の先祖は、自然と一体になって今いるところをフル活用して一切の無駄を生じない暮らしを目指してきたのです。そこにはお互いに人間同士においても全てを活かし、つながりを切らないように工夫して何かの時には常に助け合ったのです。

このために必要でいらないなら捨てるというゴミを出すという発想ではなく、何時か必要かもしれないから大事にする、そして修繕してより使いこもうとする「勿体ない」という発想だったのです。

少しでも長く都市を活かそうとしたならば、300年以上続いた江戸の文化や文明はとても参考になるように思います。人間は傲慢になってきて豊かになるとすぐに無駄なことばかりをしたくなります。しかしこの無駄というものを避ける中にこそ真の豊かさ、そして平和が潜んでいるように思います。

今の価値観の中に蔓延る「使い捨て」という考え方をやめなければ無駄はなくならないのかもしれません。

利潤を高めるというのは、如何に無駄のない生活をするか、言い換えれば全てを活かすかということなのでしょう。活かされている自分だからこそ活かそうとすることが謙虚のはじまりなのかもしれません。いのちは多いだけがいいのではなく、そのいのちの質が同時に高いことこそに価値があるのです。

今一度、家という考え方において会社という組織を見直していきたいと思います。

ワークライフバランス~常実践の法理~

ワークライフバランスという言葉があります。それは仕事と生活の調和というような意味があると表現されます。

それに対して生き方と働き方の一致というものがあります。生き甲斐や遣り甲斐、働き甲斐といったものですが本来はこの状態のときにはじめて私は調和していると思っています。

しかし実際はどうかといえば、生き方と働き方を「分けて」いる人があまりにも多いように思います。これは分けることで自分の生活のバランスを取るという刷り込みを持っているからだと思います。

例えば、一日は24時間しかありません。その中で、仕事の時間、趣味の時間、家庭の時間、勉強の時間、友達との時間など、すべてを分けて考えているとします。するその全ての役割を全うしようとしていたらとても時間が足りるわけがありません。それにそれも分けて考えようとするのは自分の都合ですが人生は分かれていないのだからどれも深く関連しているとも言えるのです。

これを自分の都合で分けるとき、そのしわ寄せというものは必ず他の何かに悔い込むことになるのです。本来のそれらは分かれていないものを自分の都合で分けたのであって、分けてはならないものを分けているから問題なのです。

自他を分けたモノサシではなく、自他一体のモノサシに転じれば、仕事も趣味、趣味も仕事、家庭も仕事、仕事も家庭、勉強も育児も友人との語り合いも全て生き甲斐であるという境地、つまりは分けないで取り組む時にのみワークライフバランスは実現するように思います。

これを仕事とプライベートというように分ければ、どちらかの時間のためにどちらかを犠牲にするという発想になったり、それでも無理をしようとすると本来の生き甲斐や働き甲斐といったものとかけ離れた生き方になってしまうかもしれません。

私達の子ども第一主義という生き方も同じで、子育てをしていれば子ども第一主義かというわけではなく、全てのことをもしも子どもだったならと子どものモデルになるような生き方を実践するとき分けていない働き方になっているのです。

これは「分けない」、すべては実は「つながり同じこと」なのだから全てにおいて生活を一つに結んでいくこと、言い換えれば常に「生き方の方を優先し、生きざまを重視すること」で調和に近づいていくように思います。

何事にも理念があるということは、その理念に沿った生き方というものがその後にあるのです。

それを理念と自分を分けたり、生活と仕事を分けたりしていたらいつまでたっても生き方や生きざまには辿りつかず、その先にある生き甲斐や働き甲斐とも出会えないかもしれません。それにそういうことをいつまでもしていたら「本心」が分からなくなってしまいます。人は自分の本心に確認し取り組むからこそ、迷いが消え去り覚悟が決まり真に成長していくことができるからです。

一度しかないのが自分らしさ、そして自分の人生なのだから、分けるのはとても勿体ないことをしているのです。生き方と働き方の一致、つまりはライフワークバランスとは「自分らしい生き方そのもの」を常に優先しているかということによるのでしょう。

この自分らしさを正しく実践することで未来の子どもたちへきっと健やかに逞しく育つ意味が背中を通して伝承できるように思います。自分の我や、社会の刷り込みにもっていかれないように自らの本気本心の常実践で伝えていきたいと思います。

本物の実力~リーダーの育成~(常本番の定理)

人は何によって成長するのかを考えるとき、それは具体的な仕事によって成長するということが分かります。学校のようにいくら受講形式で学んだとしても、それが具体的な成長になるかといえばなりません。

例えば、海で泳げるようになるには教科書を読んでも泳げる人の話をただ聞いても泳げないのは水に慣れないからです。そして自分で実際に泳いでみたことがないからです。そしてもしもプロのように上手に泳げるようになるには目的が必要になります。それが仕事としてレスキューするとか、スキューバをするとか本番実践の現場で成長し上達するのです。

これは「人を育成するもっとも役に立つ教育の道具は、仕事である」というドラッガーの言葉を忘れてはならないということです。

ドラッガーは、マネジメントといった実力を備えるためには「経験が必要」であり、「実践の場」で、しかも、「マネジメント力が必要とされる立場での経験」が必要だと論破します。

そのような立場が与えられていないのでは実力は備わることはなく、挑戦的で大きな責任と権限が伴う仕事こそがその人を真に成長させるのだと見抜いています。今の社会では責任を持たずに仕事をすることで仕事になっているところがあります。

それでは責任のない形式的な作業になり全体の問題や課題を解決するものにはなりません。しかしその人が本質的な仕事を身に着けるには自らで問題や課題を解決するために全責任を果たすようなリーダーとしての仕事になっている必要があるのです。そしてそこではじめてその人物は本物として成長して確固たる真の実力を備えていくのでしょう。

ドラッガーの言う本来の学習とは、会議室や教室の中で受講する形式で行われるようなものではなく必ずアプライ(実践への適用)によってのみ可能であると言い切ります。これは今までの学び方を刷り込みを指摘するものであり、マネジメント力をつけさせるのに単に上司の講義や過去のケーススタディーで終わってしまい、実践への適用がなされなければ決して本物の力はつかないということなのでしょう。

このブログでも、ブログで読んだだけでは学べず読んだことを実際の現場で試すことではじめて本質がものになっていくという具合なのでしょう。真に学びが多い人はそれだけ多くの現場を持っているということです。

現場に出る大切さや現場そのものがなぜ大切で必要かと言えば、その本番の場数を体験しなければ決して人は本物として成長しないということを自覚自明するからです。自分の今までを思い返しても、今あるプロフェッショナルの仕事はすべて現場で身に着けた智慧だからです。

学んだことをすべて現場で試す、現場でぶつける、現場で検証する、現場後に改善する、全てが現場実践、つまりは本来の仕事とはすべて「勉強のための勉強」ではなく、社会で活用し有効となるために「本番のための本番」でなければならないということです。

いくら勉強ばかりしたとしても本番で善い仕事ができなければそれは決して実力が備わった一流のリーダーになったとはいえません。一流のリーダーや人格を磨くというのは学んだことを現場で活かすために学ぶのです。

それは言い換えれば、現場で学び、現場で育つ、そして具体的に自分の強みを活かし、自他を活かし、会社を活かし、社会を活かし、世界を活かすという自らリーダーとして自立するということを意味しているように私は思います。

現場とは本番だという定義を持ち、本番こそが人を育てるということを確信することでしょう。
私自身も刷り込みによって、教え方を間違えてしまうことが多々あります。
常に成長とは何か、リーダーとは何か、強みとは何かを忘れないようにしたいと思います。

人材育成はリーダー育成であることを肝に銘じて精進していきたいと思います。

 

リバース

昨日、リバース研修を社内で実施した中で改めて発見がありました。

初心というものは伝承することであるということをいつかブログで書いたと思いますが、そもそも初心というものはいつも何度でも見直す中で甦生して活き活きと新鮮さを維持していくものです。

新しくなるというのは、古くならないということであり、神道ではそれを「常若」という言い方をしますがこれを続けていくことで当初の思いや心、そして願いや信念などを大切に思い出し続けていきましょうという意味であろうと思います。

人間というものは、心のままであった神代と違って今はほとんどのことが知識が増え頭で計算することができるようになりました。この計算というものは、現実のものを計る「物差し」ではありますがそのために真心や誠実さというものよりもどうしても自分中心に考えてしまうようになったのかもしれません。

これは日々の業務でもそうですが、頭で計算しているうちに本来は何のためだったのかということも次第に意識から薄れていくのかもしれません。そうしていると心が入りにくくなりますからそうならないようにと何度も自分自身の心で決めたままでいようと精進していくことが初心を忘れないということをより強く意識していかなければならないように思います。

これらの初心というものは、何度も何度も繰り返すことで甦ってくるように思います。これは人類の進化や歴史でも垣間見れるように何度も人間は同じ過ちを繰り返しそのつどに大切なことに気づきます。そしてまた時間の経過とともに忘れます、それを忘れないように何度も何度も伝承を怠らないようにして思い出すことでそれがないようにと伝承していくのです。

これらの伝承というものは、心の伝承のことを言います。

心に刻んだことを忘れない、言い換えれば時の流れに流されないように時を刻んでいこうとする今までの御恩に報いる生き方のことであろうと思うのです。

変化というものは、人間が人間都合が生まれてから発生した言葉なのかもしれません。人間が自分の都合を優先するからこそ、本来の自然の流れ、本質から外れしまうのです。そういう環境の中で自然から離れて人間社会というものを形成したからこそ変化し続けなくてはならなくなったように思うのです。

変化を已まないということは、自分都合を極力排除していくことのことかもしれません。そうやって理念や信念を立てたらそれに沿って何度も何度も省みることではじめて自分らしい人生、本来の社會の役割を果たしていけるのように私は思います。

伝承していくというのは、自分の生き方や生き様が子孫へ残っていくということです。自分くらいはとか自分だけはということを言ってはその影響力の大きさを忘れてしまえばそれが最も変化から外れてしまうのかもしれません。

人生の全責任を持つということや、自分の世界や子孫へ与える影響力を知ることが変化になるということのようにも思います。本来の自分を取り戻すためにも、初心を伝承し続けられるよう精進していきたいと思います。