「話せる」ということ

アニマルコミュニケーターという職業があります。有名なのが、アメリカのハイジさんという女性です。この方は、小さい頃から動物と対話ができる力が備わっていましたが警察官を経て体調を崩したことから退職し、田舎で静かに暮らしていましたが何か自分が御役に立てることはないかとはじめたのがこの仕事だったそうです。

私も幼い頃から犬と生活したり、様々な動物と暮らしていましたから動物のことが大好きです。幼い頃の夢は動物園の飼育係であったのも、動物と意志疎通をとることが楽しかったからのように思います。今も身のまわりには常に動物や虫たち、植物がいますからそれだけで幸せを感じます。

先日、GTセミナーで講師をしてくださった赤ちゃん学会の麦谷綾子先生のお話の中で言語発達も日本語を学んでいく過程で日本語の母音や子音を身に着けていくことで最適化していくということがありました。つまりこれは人はもともと持っている能力を、次第に今の社会に適応するために力をそぎ落として最適化するという考え方です。赤ちゃん学会の講師のお話をお聴きすると、いつも次第に大人になるということは赤ちゃんの時の能力が最高で後は、次第に必要な力だけに削られていくということを仰っています。

しかし本来、人には様々な特殊な能力が赤ちゃんのときあって、それをそのまま残している人がいるというのも事実です。

このハイジとさんいう女性もきっとそういう持って生まれた力を残したように思います。人は何でも特殊な力を持っていてもそれをどう社会に活かすか、世の中の役に立てていくかということが大切であろうと思います。

そのハイジさんの著書「動物とはなせる女性ハイジ」には私の日頃考えて居る事との共通点が多くとても共感しました。一部を紹介するとこうあります。

「人間でも動物でも、相手の声を真摯に”聴く”には、こちら側の心が少しでも閉じていてはなりません。そのことを、いま一度、自覚しました。科学者たちは、脳内に言語と理解を司る前頭葉がないため、虫たちは考えることも理解もしないといいますが、決してそうではないと、私は思います。」

動物や虫たちにも複雑な感情があり、言葉は喋らなくても心はあります。八百万の神々という見方から物事を鑑みればすべてのカタチ在る無しに関わらず心はつながりの中で感じられるのです。

またこの一節も大変共感できます。

「動物と”会話”をするということは、人間をとても謙虚にしてくれます。動物たちは素晴らしい先生です。すべての動物~馬、鷹、犬、イルカ、アレチネズミからガチョウに至るまでの、ありとあらゆる動物たちが、考え、感じ、感情をもつ生き物だということを、すべての人間にわかってもらえること、それが私の希望であり夢です。人間たちが動物をより良く理解することを助けること、それが私の使命です。」

人は謙虚でなければ人間とも対話できません。自分の中に驕りが合ってどこか相手を分かった気になっていたり、何でも知った気でいたらそれが意固地になり傲慢な自分をつくりだしてしまうのです。

現代の社会で人間関係が世知辛く貧しくなったと言われたりするのは、このつながりの中にあるものに気づきにくくなってきているからです。謙虚さというものは、相手に心を開いていくこととです。

一円対話の中のオープンでいるというのも、平等でいるというのも、そこには自分がまず謙虚にならなければ相手を共感していくことはできないのです。きっと何かあると思えるかというのは、自分の中の謙虚さと向き合っているということです。

動物や植物などと対話するなどというと馬鹿にされることの方が多いのですが、何のために行うかということです。よりよく自然を理解していくことが、心を学び素直を研鑽し謙虚の実践になるということです。

発達障がいというのは、昔の力を遺しているということでしょう。

見守っていきたいと思います。

世界観の研鑽

何かを行うとき、その物事を自ら丸ごとで取り組むときと表面上で取り組むときがあります。

人は全ての問題を自分の問題だと捉えれらるときは丸ごとであり、それをどこか他人の問題だと思っているときは表面上になるのです。

なぜ表面上になるかというのは、どこまで責任を持つかという問いがあるからです。

例えば、お客様の問題であっても、子どもの問題であっても、世間の問題であっても、それを自分とはどこか関係がないと切り分けたり、仕分けたりしているうちはその問題は他人事の領域で責任はほとんど自分以外にしてしまうのです。

本来の責任とは、責任感のことです。

例えば、世界で起きる悲しい事件があるとします。今ではシリアの難民の問題や、日本での自殺の問題、社会で起きる様々な痛ましい事件のこともこれは自分の何かに問題があるのではないかと思える人と、どこか他所で起きているのだからと関心を持たないのでは責任感に大きな差があるのです。

世界の出来事や世間の事件に関心を持つ必要があるのは、それが自分がどうすればそれを解決できるだろうかと常に自問自答しつつ、それを自らの生き方の実践にまで昇華していかなければそもそも何のために自分が社会の中で自立しようとするのかが分からなくなるからです。

それに社会というものをどのようなものにしていくのかは、社会に参画している大人の責任でもあります。様々な問題の中で自分の役割を見出し、それをどのように自らが責任感をもって取り組んでいくかで自他が分かれない場所で様々な周囲とつながっていくように思います。

これは自分の問題ではないとか、あれは自分とか関係ないとか、そう思うのは目先の自分の立場に囚われているからです。本来は、それは何を繋がっている課題なのか、そして何を解決している事柄なのかと気づいていくものです。

また自分の身の上に起きることは、自分だけに起きる事ではありません。それは必ず社会のどこかで起きる問題とつながっていますし、そしてそれは未来の本当の問題を解決するための尊い体験になっているのです。そこから人は自分の本当の役割に出会っていくのです。

だからこそ一つ一つを自分のことだけにせずよく玩味して自らが課題と一体になっていくことが責任感を自覚することのように思います。みんな自分のことだけで精一杯と思ってしまうものですが、もう少し客観的にその体験は何の問題とつながっているのかを分けずに考えていくことが世界に視野を広げていくことになるように思います。

常に問題は自分のものとして、全ての出来事を自他一体に捉える世界観を研鑽していこうと思います。

信仰の研鑽

何かのご縁を実感するということは、人の話をどの場所で聴くかというものです。ご縁とは素直のことだからです。

素直になっていくと相手の話が自分が本来聞こうとしているよりもずっと高いところで聴けるものです。そういう自分の相手への信仰のようなものが、ご縁そのものを実感していくことなのかもしれません。

そもそも、ご縁を実感するというのはいつも何かを教えてくださっているのが出来事そのものであると実感したり、今日のあの言葉はきっと私も気づいていない大変なことを気づかせてくださっていると思うことからうまれるものであろうとも思うのです。

一つのことを流さないことも、一つのことを深めることも、それはご縁を大切に信仰しているかという自問自答そのものです。よりよく生きることは生きることへの真剣な道であり、その中で人と出会うご縁とは人間への信仰ともいえ、その人間への信仰は自分自身の中にある人間そのものとの一期一会を続け丸ごと自らの尊い命を遣り切るということであろうとも思うのです。

人の話を聞くのに、良いことを言っているなぁくらいの信仰なのか、それとも、またかけがえのない尊いことを教えていただきましたと感謝するのかはその人の信仰の度合いによるもののように思います。

どんなことからも学んでいこう、どんなことも気づいていこうとするのは積極的にご縁を活かそうとする姿勢のように思います。そうした姿勢そのものが自己研鑽であり、日々に身削ぎをして素直でいようとしていくことであろうとも思います。

最後に松下幸之助さんにこういう言葉があります。

「お客様の苦情から商品の欠陥が判る。お客様の要望が新商品のヒントになる。お客様とは本当に有難いものです。」

お客様は神様ですと言ったその意味は、何でもサービスを高めればいいということではなく、お客様の仰っている本当の意味を自分の耳で素直に聴いていく、つまりは崇高で純粋無垢な真心で受け止めていくことだろうとも思うのです。

商品を創らせていただけるのは、お客様の声を常に素直に私心なく聴ける実践からです。お客様の御蔭でいただいたご縁と御恩を感謝でカタチにしていくのが商品の本質だからです。

このように日々に自己研鑽を怠らないことは、人の言うことを素直に聴けるほどの信仰へ高めていくことであろうと思います。

まだまだ私は何かあるとすぐに分かった気になってしまう自分があります。
師の存在があることに大変有難く思います。

善いか悪いかなどにも囚われず、感謝と御恩返しを決して忘れず信仰の研鑽という実践をしていきたいと思います。

自ら同体験

同体験をするということは、体験からお互いのことを理解するということです。

人は体験を通して気づくのは、感覚があるからです。この感覚とは、全体の意味を深く捉えることができる力とも言えます。そうやって体験というもの中には、五感や六感と言われる直観を用いて知らずしらずに本質を捉えているのです。

例えば、同じところで同じものを食べて同じものを観て同じ場を共有するとします。すると、そこで見えたものは個々で異なっていますが感覚は同じものを捉えているのです。美味しいものを食べれば、それぞれが何か美味しいと感じるか直観しますし、同じ場で感じた自然の雰囲気なども誰かがそれを発するとすぐに他の誰かも直観で理解できるからです。

つまりは感覚というものは直観とつながっていて、その感覚を同じく体験することで頭ではわからなかったことが丸ごとお互いの感性のところで通じ合っていくのです。

それに同体験には、思い出の共有というものもあるのです。

人は思い出を共有することでその人を自分の中でつながりを実感するものです。共に何かをした記憶そのものの中に、互いの芯が生まれそこを合わせることで互いの信頼関係の基が築けるともいえるからです。

そして共に体験した記憶は、思い出せなくても自らの感覚がいつまでも覚えているものです。

だからこそ、共にあることを実感できる同体験を大切にすることが共生するということになるのです。その体験一つ一つの尊さに気づき、その体験に如何に価値を与えるかはその体験を高め、その体験を学び、その体験を楽しみ味わうことが大切です。

二度とない同体験だからこそ、そこに確かな絆があり一期一会の邂逅があるということ。

つい同じところに居て同じことをしているだけのような日々に流されそうになることがありますが、些細な小さな出来事ひとつひとつがとても尊いことを改めて実感します。

面白いことや楽しいことだけではなく、辛いこと哀しいこと、そして寂しいことも全部丸ごと自らで同体験することが人とのつながりや信頼、そして豊かな社会を築いていくのです。

自ら体験を昇華し、同じ体験をできたことに感謝していきたいと思います。

御蔭様の実践

私たちは様々なものを伝承してきたことで今の自分たちが生きています。今の私たちが日本人であることも、それは先祖から代々受け継いできたものが今でも存在していることの証明です。

例えば、神社でも里山でも民芸品であってもそこには形もありますが大切な心があります。自然と調和していこうとする心や、自然と共に暮らしてきた私たちの生き方が遺されているのです。そういうもの一つ一つの中に由来があり、その由来を辿ることで心は顕われます。

そもそも伝承という字は、「伝える」ということと「承る」という字で構成されています。これは伝える側とそれを受け取る側という字です。何を伝えて何を受け賜るのかは常に受け賜ると感じた側が将来、子々孫々へ伝えていこうとするはずです。

生きていく中で、自分の時代を生き切ろうとするときそこに後の人達へ託していこうとするのが人間です。その根本には感謝があり、今まで自分がたくさんの人達の御蔭で育ててくださったこと、多くのご縁の中で大切な心を戴いたこと、そういうことを恩返ししたいという気持ちからきているものです。

この恩返しをしたいという心は、常に私たちはつながりや絆の中に見出しているものです。

自分の体験したことは、体験させてくださった偉大な天や自然の見守りがあったことに感謝するのです。この世の全ての生きものや自分がその生そのものを体験できるのは、いつもそこにやっていいんだよという温かな優しい自然の親心があるのです。

そういう親心をいつまでも忘れないでいたいという気持ちが、伝承に籠められるのです。

やってきたことを伝えていくというのは、御蔭様の実践であるのです。日本の心に御蔭様の実践があることは素晴らしいことで、その御蔭様こそが理念そのものに転じているのです。

有難い日本の心に触れられるとき、そこに伝承していくものの価値に触れます。

私の仕事の使命をまた一つ発見しました。
有難うございます。

勧善懲悪の理法

昔から勧善懲悪の考え方というものがあります。

二宮尊徳の報徳仕法もそうですが、他にも孔子や仏陀も様々な聖人がその理法を説いています。如何に敵を持って敵を制すか、水を持って水を制すか、己に打ち克っていくための仕法を生み出しているのです。

人間というものは、頭があります。これは頭でっかちの方の頭のことで、頭は現実に起きることを起きていないうちに考えてどうにかしようか、こうにかしようかと走り回るものです。それと同時に心というものがあります。これは、真心からこうしてあげたいとかこうしようとか具体的な行動により実践していこうとするものです。

これらは昔から学ぶ方法として、王陽明の「知行合一」などでも語られ、知ることと行うことを一致させていくこと、一体の中で行うことこそが学問であることですでに説かれています。

とかく現代人は、起きている現実のことよりも先回りして知識を得るあまり行動の量がついてこない傾向があります。学校でも先に教えられてばかりいると、体験するよりも先に教えてもらったことで分かった気になってしまうと本当に学ぶ機会を逃してしまうものです。

今、来ているものを全て受け取るということは全てを本当に学びにしているかというその心がけが問われてきます。自問自答という言葉も、本来は今というものへの正対の如何によるものですから常に今を大切に心を遣った後に頭を使うように心がけたいものです。

話を戻せば、人は必ずその中に自我や私ともいう欲が存在しています。その欲をどのように制するのかに二宮尊徳は夜話でこう語ります。 「世の中の人はだれでも、聖人というのは無欲だと思っている。しかし実際のところ、聖人は大欲なんだよ。もっともその大は『正大』ということだ。賢人の欲がこれに次いで大きく、君子がこれに次ぐ。しかし、凡人の欲は、小欲のなかでもっとも小さな近欲にすぎんのだよ。学問はこの小欲を正大な欲に導く方法なのさ。 では大欲とは何かといえば、万人の衣食住を充足し、大きな幸福をもたらそうと望むことだ」と。

欲を否定して抑圧するのではなく、その欲によってその欲を制御するという考え方です。つまり私に言わせれば、その欲はやる気にもなり情熱そのものであるのだからそれ以上のことを優先していけばいいというものです。

私が行う理念構築は、二宮尊徳の報徳仕法に習って産み出したものです。これは等しく、自分のことで困窮する時こそ、より理念の方を確かに行うことで自らを常に正大にしていこうとする思想なのです。

人は、大変な時こそ、困窮するときこそ、勤めて理念を行うことではじめて私心から離れ己に克つことができるものです。理念とは、形式的なものではなく道そのものであろうと私には思えます。

礼記に「道(みち)を以(もっ)て欲を制すれば則(すなわ)ち楽しみて乱れず」とあります。

「道が観えるか?」常にその問いは、理念を行っている最中にこそ存在するものです。人はみなこの理念道を尊べはそこに真我との出会いもまたあるように思います。

ちょうど、もう一度今の仕事を整理している中で善悪一体、自他一如、その大自然の勧善懲悪の理法を直観しています。

 

行事の見直し

行事のことを深めていると改暦のことにすぐに辿りつきます。

もともと私達日本人は、明治に入るまで太陰暦を使っていました。そこから太陽暦(グレゴリオ暦)を採用して今のような時間と月日に設定しなおしました。アジアの一部では、今でも旧暦が使われていますが日本ではその矛盾を月遅れなどというやり方で乗り切っているようですが本質的なズレは改善されているわけではありません。

例えば、本来の正月は2月15日頃でこのころが春に入るため四季の生まれ変わりの時機として一年の計を立てるのもこの時期が相応しいとしていました。他にも五月晴れは本来は梅雨の最中の晴れ間のことを言っていますから今でいう6月の中旬頃の晴れ間のことになります。他にも、お盆は7月15日頃のことをいいこの時期の月がお盆のように美しいと詠われたこともあるほどに月が冴えていたから七夕などもこの時期に行われたとのことです。

そもそもの私たちの歴は月の運行によって計算されていました。

例えば、1日をついたちと呼ぶのは「月立」から来たものですし十五夜というのは新月から満月になるまで15日かかるので十五夜というように常に月を基準に1年の運行を読んでいたようです。

月を観ては、日々を感じ、そして朝日を観ては一日のはじまりを感じて過ごしてきた民族とも言えるのです。私たちの一日のはじまりも、今では深夜0時に日付変更線によって変わると信じられてしまいましたが本来は朝日が昇る時が一日のはじまりで日が暮れるときが一日の終わりであったと自然と共に暮らしてきたのが私たちの一日でした。

今では明々とした電灯の中で、時計をみて一日を過ごし、せかせかとスピードを上げた中で行事をこなしていますが本来の行事は自然とともに季節と共に味わっていたものなのです。

新暦か旧暦かを問う前に、本来の自然と寄り添い生活してきた私たちの本来の姿が何かを見つめ直す必要がるように思います。間違いを子孫が正していくのも、先祖の方々から受け継いだ使命の一つであろうと思います。ですからこの行事の見直しは、子どもたちのためにも必須のことです。

日本人らしさとは何か、日本という国が自然から手ほどきを受けてきたものは何か。自然に取り組み、自然を取り込み、改悪された刷り込みに打ち克ち、身近な自然をもう一度、見直し実践していこうと思います。

 

世界への挑戦

世界に出てみるとコミュニケーションの取り方に気づくことがあります。

中国でもそうですし、西洋でもそうでしたが、はっきりとイエス・ノーを話さなければなりません。これは別に当たり前のことですが、日本の場合は相手をまず気遣いながら話す文化があるのでなかなか急にノーとは言えないのです。

他にも、個のアイデンティティを重要視するあまり私かあなたかということがはっきりしています。先日の交通の乱れでトラブルが合ったときも、我先にと列に並ぼうとはせず周りのことなどはお構いもなく自分の主義主張ばかりを相手と戦わせるのです。

常に相手と自分、自我と自我のぶつかり合いのなかでコミュニケーションを発揮していくのが便利な言葉の使い方であろうと認識しているようです。

しかしそれを深く掘り下げてみるとどうでしょうか。

日本人は古来から、相手を自分のことのように思いやること、もしも相手が自分だったらと置き換えて考えること、また世間様というように自分だけではなく周りのことを省みて自分はどうするかということを大切にしてきた民族です。

これはコミュニケーションの本質、共有から共感までを一貫して発展させてきたものであり、私たちの持つ空気を読むとか行間を読むといった、間の文化であろうとも思うのです。

私たちは一神教ではなく多神教で、もともと繫がりやご縁の中で私たちが活かされているというように「私」ではなく「私達」という言い方をよくするものです。これは私達という概念のバックボーンには、常に八百万の神々がおわしますといった自分が生きているのは自分だけではないのだから周りを常に思いやって大切にしていこうという生き方があるのです。

自分に余裕がなくなってくると、また間違った個人の文化を鵜呑みにしてしまうとついて相手か自分か、敵か味方か、右か左かと、分けてばかり考えてその中心にある一円融合している場所を掴むことができなくなるものです。

西洋のように、正・反・合という概念はまだまだ未熟であり、本来は一円融合することが最も物事の本質を捉える成熟した方法なのです。これは若い人がすぐに議論をぶつけ合うのに対し、老熟した人たちが沈黙して物事を理解していくのとの違いに似ています。

様々な出来事をそのままにせず、それをよく玩味し、自分も相手のない全体のところで常に物事のご縁から答えを導き出そうとする智慧を持つ民族。そういう私達だからこそ、「もったいない」「おかげさま」「ごえん」「みまもる」「ありがとう」などといった一円融合した言葉を生み出していくのです。

もっと私たちは日本人であることを実践していく必要があります。そうしてそうしたことで生み出した技術や道具を今こそ世界へ発信していく必要があるのです。人口が増え続け、世界は渾沌とした情勢をみているとますます危うさを感じます。

新しい世界へ導くには、この日本人の融合思想が今こそ必要です。今はもう対立から結びの時代に入っていかないと今を生き切る私たちが進化したとは言えないからです。

子々孫々の平和のためにも、一円融合、一円融和していくためにも矛盾を内包できる胆力を人と人の間で磨き、強くしその土台を持って世界へ挑戦していきたいと思います。自分が日本人であることに深く感謝し、安易な言葉を使わず、思いやりのある言葉を大切にしつつ東西の融合を進めていこうと思います。

求法の旅4

慈覚大師円仁の「入唐求法巡礼行記」を読み終えました。

全4巻が織り成す様々な物語を読み進めていると、改めてその旅路の凄まじさが伝わってきます。特に、武宗の行った仏教弾圧は厳しいもので廃仏をはじめ僧侶たちが突如として様々な迫害を受けました。

それを逃れつつ、多くの方々に援けられ見守られ仏法を学びそれを日本へ持ち帰るといった偉業を為しているのです。

後半の部分には、行間に苦しかったことが書かれています。あまり日記全般の中には、そういう感情が入っている部分は少ないのですがこの後半の旅が如何に厳しかったかを物語ります。

例えば、(五月二十四日。朝早く出発した。夜十二時前後、淮水の注ぐ海に着いて停泊した。逆風と猛り立つ高波のため淮河の中に入っていくことができない。持っていた食糧が全くなくなってしまって窮迫、非常な不安と疲労におののいた。)

(七月二十日。出発して山や野を行く。草木は高く深く繁り人にもめったに逢わない。一日中、山にのぼったかと思うと今度は谷にくだって入って行き、泥水の道を踏み歩いてつらく苦しいことはこれ以上ないと思うほどである。)

(八月二十四日。文登県に着く。円仁たちは山を越え野を渡って衣服はぼろぼろに破れ使い果たした。県の役所に行き県令に会い、「当県の東端にある勾当新羅所に行って、食べ物を求め乞うてただ命を延べつなぎ、その間に自ら舟を求めて日本国に帰らしてほしい」と請願した。)

他にも、次々に厳しい勅が降りて仏教弾圧の最中を駆け抜けていくところや食事がろくにできない状態のまま休憩もさせてもらえずに厳しい扱いをうける所なども多くある。

また同時にその中で仏弟子に出逢い、丁重に大切にしてくださった人たちもあり、一期一会に感動する場面もあります。この日記には、その円仁の生き方そのものが詰まっており、これが与えた影響は本当に大きいのではないかと思うのです。

ここから空也、法然、親鸞が顕われてくるのです。特に法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったと言います。これらの実践の様子は、常に仏の教えの鑑となって法を求めることの価値を後世の人達へ与え続けています。

人の業績というものは、何をやったかというものもあります。しかしそのプロセスとしてどうあったかということはあまり論じられることはありません。師の果たせなかった夢を受け継ぎ、謙虚にその真理の実現のために尽くした至誠の人、この慈覚大師円仁にどうしても深い魅力を覚えてなりません。

これはまるで異種ですが私には、源義経、高杉晋作、直江兼続、松尾芭蕉など義に共通するところが見え隠れするのです。

人はどのようなものを信じて生きたかということは、最期には遺るように思います。何を信じてその人が生きたかというものは結果を見なくても、そこに何か映し出されてくるものがあるからです。

人が生きるということは何に生きるかということです、そして人が死ぬのは何に死ぬかということです。

法を求めて旅をして、その法の求める中に掛け替えのない間人の絆があったということ。日本人らしく生き切った円仁という一個の人に心から敬愛と尊敬の念が込み上げてきます。

今回いただいた機縁と「入唐求法巡礼行記」との出会いは、私にとっての勇気になりました。

有難うございます。

幸福の秘訣

毎回、旅を終えるときに思うことがあります。

それは旅の意味についてです。

人は何かを学ぼうとしているから学ぶのではないように思います、同時に何かを欲しているから欲するのではないように思います。つまりは、不学不欲というように学ばず欲さずときこそがもっとも学び欲したということになると思うのです。

例えば、自分では学んだ気になっていても実際は自分の考えの及ばないところでその学んだと思っている以上のことが発生しているとします。それを学ぼうとすれば余計に学べず、学ぶのをやめてみてその後の意味を味わっていると自然に学びに達します。

また同様に自分では欲している気になっていても欲している以上のことが発生しているとすれば、欲するのをやめてみれば自然に欲したものがその中に手に入っていることに気づきます。

このように意味が後で着いてくるものを旅と定義したとしたら、旅とはそのものをそのままに味わう中にこそ何とも得難い邂逅の記憶になると実感するのです。

そしてそのほとんどは日々の何気ない生活の中にこそ存在しているように思います。

この何気ない生活というものは、先ほどの不学不欲の中にあり、来たものを素直に受け取ることができるとき、過ぎたことを澄んだ心で意味づけができるときにこそ、無尽蔵の教えや学び、また人生の求道で得られる感謝の醍醐味も味わうことができるということです。

人生、そのものの意味をどのようにつけたのか、その意味をどのように味わったか、そこに幸福の秘訣があるように思います。どんな出来事があったにせよ、それに感謝していけるような人生、そしてあの件もこの件もまたそれは偉大な見守りの中であったといつも実感できた人生。

自分がいつも何か偉大なものに助けられてこの地上の旅ができることに感謝するのです。

その一つ一つ分かれていない太古からの旅の記憶、その意味を日々に紐ずけていけば、自ずから学ばなくても学べているのです。この人生という美しい秘境の楽園にいる自らの意味を感じることが旅そのものの本来の味わいなのかもしれません。

旅とはつながりなのです。

このつながりの中に歩んでいることは、目には観えないものを実感するときにこそ顕われてきます。自分の中に或る無邪気な子どもの心が旅を求めてはいつも遊びたがっています。日々の遊び場にすべてを投じていきたいと旅を思うほどに好奇心が働きます。

「ゆめうらら うみの小舟と 流れゆく はるかかなたの 星旅のなか」 藍杜静海

内省を味わい意味を楽しみ、この旅の記憶の醍醐味と人生の妙味を尽くしていきたいと思います。

有難うございます。