学志一如~独りでになる~

昨日、不思議なことに自分の人生に大きな影響を与えるお寺に参拝することができました。このお寺は、赤山法華院といい円仁と非常に深い所縁があるお寺です。この円仁は日本人最後の遣唐使と言われていますが、世界でも有名なのはその旅行記です。

この円仁の記した「入唐求法巡礼行記」は、玄奘の「大唐西域記」、マルコ・ポーロの「東方見聞録」とともに、三大旅行記のひとつとされ、唐の国や仏教中心地の様子が鮮明に窺える古代史の第一級資料となっています。

特に他の2つのものは誰かに口述したものを記入させたのに対し、円仁のものは自筆で記したものです。その内容は、9年半の中国での滞在記ですが全てのことが思うようにいかない中で、それでも真理を求めて已まず命を懸けて人々のために学ぼうとする姿勢が感じられ、少し読んだだけでも心が震え魂が揺さぶられる思いがします。

帰国後は、円仁は天台宗の指導者として、比叡山において教えを伝授するだけでなく、当時文化の遅れた東北の人々の苦しみ悲しみを救おうとして、寺院の建立、土地の開発、産業の振興に力を尽くしました。青森県にある恐山菩提寺なども円仁が開基したものです。

訪問した赤山法華院はこの円仁を大切にしてくださった新羅人たちの建立した寺院です。中国で仏教が弾圧され、旅券も発行されず、帰国できない、すべてないもの尽くしの中で円仁にインスピレーションを与え、具体的な方法までを与え、そしてその道を諦めさせないで見守りその求める道を陰ひなたから助けてくださった所縁の場所です。

天啓というものは、いつもピンチの時こそその周囲に必ず有難い見守りがあるものです。すべてのものは一人でなるものではなく、独りでになるものです。その独りでになるものは必ずそれを助け導く周囲の存在があるということです。

同じように円仁もここで仏様に出逢い、その道を示されたのではないかと現地で改めて直観しました。この時の助ける方も助けられる方も、その人間の間にある思いやりや真心が共に天に通じたことを忘れまいと今でもその赤山禅院では大切に語り継がれていました。

この新羅人とは、韓国人の先祖であり言語のルーツを辿ればそこに至ります。その当時からずっと私達日本人と韓国人、中国人が交易をし、共に助け合ってきた歴史に改めに感無量の思いがしました。1200年前のこの三国間の関係と、今回、韓国の友人とのご縁で中国の方に導かれて訪問したこの機縁に不思議な感謝と感動を覚えました。

時代が変わろうとも、私たちが大切にしているものは何かを見失っていけません。

真理を求めて旅をすることも、その旅の中で大切に受け継がれたことも、如何に世界が変わろうとも変わらないものがあるのです。その変わらないものを大切に暮らしていくことが、真理を体現することになり、その脈々と受け継がれた血縁と記憶をこの時代にも復興させていくことが私達子孫の使命の一つではないかと思うのです。

今回の仏縁は本当に意義深いものになりました。

東北の巡礼から、縁を辿り、気が付けば赤山での教えに至りました。帰国後もまた辿りたいところが大いに増えました。まだまだ所縁を楽しんで、直観の赴くままに学び続けていこうと思います。

学志一如、実践を貫いていきたいと思います。

発展経過の体験

久しぶりに以前見たものを思い出し、その差を実感するのに「発展」というものがあります。この発展の「展」という字は伸びるや開くという意味があり、以前にも増して広がっていき高まっていくという言葉です。

例えば、中国の訪問でも気づくのですが以前私が留学していた18年前と比べてその量が変わったことはすぐに分かりますがその質も高まっています。それは建物だけではなく、文化、人間性、全てにおいて成長しているのです。

以前と比べて建物が建設ラッシュで創りつづけているのは同じです、しかしその質を観れば明らかに技術は進歩し、センスも高まっています。他にも、洋服から生活、文化、思想にいたるまで質が高まっていくのです。

この場合の質とは、洗練されていくというもので発展するということは同時に全てのことが磨かれてより高度なものを生み出していくという意味です。

人間の成長というものは、より質を高めていこうとするところに発展があるように思います。発展しているかどうかを観察するのは、量の方ではなく質を視るということです。

質が高まるというのは、どれだけ洗練されたか、どれだけ高尚になったか、時代の中でその人が磨かれ技術が磨かれ心が磨かれるというように確かな変化になった証なのです。

成長とは何回も同じことをしているようでも、以前よりもどれだけ質を高めたか、それは揉まれて練られて洗われるように一つ一つを開いていくことに似ています。

発達を実践するのに私たちもよく「DOSEEPLAN」でと言いますが、この発達の本質とは一つ一つの物事をよく観てそれをどう発展させたかということに尽きるように思います。そしてそれを促すには、「遣り切ったこと(DO)をよく反省(SEE)し改善(PLAN)する」ということで実現できるように思います。

何でもあの当時は無理だと思っていたことが、この国に来て実現しているのを観てやはり遣り切った後に確認することが大切であることを改めて実感しました。常に発達は「今は無理「と思えることが後で「実現可能」になっていることの連続なのです。今だけを見てすぐに諦めるというのは、発達を自ら先に否定してしまうということになるのです。如何に自分を信じ切るか、今が不可能でも今を念じて質を高めていこうとするのが、発達をし続けていく根本姿勢なのでしょう。

来ているものをどのような道に開いていくか、そしてそれをどう展じていくかは常に質を高める創意工夫こそによるように思います。量を与えてもらえる機会に感謝し、その全てを質に転じて生長を楽しんで見守っていこうと思います。

選ばない意味~人生の仕事~

選ばないということの考え方がどういうものなのかを書いてみます。

人はみんな自分勝手で自分が受け取りたいものとそうではないものを選り好みするものです。その時々の気分や状態で目の前にある出来事を裁いたり仕分けたりしてしまうものです。そうすると、本来、大切な意味があった出来事を自分の捉えた小さな範囲や自分の視ている世界にしてしまえば本質的に学ぶことが少なくなるのです。

カグヤでは理念ブックの最初の1ページ目に、こう書いています。

「浅き河も深く渡れ、低き山も高く登れ、本質を深め、独立自尊せよ」

これはカグヤの信条としてもっとも大切な徳目で、これがなければ学べないから何よりも尊ぶようにという戒めの意味を籠めて記されています。

学ぶということは、そもそも自分のレベルや自分の範囲で知ったことを言うのではなく、その学びとは何かということを実践の中に気づき自らをより高めて常に変化刷新していくことを言います。それは来ているものを選ばずにどれだけ謙虚に受け止めてその全てを感謝に転じたかという実践をすることになっているのです。

そもそも受け止めるというのは、来たものをあるがままの意味で捉えるということです。それは自分がどうかではなく、来たものは全部自分に必要なことが起きているとその全ての出来事や物事、そのご縁に深く感謝して自然のままに有難くお受けしていくことが本来の姿です。

例えば、病気になったとしてもそこに何かの意味がある。嫌な出来事が続いてもそこに何かの意味がある。そう思う人は、どんな出来事からも学びその教えが入ったことに感謝し、素直に成長し、正直に受け止めてその機縁を活かしていくことができるのです。一期一会の境地も同じく、人生の中で二度とない一度きり一瞬だけの掛け替えのない出会いだからこそ、自分の全てを出し切って清々しくしていこうというものも似たようなものです。

一昔前は実践が追い付いておらず、意味を感じきれずに色々と悩んでは選り好みしていたものです。しかし、選ばないという選択をしてからは日々に来たものを受け止めて自問自答し取捨選択して削り取っていくことで最期に残ったものが何かというものを待つ心境に入っています。

それは全てをチャンスだと思えるか、ピンチをチャンスに換えているか、自分が丸ごと信じているかを優先しているかが問われるからです。実は選ばないというのは、傲慢なのではなく選ばないほどに全てのことを意味があるとして素直に受け取ったのかと自問自答をすることで自らを玉にしていこうという覚悟のことです。

これには実は大変な積極的な力が必要になります。

なぜなら全てを直視し、その全てに手を抜かない、自分を出し切ったかということがモノサシになるからです。できそうなことをやるのではなく、常に一歩先、届かないところまで高めようと精進したか、日々挑戦したかと自分に問い続ける、そして自分が答え続けた結果をチェックしていく必要があるからです。

しかしそうやって人は自分を自分で育てていかなければ、独立自尊していくことはありません。それは環境に左右されるのではなく、自らが環境に流されずに言い訳を断ち続けて自らを磨き続けるということに他なりません。それはどんな日々も流さないようにしていくこと、言い換えればどんな出来事も先生であるということ、つまりは自然の先生が教えてくださったご縁を活かそうとする積極的な姿勢が自らの道を切り開き常に本筋から離れまいと自らに打ち克ち続ける真剣勝負をすることなのです。

出来事全てを自然の大先生からの有難いご指導だと受け取るならば、それにいちいち歯向かったり無関心でいることはあまりにも勿体ないように思います。自分に必要な学びは必ず自分に必要なものを全部今、この瞬間に足元に用意されているというのが私の持論です。

人生は自分のことを信じる事から、そして自分を信じるとは選択した今までを疑わないことから、そして自分の覚悟とはかつて決心したことの集積であることを自覚し最期まで諦めないことを言うように思います。信念とは最期まで守り切ったか、失くさなかったかというものだからです。

まとめると今を遣り切る、今に生き切ることこそが、選ばないということの大切な意味でしょう。日々、学ぶことだらけであること、日々、有難い教えを沢山いただくこと、その来ているご縁に心から感謝して、全身全霊で真心で取り組むことが御蔭様を有難うに換える大和魂です。

須らく、善き人生とは仕合った質のことを言うように思います。生まれてきて今日で13642日目です。残された人生も手を合わせて姿勢を正して、真剣に自分との仕合をしていきたいと思います。

そういう毎日こそが人生の仕事そのものであり、子どもたちに譲り見せられるような背中なると信じています。せめてもの感謝の現れとしての「選ばない」を今後も持続できる自分を育てていこうと思います。

芯の強さ~ミマモリングの芯~

人は逆境をたくさん体験することで強くなっていきます。この強くなるというのは、優しくなるということです。真の優しさというのは強くなければ発揮されないからです。

男の生きざまとして、強い男に憧れるものです。その憧れは強さへの憧れですが、単に喧嘩に強いとか権力があるとかが決して強いと定義しているのではありません。ここでの強さとは、どんな時でも優しくいれる強さ、相手のことを思いやれる強さのことを言うのです。

ラグビーの伏見工業の教育者で有名な山口良治さんの「信は力なり~可能性の限界に挑む」(旬報社)にこういう一文があります。

「『もう嫌だ。好きなことして、好きなこと言って、何もかもどうでもいい』そんな風に思う時というのは、自分のことしか思っていない。人間というのは、自分ひとりだけのことしか見えず、自分の外への回路を閉ざしてしまうと小さな弱い存在になってしまう。他人のことを自分のことと同じように考えられる、そういう優しさが人間を成長させ、困難な局面に立ったときにそれを乗り越えられる強さになるのだ。」

自他一体にいるというのは、その人のことを自分のことと同じように考えられるかどうかによります。つい人は自他を分けて、自分のことばかりに囚われてしまいます。私も忙しくなる時こそ、大変な時こそ、自分の身の上のことばかりを心配して初心や大義を見失いそうになってしまうものです。

そういう心のブレを芯の強さに換えるには思いやりや優しさで抜けるしかありません。

また信じるということは、言葉で書くほどに簡単ではなく意味を感じる力に比例しますから内省し自らを高めていき日々の道場で鍛えていくのみです。どんなに高望みしても、その日一日の真剣勝負の中で強く優しくありたいと実践していくしかないからです。しかしその有難い日々の機会に感謝しながら自学自習することや、前進できることが生きている歓びにもつながっているように思います。

山口良治さんの指導者としての姿勢は、本当に学ぶことばかりです。私達の掲げたミマモリングにも通じているもので、このようになりたいと思うばかりです。さらに本ではこう続きます。

「99%信じても、1%の不安があったらその通りになる。100%信じる事が大切」

丸ごと信じるということに生きざまを懸ける、そこに感動を共にする自他一体があるように思います。

通称「泣き虫先生」と呼ばれ、いつも感動しながら生徒と共に泣いて笑って感激していくことで強さも優しさもまた味わい深いものにしていくことが大切だと教えてくださっているようです。

「僕は涙というのは素晴らしいと思うんです。 みんな子供達に「負」をつける前に、涙が込み上げてくるぐらいの気持ちを出してやることによって、自分の思いが涙に変わっていくくらいの気持ちになってくれれば、もっと違ったものが生まれてくるんじゃないかな、伝わって来るんじゃないかと思うんです。  僕に涙がたくさんあって良かったなと思います。」

耐えて信じるものだけが持つ美しい涙を私も学び直したいと思います。自分の刷り込みに気づいたなら、迷わずに自分の方を変えるチャンスだと感謝を信に換えて心の芯を強くしていきたいと思います。

芯の強さこそが優しさであることを忘れないようにいたいと思います。
子どもたちを見守る信を育てていくのが私たちカグヤの強さの源にしていこうと思います。

自然法則の発見

自然農に取り組む中で、ある不思議な法則を発見しました。

もともと自然はそのままにするのですが、人が蒔いたものや人に触れたもの、人が必要としたものにはその人の絶えない関心と応援が必要となるということです。

自然界に育つ作物は、人との関わりがあろうがなかろうが自由に野生化した中で生きています。野生化した中でそのまま育っているものは人間が関わらなくても自然の愛を享受し生きているのです。

しかし人間がひとたび関わってしまうと、そこに本来のそのもののいのちの循環の中に人間が入り込んでしまうのです。もともと人間との関わりがなかったものが、人間と関われば、人間との関わりを通して強くも、また弱くもなってしまうのです。

例えば、野生の花を切り、生けたとしてもそこには小まめな水替えや関心がなければあっという間に腐ってしまいます。また、作物も蒔いたり植えたりしたとしてもそこに見に行き負けないように支えなければ同じく天候や虫、雑草に負けて枯れてしまいます。また、野生の子猫を拾ってきても、人とのつながりができたらいつも気にかけ育てていかないと弱って病気になってしまいます。

このように人間と関わるということは、人間との関係が必要になるということです。

つまり関係を結びということは愛を結びことであり、ひとたび愛を結んでしまえばそのものはその愛の影響をとても大きく受けてしまうということです。

この時の愛の定義とは、関係のことであり、ひとたび関係を持てばその関係の中で愛が強くもなり弱くもなるということです。愛が弱くなればそのものの生きる力も弱くなり、愛が強くなればそのものの生きる力も強くなるのです。揺るがないほどになれば、そこに愛を疑わない境地に入るのかもしれません。

そのために絶えず見守るということは、常にそのものの持つ完全体を信じることと同時にそのものを丸ごと自分を捧げて応援するという関係を結ぶのです。

言い換えれば、愛を循環させていかなければ育ち合えないのです。

気づきませんでしたが、全ての関わりあうものたちはお互いを常に見続けると同時に応援し合っていたのです。それが関係を結ぶということであることに、人生ではじめてはっきりと気づくことができました。

ただ分かったからといってここから技術に昇華したわけではありません。
揺るがない愛とはどういうものは、身近な自然から学び直したいと思います。

性格学

せっかちという意味を調べてみる。

すると語源由来に、「急ぎ勝ち」というところから来ている。急くという字と、勝ちという言葉の組み合わせで、どちらかというと急ぐ方が多いという意味になる。似た言葉に、気早、おっちょこちょい、生き急ぐ、先走る、性急などがある。

対義語は、のんきといい、当て字に暢気や呑気を使いますが本来は中国の暖気から来ているようで性格がのんびりしていて、無頓着、気楽で気が長いなどという意味になります。

もともとせっかちな性格というのは、言い換えれば行動力があり思い立ったらすぐに実行せずにおられない性分だということです。またのんびりというのは、事がなるまでじっくりと待ち冷静に楽観的に信じるという性分だともいうことです。

それぞれが善く出ているときは長所であり、それが状況に反して悪く出ているときを欠点だと呼ばれるものです。どうしても自分の時に合わせようと相手に求めてしまいますが、御互いが御互いを認め合うとき、その両方がはじめて活かされて調和していくように思います。

また一人の人間としてもその両方を状況にあわせて生涯にかけて活かしていく必要があります。そういうものも周りから学び、自分の性格を活かしていくことができるからです。しかしそんなに簡単器用にはいかないもので、だからこそ多様な人たちの中で一生をかけてその両方を得ていくようにも思うのです。

例えば、せっかちの人は歳とともに、次第に落ち着いていくものです。これはせっかちの善し悪しを学び、どの状況の時にどうあればいいかを気づき身についてくるからです。そしてのんびりの人は同じく歳とともに、どのときは直観に従い行動すべきか、危機感をどう持てばいいかというのを学び身についてくるのです。

そう考えてみると、人は一人ではなく大勢の中で様々な性格の人が集まっていることがもっとも現在に対応し対処できるように思います。自分だけの判断では、そのような自分の性格がぴったりと当てはまる事柄と、そうではない事柄の時があるからです。

もちろん、人間として完全になっていくのに色々な性格が次第に陶冶されて円みを帯びていくことに人間の学びの意味があるように思います。

同時に、自分以外の性格の人達いてその人たちの御蔭で物事が正しく乗り越えていけるという実感と歓び、そして多様であることへの共生や貢献、感謝などを学ぶこともまた大きな意義があるのです。

自分がどのような性格かを知ること、同時に周りの性格がどうかを知ることは、御互いの持ち味を活かすためにとても大切なように思います。そのままでいいけれど、こうありたいよねと本音で言い合えることもまた仲間も定義であろうと思います。

色々と自分もせっかちな性格を直そうと苦心してきましたが、どうせどうにもならないことに当たれば道草を楽しもうという境地にいくしかなく、やはり天はうまく調整してくださっていると思います。

諦めるところから、認めることから、自他の性を、人間を深く学んでいきたいと思います。

縁愛6

ドイツ視察研修の5日目になりました。

これで続けて訪問して3年目になりますが、藤森先生の変わらぬ姿に改めて学び直すことばかりです。参加者への思いやりはまったくブレず、そして社会や世の中の変化に対しては柔軟に変化し続けるということ。

不易と流行というものは、どちらも思いやりがあれば順応できるものだと、保育の初心を実感することができました。その見守りの姿勢に、発達を助長するのではなく、発達を援助するのではなく、発達を保つという全く異なる次元からの目線、これを保育であると定義していること。

この保つという字には、どこか見守るという意味が深くその字に籠められている気がします。どれだけ純粋に学べるかというのは、自分を謙虚に磨き上げていく学問の楽しさを知っている人であろうと思います。

一つの単語の行間にあるその哲学を、東西の垣根を超えて学び直しています。

さて、人間愛がテーマでいよいよ終盤に入りました。

人間は、一人で生きているのならば自分の価値観の中だけで世界を観て世界がそういうものだと思い込んでいることもできるものです。しかし、それでは世界にはもっと美しいものがあったり、もっと楽しいものがあること、そういう真の豊かさに気づけないで道が途絶えてしまうような感覚を持つこともあるかもしれません。

信じてきたものが何か自分の中にある先入観によって得られないという感覚に似ているように思います。そういう時、その自分の知らなかった世界を持つ人を直観的に感じ取ることができるのもまた愛だろうと思うのです。

例えば、真実を知ろうとすれば自分に都合の悪いことがあるかもしれません。もしかすると、自分を変えたくないと思っている壁が立ちはだかるかもしれません。しかし、それでもそれを乗り越えた先に大きなものがあると信じるのが好奇心であろうと思います。

つまり愛とは一人で完結するものではなく、二人以上の人達によってはじめて完熟していくように思うのです。つながりや結びつきの間にあるものが愛であり、その愛のカタチを御互いに円熟させていくために他人は愛し合うように思うのです。

まるで円い中で失った欠片を探し当てていくように異なりを求めあい、多くの人達との出逢いのご縁を通じて愛の色を渾然と染めていくかのようにです。

お互いの大切なもの、大事にしていきたいものが一つではなく二つ以上ある絆の場所に愛は存在しているのかもしれません、自分の過去を振り返ってみても、愛を教えてもらったのはみんなお互いの大切なことを交換しあって絆した結び目にあるように思えます。

縁と愛とは、人間が出会う中のことであります。
出会いを大切に、一日一日を過ごしていくことこそが愛に触れていくことなのでしょう。

出会いの中に偉大な愛はいつも生きています。

縁愛4

ドイツに来て3日目が過ぎました。

昨日も、子どもたちの発達から活動を工夫する様々なアイデアを現場で確認することができました。子どもたちがやりたいことを邪魔しないというのは、子どもを信じ、子どもが育とうとすることを受容することにつながっています。

人は自分がやりたいと思うことを認めてくれることほど信じられているという実感を持てることはないようにも思います。私も今でも、誰が何と言おうとも自分の内面の直観の声に従い、それが後で意味があったと実感するとき偉大な見守りをいつも感じています。

信じるということは、その人の遣りたいこと、その使命を丸ごと認めることだと思います。世界を変える道もまた、子どもを信じるところにあるのです。

さて、サブテーマの人間愛もいよいよ深まってきました。

人間は愛を試されるとき、そこには自分がされたくないことを他人にしたときに実感したりするものです。もしくは自分がされたいことをされたいこと以上にしてくれる人と出会ったときにも感動し実感できるように思います。

そうして愛を確かめては、何を愛し、何を守るかということを学んでいくのです。人は自分の大切にしているものをそれぞれ持っています。特にそれは物だけではなく、その心にもこれだけは守りたいと思っているものがあるのです。

それが例えば、友の道であったり、親子の道、家族の道、つまりは連綿と受け継いできた美しい心の顕われの行為になるのかもしれません。子どもはそれを誰が教えなくても自然に身に着けていて、自分たちの大切にしたいことがあれば何よりもそれを優先し守ろうとします。

大人になって、それができなくなるのは社会や周辺の大人の影響を受けて守りたいことを諦めるからかもしれません。そういうものを諦めない大人たちが子どもたちを守ることができるとき、愛は受け継がれていくのかもしれません。

私の師も、平常は優しい懐の大きな存在ですが背中の後ろに守りたいものがあるとき不動明王のように烈火の如き炎で立ちはだかり子どもたちを守ります。私はそこも大変尊敬していて、憧れ、いつの日か自分も守りたいものを守れる真の強さを持ちたいと思ったのです。

愛とは、つまり守りたいもののことを言うのかもしれません。

ガンジーにこういう言葉が残っています。

「死と引き換えに、愛する誰かを守った人は、完全なる愛を成就した人だ」

自分よりも大切なものがあるという至上の役割がある幸せ、そこには決して揺るがない信念とつながりが自分を守る。そのために自分をこれ以上なく遣り切り実践し尽くした生涯を送れるならその人は愛に包まれた最上の人生を歩んだといっていいかもしれません。

人間の世に生まれ愛を知ることは、自分が大切にしてきた守るものを知る事なのでしょう。
日々は愛の中にあることを知り、より強く愛していきたいと思います。

縁愛3

ドイツに来て2日目になりますが、子どもの姿はどこでも普遍的で様々な運命に生まれてくる子どもがいますが自然の愛を一杯に感じて生きようとしているように思います。

今回はテーマを人間愛にしたので、なかなか現実の視察とは話をつなげていくことが難しいのですが新たな視点から東西の垣根を超えて物事の共通点を観察しています。

もともと人間というものは、生まれる前から自然の中にある愛のようなものを実感しているように思います。例えば、生まれてきたらすぐに親を頼るように、また自分は生きていいと信じているように、この世に出てくる瞬間から私たちは信じるという活力の中で生きています。

これは動植物でも同じですが、種から芽が出るのもそれは本来いのちというものはこの世の中で自分が助けてもらえるという存在、そして誰かを助ける存在であることを無意識に知覚しているように思うのです。

先日、子猫や雛が生まれましたがどのいのちの子どもたちも如何に世界を信じて安心し、その心姿の顕われとして「遊ぶ」その様子を観た時、活きるという信じる力、その行為は全て遊びの中に詰まっているのを実感したのです。

この遊びというものは、自然の愛を表現している人間愛の姿でもあり、遊びを通じて私たちは心の安らぎというものを実感し、生きている歓び、活きられる幸せを確かめていくように思います。

これは大人になろうがなるまえが、皆が楽しく一緒に遊ぶ姿の中にはどこか昔から信じていたはずだった愛を確認していることに似ていると私は思うのです。私がアクティビティを行う理由もまた、遊ぶ中に信を思い出し、その信の表明を全員で確認するために用いるのです。

人間というものは、何をもって遊びだと定義するかは安心した時に自然に湧き上がってくるいのちへの友愛の情、万物全てが一緒に遊んでいいとした存在の妙義に気づくときに愛を確かめるのかもしれません。

そういう遊びの中でつながっている自然の愛との邂逅が、私たちに人間愛とは何かを教えてくれるのかもしれません。子どもは、いつも心が遊んでいるのはいつも内なる自然の愛に応えていこうとした働きがあるからのように思います。

最後にガンジーの言葉です。

「人類が絶えず愛の法則と共にあったかなど、私は知らない。
だが、そんなものは私の障害とはならない。
愛の法則はまるで重力の法則のようなものである。
我々が認めるかどうかなどは関係ない。
愛の法則を真に知る者は、今日の如何なる科学者よりも偉大な学者である。
多くは十分なる探求がなされぬ故に、あらゆるものに愛の法則が働くことを理解できないだけなのだ。」

あって当たり前のものこそ、観えなくなっているように思います。ドイツにいても日本にいても、私たちはお互いの中にある尊敬を見出していく必要を感じます。自分の思い込みを超えて、子どもの姿からまた引き続き愛を学んでいこうと思います。

安信

自分の存在価値を認められるということほど、人が安心することはありません。

人は誰かから評価されて生きる事よりも、自分自身の価値を自分で認識できるかどうかの方が大切であるように思います。そういう私自身も、半生を振り返ってみれば比較競争の社会の中で自分が自分のままでいいとはいつまでも思えず、誰かのモノサシや、他人に分かってもらえない苦しみ、自分の価値が正しく理解できずに自分自身が無理をしてきたことを思い出します。

結果としては、それも無駄ではなくその御蔭で弱い立場の人たちのことを知ったり、子どもたちが置かれている状況に共感し、信念へのエネルギーへと転換することができました。だからこそ、どうしたら自信を持たせることができるのかと正対しているのです。

実際に人は自分というものが、自分で満足できるかどうかはその人次第であろうと思います。いくら他人が見て偉業だと褒め称えても、その人が自分でそう思えないのであれば自信は積み上がっていくことはないからです。

自信が積み上がっていくというのは、自分自身が自らの存在を認めることができるときにはじめてできるように思います。例えば、自分のままで居ていいと実感できること、そうやって自分自身を丸ごと認めるとき自信というものは持てるようになります。

もっとシンプルに言えば他の人ができることが自分にできなかったとしても、他の人ができないことが自分にできていると実感できることだと思います。それは決して能力のことをいうのではなく、その存在が光っていると自分自身が納得できるかどうかによるからです。

そしてそれは、つながりの中で生きている自他との関わりそのものを尊重し認めることだろうとも思うのです。分断して分裂させ、排除し、孤立させるような価値観が人々の心に穴をあけてしまっているように思うのです。

人は色々な人が居て善いのですから、色々なことをしても善い社会があったらと祈ります。

そうしてそれは子どもたちもきっとそう思うはずです。だからこそ、私の目指しているような変な大人たちが増えていかなければならないと私は思います。変というのは、他の人と比べたら変だけれどその人の本性がそのままに出してもいいと思えるような見守る社会を創造することです。

変であるというのは、自分を信じるということでそのままでいいと自分が思うことは周りの人たちに自信をつけさせていくことではないかと私は思います。そしてそれが先祖代々の自らの民族の魂を受け継いでいる世界の中の存在意義になるように思います。

かんながらの道は、常に私にいのちへの自信を省みるように歩みを進めます。自信については、さらに深めて今後の実践の指針を決めていこうと思います。