素直とは正しく向き合うこと

覚悟というものを認識するのに逃げないというのがある。

逃げないというのは何を持って逃げないと定義するかと言えば、来たものに私心を入れずに真っ直ぐに向き合うことをいうように思います。

これを正対するといいますが、それではその反対は非正対というのではなく斜に構えるとか逃げるという言い方をするように思います。

本来、人は素直かどうかなど自分のことは実はよくわかっていないものです。それは、自分が自分を分かっているようで自分のことが一番よく分かっておらず、無意識に自分を正当化しては自分と向き合わないように都合よく調整していることが多いからです。それは私心や欲がメガネを曇らせているからのように思います、自分を直視するということは私欲にとって都合が悪いことが多いので避けて通っていたいからです。

例えば、全ての問題や事物はすべて自分の内面の問題から発生するのに対してそれを何かのせいにしたり言い訳をするときなどもこれは自分が向き合いたくないからそうしているのです。特に影響力のある人は、自分を知るということから逃げていては人はそれを一緒に学ぼうとしなくなっていきます。だからこそ、人はみんな自分という生き方としてどのような心構えをもって心掛けを大切に行うかで、他人から尊敬されたり認められたりして互いの信頼を紡いでいくように思います。

そう考えてみると、この心の構え方というものが生き方のことをいうのかもしれません。

心構えとは覚悟のことで、自分が決めたことから逃げないということに他なりません。何を決めたか、何を信じていくていくか、人はそれをもって自分らしいというのかもしれません。だからこそ人はその都度、覚悟を自問し、それを周囲に確認し、自らが正しくいようと向き合うことで自分らしい生き方を貫いていけるように思います。

それを自分の都合で決めたことを誤魔化し、事があれば逃げて、そして自分を正当化していけば素直に反省することなどはできずそれによってまた同じ過ちを何度も繰り返してしまうように思います。

間違いは間違いとして、信頼できる人に正してもらおうとする姿勢そのものが素直な姿でありそういうものが逃げない覚悟ではないかと思います。そしてこれは紙面や机上で学ぶものではなく、実体験を通じてその時、自らの道に照らしてどのように判断したかということが自分を生きたということになるのでしょう。

万物は相矛盾し、渾沌としているのだから永遠のテーマばかりでこの世は存在します。
それは友情であったり、愛情であったり、そして信頼でもそうです。

そもそもつながりの中で異なるなどという人間の複雑奇妙さのことなど分かるはずもありません。だからこそ一日一日と、日々に発生する出来事に真心で正対していくことがもっとも価値のあるものかもしれません。

このブログもそうですし、世の中には終わりがあっても永遠のテーマがあることばかりです。
精進していこうと思います。

一縁善転

昔からピンチはチャンスという言葉がある。

この世の中は禍福一円、陰陽一元、表裏一体と全ては円環の中で循環しているようなものです。その全体の循環の中心に自分を置いてモノゴトを観ている自分が居るだけであるとも言えます。

しかしピンチというものは一般的には大変弱ったことだと疲弊してしまうものです。それをピンチだけの方向から見てしまうと、なぜ自分がいつもピンチになってしまうだろうとそこから逃げる人もたくさんいます。しかし本来は、ピンチとは挑戦しているからピンチになるだけで挑戦もしない人ではピンチすら訪れないのです。無難に戻すことが本当のピンチであり、ピンチに真正面からチャレンジしさらにそこからもう一歩前進し勇気を奮いだして取り組むことが真のチャンスになるのです。

そもそもピンチが多いというのは、それだけ挑戦して変わろうとした結果でもあるのです。人が変わるのが嫌だというのは、無難ではないということで変わるのはそんなに簡単なことではないということを本能で知っているからです。

しかしそれでも大事なもののために変わろうとすれば、必ず大なり小なりのピンチは訪れるのです。そもそも無難なのは変わらなくてもいいから無難を目指すのであり、難があるのは変わりたいから難があるのです。

そしてそのピンチを乗り越えるのに、冷静になるのは自分がこの機会に何を学ばせてもらっているのか、どんな有難いことがおきているのかを感じるというのがあります。

例えば、そのピンチから教えられたことは何か、そのピンチに感謝したことは何か、そのピンチは自分の何を成長させるのか、そのピンチの蔭で見守ってくれた人たちは誰か、そのピンチに自分の生き方はどうだったか、そのピンチに平常心はどうだったか、そのピンチは自分の何を変えたのかと、そう内省して感じていけば次第にピンチがチャンスに思えてくるものだからです。

それをいつまでも自分の見方ばかりにこだわると、大切なその側面や同時に発生している有難い恩恵や感謝の心に出会えなくなるものです。私の場合はそういう時は、ご縁のあった方々への恩返しのために今回も必ず悪いことにしないと心に決めて、何を大切に抱き実践することが最も善いことになるのかに真摯に取り組みます。

しかし本当に尊いのは、変わろうとしたという事実です。

自分を変えよう、何かを変えようとすれば必ず同時にピンチは来ることを本当の素直な心はそれを知っているように思います。だからこそ、変わるという挑戦を始めれば難は誰にしろ訪れるものなのです。 それは栄誉ある挑戦だからこそ、そのピンチをチャンスだと思えるのは最初に決めた覚悟が試され、それに挑む勇気がそこで必要になるのだろうと思います。

「艱難汝を玉にす」

これは本当の珠玉の言葉であろうと思います。

そう考えてみると、人生は覚悟と勇気でできているのかもしれません。
福というものは、一縁善転によって訪れるのでしょう。

一つ一つのご縁と機縁に、感謝しながら善いことになることを念じていこうと思います。

 

自立の勘違い

先日、自立の勘違いについて大きく気づき直すことがありました。
それは自分流というものを持っている人が自立を勘違いしているということからです。

例えば、自分流などという言葉は、自分では真似ていると勘違いするときに使う言葉です。実際は自分に自信がない人ほど自分流などというものでコピーではないものをコピーしていると勘違いしているからそう思っているのです。

一流の仕事を真似るや習うというのはどういうことかというと、その人の背景にある今までの体験を習うや真似るということに他なりません。表面上だけを似せてそれで自分はいいとなるのは、決して本当の真似ではないのです。

イチロー選手の振り子打法のコピーをしたといくら本人が思っていても、それは決してイチロー選手の真似とはいわないのです。イチロー選手がやっていることはその心技体全てに到達した本質をいい、それを自分もできると安易に勘違いしているのは大きな間違いだからです。振り子を似せてもなぜ振り子なのかの本質は真似していないからです。なので自分ではもうやれると先に思い込んで自分流で勝手にやっていても、本番になれば誰の目にも振り子打法の本質と全く違うことをしていることは明白です。

だからこそ、本当にコピーするのならイチロー選手が行った全ての本質を自分で”ものにしたか”どうかを自分でやりながら真摯に確認してこそはじめて自立できているかどうかの確認になるのです。これは武道の師弟関係のようなものと同じく師から弟子が己で学び己で習うのに似ています。

本当の習うというのは、その人が過去に取り組んできた練習や訓練の仕方、仕事で言えば取り組み方やプロセス、積み上げてきた修練などの全てを”自分のもの”にするために真摯に直向に習うことではじめて仕事の仕方が理解できてくるともいいます。習うというのは、鳥が親鳥のやってきたことと同じように体験を積み確認しそれをものになっているかどうかを見守ってもらうことをいうからです。

例えば、身近な例でいえば一流の経営者の仕事を真似るというのはとても至難のことです。

なぜなら、その一流の経営者は過去にどれだけ質の高い体験と経験、自分のリスクで修羅場や真剣勝負などを得て、膨大な量の知識と膨大な量の智慧を己から一流に習いものにしているから一流の仕事ができるのです。一流が難しい仕事を簡単にやってのけるのも、それは頭がいいからや能力が高いからではなく過去にそれに掛けた時間があったからです。つまり一流の経営者の仕事がわかっても、一流の経営者のように一流の仕事ができないのは一流の仕事の仕方を学んでいないからです。

なぜ人はこうやって自立の勘違いが発生する本質は、頼ることができないからです。

例えばイチロー選手に頼ることができれば、それを習うことができるようになります。それを一人で頑張り頼ろうとしなければ、単にコピーですからそれは自分流になるしかないのです。いつも大事な場面でイチロー選手をあてにしなくてもいいようになるには自分でできるようになるための真の実力をつけるしかありません。

本来の自立というのは、自分から信頼関係を築き、自分から習い、そして自分から頼ることができて自分でできるようになることではじめて自分で立ったとなります。

過去の教育や家庭環境から誰も信頼せず、一人で頑張り一人で立てることが正しいと間違った価値観を植え付けられた人たちが結局は一人で無理をしていつまでも自立を勘違いしてただ一人だけでやることを正しいと思い込んでしまうのかもしれません。

本来の一緒に取り組むというのは、それぞれが己でできるようになるという互いに認め信頼しているという証であり、それがあってはじめて社会の共生と自立を育んでいくのだろうと私は思います。

子どもたちに自立のモデルを志すからこそ、真摯にこのことは考えていなければなりません。

家船

私たちはもともと海に囲まれた島国の中に住んでいる民族とも言えます。

海に囲まれているからこそ昔から漁業なども盛んでした。
そこに家船という人たちがいて、陸には土地を持たずに船で生活する人たちがいたようです。
家族全員が船上生活をする中で、生き抜くことを学んでいくのです。

船に生活するのだから、日々の点検を怠らずに船が沈没しないように手入れをし規範と実務、実践を大事に子々孫々へと暮らしを継承してきた様々な智慧があったように思います。

何か大きな出来事があれば、一家の一大事として昔は全員一致団結して困難を乗り越えました。私は今年の一年のテーマは「家」なので、家に関することで先日も思い当たることがあり二宮尊徳の「大海の家台船」の一説を社内で話をしましたが忘れてはならぬ私たちの在り方そのもののように思います。

そこにはこうあります。

『尊徳先生はおっしゃった。「家屋の事を、俗に家船(やふね)また家台船(やたいぶね)と言う。面白い俗言である。実際、家を船と心得ればよい。これを船とする時は、主人は船頭である。一家の者は皆乗合いといえよう。世の中は大海である。そうだとすれば、この家船に事があるときや、また世の大海に事があるときも、皆逃れられない事であって、船頭は勿論、この船に乗り合せた者は、一心協力してこの家船を維持すべきである。さてこの家船を維持するのには、かじの取りようと、船に穴があかないようにするという二つが大切である。この二つによく気を付ければ、家船の維持は疑いない。ところが、かじの取りようにも、心を用いず、家船の底に穴があいても塞ごうともしないで、主人は働かないで酒を飲み、妻は遊芸を楽しんで、せがれは碁や将棋にふけって、二男は詩を作り、歌を読んで、安閑と歳月を送って、終に家船を沈没させてしまう。嘆かわしいことではないか。たとえ大穴でなくても、少しでも穴があいたならば、すぐに乗合一同力を尽して、穴をふせぎ、朝夕ともに穴のあかないように、よくよく心を用いるがよい。これがこの乗合いの者の大切な事である。ところが、既に大穴があいてもなお、これをふさごうともしないで、各々自分の心のままに安閑と暮していて、誰かがふさいでくれそうな物だと、待っていてすむであろうか。助け船を頼みにしていてすむであろうか。船中の乗合一同が、身命をもなげうって働かなければならない時ではないか。』

一緒に暮らすというのは、運命共同体という意識のことです。

どんなに自分だけが助かろうと思っても、この大海原の世の中を生きていくには自分の帰属するコミュニティー(信頼できる仲間)を築き上げなければなりません。それができてはじめて自立したと言えるからです。

だからこそ自分の乗る船が沈没しないように、同じ船に乗り込んだ乗組員は命懸けで守り、それぞれが一心協力し続けていなければ自分も周囲も守れないのです。家族を守るというのは、一家の人達が心を合わせるからできるのです。

今の世の中は、何を守ることが自分も仲間も守ることなのかを勘違いしている人も増えています。すぐに信頼することを忘れ、自分だけでなんとかしようとするのもその信頼そのものの本質や意義が孤立する社会の中で欠落してしまっているのです。これも都市生活をし、画一教育の中で育った人たちの現代病ともいえるのではないかと思います。

自分だけが助かろうとするのではなく、如何に運命共同体を築き上げるかということを考えなければならないと思うのです。それが歴史を顧みれば人類生存の叡智そのものであったからです。

仏教のいう所の自利と利他ではないですが、利他を常に優先する人はそういうコミュニティーを自らで形成できます。なぜなら利他というのは、自分を守ってくれている安心感を常に信頼を心の主軸に置いて行動することができているからです。そうやってはじめて生きる力の根源になる仲間と自然に包まれて生きる幸せを味わっていくことができるように思います。

先人たちの絆や信頼を家というカタチにして残したのは生存の智慧そのものです。今に昔の人達の智慧を学びつつ、それを繋ぎ譲れるよう、遠くの灯台を見つめて子どもたちの未来に残る船を建造し前へと進めていきたいと思います。

幸せの本質~インドの旅2日目~

今日は、早朝よりインドのデリー市内からアゴラまで車で移動しつつ現地の観光を行いました。町の中で様々に生きる人たちの様子に、それぞれの運命を感じることにもなりました。

人間は生まれた場所や環境がその後の人生に大きく影響を与えます。もしも自分がここで生まれていたらと思いを巡らせれば、今与えられている環境が感謝できるものです。そしてそれは見聞を深めるということでできるのです。

例えば、寒い気候や厳しい環境の中で成育したものと、温暖で湿潤の穏やかな中で成育したものとでは明らかにその今の自分の姿が異なるはずです。つまりはこのように見聞を広めていくことで本来の自分の今を正しく理解に努めていくことができるようにも思います。

幸せの本質について昨日から考えはじめて今も思いを巡らすとそこには穏やかで安らかといった心の持続ということを思い当たります。インドではこれをニルヴァーナとも言うそうですが、その境地を維持していくことができる心境ということです。

これは私には「真摯に実践を続けて悟ることのない状態の維持」というように感じます。つまりは、悟るというのは、悟るか悟らないかではなく悟ろうと学び実践を続けていることこそが心の平安を持続することのように思うからです。何でもそうですが、分かった気にならないというのは分からないままに実践して腹落ちするまで頭で分かろうとはしないということが現実と理想の中間を得ていると思うからです。

釈迦にこのような説法があるのを発見しました。

「欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世でこの執著をのり超える。人が、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親族、その他いろいろの欲望を貪り求めると、無力のように見えるものがかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が浸入するように。それ故に、人はよく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。」
意訳すると、欲というものがあるから色々な苦が付き纏う。だからこそそれに気をつけながら歩みなさいということですが私は欲が善いとか悪いとかではなく、ここでは気をつけなさいということが実践そのものであろうとも思うのです。自分という舟を川に浮かべて進んでいけば、波風や様々な試練から転覆しそうに揺ら揺らしていくものです。
最終的には大海原へと向かうのでしょうが、そこまでの旅路に安らかに流れ流され達していくことが幸せのように思えるのです。そしてそれは例えば菩薩行の実践をすることにより、その様々な欲と上手に付き合いつつ、自然循環の一部と一体になった境地にはじめて入っていけるようにも思うのです。
自利と利他がありますが、やはり人は自分のことよりも誰かの御役に立てることを優先しているときの方が欲も回避して自分らしい正しい行いができるように思います。これも実践というもので、それを行ってはじめて心静かな気持ちで義を優先していくことができるように思うのです。
そう考えれば、自分号という舟との正対の実践こそが幸せの本質かもしれません。
明日からは子ども達の施設の視察ですが、さらにインスピレーションを高めていきたいと思います。

天才とは何か

昨日、スティーブンホーキングの自伝がテレビで放映していて久しぶりに昔の感覚を思い出しました。

中学生の時に、その著書「ホーキング、宇宙を語る」を読んだ時の衝撃が忘れられません。内容がどうであったかというよりも、その好奇心、その驚きを求めていく姿に自分の中にあった真理への探究の気持ちなどが刺激され感動したからのように思います。

宇宙がどうなっているのか、ブラックホールは何でできたのか、それを様々な客観的事実や例えを交えながら説明していく姿にこの学問の面白さを感じたのです。

もちろん、そのころの自分といえば何もわからずただただ驚いて内容がどうであるよるもすぐにホーキング博士に会いにいきたいと思い、必死で英語の勉強をしたことを憶えています。もともとの動機がホーキング博士に会うことでしたが御蔭で英語の成績がぐんぐん上がるというようなこともありましたから意欲は何がキッカケになるのかわかりません。

そのホーキング博士の生い立ちを映像でみて、娘さんのインタビュー記事をインターネットで拝読すると決してご自分の境遇を憐れまず、星を眺めて自分のやりたいことだけに専念していく姿に、改めて生きるということ、その生き方を学ばせていただきました。

通常なら2年と宣告された余命も、その後40年以上たった今もご健在で、これから宇宙に行くという目標も立てているようで流石は博士だと改めてその好奇心への情熱に感動し、今の自分も新たに触発されました。こうやって人は何をやったかとかではなく、何をやることに信念と情熱を傾けるかということが本来の人生であろうと思います。

一人一人、生まれたらそれぞれにテーマは異なりますが宇宙やはじまりについて人生を懸けて取り組むという姿に天才ということの定義を見出してしまうのは私だけではないでしょう。
天才というものは、その無限に湧き出る自分の好奇心かもしれません。

最後にそのホーキング博士の言葉についてとても好きな言葉を紹介します。

「人生はできることに集中することであり、できないことを悔やむことではない。」
「私が人生で学んだことは、自分がいま持っている力を、ぜんぶ使えということです。」

まさにこれが好奇心の源流である気がします。さらに大切な戒めも続きます。

「今の仕事を好きになれないのでは、違う仕事に就いても好きになれない。今の仕事に一生懸命になれないのでは、違う仕事でも一生懸命になれない。今の仕事を好きになって一生懸命やったとき、次なる道が見えてくるものだ。そもそも天職はなるものじゃない、気がついたらなっているものだ。」

自分の大好きなことを遣り続ける力が、生死を超えたところで存在する宇宙かもしれません。
宇宙はまるで心の世界そのものです、阿吽の呼吸ではないですが自分なりの宇宙を生き方で表現していきたいと思います。

 

 

自然のまんまの御漬物

先日、愛媛の松屋旅館にて宿泊し糠床の手入れやお漬物についての講話と実践を学ぶ機会をいただきました。

昨年より、自然から学ぶ中で微生物や菌の世界の素晴らしさをさらに実感し具体的な実践を通して学んでいく中での出会いでもありました。そして漬物を環境を用意して早速挑戦してみたものの手入れの仕方が分からず大変悩んでいましたが今回全てが腑に落ちました。

何でもそうですが実践してみる時に、今までのものがないというのはつらいことです。本来は、昔ながらの伝統が残っていて身近にそれを教えて下さる人たちがいたのでしょうが今では本やインターネットですぐに手に入る情報ばかりのようですがあれは実践している文章ではないものもたくさんあります。

特に売れるためにや宣伝のために書いている文章などというものは、現場で試してもどうしてもそれが腑に落ちず、とても悩むことばかりだからです。今回の糠床でもそうでしたが、本を購入しても調べてもためしてもどうしても分からなかったからこそ行動してみて本当に善かったと思います。

きっと私たちの保育現場であっても同じように情報過多で、真実の情報はとても少なく現場で試しても合わないものばかりで苦しんでいる方々もたくさんいるように思います。そういう方々へも少しでも手が届くようなところに真実の情報を届けていかなければ気持ちを新たにすることもできました。

さて、この松屋旅館の糠床は江戸時代から300年以上生きているもので漬けられているものです。御漬物の予約もして食べてみたのですが、今まで食べたものとは明らかに異なり全身が驚きました。

こんなに美味しい御漬物ならば毎日食べたくなるものだと感心したのですが、そのあとの女将さんのお話も全て目から鱗のことばかりで本当に楽しいお時間を過ごすことができました。

内容については、あまりにも情報の質が高くすべてをご紹介することはできませんが一部を紹介すると

「昔の方の智慧は素晴らしい、昔のやり方でやっていれば間違いはない。」

「子育てと同じで、手をかけてあげることが何よりも大事」

「糠床にも四季がある、そして呼吸する、しっかりと四季を味あわせてあげるといい」

「御漬物は美味しく食べ続けるから腐らない、おいしく漬け続けることが大切」

「御漬物が今どういう状態かというのは離れていてもすぐに分かる」

「糠床と仲良くやっていくといい、楽しみがでてくるようになるといい」

「自然に漬かるのをじっくりと待つ、そして食べる分だけちょっとずつがいい」

他にもたくさんの実践語録をいただき、我が家の御漬物も会社で取り組んでいくものの指針も頂戴することができ、これでまた皆と子どもたちの未来へ譲るものを一つ、キッカケを得ることができました。

最後に、昔の人の智慧については本当に頭が下がる思いがしました。今に残っている自然の智慧は、何千年もかけて私たちの先祖たちが編み出した生き残りのために自然から教えてもらったことを自然に教えてきただけでもあります。

自然から学ぶということは、そういうものを謙虚に素直にどれだけ今の私たちが子々孫々へ正しく実践を通して継承していくかというのが今を生きるものの責任であろうと私は思います。どんなに今の価値観が便利や目新らしい変わったものばかりが注目されようとも、長いスパンで物事を省みれば先人たちの行った偉業が眩いばかりに随所に残っています。

本来の智慧とは何か、今年も自然から学び直して自分を立て直していこうと思います。
今年は温故の価値を再定義する年になりそうです。

2013年のテーマ

昨年も本当に沢山の仲間に見守れながら学ぶ事ができた素晴らしい一年になりました。
我が道を往く中での出逢いは人生の彩りを美しく善いものにしてくれています。
迷ったこともありますが、それでも前進できることに幸せを感じます。

また今年も有難いことに師からテーマを戴きました。

どんな時もブレずに、道を歩み成熟していく姿に尊敬と信頼の念が深まっていきます。
一人で歩む道が、これだけ長く一緒に歩めることができて学びを共にできています。
離れていても心の中ではいつも見守り合っている人がいる。
これが道の楽しさではないかと思うばかりです。

今年のテーマは

「我を省く」

これは我を通そうとする心を省いていくこと、そういうものが無我につながっているという意味になりますが実践は自分との正対ですからこれからが楽しみです。真理もそういう境地ではじめて体得できるのではないかとも感じます。揺るがない信念の確立と共に、今年の柱に据えていこうと思います。

最後に、

故郷で冬の美しい月を観ました。

・・・雲の晴れ間には、あの透明な光と無数の星々。

自然というものに近づき、真善美を味わい尽くした人生を送っていきたいと思います。

心で関わる

先日から「分かってもらおうとしない」ということについて深めています。

大前提としてこれはまず分かってもらえていないと思うから相手も周囲も分からないのですが、私はこの分からないというのは実はそのまま別に分かってもらうものではないからかもしれないと思っているのです。

人は相手と共感するのは、もともと自分の中に備わっているものから探していきます。特に共感力の高い人は、自分の中でそれを感じる引き出しが多くあり、それは子どもの頃から関心や興味をいつも自他へ向け続けてきたからとも言えるように思います。

人は自分のことばかりを考えて生きるようになってくると、関心を持つというよりも自分のことを如何にわかってもらおうかとばかりに躍起になってしまうものです。

しかし子ども達を観ても感じるように子どもはやりたいことがただあるだけで分かってもらおうとはしていません。それをこちらが共感しているからこそ、相手の本当にやりたいことに寄り添い手伝うことができるようにも思うのです。

しかし今は、刷り込みで指示や命令、何かを言わなければ動かないというように共感しているというよりも頭で処理していく方が便利だと勘違いしその共感はとても低下しています。

分かろうとするのでもなく、分かってもらおうとすることもなく、ただ関心を持つこと。この関心というものは、世間で言われる単なる興味などのことではなく心で関わるということを書くのですから心のままでいるということなのです。

分かろうとしないということは、心で接するということ。それは頭で理解しようとすることではなく、自分も同じような心がありその心は同質のものがあると信じる事のように思います。

何かやり遂げたいことがあるのだろうと思うのが本来の関心です。

それは分かってあげようとか分かってもらおうとするのではなく、もっと心を澄ませてお互いのやりたいことを尊重し合う環境の中にこそ真の心は存在するように思います。自分のやりたいことそのものが誰かの御役に立てると信じることができれば分かりあろうとはしなくてもそれで善いではないかとも思うのです。

不識という言葉には、なおまだ説明ではできない分からなくてもいい境地があるように感じます。さらにそれを追及して気づいて、シンプルな中で無我夢中になっていきたいと思います。

 

楽しい学び

昨日、社内を古民家のように改造し楽しい職場についての研修を行いました。

講師には、新宿せいが保育園のベテランのお二人に来ていただきお鍋を食べお酒を飲み日頃の楽しい事例について語り合いました。気の合う仲間との会食はとても嬉しくそして美味しく、時間が過ぎるのもあっという間でした。

その中で、色々と教えていただいたこともあり学び直しを楽しむことができました。

一つには、学ぶ姿勢。

いついかなるときも、自分が学ぶからこそ教えない、日々に子ども達から学び自分を変えつづけているからこそ色々な意見を聴いてもその人の答えが正しいということになるのだろうと思います。分かった気にならない実践、つまりは自分自身が常に様々なものから真摯に学ぼうとする姿勢が何よりもこのベテランの姿勢であることを自覚していらっしゃるのです。

そして二つ目には、バランス感覚。

方針があり目標があり皆と歩む中で間にいるベテランがバランスを取ることができるからこそ周囲も安心してそこで委ねて一丸となっていくことができるのです。私の解釈ではアメーバのようにふわふわとカタチを換えながらもその粘着を緩やかにしているのがこの中間の役割です。自分の価値観に固執し、偏りバランスを崩せば組織も同じようにバラバラになってしまいます。しかしこの間にいる中堅やベテランの人達の絶妙なバランスが全体の調和に非常に役にたっているのだと思うのです。いつもバランスを意識するには余裕もゆとりも、そして自分の主軸をきちんと持てるということ、それはつまりトップの思想やビジョンに精通していらっしゃるのです。

そして最後は、分を弁える。

自分の役割というものを正しく理解すれば、分度という自分の分を弁えることができるということです。欲目から自分を過大にも過小にも評価せず、あるがままにありのままに正直にいれば自分がどのような役割を担っているのかを知ることができます。そしてそれは自分を活かしてくれている上司や周囲に対して自分にしかできないことを正しく理解することができるのです。つまり出しゃばらないということ、言い換えれば見守るなのです。自分の分度を正しく理解するから余計なところは手をださず、その人の役割にお任せすることができるのです。これは人や相手を心から尊重していらっしゃることをいうのです。

そしてこの分を弁えるという言葉は、身の丈を知る、過大評価しない、これは「自信」そのものです。本当の自分の「実力」が分かっているというのは、本当に自分や困難に向き合って乗り越えたものだけが使っている「謙虚」そのものの言葉のように思います。

そしてそれは確実に夢や道を自らの脚で正しく歩むときに出てくる言葉です。

私も昨夜はお酒が入っていたので、盛り上がりましたが今朝がたには感動して身震いし心が熱くなりました。こういう人たちがいる職場には自然に求心力が働いていくようにも思います。子ども達の周囲にこのような大人がいるということそのものが尊いと感じる一夜でした。

また道を歩む中で、時折、学問を語り合い、学び合うことができればと思います。これもいつもながら見守られている御蔭とし、さらにより一層の向上と精進を積み未来の子ども達のためにも実践で還元していこうと思います。