協力の本質

協力というものを深めてみます。

そもそも協力とは何かというと手伝ってもらうことや支援してもらうことではないように思います。本来、協力という意味では何か誰かに力を貸してもらったり、誰かの力を借りたりといったお互いに協力関係をギブアンドテイクで出しあったり貸しあったりするイメージがあります。

しかしどちらかが意図的に手伝ったり手伝ってもらおうと意識すると、なかなか協調できずにスムーズに事が運びにくいという経験をすることがあるように思うのです。

本来の協力とは何かと感じてみると、力を合わせるということ、一丸となるや一体となる、心も気持ちも合わせるということをいうように思うのです。それは相手をみるとかではなく、同じ目標やゴールに向かってそれぞれが全力で力を使うことを言うように思うのです。気が合うもの同士が力が合いやすいのもそれはそもそも気が合っているからです。ここでの気は本気の気のことです。

それにこの協力という字は、「力」が合わさって重なった姿が顕われています。

協力して下さいとか、協力しようとか、色々と協力のメッセージを出すことがありますが本来は自分が力を合わせようとすることができにくくなっているときにそう使うのです。

世界では様々な協力のやり方があり、国際協力などもどちらかだけが依存したりする関係もあると聞いたことがありますがこれは互いの力を合わせるのではなく力を借りようとか力を貸そうとか互いのどちらかだけに偏ってしまうからのように思うのです。

みんなで力を合わせるというのは、どのことに対しても全身全霊で力を出すということ、そして自他を割り切るのではなく全員で力を合わせるということの繰り返しが必要に思うのです。誰かが手抜きをしたり、お見合いをして力を抜いたりしていたら、協力や協調はできなくなります。

誰かがするだろうではなく、自分からすべてを取りに行く姿勢や自分が求める力が合わせるというものに近づいていくように思います。

そしてその根幹は、対人関係や人間関係の感情が大きな理由になっていると思います。表面上の気づきは色々とありますがそこに確かな人間関係の共生の本質が存在しているものと思います。

人が素直であることは、自分を認めて受け容れてあるがままでいることのようにも思います。
人生は多くのヒントの中で、その体験を他人の御役に立てることができるようになります。

いのちは誰かの役に立てるためにあるものだから、体験を価値に転換していきたいと思います。

自然は私たちの先生

私たちは運が善くなる生き方というものを知ろうとしますがそれが何かというとバランスであると思います。

このバランスというものは、どれだけ自分がシンプルであるかというものと同じで自分がどれだけ素直のままの自分でいるかということをいいます。

人は自分の都合を優先し様々な問題を招いているともいえます。

つまりは余計なことをするから余計なことがおき、どこが中心であったのかと悩むのです。そうやってまた反省をしてもとのバランスに戻す。この元のというのは、本来のシンプルな自分に戻るともいい生まれる前からそのままの姿のものに近づいていくことをいうように思うのです。

この生まれる前からの姿というのは、今の世の中では刷り込みの教育や社会システムの中で価値が低いと思われているものですが本来はそれに近づくことが自然で運が善いというのもそういう循環の中に身をおくことで安心できることをいうのです。

運が善いと感じるのは、周りの自然循環のままに存在がスパンと当てはまっているからです。

どの時代もその時代時代に人間の都合によって自然から離れ真実が歪みおかしな世の中が出現すればそれをまた元に戻す自然の力がはたらいてきます。

そうやって私たちは何度も何度も素直でありなさい謙虚でありなさいということを自然に学ぶように思うのです。

本来の姿、自分が謙虚であれば真心のままに実相が世の中を照らすようにも思います。

自分の都合での偽りの謙虚さではなく、生まれる前から持つ素直さともいう謙虚さを忘れない子どものままでいればいつも自分を正直に素直に周囲にさらけ出せるシンプルな社会を形成していけるように思います。

私たちが謙虚さを忘れなければいつも自然は私たちの先生です。

お天道様の見守りの中で今日もまた素晴らしい人たちのご縁に出会い、イキイキワクワクドキドキと楽しんでいきたいと思います。

 

人情

先日、ある長屋のイベントにご縁がありその意味を深める機会がありました。

最近はシェアオフィスとかシェアルームとか、繋がりや絆を深める共同生活を中心にしたコミュニティが人気が出ているようで市場でもビジネスチャンスと捉えている人たちがいるようです。

震災以降、もう一度システマチックな環境ではなく複雑に人と人が絡み合いつながりあった関係から環境をつくり絆から復興をはじめようと様々な取り組みが新しくはじまってカタチになってきています。私にとっては複雑な関係というよりもシンプルな人と人との本来のシンプルな共同生活に回帰しようといった流れがでているのだと思います。

もともと長屋というのは箱もののことを言うのではなく、そこには女将を中心に様々な人たちが集まった生活コミュニティのことをいうのだと思います。オープンな関係の中でお互いの人情が行き交う社会生活空間ともいうのでしょうか。

これはお互いに人情が溢れおせっかいで優しい人間味のある人たちが寝食を共にしつつ、共にお互いの人生について絡み合って共に生き、助け合い見守りあうという共同体のことをいうように思います。

もともと人がいろいろと集まって話をすれば、同じような課題、同じような困難、同じような感動、同じような人生の起伏を共有するものに気づけるように思います。その中で、解決しないことを互いに井戸端で語り合ったり、時折は落ち込んでいる人をみたら話しかけて一緒に涙したり、嬉しいことがあっていたら共にお酒を酌み交わしたりといった共同生活の場で生きるということを楽しんだように思うのです。世話好きなのも人情からでそういうおせっかいこそに意気を感じて互いに温かな様子を分かち合ったのでしょう。

そしてその長屋の女将というものはその中でも一番人情味があり、何でもついほおっておけないほどの温かみのあったものではなかったかと思います。もちろん、全部がそうではなく家賃収入で生業をたてているのだから色々とあったでしょうが、皆が楽しく暮らしていけるようにと願い環境を用意し自らも共に生活を潤していたのがその役目だったのではないかとも思うのです。

今の時代は、公私をわけて自分のことは他人には言わずあくまでシステマチックに割り切り、人情は要らないし気も合わなくても仕事なのだからと色々なことを隠そうとしてコミュニティを避けようとしている人も増えています。人生にとってとても長い時間共にいる人たちとの関係が希薄だというのはとても人情からみても寂しいものです。今ではメンドクサイからと自他にとってあまり影響のない表面上だけの話であったり、もしくは自分の都合でのみ自分を知ってくれればいいと関係がクローズしている事の方が多いように思います。

自分からオープンでいるというのは、人情を否定しない、人間味があっていいではないかといった互いの弱みも強みもさらけ出す人間同士の素直な関わりとつながりがあるということに他なりません。

そして人情だけではなく、そこに義理が必用なのはお互いの社会を維持するための礼儀がある。つまりは約束を守り信義を貫くといった共同生活の自立もあったようにも思います。

義理があって人情がある。
これは人間独特の素直で素晴らしい徳ではないかと思うのです。

今は無難に仕組みで波風を立てないようにとし何かと人情を否定されやすい時代ですが、もともと人はみんな義理人情をもっているのですからそれを引き出しやすい環境や状況を共同生活を通して体感していくことがオープンな社会の実現につながるように思います。そして安心して共に生き幸せにいられるのもそういう空間の配慮のように思うのです。

共同というのは、全ての共有、共生そのもののことでもあります。
そこに人情味のあることを善とする素直で粋な心意気があったということでしょう。

自らが皆ともっと共有していこうとすることが、長屋の本質なのかもしれませんね。
今度、江戸に残っている長屋を視察しつつまた人情についてまとめてみたいと思います。

自燃力の本質

自燃力ということについて自分なりに深めてみます。

もともと自燃というのは、自らが自らのいのちを自ずから発揮させていき代謝することです。
つまりは自分の力を使って何かを行うということに他なりません。

それは自らの持って生まれてきたいのちや才能、そのアイデアや体験すべてを活かして世の中のために貢献するために行う力ということです。

そしてこの自燃というのは、いつも誰かに言われてから動いていたり自分が別にやりたいわけでもなく楽しいとも思わなくても動くのとは違います。人は自分がそれを他人から言われるからやるのか、もしくは自分の天命がどうなっているのかその天命に恥じないように日々に自分を遣い切って生きたいと思っているのかでその自分の活かし方が異なってくるように思います。

仕方がなくてもやるというのは、その人生の主体は外因によって遣りたくもないこと、思い通りにはならないことに対する不平や不満を抱くことになるのです。しかしよくよくじっくり観照してみると本当は自分の思い通りいかなくても自分が都合よくやりたいと思えなくもこれが何につながっているのか、そしてこれから何を自分が学んでいるのか、そしてこれはきっと自分の使命に直結していることを天が与えてくださっているのだと絶対受身になることで絶対主体といった自発的自己発揮、つまりは自燃をしていくことができるように思うのです。

私の言う自燃は発酵と同じ、そしてこの発酵の本質は自ら腐らないということです。ここでの腐るのはいつかは何かで燃えるだろうを期待して自分からいのちを今に使わず誰かに何かに期待するという生き方。どうせ燃えるなら自分から燃えたい、いのちを燃やしたいと自分から燃えるといった自燃ではないからということを言っています。

自燃というのは、自らそれをやろうとしているか、自らそれをやりたいか、自らそれを楽しんでいるか、この楽しむというのはどこか楽をしたいからやるのではなく、心底大変でも自分が楽しい方を選択し続けていく、そして全身全霊で打ち込み自分の可能性を広げお役に立てることを歓んでいくことに他なりません。

もちろん少しでも流されたり受け身になれば、なんでこんなに仕事が多いのだろうとか本当は自分がこういうことがしたくないとか言い訳をしたくなるものでしょうが実際は仕事が多いのはそれだけお役に立てるチャンスがある、そしてしたくないのはまだまだ行動をしていく余地があると苦しみになるものを楽しみに換えていくことで発酵を続けることができるのです。物は考え方と観方で決まるということならやはり情熱と熱意で自燃発酵させる方を選ぶかどうかが重要だと思うのです。

そして私から観れば正確には結果や成果というものは、その発酵した代謝物のことです。
いのちの活動の痕跡や軌跡、形跡のことです。

どのようにそのプロセスを楽しんだか、どのように腐らずにワクワクドキドキ取り組んだか、その代謝物として成果がぐんぐんと顕われていきます。それは発酵にだけによらず発達も等しく、そのものが一生懸命に生きて楽しんだ形跡には確かないのちの煌めきの光が残存するからです。

人間の幸せというものは、別に世間のいうような誰かの評価や豊富な財産、名誉などといったもので得られるとは思えません。そうではなく、本来の自分の持って生まれたその使命やいのちを存分に御役に立て燃え尽きたときに周囲にご苦労様といってもらえることのようにも思うのです。

何かの御役に立つというのは共生するということですが、それが活きる本質のように思います。自燃するということは、自分で生きるということ、自立するということは、自分で立つということ、こういう当たり前のことですがネガティブに捉えるの人も多いのですが本来はそうではなくどれも自然の姿であろうと思います。

教育や今の社会に刷り込まれている人たちがたくさんいるからこそ、自分たちの存在価値を感じています。自燃力を存分に発揮し、子ども達のためにしっかりとブクブクシュワシュワ発酵を楽しんでいきたいと思います。

生き残る道

遠野物語を著した柳田國男に民俗学がある。

先日、お米の先祖を辿っていると海上の道という名で題された著書に久高島のことが明記してありお米は海から先祖と共に渡ってきたのだとありインスピレーションがありました。

先祖について調べているうちに、民族学というものがどう起こってきたのかに興味が湧き色々と調べることができました。

この民俗学は、もともと「人類学」を修めた伊能嘉矩が「土俗学」というものを立ち上げそれを佐々木喜善に引継ぎ、そこから柳田國男と出会い「遠野物語」が世間に発表されます。元々、私たちの先祖がどうしていたのかどうであったのかというものを深めるというのは今までどのように暮らして何を学び子孫へと伝承してきたのかを知ることになります。

特に生活習慣の中で、実験実地をし何が善くなり何が悪しきものであったかもその話材の中で伝えられるのです。思いやりや真心を込めて生きた方を伝えて美談にしていくこともできますが、同時にあさましいものおぞましいもの、嫉妬や強欲など人間として避けては通れないものも同時に真実として口伝にしているのです。

ここに、生き抜いていく智慧や今までどのように生きてきたかの人類としての英知を伝承するのです。生き残るということは、今まで人間が大切にしてきたことをいつまでも忘れないことです。それをどのようにすればいいかと伝えていくのが先祖のお役目であろうとも思い、それを子孫が掘り起こしてさらに伝承することが滅びないための方法のように思います。

柳田國男の「先祖」と題した著書のはじめにこのように書かれています。

「人が平静に物を考え得るようになるまでには、なお何年かの月日を待たなければならぬことは止むを得ないであろう。しかし、いよいよこれから考えてみようという時になって、もうその考える材料というべきものが乏しくなっていたら、どうであろうか」

「日本民俗学の提供せんとするものは結論ではない。人を誤ったる速断に陥れないように、できる限り確実なる予備知識を、集めて保存しておきたいというだけである。」

「ただわれわれが百千年の久しきにわたって、積み重ねてきた所の経歴というものを、丸々その痕もないよその国々と、同一視することは許されないのみならず、現にこれからさきの方案を決定するに当たっても、やはり多数のそういった人たちを相手に、「なる程そうだ」という所まで対談しなければすまされぬのである。」

とある。

もともと自分たちがどのような経歴で歩んできたのか、その歴史を正しく知り伝えていくことは今までどのように生き抜いて今、此処まできたのかを知る唯一の王道であるように思います。

別の民族が同じように生き残ったように私たちもどのように生き残るのかを学び知ることで、これからどのように予言し予見するかを自覚するようにも思います。

この先どのように生き抜いていくか、子ども達のためにも真摯に学問を果たさなければならないという使命感に背中を押されています。まだまだ実践ははじまったばかりです、しっかりと温故知新につとめていきたいと思います。

環境課題

今の時代のサイクルについて考える機会があった。

もともと今のように物が豊富になっていることで、大量生産大量消費、そして大量廃棄という価値観が横行しそこから様々な問題が起きています。

これは経済社会の全ての場所で言えることで、食でも物でもエネルギーでも、さらには人や環境までも大量に生産するものを維持し増やしていくことで経済が豊かになるという考え方のことです。

大量に生産することを目標にし、まず大量に生産してしまうと、それを何とか消費しなければならなくなります。大量に消費するためには、莫大な費用をかけて宣伝や仕組み作りが必要になり大量の経費もかかります。そしてそれが上手くいかなければ大量の廃棄が必要になるのです。

今のゴミ問題もそうですが、作りすぎるから捨てる必要があり、分度を定めて正しく生産していれば廃棄の問題というものはなくなるのです。明治以降から、グローバリゼーションの波が押し寄せ、とにかく溢れんばかりに物を作り出す方法を機械化し、システム化し、流通を加速させることでより便利にしましたがその反面、捨てることによる貧しさも同時に加速したのです。

捨てるということは、その役目を活かそうとする発想ではなく役に立たなくなれば要らないという発想です。役目を活かそうとする発想は、何か他の使い道がないか、何か他にも活かせる方法がないかと様々な創意工夫が思いやりから発生できます。

しかしそういうものも失われていけば次第に、もっと便利なもの、もっと真新しいもの、もっと効率がいいものというように自利があるものだけを優先してしまうようになります。

作りすぎているからと、余ったものは捨てる、その仕組みを維持するために各方面に無理を要求する、その結果として危険で不誠実なものでもいいというモラルが生まれる。このサイクルは、捨てるという発想からはじまっているシステムによるものだと私は思います。

もっと捨てないという発想、分度を定めて取り組むという人道の在り方を見直し社会が善くなるために何をすべきかということから取り組む時代にしていくことが子ども達の未来に自然を遺すことの一つのように思います。

日々の生活から刷り込みに気づき、様々な環境課題を一つずつ見直していこうと思います。

民俗の美学

昨日、昔一緒に仕事をした方が9年ぶりに訪ねてきてくれました。

ご縁を大切に人脈を大事にお仕事されている様子に、何時までも変わらない人柄に暖かい気持ちになりました。ご縁を活かそうという生き方をしている人は、いつ何があってもその活かそうとする姿勢からどんな場所でも境遇の中でも人を頼りに生きていけるように思います。

あの頃も学んだことをまた改めて思い返し学び直すこともでき、ご縁の不思議さに改めて感じ入りました。お仕事とはいえ、律儀で礼儀正しい働き方をされている姿というのは美しいと思います。短い時間でも9年間の心を通わせることができるのは、御互いにご縁がどうなっているかの確認をしているからかもしれません。

さて、その話の中で本質についての深めることができました。

今はスマートフォンなども台頭してきて、より便利により機能的にという風に人間のもともと持っていた機能を機械にやってもらうというものがより細かくなってきました。その中で様々なアプリも開発され、最近有名なのはタクシーを呼ぶのにGPSでボタン一つで近くのタクシーを呼び出すようなものも好評を得ているようです。

アプリの開発なども実際は、そのものの本質が何かというよりも開発する時間が間に合わないからという理由で他社より少しでも前にいっていればいい、安ければいい、もっと便利な機能がついていればいいという過当競争になっているようです。

先日のドイツでの話になると、ドイツではもともとタクシーとは「人を安全に安心に運ぶ」のが本質だからとそういう便利なアプリではなく、そのタクシーを乗客が評価してより質を向上させるアプリが開発され利用されているようです。あまり急いでとなると事故が起きやすくなるし、そんなことをすると大切なことが失われるからという配慮からだそうです。

今の日本は何か急ぎ過ぎて何でも早くとスピード重視になり、じっくり考えて正しく議論し取り組むという価値観が失われてきているように思います。善いものは長く時間をかけて取り組むことではじめて醸成されるのですが、何でも即席でとなれば質は必然的に下がると思うのです。

お互いの話の中では、気にせずに新たに自ら発明するしかありませんねと談笑しましたが私たちの会社で取り組んでいることもこの問いに似ています。何かのソフトも開発されマーケットに出てしまうと、すぐに比較対象がそういう機能や便利かどうかというモノサシで考えます。

私たちはそうではなく、その本質が何かから考えて取り組むようにしています。

それを行うことが誠実であること、自分に正直でいること、お客様に信頼されることだと信じているからです。どれくらいのスパンで物を観て、どれくらいの全体で捉えるかで時間軸や空間軸というのは変わっていきます。

子どもに関することだからこそ真剣に議論する、本気で思想や姿勢をチェックするという取り組みがなくては子どものためとは言えないように思います。

日本という国はもともとモノを大切にする美意識を持つ国です。

大切な物には、いつもお役目がありますからと接し、そのお役目を全うすると、お役目ご苦労様でしたと労をねぎらうのです。それはそのものが「はたらき」をしたことを称え尊重してきた私たちの姿勢、在り方のように思います。

このような便利な時代だからこそ、外から流入する価値観によってもともとあった価値観が消えさるのを指をくわえて流されるのではなく常に己に流れる血と歴史、その民俗の美学を温故知新していくことが開発者には求められるように思います。

人も物も環境もすべてはお互いに時代とともに成長しあえるものが、竟には互いをより役目に回帰し助けあうように思うからです。

子ども達のためにもこのご縁を歩む道のりに特に気を付け、少しでも子どもの未来に信が入るものを創造していきたいと思います。

今を探し求める

古き善きものの理解ということで、温故知新がありますがこれをドイツではロマンティックであると定義していました。

今の日本では明治維新後から、新しいものが良いものであるという価値観が一般的に横行しています。今でも新商品となればすぐに飛びつき、さもそれが目新しければ取りいれるという考え方に溢れているように思います。

どのTVCMも派手なものや珍しいものばかりを取り上げようとしているのもそういう大衆の方が多いということを意味しています。そしてその反対に古いものは価値がないとさえ思われ、もともと先祖たちが遺してきた様々な美意識も今では衰退して陰りをみせています。

私は自然農をはじめ、自然から学びだしてから何が最先端なのかの価値観が逆転しました。

昔は見向きもしなかった道具であったり、家づくりであったり、様々な民芸品、その全てが大変な自然の観察から練り上げたものであるのを実感するからです。なぜ何百年も残っているのか、なぜ今でもそれが本物である輝きを秘めているのかはそれが自然の法則にそって創造されたものであるからです。

本物というのはいつの時代も、余計なものがそぎ落とされ究め尽くした頂点であるからです。

そこからいろいろなものを足していく方が良いはずだという価値観というものは、例えば円い玉に派手な飾りものをしてさも宝石のように見せるかに似ていて宝石そのものではない価値で無理にそれを良く見せるのに似ています。

付加価値というのは大切ですが、本来の価値が観えるというのはもっと大切であると私は思うのです。いつの時代もなぜ本質的な価値を遺しておく必要があるかといえば、それが時代時代にあわせて参考になるからです。

どんな時代も、どこに合わせて修正するのか、どこを視て少しだけ改善するのか、その元となるものを引き継ぐことこそ先祖の遺訓を守ることのように思うのです。

大切なのは新しいか古いかではなく、本物の善きものとは何かという審美眼、言い換えれば真善美が正しく行われることだろうと私には思えるのです。それがどの国の歴史であっても必ずそれを求めて生きた証として様々なものを受け継いでいくことが今を正しく実現することのように思うからです。

真善美というものを理解するには、古きを温め、新しきを知るという両面から錬磨育成していかなければならないと私は思います。一見、矛盾している中にこそその本質を捉える自分の感性が響いてきます。

私の今、もっとも探し求めているものはこの「今」なのだろうと感じます。

さらに直観を高めて、子ども達に遺せるもののを自然から創意工夫し発明していこうと思います。

引き算の美学

先日、ミッションパートナーとブランディングについての話を深める機会があった。

ものづくりというのは、とても神秘的なものでそのものに自らの生き方を透写し、それを一緒に善い作品へと転換していくという面白さがあるのです。それぞれの生き方を照らしあわせたとき、その奇跡とも言える総合芸術ができるかのようです。

人はそれぞれの持ち味を活かすとき、今までにないような不思議な味わいを醸し出します。
これは発酵でも同じですが、大切なのはやはり自分らしさを出すということなのです。

そしてこの自分らしさは、自分に正直、全てに正直、あるがままの心が澄まされオープンでいることがその曇らない飾らない素直さを発揮させていくように思います。

そしてそこにはシンプルというデザインがあります。私が好きなデザインも、光がわかるよう白と黒が基調だったり、そのものがより本質に近いものや、その作り手の人生観がにじみ出ているようなものにとても惹かれます。そしてそれはやはりシンプルなもので、余計なものをどれだけそぎ落としたかというものを観るのです。

世界には、そうやってありのままに観える人がありのままにつくったものが無数にあります。そういうものを探し、それを日本のカタチに転換することで私たちのものにしていくことができるように思うのです。

ないものを探そうとするのは、まだ曇っているからで本当はすべてはこの世に存在していてそれを目が曇るから見いだせないという発想。つまりは物事はすべて足し算で考えるのではなく、引き算で考えればないものねだりではなく在るもの探しに変わるのです。

これはデザインやものづくりに関わらず、大前提としてものを創る前にその美学がどうなっているかが問われるように思うのです。日本には、千利休や松尾芭蕉、その他にも「わび」「さび」「しおり」といった日本を代表する引き算の美があります。

私もそれを感じた時、本当はないのではなくあるのではないか、そして足りないのではなく活かせないのではないか、すべては自分の中にあるものを発掘できていないのではないかと、自らにおける制限を感じたのです。

自分が自分に制限をかけるから、人は限界を超えないという言葉があります。
みんな人が変化できないのは何かに縛られ囚われる刷り込みがあるからです。

そういうひとつひとつを引き出し、導くことも使命であるように感じます。
子ども達のためにも、自分らしさを持ち味をさらけ出せるような生き方を目指そうと思います。

自らの文化創造

ドイツ研修のふり返りの中で気づいていくものに歴史というものがあります。

その国の歩み方や進み方の中に、過去の経験が活きていてそれがものづくりに活かされたり、生活の智慧になったり、そして思想や性格などになるのです。

例えば日本も昔からたくさんの建造物をつくりあげてきましたし、他国でも創造してきました。その延長に料理というものがあったり、商品があったりと、その国々で究められ生み出された美があるのです。

そして世界では、それぞれの美意識をそれぞれの生き方に取り込んでその国で生まれた精神やその中で練り上げられた心を学び自らの生の質を高めてきたのだと思います。日本製というものが精巧で精密、正確であるのもそういう日本の美学が生きているからでこれはスイスでもドイツでも言えることです。

お互いの文化を味わっていくというものは、どのように自分の国の「ものにした」かということの歴史を感じるとも言えます。

私たちの先祖では、かの空海もただ中国へ留学するのではなくそれを日本のものへ呑み込んで私たちの生活に新しい文化が生まれました。その広さは、料理だけではなく建築、土木、治水、広げてみると大変なものです。その後も、明治維新のときは西洋諸国の数々の文化を呑み込み新しい日本のカタチを模索して取り込みました。この時は急ぎ過ぎたのか、そのまま取り入れたものが今の時代の弊害にもなっています。

正しく取り入れるためには、全てのものを自分で咀嚼する力が備わっていなければなりません。それはよく日本文化に精通し、自らが日本という生き方をしそれを体現し一つの高みまで昇華させた人でないと難しいように思います。

そのためには、自分がどうしたいのか、自分の本当の目的が何か、それを問い続けて自らの文化創造から取り組んでいなければ難しいのではないかと思うからです。

お互いに善いものを取りいれるというのはあっちがいいやこっちがいいではなく、そこに大変な謙虚さや素直さが必要だと思えます。それは本物を見分ける力が働いているように思います。いろいろな環境の中でいろいろな人がいるから人は学んでいくのでしょう。

自分が何をしたいのか、そこから考え直してふり返っていこうと思います。