ものづくりの美学

ドイツのものづくりの心についてここ数日間はずっとインスピレーションに満ちています。
このドイツの美学ともいえるものづくりの心とは何かについて感じるのです。

もともと「美学」という言葉は、ドイツの哲学者アレクサンダー・バウムガルテンが1750年に『美学』 (Aesthetica) を出版したことが、美学が哲学の一領域として定式化される一つの契機になったとされています。

先日のドイツ視察でもそうですが要所にその土地の中で感じたものの中に、この美学というものを大切にしたものづくりにおける文化が根付いているように思うのです。

もともと美学というものは、私の解釈ですが生き方を昇華したものという定義があります。

その人がどのような生き方をするかにその人の美学というものがあり、自分というものへの誇りと理念に対する忠義、正しいことへの信念と言葉を並べればいろいろとありますがつまりその人そのものの表現であろうと思うのです。

どのようなものを生み出すかというものは、その人のセンスによります。
そのセンスとは、その人の生き方や在り方がカタチになって顕われてくるものです。

なのでいい加減なものをつくらない、その人自身だからこそものづくりには美学があるのです。

例えば、エジソンであればあの不撓不屈の信念が発明というものづくりの生き方を顕し、本田宗一郎でいえば大好きなものに夢中になったというものづくりの生き方を顕しています。

つまり、ものづくりではなく、その人そのものの生き方がその「もの」に顕われ出でてくる。その人生の問いがものになっているのです。

ドイツという国の大切にしているのは、その根底にあるドイツの哲学、そして美学のように思います。私たち日本でも、どんな状況になったとしても美学を貫いている美しい人たちがまだたくさんこの国の端々に残っています。

大量生産大量消費というものづくりの生き方もありますが、昨日のブログで書いたように簡素な物、シンプルなもの、つまりはよく生き方が練り上げられたものが世の中をよくしていくというようなものづくりの心もあるのです。

私自身、姿勢を正し、自分の生き方が顕われるということを肝に銘じてどのようなものにも美学を持ち、子ども達のために取り組んでいこうと思います。

 

古き善きものの心~美学~

先日、表参道にある無印良品社理念の発信店、「FOUND MUJI」にいったときに、そこで紹介されていたドイツのMANUFACTUM社のスコップを購入しました。

不思議なご縁で、先日からドイツをふり返っているからドイツ製のものばかりがまだ気になっています。人の意識というものは、心に何を置くかで拾ってくるものや集まってくるものが変わってきます。どんな問いを日々に心に持つのかで人はすべての情報を取捨選択したり収集したりすることが可能になるのです。

持ち続けるというのは、一つのことを念じ続けるとも言います。どんな目標や夢を念じ続けるかでその人生というものは大きく変わっていくのです。人生の夢というものは、そうしたいとそれをやりたいと思って積み重ねて行動し体験した量で決まるように思います。

さて、ドイツのそのスコップですがとても本質的に制作されていることが使ってみるとよく分かります。つまり使うと感じるのは何のためにそのスコップを使うのかを明確に定義し余計な機能はそぎ落としたり、また大事なところは強くし、人にも周囲にも優しい設計であるのが観えるからです。つまりシンプルです。シンプルなものというものは、よく精査洗練されていて本当は何かというものが考え抜かれているからです。

そしてなぜドイツではこのような道具や物が生まれてくるのかということへの気づきが大切です。つまり、それは幼少期からどんなものに囲まれていたかというもので決まるのです。前回のドイツ研修の写真を眺めていたらその道具への精巧さだけではなく、意義やその意味、無駄なものがなく本質的によく考えられたものが子ども達の傍には置かれています。

歴史や文化にも、古き善きものをいつまでも大切にして活かそうというその思想が根付いていて善き製品を生み出しているともいえるのです。ものを大切にしていく人は、そのものがどうやったら長く活かせるかを考えます。つまりは自然です。自然でできたものがもっとも長く用いられることを知っているからです。

そしてこの自然というものは、心が自然から学んだものでありそれが国土や其処での暮らしの生き方になっているのです。

ドイツでは、子どもの頃からものを大切にすることを周囲の大人をはじめみんなが意識しているような環境があるからそういう道具が生まれるということです。ものを大切にするという理念は、ものが溢れるからこそ余計に大切にしていかなければなりません。

最後に、その「FAUND MUJI」の白い壁面にその理念が小さく書かれていたので紹介します。

「簡素が豪華に引け目を感ずることなく、その 簡素の中に秘めた知性なり感性なりがむしろ誇りに思える世界、そういった価値体系を 世界に発信すれば、もっと少ない資源で豊さを謳歌できる」(田中一光)

ものが溢れる時代だからこその物を生み出す者としてのアンチテーゼとし敢えて果敢に挑戦しているという意味では、大きなインスピレーションを得ました。

今回のドイツの環境から気づき探り取ってきたものをこのスコップで掘り起し、日本の子ども達のためにこれらの視点を取り入れた環境づくりの実践をしていこうと思います。

母国語と言霊

先日のドイツ研修でも母国語教育についてとても熱心になっているのを聞きました。
確か以前、オランダやフランスでも母国語を正しく指導する教科が入っていました。

今、食べ物をはじめアメリカの文化が流入し日頃の言葉づかいや生活までがもともとあったものから変わってきているようです。先日のドイツでも、ドイツの伝統的な古き善きものを大切にするというものから新しくて便利なものが広がっているのを実感しました。

何が大切で変えてはいけないものか、そして何を変えるのか、そういうものがよく精査されたものもその国の母国語によって形成されていると私は思います。

特に日本語というものは、言霊というように「有難う」「勿体ない」「御蔭様」をはじめお天道様の前にとても謙虚に生きたものや、また日本古来より素直に生きた先祖たちが生きた生きざまを学びそこから今の自分たちの生き方を習っていたのです。

つまり、国語というものは単に読み書きをするものではなく本来は先祖から代々受け継がれた生き方や思想を習うものなのです。どのような文化を私たちは生きているのか、その文化をどのように活かしたか、そういうものを学びその国の人の骨格を得ていくように私は思います。

その国語を教えるということは、その国語が使えるということです。

つまりその国の歴史や思想、また正しい言葉を使えるような生き方をするからこそはじめて国語は教え導き学ぶことができるように思うのです。単に知識として得るものではなく、それは日本という国を愛し、そして学び、そのものの文化を尊び謙虚に生きるということがそういうものではないかと思います。

私には恩師がいて、その方は国語を教えていた方です。

その人の生き方に触れてみると、とても日本のことを愛し、日本という文化と歴史、そして世界のことに精通し、融通無碍に歩んでいらっしゃいます。こういう人から学ぶ国語の中にこそ、真の母国語があるのではないかと思うのです。どこで育ち、どこで生まれたかというのはとても大切なことで私たちが先祖から脈々と受け継がれて魂や心を母国語に感じます。

自分たちの使っている言葉、その母国の言霊を大切にしていきたいと思います。

 

 

ドイツ研修6日目 六感曜日

ドイツ研修も6日目を迎えました。

昨日は、午後よりヴェルツブルグの町にある幼稚園と保育用品メーカーを視察しました。
夜からは、ヴェルツブルグの市内をガイドとともに散策してまわりました。

その後は、500年以上の歴史のある居酒屋でフェアウェルパーティを行いました。
一つの出逢いがあれば、一つの別れがあり、もう一つの再会があります。

扉はいつも開いたり閉じたりしていますが、その先にある未来を予感しています。

今回はふり返りをテーマに参加していましたが、不思議な体験もたくさんしました。心の故郷がどこにあるのかを自覚したり、国境も時空も飛び越えて思いを伝え合ったり、五感を使うことで日頃何気なく過ごしている日常が変わってしまうのです。ご縁を感じるのも、感謝を憶えるのも、そういうひとつひとつに心を使ったからのように思うのです。

ずっと心を使っていればむき出しの心は当然傷つくことになります。
しかしそれは身体の古傷と同じように必ず癒されるのです。

ドイツの陶冶プログラムの中で、「リジリエンシー」についての話を伺いました。これ逆境にあったとき立ち直ることのできる心の力のことで、船が傾いたときに自らで元 に戻れるような力のことです。

心を使うことをやっていくことでこの力は伸びていきます。しかし同時に、その心をつかうということは生身の人間ですから時には風雨にさらされ、時にはひなたぼっこしたりと、まるで海の姿のようにゆらゆらと揺れながら波が変化しているようなものです。

自然にしているということはどんなことか、それは自分が自然の一部であることを第六感でいつもいることです。自分が自然であるのだから自然現象は起きますし、その中で時には病んだり回復したりとしながら強く優しく生きていくことがいのちそのものであるからです。

今の時代は不自然の中に身をおくことで、心を頑なに閉ざして生きていこうとしたり、心が脆くくずれないようにと怖がり、自ら前に進もうとしなかったりと、元来の生命力を喪失してきているように思います。それを取り戻すということでしょうが、私はそれは決してその人だけの力でやることではないと思っています。

ではこの立ち直る力はいつ漲るのかを自明していくとそれは共感するときのように思います。家族や友人、仲間たち、同志、先生といった人達の励ましによって得られるからです。

どうやって心を回復していくのかは、それは心の支援によるものです。
心は、愛し愛され、思い思いやり、そういう共感によって偉大に支えられます。

自分が一人ではない、自分の周りにはたくさんの見守りがあると感じることだと思うのです。
いくら一人だけで踏ん張ろうとしても、それでは折れてしまいます。

自ら信じているから心をむき出しにしていられるのです、だからそれでも真心を使うのです。
つまりそういう天の真心のままに使えるものを私たちは「天使」とも言うのかもしれません。

この立ち直る力が何を意味するのか、それは世界は今、見守る力を求めているからのように私には思えます。今回のドイツの中で得た感覚は、時代が呼び覚ました「MIMAMORU 」への確信だったようにも思います。

傷つくことを恐れないで歩めるよう、好奇心、第6感を自ら育みそれを今を生きる人たちへと広げたいと思います。

助け合って生きていけるという安心感と、仲間といることの歓び、その自然の偉大な見守りたちの中で、心をより優しく強くして昇華する旅にしていくことが人生そのもののダイナミックな自然の在り様そのものだからです。

今は、これらの御土産を早くみんなに話したい、仲間と早く共有したいと心はワクワクと躍っています。

ドイツ研修5日目 匂味曜日

ドイツ研修5日目を迎えました。

昨日は、午前中に公立のkrippeを訪問しミュンヘンでの保育施設の視察を終了しました。これからヴェルツブルグに向かい、遊具メーカーと幼稚園を視察したあとフランクフルト経由の帰国です。

旅のご縁は不思議で、旅先でも様々な出来事と出会いつつ、離れた遠くの故郷でも様々な出来事と同時に出会っています。自分の周りの人々との同時の関わりが人生を彩り、そしてそこに自分が存在しているのを実感するからです。

自分が生きているのは、ご縁に出逢っているそのものにより存在するのかもしれません。
今まで知らなかった人たちとのご縁を深め、そのご縁の中で生きている自分。
存在を憶える時、ご縁=人生であることを知覚するのです。
ふり帰ってみれば自分が楽しく豊かな人生の仲間たちとの生活に偉大に恵まれていることの感謝に満ちます。

遠くに離れてもふり返るといつも薫ってくるのはご縁と真心と幸せのように思います。だからこそどんな時もご縁を大切に一期一会に生きていつまでも楽しく豊かに香るような人になりたいと思います。

さて、昨日は夜の情報交換会の最終日となり振り返りも充実していました。この振り返りでは、自分が何を持ち帰るかということを発表していきます。

話の中では、もっと自由に遊具や装飾を考案しようとか、環境の本質の話、遊び心のことや子どもの眼線の設計の話、皆と共に取り組む思いやりのことや、ときめき響くことの大切さなど、それぞれに気づいたことをたくさん共有することができました。

また先生からはドイツでは昨年から陶冶プログラムが一体化により施工されそれをどうやるのかなどに興味があった話で、それが考える過程を保育にしていることが現場で観れて参考になったなどの話もありました。

私たちは一緒に物を観てもそれぞれに同じ気づきではありません。
気づきをアウトプットすることは、衆智がインプットされるのです。

一人で学び深めることは、一人に戻ってきます。
しかしこれを大勢で深めれば、大勢が戻ってきます。

人間の叡智は、自分も正しいそして皆も正しいということに気づいたことかもしれません。

衆智というのは、人生はそうやって役割がありそれぞれに学びが存在することを証明します。
みんなでプロセスを共有し考えること、このプロセスが衆智というものだと私は思います。

衆智を集めるということがどういうことなのか、この実体験を通してふり返ることができました。
同じことを繰り返してもそれに気づく感性は自ら勇気をだして新たに挑戦することで磨けます。

昨年の研修がまるで昨日のことのように追憶して新たな感覚に出逢います。

まさにふり返り=陶冶、つまりライブで人生のふり返りを味わうことが陶冶のことではないかと味わった有難く嬉しい収穫の一日になりました。

ドイツ研修4日目 触味曜日

ドイツ研修4日目を迎えました。

やはりここ数日間の寝不足のせいか、集中力の持続が難しくなっています。

眠くなるというのは、体力、気力、精神力などがありそのバランスが崩れてしまうことです、だから寝て回復調整します。当然、こちらで日本とは違う時間帯で体は動いているのだからどんなに工夫していても体力も落ちてしまいます。またいくら気力があったとしても情報量が多いとどうしても鈍りますし、時間が限られているのでやれることも少なくなると精神もやや疲れます。

これは別にそれが良いとか悪いとかではなく、もともとそういうものだと受け容れてこれで善いのだと転じて自然のままに感じることだと思います。自分の状態が分かっていることではじめて周囲の感触もより繊細につかめていくことができるからです。

これも旅の醍醐味ですから、歩みの感触を見守りつつ、皆とそれを楽しみながら日々の学び方も素直に工夫していこうと思います。

さて、昨日も園を視察していく中で共通したものに発見発掘がありました。

当たり前かもしれませんが、もともと子どもたちが安心しているところや子どもたちが見守られていると感じるのはそこに子どもがそのままでもいいと感じる環境が用意されているからです。もちろん、そこには共通して子どもがやりたいことが保障されたり、それを見守る側が自分も子どもと同じように楽しんでいるという状態が存在します。

もちろん保育の遊具や家具、その他の教材などはどこでも似たり寄ったりのものを使います。しかしよくよく観察すると、そこには大人が子どもに与えたと思われるものと、大人子どもがなく楽しんだ形跡の物が残っているのです。そこは余韻があるという感覚に近いものがありますが、楽しい場にはそこに一つのいのちが躍った温もりが残ります。

また装飾などはその時々に自らが響いた記憶に包まれるだけにとどまらず四季のめぐりにあわせていることも発見しました。

子どもも自然のいのちの存在と同じように自然を感じて自分のいのちのめぐりに触れています。自然を持ち帰りたくなるのは、そういうものを身体が感じて四季のめぐりの準備をするからかもしれません。つまりもともと人間も他のいのちと同様にが四季にそっているということです。

これは植物が自分から冬に備えて葉を落とすことに似ていて、全ての生きものは何もしなければ自分から元々あった力で取り組みはじめるのです。

今回持ち帰るのものの中に、「めぐりの装飾」がありますが自然のリズムやサイクル、そしていのちの躍動そのものに触れる機会を環境と共通させていこうと思います。

そしてドイツでもそうですが、まず自らが大人の目線、刷り込みのメガネを取り払って子どもという真の姿のままに物事を捉えることが保育の共通であるように感じました。

もちろんカタチになっているものを観て、どのような行動や気づきがあったのかは現場のことが分からない部分は埋められませんが、それでもよく観察することで内面より自明していくこともできます。

全体的に寝不足なのですが、帰って心に戻る時間も取れるし静かに思索にふける時間もありますからこれもドイツ研修の味わい深さかもしれません。

本日はミュンヘンでの最終視察日で明日からヴェルツブルグに向かいます。

夜の情報交換会もまとめの日、せっかく折り返しして冴えたのだからドイツの場や間、和の空気など自ずから触れ合い沁み込んでいこうと思います。

 

ドイツ研修3日目 味嗅曜日

ドイツ研修3日目を迎えました。

昨年の視察では観えなかったものをたくさん今回の研修で発見しています。

昨日は、こちらの教育局の方々が招待してくださった会食に御伴させていただくことになりました。まず藤森先生が、こういうご縁を大事にしながらはじめて続けられてる国際交流とドイツ研修であることを知り改めて頭が下がる思いがしました。当たり前に続けていますが、この当たり前に観えることこそ本当は大変難しいことがあることに気づくのです。

お互いの違いを越えて認め合うというのは、大前提としての決心や信念があってこそのように思います。日本でもドイツでも、変わらず自分の真心を貫く姿に周囲が支援してくださるのを感じます。今回はこの10年で取り組んでさまざまに実ってきたものを関係の中で味わうことができ、改めて存在というものの感謝を実感しました。

また会食での話ではドイツでの制度事情、少子化のこと、今の経済状況から昨年の構造改革の話までどれも日本での課題とよく似たことが発生していることに共感を覚えつつ、同時に違和感を感じていました。

以前、ブログでも書きましたがそもそも子どものためとは何かということはその人の持つ定義が異なれば同じ「子どものため」といっても意味はまったく異なります。例えば、少子化によって保育園をたくさん作ることも残業に対して預かりの時間を増やしていくこともそうだし、幼保一体化などもそうですが、どれも話を聴いていたらそれが本当に子どものためになるのだろうかと思えることも沢山あります。

子どものためというのなら、子どもの人格を丸ごと認めることからのように思います。これは見守る三省の中で、はっきりと理念が出ていますが何が子どものためかということなのです。

常に本質的に何を優先するかということになりますが、そこには変えてはならないものと変えなければならないものをその時代に嗅ぎ分けることができなければならないように思います。短絡的に、目先にある経済を追いかけていたら本当に大切なものまで見失ってしまうかもしれません。

日本、ドイツに関わらずこれは世界でも言えることですが子どものためとは何かという本質を出発点にして常に事物は議論する必要があると私は思います。

世界で議論をするには、自国でもそれを貫き実践しカタチにしていかなければなりません。GTをはじめ、自社の実践実行の尊さを改めて感じてその課題もまた持ち帰ろうと思います。

最後に、昨日は中庸についての話をお聴きすることもできました。

今の時代は、何かにつけて極端な議論ばかりが横行しています。何かにつけて話があるときは、良いか悪いか、やるかやらないか、できるかできないかなどとまずはすぐにどちらかに分けてから認識しようとします。

例えば苦しみの中に楽しみがあるというように本来は楽か苦かではなくそのものが渾然一体と混じりあった中庸にこそ本来の味わい深いものがあるように私は思います。

これは自然を味わっていくと分かれていない所に真の趣があることを憶えるのと似ています。もっと自然を観察するときのような審美眼や深い味を楽しむような上質な味覚を磨き、本来の姿、誰かに教えられる前のあるがままの姿、その心で出来事を考え抜いていく力を育てていく必要があるように思いました。

今のように情報が錯そうする時代は、何よりも自分の感覚を磨くことが重要なのかもしれません。ドイツにいても、日本にいても、大切なのは実践している中で本物の嗅ぎ分けるセンスが役に立つようです。

ドイツ研修2日目 観聴曜日

ドイツ研修の2日目を迎えました。

昨年参加した時とは異なり、ふり返りを中心に発見することでより身近な共通点や足許にある発見まで見通すことができます。

今年も昨年と同じく、視察を終了してミュンヘンの市内まで行きその場で降りて歩き方や電車の乗り方、買い物の仕方、場所などを藤森先生からレクチャーがありました。

思ってみれば、全てが研修であり研修と観光が分かれていないと思えばこれも見守るを理解するための大切なプロセスであると気づくのです。

老子の言葉に、「授人以魚 不如授人以漁」というものがあります。

これは「人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、釣りを教えれば一生食べていける」という意味に訳されますが、答えを与える教育ではなく、そこに辿りつける方法へ導くというのが自立のプロセスには大切なことであろうとも思うのです。

私は特に一緒に学びをいただけるなかでそれを実感することが多かったように思います。だからいつまでも同行が楽しく、幸せを感じるのです。

信じるということからはじまっていれば、自立とはその人が自ら辿っていけるよう導くことがここでの教えるということになるものなのでしょう。

今回はふり返りを通してこのようなことも観えてきましたが、昨年まではそのような見え方はしませんでした。ふり返りというものは自分のことを見通せる大切な機会だと気づけます。自分の問題意識がどこにあるのかを知ることは、自分自身を知ることにつながるからです。

つまりは自分のものの見方がどうなっているのかを内省することこそふり返りです。
このフリータイムも、自分たちで協力して体験を通して学ぶ見守るの実践の一つです。

また、夜の情報交換会では使っている言葉についての話がありました。ドイツでの母国語の指導などの視察を通して如何に正しい言語を使っているかという話がありました。

その際、言葉を正しく使っていないことのたとえで2012年10月12日臥竜塾ブログにて紹介があったような話がありました。使っている言葉が本来の意味と異なっているということについて書かれていますが、参加者からもそれを直していこうとありましたが私はさらに考えてみました。

国語力というのは何なのかといえば、その国の言葉の力というようなものだとも私は思います。それはその国の言葉にしていくというのは、つまりはその国民の生き方そのものが言葉になるという意味です。

国語を正しく教えるというのは、大前提として教える側の生き方の影響を大きく受けるということになるのです。母国語もそうですが、本来は今のように言葉の解釈が歪んで教えられるようになるのは自分自身がその母国語に添った生き方ではないからです。

本来の古来の言葉は、その生き方を格言にしたりそのものが言葉に成り代わったともいえます。それを理解するには、言葉を単に暗記すればいいのではなくその本質通りに使っているか、つまりは本質のままに生き方を正しているのかということになるように思うのです。

国語力の低下というものは、国民力の低下とつながっているのはそもそもの言葉を発する側に問題があるわけです。自分を正すことで母国語を正そうとすることに気づける人たちがどれだけいるかわかりませんが、やはり自国の文化伝統、そして自分たちの生きざま、歴史などまず自分に立ち返って取り組もうとするのが本質であろうと思います。

同じものを聞いても、同じことが聴けるわけではありません。
もっと正しく聴くために、自分自身の聴く側の姿勢を振り返りたいと思います。

ドイツ研修1日目 五感躍日

無事にミュンヘンへ到着し、ホテルへチェックインし安着祝いにドイツビールを皆で飲みにいきました。

毎回思うのですが、学び合いの中で乾杯できる機会は人生でどれくらいあるのだろうと考えてしまいます。同じ理念のもとに学ぶなかで、その道すがら沢山の方々に出会い、そして別れていきます。

その一つ一つの思い出が、記憶を振り返る中で心を駆け巡りますが今もこの瞬間もその楽しさを大切に味わいたいと心が躍るのです。どんなつながりがあり、どんな意味があり、どんな味わいがあるのか、やっぱり何でも五感をフル稼働していないと分からないことばかりです。

この五感とは、頭だけで考えないということでそこに感じる力を合わせていくことです。理屈では分からないことは行動してみないとわかりません。そして起きる出来事が何に繋がっているのかの意味やその意義、邂逅への道筋もすべては自ら感じることで観えてくるものです。

つまりは心というものは常に五感と繋がっていて心を使うときに同時に五感を動かすのです。頭で分からなくてもいいのは、その代わりに心が全てを見通すからのように思います。

この頭で分からないことばかりの中には、分からなくてもいいものが沢山あるように思います。
分からないことは、分からないままに理解する方がいいこともあるからです。

何が起きるのか、この先のことを考えればそれは分からないから期待と不安があるものです。
そういうものを一つ一つ味わっていくことが善き思い出、善き出会いのご縁と五感に導けます。

考え直してみても本当に不思議なご縁です。

もともとオランダに学びに行くはずがふとしたきっかけからドイツに替わり 、その御蔭で私たちの祖霊や祖先へ回帰することになり、かんながらの民の生き方から大和やニライカナイ、稲の道などを深めた日本との邂逅の3年間になったように思います。

決して焦らなくても何から順番に学べばいいのか、その道筋をご用意してくださっているかのようです。本当に有難いことばかりに感謝の気持ちに満ちていきます。

今回も、しっかり学び子ども達に還元できるように五感を研ぎ澄ませていこうと思います。
いよいよふり返りがはじまります。

旅路

今年も藤森先生のドイツ研修のお手伝いをさせていただくことになり本日からミュンヘンへ行くことになりました。

昨年の有意義な学びを振り返りつつ、新しい学びがはじまっていることに旅のご縁を感じます。

旅というものは、もちろん何処へ往くのかという楽しみもありますが誰と往くのかというもう一つの大きな楽しみがあります。同じ旅でも人とのご縁次第では、また新たな発見もありそして成長があるからです。

どんな人と往くのかというのは私にとってはとても大切なことで、同じ学びをしたいと願った仲間との邂逅であるとも感じています。このドイツ研修の同窓会を通じて、私は旅というものが如何に人生そのものであるか、そして人生はこのように旅を確かめることで味わうのだとも感じることができました。

長年一緒にいたとしても、旅をしてはじめて分かり合う関係もあるように思います。
時が過ぎるのがあっという間だからこそ、人生の旅路というものは不思議に満ちています。

今年は昨年の旅の振り返りもできるという倍の歓びも感じています。
子どもたちのためにと行動する真心が、新たな学びを与えてくださる予感に満ちます。

前回の旅を振り返ることで、過ぎ去った時間をもう一度旅することもできるのです。

私の好きな松尾芭蕉の奥の細道の句にこうあります。

「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」

日々に過ぎ去っていくときの流れにときめきながら、自分が旅人であることに邂逅します。また皆の代わりに往かせていただく有難い機会を感謝に換えて、ドイツ研修のレポートしていきたいと思います。