我がふり直す

ここ数日、色々と政治関連のニュースがにぎわっている。

国民の声が届いていないと声を荒げているような動きもでているけれど、理念なき国家運営というものはいつの時代も偏ったものになるのであろうと思います。

人数が多い方や、力が強い方、権力がある方の意見ばかりを取り入れて、少数の意見や、力の弱い方、一般的な国民の意見を無視すれば必ず世の中は不平不満に傾倒するのです。

画一的に何かを行おうとすることは、常に何かの力関係が発生していることを感じます。明治以降、私たちが参考にした国家のカタチは王道政治と言えるものだったのでしょうか。

もともと私たち大和の民は倫理道徳に長けていて、和して同ぜずというようにそれぞれに自主自立の精神で思いやり暮らしていたことを物語った歴史が文献にも多分に残っています。

数々の困難を繰り返す中で、最終的には常に和合し、助け合い、認め合い、許しあいながら、それぞれの生活を分け合い活きてきたように思います。そこには神道といった暮らしの智慧も、また武士道といった道の規範からも感じ取ることができます。

それを西洋式の国家運営を優先してから、善か悪かとなり道の概念も廃れていきました。

中庸といった政治の要諦は孔子にあるように仁の心を問われます。
それはテレビで眺めているような今の時代の政治家が行うようなものでは決してありません。

社会全体がどうやったら善くなるかは、単に経済効率だけを捉えてはままならないのです。
会社もそうですが、如何に人々が聖人のように思いやりと真心の社会を築けるか。
そのような見守りが生まれるように政治を取り組んでいく必要があるのだと思います。

それは理念というべきものを明確にし、それを実践することだと思います。

マニフェストそのものに対する姿勢を観ていると、優先しているものが何かはすぐに見え隠れしています。誰かが納得するものを優先するのではなく、そもそもどのような理念で何を行うかを明示し、それを実践しながらでなければ誰も納得していかないのです。

今の時代がどのようであるのかは、歴史から考察できます。
批判することは容易いことですが、自らの実践を鑑みてより一層学んでいきたいと思います。

子どもに譲ること

昨日は九州の農園での草刈りと大豆の種まきなどを行った。

もともと休耕田といって、自然のままに放置していた土地をもう一度復興させようと昨冬から下準備をコツコツと続けてようやく種を蒔くところまで訪れました。

ひとつひとつの作業は、自然を相手にするのだから相当な心技体の疲労が生まれます。
仕事柄、集中力はある方だと思っていても自然の前ではそれも通用しないようです。

一日外で過ごすだけで、日、風、土、水、空気、音、種々のいのちの活動の場に身をおくことで物凄い変化の波にさらされているともいえます。特に、短い時間で何かをやろうとすればその分が身体に圧し掛かり大変な体力を消耗するのです。

自然を活かすという考え方はこちらの都合を優先しないともいえますが、そうはいっても天候をよくみながらコツコツと進めていくことが大切なのでしょう。無理をするということは不自然なことであり、無理がきくというのは正直ではないとも言えるからです。

子どもはみんな正直で、無理をしようとはせず自然なところで素直なままです。
自分のそういう感性もまた経験を繰り返す中で磨かれていることと思います。

なぜ突然、自然農をと友人から尋ねられました。私は子ども第一主義の理念からやっているだけといつも回答しますが、私がとても楽しそうにしているから本業はどうなっているのと心配してくれているようです。

説明が難しいので二宮尊徳の言葉を借りることにします。

「鳥獣にはまちがっても譲の心が生ずることはない。これが人類と畜類の区別なのだ。田畑は一年耕さなければ荒地となるが、荒地は百年たっても自然と田畑になることはない。人道は自然ではなく、作為のものだから、人道は作ることにつとめるのを善とし、作ったものを破るのを悪とするのだ。何ごとも自然にまかせれば、みんなすたれる。これをすたれぬようにつとめるのが人道だ。たとい人と生まれても、譲りの道を知らなかったり、知っていてもつとめなかったりでは、安堵の地を得られないのは鳥獣と同じことだ。だから人たるものは知恵はなくとも、力は弱くとも、今年のものは来年に譲り、子孫に譲り、他人に譲るという道をよく心得て、よく実行すれば、必ず成功すること疑いない。そのうえにまた恩に報いるという心掛けがある。これも心得て、どうしてもつとめねばばらぬ道なのだ。 」

譲るということがどういうことか、子どもに関わる仕事をしている以上、働き方や生き方というものは必ず実践していなければならぬ理念の道だと私は思っているのです。

子どもを育てるということは、大人たちがちゃんと正しき実践を積み譲るということであるのです。それを机上の空論ではなく、自らの背中で示すことが何よりの「譲」であろうかと私は思います。

直接的な子育てと、間接的な子育てというものがあるとして直接的には父母だとしても間接的には偉大な見守りの中で実現しているともいえるはずです。

私は見守るということの真意を実践を通して伝え導く生き方を決めているから当然なのです。
もちろん理屈ではなく、楽しい、好きであるから実感する境地で持続していくのでしょう。

しっかり体験を昇華していきたいと思います。

実体験こそ

素直に思えばこの世の中はおかしなことに満ちています。

そのおかしなことに気づかないことで様々なおかしなことが起きていることに気づいている人は多くはありません。私たちが特に悩み混乱するのに、教わるというものがあります。朱子学や陽明学などではないですが、昔から知識が先に横行するようになると、同じような問題が発生しそのことから真実を解明していくような葛藤は何度も繰り返されるのです。

特に今の時代も同じく、様々な情報が先に行き渡りそれを体験する量が減っていくという現象が起きているのです。

何かの立派な経典みたいなものも、それは体験するうえでの指標のようなものの一つであり別にそれを記憶して暗記してそれをテクニックとして使うようなものではないのです。

学校でも今は先に答えを先生が用意して、生徒がそれを答えるという教え方をしていますがこれでは実際に人生で役立つことを学んでいるとはいえません。人が共に生きるということも、それは単に知識として教わってできるのではなく、それを実体験して自分のものにしたからできるのです。

そしてその実体験というものが、生きる力というのです。
生きる力を育むとしているのに、子どもに体験させないような教育というはおかしなものです。

先日もおかしなことに気づいたのですが、言葉というものを考えてみてもそうです。

人を深く愛するという言葉一つでも、どのようにすれば深く愛するのですかとは学校でも先生が言葉で具体的に教えることができます。例えば、相手の気持ちになってや、その人の身代わりにや、証明するような犠牲を払ってもなど、言い方なども多種多様に話をしますがそんなものは実際に自分が深く愛するような体験をしなければ分かるはずがないのです。

それを先に知ってしまうことで、何かメリットなどはあるのでしょうか。
脳で疑似体験したものにはその人の真実はありません。

自分の人生の中での愛というものは、それぞれにまったく異なるものだからです。 しかし今は誰もが愛といえば知っていることになるのです。ドラマやテレビの影響もあるのだと思いますが、先に知ってしまうのです。

この先に知るというのが答えを先に聴くというのと同じなのです。

その時点で自分にはできるやできないと判断してしまい、自分の思い込みで選択すると純粋にそれを実体験する機会を失ってしまうのです。答えを誰かが持っていると思えば人は間違っているのではないかと不安になるものです。

答えというものは、本当はないのです。

誰かの答えをなぞるように生きるのは、単にロボットや機械のように操作されて生きるようなものなのです。そういう教育に負けてしまっては、人と生きる幸せや人として感動して感激するような生々しい生身の自分を味わっていくことができなくなるからです。

今は、特に自分からそういう刷り込みに負けないような力を持っていなければなりません。
つまりは得た知識を常に自分から消去し続けるような実体験を積んでいくことが肝心です。

自ら恐れずに目標を定めて行動するとき、はじめて力がつき育つ歓びを知るのです。
育つということは、とても幸せなことでそこには感じて掴みとるという味わいがあります。

生きているという実感は脳みそだけでは得られず、それは心で感じるからなのです。
知識が心の出番を奪うような教育は、幸せを目指しているとは言わないのです。

自分から自主的に主体的に人生を生き切る人は、誰の意見もどのような答えもそれは冒険心を駆り立てるワクワクドキドキするような好奇心の一端にしかならないのですからどんどん積極的に心の赴くままに実体験を求めていくことだと思います。

誰も分からない世界は自分から掴み取る。
好奇心こそが、今の世の中を変革する大きな奇跡になると思います。

子ども達を信じます。

 

同化し和合する

同化というものがある。

様々なものに自分を合わせて一体になるという意味でとってもいい。

この同化というものは、相手と自分を分けない、何かと分けて考えない、つまりは最初から渾然一体として分かれていないと思うことを同化といってもいい。

私たち人間もそもそもは、宇宙全体の一部でありはじめから分かれた存在ではない。脳が、言葉で知識として対象物を認識し記録するためにいちいち何かを名づけたり、または自分を成り立たせるために役割を分けて思い込んだりとしいちいち分けているのだと思います。

何かをするのに、いちいち理由がいるのもそのためで大きくは生活の食べるや寝るというところから小さくは職種や業務の内容まで頭で理解して進めようとしてしまっているという不自然な矛盾が発生するのです。

そもそも私たちはすべての生命と同じく、全ての物質と同じく、全体の偉大な調和との同化の中で存在しているのは誰にも明白です。同じ水や光、空気や場やあらゆるものを共有して成り立たせているのが存在そのものであり、この繋がりの関係の中でただ在るというものであるとも言うのです。

ミミズであろうが、魚であろうが鳥であろうが、分けるまえの私たちは全ては一体で捉えていたはずでそういうものの中にいることが当たり前の自然であれば同化とも言うのです。

この同化ができたとき私たちは偉大な調和を生み出すこともでき、それが一体感を持った最幸の自然の状態、渾然一体とした柔軟性のあるチーム力を引き出すとも言えるのです。

例えば、私が発酵が今年のテーマにしているのは、共生が大震災後の最大のテーマであると直観したからです。この発酵とは何かと言えばいのちのバトンリレー、つまりは共生を生み出す自然の技術のことを言います。

その発酵の主役でもある菌たちは素晴らしい自然の先生と自然の教材であり、この発酵するということ学ぶことを通して私たちは同化や和合そのものの本質を学ぶことができるのです。なぜなら発酵は色々な無数の菌たちが如何に協力して共生の関係を構築してはじめてできる境地です。

共生を学ぶのに頭では理解しない、自然に体得しようとするからこそ発酵を食べるのです。

発酵の真の素晴らしさとは自分の役割を自他が分けたのではなく、自他同化し一緒に取り組んでいく中で自然に発酵することです。

この分けないで一緒にやることや、みんなで一体になって自分の役割を果たすことは、共に生き続けるということの大切な要素を帯びているのです。様々なものに自分を合わせることや、自分から共生に合わせていくこと、和合するということは、これは日本人が最も世界で評価される尊敬されている民族性の源です。

これは自然の生き方、かんながらの道の一つの極意であると確信しています。

これからも同化し和合する素晴らしさに感動する感性を磨き、目には見えないはたらき、自然のはたらきを学び、子ども達へ継承していきたいと思います。

自分らしさ

自分が好きなことをやるや夢を叶えるというものに、周囲の理解というものがある。

如何にそれが世の中に貢献するものだと分かっていても、身近な人達から協力の理解を得られなければ実現することはないのです。

特に人は余裕がない時、あまり他人のことを思いやることがなくなってきます。やって当たり前ということになり、やらないのは力不足と判断されその人自身の環境や状況を理解しようとするのではなく一般論や自分の思い込みで相手に接してしまうことで不和が発生するのです。

御互いに配慮して気遣うというのは、御互いに大変な中で取り組んでいるのだということを前提に相手の立場でものごとを考えることができるか、つまりはどれだけ共感できているかとも言えるのです。

以前ブログでも書いたと思いますが、自分が忙しい人は周囲が楽をしているように感じているし、自分がゆとりがある人は周囲はとても忙しそうだと感じているのです。つまりはこれは常に自分の心の状態で周囲の理解を変えているともいえるのです。

自分が忙しくならないような工夫も、相手をいつも思いやれるという心の優しさや強さも、もっとも身近にいる理解者たちの協力があってこそ維持できるともいえるのです。

人は存在やその人の全てを丸ごと認めてくれる人がいることで、はじめて自分らしくいることに自信を持つことができるようになります。それは何かの状態や状況とは関係なく、その人の人格を認める周囲があってこそ成り立っているとも言えるのです。

自分らしく生きるという言葉は、あれは自分だけが自分らしくという意味ではありません。
自分らしく生きるとは、自分らしくいさせてくれる周囲との関係があってこその言葉です。

自分らしくさせていただける、自分らしくいてもいいと認めて下さっている、そう考えれば「自分らしさの傍には必ず理解者あり」という意味なのです。本来の自分でいるためにもいつも周囲に心を開いて自らがオープンに信頼する絆や縁を紡いでこその「自分らしさ」ではないでしょうか。

そこには常に「思いやる」という配慮が必要で、それが私が目指す「強く優しい人」なのです。
しっかりとビジョンに近づけるよう、実践を深めていこうと思います。

風を興す

何かの真似をするというものにも本質と異質のような違いがあります。

学ぶときには誰かの真似をすることはいいのですが、その真似をするにもその人の単なる真似かその人が求めたものの真似であるかは同じように見えて同じではないのです。

仕事の中でもそうですが、やり方や結果などは似せて伝える事も話すことは何度も繰り返し練習していけばかなり近づけていくことはできます。そしてある程度の結果も出すこともできるようになるのです。それは例えば営業の仕事でも、現場を共有し何度も話し方や伝え方、その他の方法をマスターしていけばある程度は自分のものになっていきます。

しかし、それも限界がありその時得たものでずっと維持していくことはできません。ステージを上げていく人たちは元々理想が高く、そのプロセスの過程で各分野の一流の仕事をマスターしていくからです。

人が真似をするとき単に知識をカバーすれば真似が完成して自分のものになるのではなく、その人が求めている理想の高さを真似するときだけはじめてその人に近づくことができるのです。

かの松尾芭蕉に「故人の求むるところを求む」があります。これは偉大な先人の志を如何に求めるか、そして「古人の跡を求めず個人のもとめたる所をもとめよ。」とあるのも、古人のカタチをなぞるのではなく自らの志を求めなさいと私は意訳しています。

これは自分自身が本気で理想を掲げて取り組むことの大切さを語るのです。

人は誰でも自ずからの真心から願うこと、自ずからあるがままに祈ることには敵いません。
本気で自分自身の心から発するように念じることこそが理想の実現になるのです。

与えられたものではなく、求めること、求めるだけではなく、自分から祈ること。日々の積み重ねの上に、理想の実現があるのだから子ども達のことを祈り歩む日々を確かめつつ、新しい風を興していこうと思います。

自然のセンス

何かの物事を掴む時、感得するというものがある。

そもそも生まれた時からいきものにはすべて自分で感得する力を持っている。動植物から人間に至るまでありとあらゆるものすべてが生まれたときにどうすればいいかを知っている。

例えば、野生動物の赤ちゃんがいきなり立ち上がり歩き出したりするのも、生まれてきてから瞬時に動きだし生きるために自分の身体を変態させるのも、すべてははじめから知っているとも言えるのです。

そしてそういう野生のセンス、つまりは自分で感得するものこそが本来のあるがままの状態であるとも言えるのです。あるがままの状態に任せていたら、それが一番自分らしく自分にあったものとして今の世界の循環に合わせていくことができるとも言えます。

生きものというものは、初めてこの世に出てくるときにこの世がどういうものかを直観で理解しそのままに生きようとすることが自然界であるとも言えるのです。

しかし私たち人間は、そのあとに教えられた知識の方で分かるようになるものです。赤ちゃんは最初から理解しているのに、私たち大人は教えてもらわなければ何もわからない存在になってしまっているともいえます。

昔から考えるよりも感じろとあるように、自らのセンスを信じるときどうあればいいのかが自分で掴んでいくことができるともいえます。学ぶといっても、教えてもらって学ぼうとする姿勢と、そもそも自分で感じて動いて気づいて考えてものにして掴もうと学ぶ姿勢では、その人の生き方がそこで決まってしまうのです。

自在というものは、そういう自分みずからで感得していくことで得られる境地だと思います。そしてそれに自由がつくには、やはりそういうものを感得しつつ今の社会の中で如何に教養を磨いて他人様のお役に立つかという真心も同時に学ぶ必要があるのだと思います。

常に自らのセンスで気づきつつも、同時にそれを謙虚に学び続けるということが自然の法理を学ぶことに繋がるのだと私は実践の中で気づいています。これからも自らが信じるものを直観で導き出せるよう、日々に弛まず精進していきたいと思います。

オープンな絆

信頼関係を築くのに御互いが遠慮がなくなるということはとても大切なことです。

よく友人関係の中で、「遠慮するなよ」という言葉があるのはもっと親しいのだからという言葉が隠れています。それくらい自分のことを頼っていいよというオープンな言葉がけであるのです。

しかし逆に「遠慮しろよ」というのは、親しくないのだから気軽に頼まないでという意味で使われているのです。もともとこの遠慮というのは、遠くを慮るという意味でつかわれていた言葉ですが親しみの距離感でも使われるようになったのです。

また配慮という言葉も似たものにありますが、これは心配りや思いやりといった遠慮とはまったく意味の異なる言葉であるのです。配慮が必要という言葉は、もっと思いやりが必用、真心や心がけを大切にしなさいという意味であるのです。

例えば誰かのために何かをするにも、自分の欲を満たそうとすることが入り混じっていたり、本当に相手のことを思いやるよりも自分が認められたいからやっていたりする人はどこか配慮が足りないと言われてしまいます。もっと謙虚に、相手の御蔭だといのるように自分の我を交えずに真心尽くせば配慮が行き届いた贈り物や支援、幸福を与えることができるようにもなるのです。

この遠慮というものは、なぜでは遠慮しているかと言えば自分が無理をするからです。

自分が無理をするというのを異なる側面から分析すれば、それは相手を頼ろうとしないという自分の心境が表に出ているからです。相手を信頼しなければ、その問題は全部自分で解決しなければならないことになります。そしてそうやって大変な状態になっているのにも関わらずそれでも信頼しないというのはもっと無理をすると言っているのと同時に、遠慮しますと親しみから離れてくださいとも言っているのです。

私がよく言う、「無理をしないで」というのは、自分に無理をしないでという意味なのです。

それは言い換えれば、もっと自分を大切に思いやってください、そして私を信頼して何でも頼ってきてくださいねと伝えているのと同じ意味なのです。これが自分に無理ばかりを強いる人ではかえって周囲を遠慮がちに換えていくのです。

自分に無理をしないというのは、自分に何ができて何ができないかと正しく自覚することができるということでそれは自立しているとも言えるのです。自立というのは、如何に他人の力を頼ることができるか、そして自分の力を他に活かすことができるか、つまり貢献と共生が可能であるかを言うのです。

これを勘違いしている人はたくさんいて、特に仕事といった一人では大変難しい事柄こそ人間関係の構築、つまりは心のオープンさというのは何よりも欠かせない大切な関わりの技術であるのです。

心の距離感を親しみを籠めて自分から相手に任せること、委ねることを怖がっていてはいけません。人はみんな不安を大なり小なり抱えているからこそ、思い切って不安を語れる関係、無理しない関係を自分から歩み寄っていくことで配慮し合い遠慮ないオープンな絆ができてくるからです。

実践を積み上げて、周囲を明るくしていこうと思います。

 

集団というテーマ

歴史を探訪していると、人と人が信頼をしあって大きなことを成し遂げたことに出逢います。
集団というものを形成していく中で、数々の困難を生き抜いてきたことを誇りに思います。

人間というものは、一人では生きてはいられず必ず誰かを必要とします。

その関係を上手に活かすことで平和な暮らしも、それぞれの自己実現も為し得ます。
集団とはもろ刃の剣でもあり、どうにでも動かされてしまうのも事実です。

時の権力者たちは、それを見抜き様々なやり方で研究され実証されてもきています。

それを政治ともいい、孔子の時代よりずっと以前から集団をどのようにしていけばよく治まり、集団をどのようにしていけば乱れるかというものも問い続けられてきました。

世の中が平和に治まるには、どのような集団を形成することか、そしてそれを為すリーダーというものはどうあるべきかを常に問われてきたのです。

歴史の中では、様々なタイプのリーダーがいます。個性豊かに、それぞれの方法で集団というものを守ろうとしてきました。それは集団がそうさせたとも言えるし、リーダーがあったから集団があったともいえます。如何に集団がよくなるかは、それぞれがみんなで考えていくものです。

そしてそれを今の時代では民主主義ともいいます。

一人一人がどうやったら平和な集団を形成できるかを、問うということでもあるのです。

神話の中で、仲睦まじく人々が暮らしてきた記憶が記録として語り継がれて今が在ります。
同じように歴史には、そういった時代があったことが記されているのです。

何度も何度も挑戦し、どうやったらそのような集団ができるのかは人間の永遠のテーマです。
信頼しあうということや、助け合うということ、絆を持つのも、すべては集団のためなのです。

みんなで活かし合う関係を求めるのは人間の根源的な欲求なのです。
時を遡りながら、そういう思いに心を馳せてみようと思います。

 

自問自答と本気について

人が何かを行うとき、それが本気かどうかというものを確認することがある。

よく巷では本気といえば、その本気度が人それぞれ違うからと言われるけれどそれはあくまでその人がどれだけ深く自問自答しているかのことをいうだけで本気ということではない。

あまり自分で考えもせず、遣っている人は周囲から見ればあまり本気でやっているとは言わないし見える事もない。よくそういう人が注意されるのも、本気を出せという根性論で考える人もいるけれどそうではなく単に自問自答がまだ足りていないぞと言われているのである。

今までの一般的な学校教育を施されてきた人は、自分で考えるよりも先生の答案を探そうとする人が多い。先生が何か言えば、それの答えを言った人が褒められてきたし、先生が問題を出すのだから答えは先生が持っていることになります。

何か問題が起きれば本質的な人であるほど自問自答から入りますが、教育の刷り込みが深い人たちはそうではなく他問他答から探そうとするのです。

今、組織で起きている問題に自分で考えることができない人が多いというのは、その過去の教育の弊害があるからです。大事なことは、自分の頭で考える事、つまり自問自答して根本や根源、大本まで辿りつけば本気に出会うということを言うのです。

本気でなければ、何も実現しないのは自分が人生の主人公であるからです。
誰かに合わせて生きるような教育を受けてきましたが、本来はそうではなく自分に合わせて生きる事、つまりは自問自答することが人生ともいうのではないかとも私は思います。

そしてそれを学問というものです。

今の巷の学問は、実社会ではほとんど役に立ちません。

論語に、「子曰わく、古(いにしえ)の学者(がくしゃ)は己(おのれ)の為にし、今(いま)の学者は人(ひと)の為にす。」とありますが、つまり自問自答していることが学問でありそうではないものは学問ではないと喝破しているのです。

考えない人に自分がなってしまえば、それだけで自立する社会のお役に立つことができません。人が作業的動作的になる理由は、それは考えているようで考えていないことになってしまっています。なぜなら他問他問になっているからです。

作業的、動作的の反対は、本質的や根本的にとなりますがそれは自問自答かどうかによるのです。

実社会では答えなどない問いを求め続けることが求められます、なぜなら人が生きるということは、日々の生活を通した中で自分をより善く生きるということに他ならないからです。

これからも本気のままに、自分らしい人生を自問自答に楽しんでいきたいと思います。