情熱のチカラ

故事に「鉄は熱いうちに打て」というものがあります。これは鍛冶から発生した言葉で、鉄は熱して軟らかいうちに鍛えろという意味です。そこから精神が柔軟で吸収する力のある若いうちに鍛えること、また物事は関係者の熱意がある間に事を運ばないとあとでは問題にされなくなるというたとえとして使われています。

鉄を鍛錬するときに、何回も何回も打ち形にしていきます。鍛錬とは、厳しい修行により自らを鍛えていくこと、そして練り上げていくことですがここで最も大切なのは「熱」があることであるように思います。

鉄に限らず、全てのモノが変形するには「熱」が必要です。炭を燃やして黒かったものが真っ赤になり透明な炎がそのものに宿るとき、そこに新たないのちが吹き籠ります。

その時、科学では遠赤外線という言い方で表現されていますが独特の熱が発生します。この熱は、「万物をとかす」チカラを放ちます。そしてその熱により、他の物質が影響を受けて熱が通っていきます。その熱が通った状態で、別のモノへと変化させていくというのは自然の叡智です。

これは太陽の熱が地球の生き物たちを変化させていくのと同じです。それを見極めた先祖たちは、それを錬金術をはじめ日頃の料理や、その他の道具作りに活かしました。

人間では、人格形成でこの熱のことを用います。それは「情熱」のことです。人はやる気といったモチベーションというものがあります。何をするにも自分が燃えていなければ変化することはありません。いくらチカラがある鍛冶職人であろうとも、燃えていない鉄は変形させることはできません。燃えているからこそ、それを鍛錬して見事な美しい姿へと換えていくことができるのです。

燃えるというのは如何に不純物を取り払うかというのに似ています。火のチカラをもって、不純なものを燃やしていくことで最期は真っ白な灰になります。灰になるというのは、跡形もなく姿かたちが燃えきってしまった姿です。

情熱を燃やし続けるというのは、灰になるまで燃えきったということです。それは燃やされて燃える灰もありますが、やはり最期まで燃えるものは中からの炎によってのみ燃え切るように思います。

情熱は、「すぐやる」ことと「しつこくあきらめない」ことの矛盾の中で燃え盛ります。実践も同じく、すぐにやることと地道にやることがあって 情熱の炎は自分自身の心に宿り続けるのです。

冷えてしまう、冷めたという言葉はその真っ赤な炎が魂に宿ることがなかったということです。湿気た炭になってしまったら、火がつかないだけはなく湿気た炭自体が爆ぜてしまい周りにも危険で多大な迷惑をかけてしまいます。これは人間でもいえることで、組織を壊していく原因になります。

だからこそ自分自身だけでも情熱を燃やし続け、仲間を増やしどんなに水をさされてもそれを簡単に蒸発するくらい燃えたぎる情熱と熱意をいつまでも持ちたいものです。

そして炭にもまた一生があり、はじめの頃と全盛期と降りる時期があります。だからこそ情熱もまた次世代へとつないでいく必要がります。炭から学び火から学び鐵から学び直す日々ですが、しっかりと情熱の意味を深めつつ子どもたちのために実践していきたいと思います。

 

 

自己肯定感と自己信頼

最近、自己肯定感について考える機会がありました。もともと自己肯定感とは自信のことです。自分に自信がある人は自己肯定感があり、自信が少ない人が自己肯定感が低いと言います。自己肯定感が高い人は、自分自身を信頼することができますから自分自身のことを安心してコントロールしていくことができます。しかし自己肯定感が低い人は、自分自身のことが不安ですからコントロールすることがうまくできなくなります。

つまり自己信頼ができるかできないかというのは、自分自身を活かしていく上で大変重要なことになります。

それではなぜ自己肯定感が低くなるかということです。

これは一概には言えませんが、まず自分自身との信頼を築けないことに理由がある様に思います。自分が決めたことがやり遂げられなかったり、自分の初心を自分が忘れてしまったり、忙しくして自分がこうありたいと思う自分を放り出してしまったりするときに、罪悪感から自分を嫌悪するようになります。自分自身を自分自身が裏切るのですから自己信頼は、自己不信に変わります。これが自己肯定感が低くなる大きな理由ではないかと思います。

人は社會の中で、自分以外の人たちと信頼関係を築いていきます。それはどういうものかといえば、周りにあわせて信頼してもらおうではなく「自分自身が自分との約束を守り、できることはやる!」というように誠実に取り組んでいくことで周りもまた次第に信頼をしてくださるようになります。これは自己信頼でも同じで、自分自身が決めたことを実践し続けることで自分への信頼感は高まっていきます。つまり自分はできることはやると決めたことを遣り続けているのです。

しかし自己信頼が低い人は、自分のできることをやろうとはせずできないことばかりに文句を言ってはできることもしなくなっていきます。つまりは自己不信の状態を続けてしまいます。

自分自身が自分にできることを精一杯やり遂げていたら、次第にできることは増えていき何でもできると思えるようになります。しかしできないことばかりを考えてはできることまでやらなくなれば、次第にできないことばかりが増えてどんなことでもできないと思えるようになってしまいます。

自己信頼というのは、小さな日々の自分との約束の積み重ねによって築き上がっていきます。そしてこれができる人がはじめて周りとの信頼関係を積み上げて築いていくことができます。

できるできないから入るのではなく、「人事を盡そう」、「やれることはやろう」とやっていくことで次第にできるかできないかではなく、「実践する」という境地に入る様に思います。

実践するのは、自分に打ち克つためでもあります。自分自身の自我欲に負けて怠惰になるのではなく、自分自身の理想や初心に対して正直にいる自分を誇りに思えるようになることで人は自己信頼ができるようになります。

昔ある方から「誰がみているかみていないかではない、一番身近で自分が見ているではないか」ということを教えていただいたことがあります。自分を誤魔化すことが増えていけばそのうち周りの人にまで誤魔化すようになります。自分自身の不信は、次第に周囲への不信になり、自己信頼の欠落は周りからの信頼の欠損にもなっていきます。

社會は、見えない約束事で成り立っていますからそれを自ら先に破壊すれば社會が安心して平和に保つことができなくなります。一番身近な自分を責めては罪を擦り付けるのではなく、できることを背一杯やってできないことは周りに頼るという本来の信頼関係を築くことです。

周りに頼れる人は、自分のできることは精一杯やる人だから周りに安心して頼れるのです。周りに頼れない人は自分にできることもやっていないと思った方がいいでしょう。

結局は、どんなことも未来は今の自分の実践次第なのですから変わらないものを嘆きどうにもならないことにいつも悲嘆にくれては何もしないよりも、自分が変えていけるものは何かを見つめてできることをやっていくしかありません。「人事を盡して天命を待つ」心がけで、実践を積み重ねて自己信頼、周囲の信頼を勝ち得ることが善い組織のみならず善い社會を形成する要です。引き続き「実践」の大切さを伝えていきたいと思います。

鐵は金の王哉り~たたらの魂~

先日、御縁があり刀工上田祐定さんの文化包丁を譲っていただきました。かねてから「たたら製鉄」に興味があり、古来からの砂鉄を使い「鐵」を用いたものがいのちが吹き込まれているのを実感し、日本刀の持つ美しさにその鐵の魅力を感じたからです。

現代の鉄は、洋鉄といい鉄鉱石から鉄を取り出した鋼を使っています。しかし古来の日本は砂鉄を用いた玉鋼というものを使っていました。玉鋼は日本刀製作において最も刀の出来に関わるため日本刀は玉鋼を用います。たたら製鉄により砂鉄から精製する鉄を玉鋼と呼びます。洋鉄は鍛錬すると段々脆くなりますが、玉鋼は飴のように粘りが出て折れ難い柔軟な鉄になる性質があるそうです。古来から「玉」という響きは、「魂」を顕しています。魂が宿る鐵だからこそ「玉鋼」と呼んだのでしょう。

また同じ鉄でも鍛錬すればするほどに脆くなるものと、鍛錬すればするほどに柔軟になるのとでは意味が異なります。以前、映像で海外の刀と日本刀との違いを実験していた番組がありました。その中で唯一、鉄を切れるものは日本刀だけだということを話していました。その時、本物の強さや切れ味とは柔軟性であるということを実感した覚えがあります。

私も今の時代の鉄は鉄といい、古来の砂鉄からの鉄のことは「鐵」であると区別しています。この「鐵」という字は、その字を分解すると「金の王哉り」と書きます。つまりは金の王であるということです。

この鐵は生き物ですから、刀工はその鐵の生き物を扱い、火と水と土と木と光と闇を使い錬金術を用い新たないのちになるように熔け合せていきます。刀鍛冶の魂を感じるこの「たたら製鉄」での日本刀は何よりも私たちの祖親たちの魂の伝承のように思います。

「鐵」は、それ自体がとてもいい音がします。その響きを聴いていると、その音から意志をも感じるものです。無生物であろうとも、私たち日本人はそこにいのちを感じて、そのいのちを活かそうとしました。

時代が変わっても、私たちがどんな生き方をしてきたか、何を大切にしてきたかは子どもたちに伝承していきたいと思います。これから包丁として日々に実践していきますが、いつの日か自分の手でたたら製鉄を実践してみたいと思います。

新たなインスピレーションをいただき、有難うございました。鍛冶の言葉には人格形成するための様々な格言や言葉に溢れています。鐵を打ち鍛錬することの本質を、鐵から学び直してみたいと思います。

根治の道

手塚治虫にブラック・ジャックという漫画があります。天才的な技術力で治らないと見捨てられた患者を次々に奇跡的に治していきます。その代価として莫大な治療費を請求するのですが、それだけ本気かどうかを確認して心の底から直し体を直し生き方を直すような治療法が心を打ちます。

本来、医は仁術という言葉もあるように単に技術や能力があるから助けられるものではなくその人の丸ごとのことを観察し、何が根本的な問題かを見抜き、タイミングと治療法を考えてその人自身が治癒するのをどう助けるかということの中に真心と思いやりが必要になります。病気になるというのは、必ず原因がありますから根治するには荒療治が必要なこともあるように思います。

そのブラック・ジャックの中でとても印象に残っている言葉があります。

一つ目は、「医者は人のからだはなおせても・・・ゆがんだ心の底まではなおせん」という言葉です。治療はしても、根治はできない。心の底は手が出せないということです。これは本人が素直になれないのなら、どれだけ治療を施してもどうにもならないという諦観です。仏陀も「縁なき衆生は度し難し」と言いました。御縁がなければ心まではいかないものかもしれません。

そして二つ目は、「これだけは きみもキモにめいじておきたまえ 医者は 人をなおすんじゃない 人をなおす手伝いをするだけだ なおすのは…本人なんだ 本人の気力なんだぞ!」という言葉です。これはブラックジャックでも助けられなかった師匠が死の床でブラック・ジャックに語り掛ける言葉です。本人の気力と書いて「本気」ですが、本人が本気でなければどんな病も治らないということでしょう。

最後の三つ目は、ブラック・ジャックがメスの製作を頼む職人の方の遺書の一文です。「天地神明にさからうことなかれ おごるべからず 生き死にはものの常なり 医の道はよそにありと知るべし」という言葉です。医の道は生き死にとは関係がないと言います。本来の道は、結果に対してあるのではなくその経過においてどれだけ真心を籠めたかに由ります。初心や道を忘れることがない様にという書置きを遺してこの世を去ったのです。

ブラック・ジャックには、人間の心身の病気を治癒するという大きなテーマがあります。自分と同じ苦しみを持つからこそ、同じように苦しんでいる人たちを助けたいと思うからこそ医師になったように思います。今の医者と違い、病気になれば病気だけを直して料金をもらうのではなく本質的に根源から治癒しようとすると今の時代は無免許医になってしまうのかもしれません。

昔の人たちは、医と病を分けていませんでした。

心を素直にして、体を健康にするには、自分の本心と向き合う必要があります。自分の本心を誤魔化し嘘をつき言い訳をすることから病は浸食してきますから、どれだけ素直を磨き、理想に対して日々に高めていくかは生き方と実践に顕れてきます。

子ども達のお手本とまではいかなくても、子ども達が目指す方向を間違えないように自分の間違いを早期に気づいて修正していきたいと思います。禍転じて福にしていけるように、心を素直に謙虚に御縁を尊び学び直しを続けていきたいと思います。

本来の善意

人には善意というものがあります。いいことをしたい、喜ばせたいというものがあります。しかしその善意が自分の一方的な押し付けであればそれがエゴになることがあります。自分が善かれと思ったことが相手からすると迷惑になることがあります。これを善意の行き違いといい、これを有難迷惑という言い方もします。

それはきっと相手はこうだろうと思い込んだり、自分の価値観で同情したりすることでその善意は本来の姿を歪めてしまいます。本来、相手が望んでいることは何かと、相手に寄り添い傾聴していき求めているものが何かをしって自分のできることで御役に立つことができるならそれは相手にとっての善行になります。しかし、自分が勝手に思い込んでやったことはひょっとすると相手にとっては迷惑であることもあります。本当に頼みたいことはやってくれず、頼んでもいないことばかりをやっては感謝を求めたり、押し付けたりするのはまさに善意の行き違いとも言えます。

これは自分の同情から来るものですが、同情というものは共依存するものです。同情を求める相手に対して、同情する人がいる。もともと同情を乞う心理というのは自我に執らわれている心理とも言えます。同情とは本来、同じ思いになることですから相手が自分だと思って共感することです。しかし実際に勘違いしている同情は、自我が自他を比較し憐れんでみているだけで決して共感しているわけではないのです。

この善意が行き違うということは、本来の善意ではないということです。

なので本来の善意を実践するには、相手の話を相手の立場になって心寄り添い傾聴して共感し、受容することです。それをすることで、相手は同情の有難さを感じ、情け深さによって自分を取り戻し自らの自己憐憫を手放していくように思います。

特に経営者や上の立場の人は、この同情を勘違いして失敗するように思います。自分の方が立場が上であるという事実と、下の人が自分が下なのだという関係が発生するとき、この歪んだ同情の共依存が発生するのかもしれません。

それを断つには、聴福の実践しかないように私は思います。本来は、有難迷惑や善意の行き違いなどはなく、心が澄んでいるのなら、有難いことは迷惑ではないし善意は行き違うことはない。

自分の心を澄ませてみて、自反慎独し全てが有難い御縁であると心から感謝をして御恩に対してすみませんという真心を感じることができるならお互い様の御蔭様に気づいて、善意の行き違いになることも有難迷惑になることもないように思います。

心を澄ませるのは情を整えることでもあります。心を澄ませて情を整えるという順番を間違わないことが本来の善意を盡す方法ではないかと私は思います。情動だけで物事を進めるというのは心が澄まされていないから御蔭様が消失してしまいます。

人間は情が厚いからこその間違いもありますが、それは情を薄くするのではなく情を磨いていくことで澄まされていくと思います。日々は人生道場ですから、言葉、心、行動の一つ一つを丁寧に真心の実践を積み重ねていきたいと思います。

初心を忘れないこと

昨日、「忘」という字についてのことを書きました。人が人生の目的を忘れてしまえば木偶の坊のようになってしまうと江戸しぐさの中でも紹介されていました。この木偶の坊とはあまり今の時代は使われませんが何かといえば、「木偶」は木彫りの人形、または操り人形のことを指し人に操られるだけで、自分では何もできないことから、ぼうっと立っているだけの役立たずの人をたとえていう言葉です。

初心を忘れて自分で考えなくなっている状態は、心が亡くしているという意味です。

ではなぜ初心をなくすかということです。

人は人生の目的というものを誰しも本来は持っています。遠くを慮れば今どうあるべきかということを思い出せるものです。諺に「遠慮なければ近憂あり」というものがあります。言い換えれば、近くのことを憂うばかりだから遠慮がなくなってくるとも言えます。

あまりにも不安を抱え、心配事ばかりに終始していたら本来何のためにやっているかなど考えなくなっていくものです。人は何かを判断するとき、損得で判断することがあります。自分にメリットがあるかどうかで考えていることがあります。しかし実際は、自分のメリットは誰かのデメリットになりますからいつも自分勝手に判断していたらその陰で辛い思いをしている人や迷惑をかけている人がいたりします。

だからこそ判断基準は、みんなが倖せになるかどうかであったり、周りがよろこんでくださるかどうか といった全体にとって自分が善い存在になろうと判断することで迷惑をかけていることを自覚し感謝を忘れないようにしているものです。

またそうやって決めたことや、自分がどう生きるのかを定めた初心や理念を決めた心のままに維持していくために実践があります。自分が決めたことを自分が忘れたらこれはもう救いようがありません。自分が決めたことだからそれを忘れないようにするのは自分にしかできません。

自分で決めたことを自分が忘れると心が泣いてしまいます。人はそんな時、心を亡くしたことを思い出して涙します。その涙を忘れないようにいつまでも心に決めたままでいることが実践でもあります。実践をするとき、頭では考えられなくても心は安心します。心が安心するのは実践を続けてくれているからです。実践を続けるということは、心が決めたままの自分を自分が維持し続けているということです。

忘れるというのは、単に暗記力が低いということを言うものもありますがあれは頭で終始行われるもののことです。本来の「忘れない」というのは、暗記ではなく心が決めた人生の目的や初心、理念を忘れることがないという意味です。

いくら忘れないでくださいねといったとしても、その人が実践を怠ればすぐに忘れてしまいます。一緒に心を寄り添っていくことの大切さは、「私は忘れていませんよ」といったその人が思い出せるように見守ることです。

自分を低く見て、理想を低くするというのは自分で初心を忘れてしまっているといっても過言ではありません。その人の理想を聴けば誰しも崇高な理念を持っています。その崇高な理念を周りからバカにされようがやり遂げることこそが理念を持つということだと思います。

理念を持ったなら忘れないために実践することだと思います。

吉田松陰に「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。」があります。

自分の夢を忘れたり、自分の夢を卑下したり、自分の夢を亡くしていたらせっかくの一度きりの自分の人生を深く味わっていくことができません。一度きりの人生だからこそ、味わい深く悩んで愉しんでいくのが初心の有難さです。

初心を忘れないということは、全ての根本です。

引き続き、実践を増やし高めて継続していきたいと思います。

志実践

人間というものは、全てに「忘れる」という事実があります。この忘れるという状態がどういうことか、それは字に現れています。「忘」の字は、心を亡くすと書きます。「忙しい」という字と同じで、心を亡くしてしまっているということです。

この心が死んでいるという状態が、「忘れる」であり「忙しい」ということです。

昔から修身を実践する人は、如何に日々に自分が初心を忘れないでいられるか、忙しくしないでいられるかということを工夫してきました。どんな状況のときでも、心が死んでいるのでは意味がないとし、必死に自分の心を亡くさないで暮らしてきました。

江戸しぐさの中に、その工夫の一つがあります。

「江戸時代では、「心こそが人間として最も大事な宝ととらえ、忙しさは「心」を「亡」くすこと、心をなくしたら人間ではないただのでくの坊になってしまうと考えました。忙しいときは、「いま書き入れ時で」「ご多用なところをようこそ」など言い換えたようです。」(「暮らしうるおう江戸のしぐさ」朝日新聞社)

常に自分が忙しいと言わないように別の言葉で言い換えていたようです。

これは日常の中でのコミュニケーションの工夫ですが、能の大家、世阿弥の風姿花伝のように「初心忘れるべからず」というように、「初心を死なせてはならぬ」という言い方で自戒をし、常に自分の心を確かめる習慣を持つことを家訓にして芸道を遺すということもありました。

人は事があるたびに「忘れ」「忙しい」と心が死んでしまうのは、それだけ心は目的に生きているからです。何のために生まれてきたのかという理由を知っているからこそ、それだけしか観えていないのです。だからこそ日常の目先のことは頭が処理をしていきますが、そのうちに手段が目的にすげ換わったりしてまた忘れ忙しくなってしまうという悪循環です。

そうならないように工夫をしていくことで、この課題とは対峙していくしかりません。心が常に着いてくる実践を増やしていくことが、感謝でありおもてなしであり、御蔭様であり、もったいないであり、見守ることです。

人間は油断するとすぐに「忘れ」ます。忙しいは気を付けられても、忘れるは気を付けない人が多いように思います。忘れないために日々にどれだけ苦心して精進するかが、一生涯を通してみた時にどれだけ価値があることかが分かります。

一生涯というと、徳川家康の有名な遺訓を思い出します。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。」

そしてもう一つ、とても感銘を受けたものがありましたので紹介します。

「われ志を得ざるとき 忍耐この二字を守れり。われ志を得んとするとき 大胆不敵この四字を守れり。われ志を得てのち 油断大敵この四字を守れり。」

志を守ることが忙しさと忘れることに処する克己の工夫かもしれません。我を増長させ、油断し、分を弁えず、驕り高ぶり慢心するのは志が試されているとも言えます。試練や逆境の中で人は志を育て、志を果たす時、その人の人生の目的が叶います。

心に志の刃を突き刺すことを「忍」と書きます。

忘れないで忙しくしないためには忍耐力が必要なのかもしれません。子ども達のお手本になるように、日々に自戒して志実践を高めていきたいと思います。

全体最適~自然の理に適う生き方~

人は自分中心の視野と自然中心の視野では、全体の見え方が異なるものです。自分の視野でみて自分にとってメリットがあっても、それは全体から見たらデメリットであることがほとんどです。

例えば、自然農などは手作業で一つ一つ地味に取り組んでいく農法ですが現在の慣行農法と比べればとても時間も労力もかかっているように見えます。しかしよくみると、慣行農法は機械や道具で一気に簡単便利にスピーディに農作業は終わりますがその機械や道具、ガソリンやその他の運搬、エネルギーを考えると全体ではとても多大な労力と時間がかかっています。

自分にとっては機械や道具で簡単に済むことは、果たして全体にとっては善いとは限りません。先ほどの例では、その簡単便利にスピーディにできるもののために膨大なお金を使い、大変なゴミ屑を生み出し、環境にダメージを与えてしまうような状況を与えてしまいます。自然は浄化しますが、浄化の速度を超えてしまえば農地や環境にだけではなく人体にまで害が発生し病気になることで余計に時間と労力を使います。

自分にだけメリットがあると行動することができるのは、それをささえる周りがあるからだと言えます。どれだけ自分が行動するときに、「これは周りにどんな影響を与えるだろうか」と、全体をトータルに考えて行動することで視野は広がるものです。

これをメンターは「全体最適」を目指すと言います。

この全体最適とは、自分にとっては都合がわるいことであったにせよそれが全体を幸せにするのなら全体を優先できるということです。しかし実際は、全体が幸せになった後で自分が幸せになれば丸ごと幸せでみんなにも善くて自分も善い状況になったとも言えます。

すぐに人間は、「自分さえよければ」と考えますがこれが全体最適を破壊し部分最適にしてしまう原因になってしまいます。

運が善い人というのは、自然の理に叶っていますから常に全体最適に合わせて自分を活かしていきます。つまりは全体によって善い実践や行動ができているということです。自分が愉しく仕合わせにみんなが明るくなるように、また先延ばしなどせず、すぐに反省し行動する。教訓を活かし、周りのお手本になり、素直に謙虚に学び直しを続けつつ他人から沢山のことを頼まれる人になる。こういう人はいつも全体最適で生きているのが分かります。この逆を考えれば、部分最適がどうなるかは自明の理です。

そして運の善さというものも、自然の理ですから全体最適である人であればあるほど運は高まりその運に由って物事は自然の見守りと御力添えにより仕上がっていきます。これが運も実力のうちということです。

この自然農の田畑も同じく、全体最適で観ることができなければこの農法の真の善さを自覚することはありません。農薬を使わないから健康だとか、いのちと向き合え心が穏やかになるからだとか、もちろん理由はいくつもあります。

しかし最も大事なのは、自分の生き方や実践がどれだけ全体に善い影響を与えるかということを自覚することが何よりなのです。生き方が変わるというのは、それだけで全体最適に影響を与えます。なぜなら徳の実践も同じく、自然の理に適うことを行い続ければ自然の循環や浄化のサイクルにスパンとはまります。

実際に人間か自然かではないですが、人間都合はやはり部分最適であり自然都合にすることは全体最適です。無理に自分の思いどおりにならないからと、怒り焦りジタバタするよりも自然の流れに従い応じて任せつつ、その中で最善を盡して精進を続ける方が全体最適になっているものです。

そして常に全体を観ることができるというのは「余裕がある」ということです。

余裕とは、自分の生き方が決めます。

そして余裕を持つために理念や初心があるのであり、自分が目的と手段を自分さえよければという我欲で好き勝手に入れ替えたりしないように理念や初心を意識する実践が自分の我を抑え全体最適を優先する己自運転になっていきます。

常に子ども達のために何がもっとも全体最適かを見極めつつ、自然の理に適った実践を増やしていきたいと思います。

自然の和

自然農の畑に出ると猪があちらこちらと土を掘り返していました。柵を設けていたのですが、植物が巻き込み柵を押し倒してそこから侵入したようです。猪とも5年の付き合いですから、大事な場所だけは掘り起こさず手入れをしていない場所を中心に掘り起こしていました。

不思議ですが自然農の畑にあるものたちに敵意は一切感じず、最初に周りの農家さんから聞いていた鳥害も虫害も獣害も多い場所だと言われていたはずがほとんどその害を感じず、むしろ食べるものは足りているだろうか、こちらが遣り過ぎてはないだろうかと心配するばかりで一緒に暮らしている仲間という感じがしています。

生きているのは私たち人間だけではなく、すべての生き物たちは食べ物を食べなければ生きてはいけません。人間は自分たちのことばかりを心配しますが、山に食べ物がなくなってきて下山してきている動物たちの状況を少し慮る気持ちをもってあげたいと感じます。

山の食べ物がなくなってきたのは、動物たちの生息地域が人間により減らされているからです。それに酸性雨が降ることで、土壌が悪化し森の状態も貧しくなってきています。酸性雨が降れば、化学反応を起こし土中のアルミニウムが溶け出します。すると根が弱り樹勢も衰えるという悪循環です。

動物たちが山奥の自分たちの生息領域を超えて出てくるのはそれなりに理由があるからであり、その意味から自分たちの不自然な暮らしを見つめ直す機会にしていけばいいのでしょうが世界的に森林は伐採されこのままでは地球のほとんどが人間だけで埋め尽くされていくのでしょう。

地上には人間以外の生き物たちが棲んでいますから、本来の豊かな生活を取り戻していくことができればきっとそういう生き物たちと穏やかに暮らせる時代がまたくると思います。

そして今は人間が最強のようになっていますが、植物たちはとてもすごいチカラを持っています。今回の柵も植物たちが覆いかぶさり重さで押し倒しました。少しずつのチカラ、広がるチカラ、伸びるチカラ、繁るチカラ、引き出すチカラ、呼び起こすチカラ、縮むチカラ、他にもありますがそのチカラは膨大で無限です。

この生命力溢れる植物たちに私たちは敵うことはありません。

結局は、抑え込んで我が物顔で好き勝手なことをしたとしても永くは続かず必ず共生して折り合いをつける日が訪れます。そうなることを分かっているのなら、生き方と働き方を考え自然に沿った暮らしをしつつ、人間社會も豊かにしていく道を探っていった方がいいように思います。

聖徳太子が目指した政治のように、「和をもって貴しとなす」という穏かに一緒に暮らしていく世の中は普遍的な自然の摂理を語っているように思います。

自然に近づけば近づくほどに、自然の持つ共生の醍醐味を感じます。

今回のことからも、学び直し、尊敬の心を大切に「自然の和」を実践していきたいと思います。

心のふるさと~御縁の暮らし~

年末の「復古創新」の理念研修を迎えるにあたり、温故知新の妙を深めています。古いものを新生し、新たな役割を担っていただきます。永く誰かの御役にたったものや、ずっと誰かに愛されてきたものを感じると心が安らぎます。

先日、十日市町の100年古民家を訪問したときに「思い出」について考える機会がありました。それは古民家再生を手がけるドイツ人建築家カールベンクスさんのHPを知り、そのプロフィールに共感することが記されていたからです。

「『古い家のない町は、思い出のない人と同じです』とは、東山魁夷がわたしにくれた言葉。古い=価値がないのではありません。古いものは、歴史や思いがつまった、単なる”モノ”以上のものなのです。使い捨て、大量消費の文化とともに、日本人はモノを大切にすることを忘れつつあるのかもしれません。この世界に誇れる文化の現状は私にとって残念で悲しいものです。」

今は、大量消費の使い捨て文化の中で新しいものがさも価値があるように宣伝して古いものを捨てていきます。しかし実際は古いものの中には思い出がたくさん詰まっています。物だけではなく人も同じく、「一緒に生きた仲間たち」があって「暮らし」は成り立っているからです。それを何を間違ったか、自分のことだけを心配し、自分の利益ばかりを優先し、自分勝手に我儘ばかりが使い捨て文化の中で助長していくと古いものは邪魔だとさえ考えるようになるようです。

本来、古いものというのは利他に生きた生き方が沢山そのものに詰まっています。それは徳とも言ってもいいかもしれません。物は単なる具ではないからこそ、日本人は具に道をあてて「道具」と呼びました。

物を大切にする「もったいない」という文化は、そこに一緒にお役立ちした仲間たちとの暮らしを何よりも重んじていたから発生した文化ではないでしょうか。

永いもの、古いものは其処にあるだけで心が安心します。

心が安心に落ち着く場所こそ、「思い出の場所」なのです。

大量消費、使い捨てで「思い出」までも捨てていくというのはいかがなものかと思います。それだけ情報化社会の中で、スピードばかりが重視されていますが新しいものばかりに囲まれた生活は果たして仕合わせだと言えるでしょうか。

時間をかけて味わっていく仕合わせというものが「御縁」というものです。

御縁をどのように活かしていくかは、その人の生き方ですから天から頂いたもの、我が家に来ていただいたもの、自分を探し当ててくださったもの、一緒にいたいと思ったもの、そういう一つ一つを大切にする生き方が人間を孤独から遠ざけ、「豊かな暮らし」を与えてくれるのではないかと直感します。心のふるさとは、もったいない暮らしの中に存在するものかもしれません。

まだ実践して間もないのですが、この「心落ち着く」古き善きものに囲まれる暮らしは穏やかな気持ちを与えてくれます。現代に失っていく心を、もう一度暮らしの民具を含め、様々な道具から学び直し、子ども達に伝承していきたいと思います。