立志こそ全て

2年前にオルタナという情報誌の主催で、学生たちが自ら志のある会社を集めた就職ガイドをつくろうとという企画があり参加したことがありました。

それは私たちが作成している理念ブックから抜粋して紹介したものです。そこで掲載させていただいた元になる文章は、理念ブックあるミッションというところから抜粋されたものです。

外部に出しているものではないのですが、ここで初公開してみます。

(大ミッション)

『世界ではまだ貧しい国がたくさんあります。そしてその戦争などでもまず犠牲になるのは子どもたちです。私たちは、このモノに溢れた裕福な国に生まれて掴んだものは物質的豊かさかもしれませんが、その反対にとてもココロは貧しく辛い世の中にしてしまいました。そして戦争のない平和に観えるこの国も、まず犠牲になっているのは私たちの未来そのものである愛する子どもたちです。私たちは、物質経済を追い求める大人が生み出した身勝手な競争優先の社会から子どもの人権を守るために幼児期の保育環境を創造する援助を行い、子どもたちが安心して過ごせる未来を遺すための仕事をしている会社です。私たちのこだわりは「子ども第一主義」です。そしてこれは私たちカグヤのクルーが共有している根本理念でもあります。子どもが単に好きだから子ども第一主義ではありません。子どもたちが創りだす未来そのものを見守り、そして彼らの生きる力を信じるということを第一義とすることで教育施設にある様々な隠れた問題を見抜き改善しコンサルティングすることでそれを実現する方向へ導きだすことです。子どもたちを見てみてください、彼らに余計な大人の刷り込みを与えずに子どもたちを信じて自治を任せていけば子ども集団は必ず道徳倫理に叶った平和で助け合いみんなが共生する民主主義を実現するのです。余計な大人の与える刷り込みは百害あって一利なしです。私たちは、子ども第一主義を目指すカグヤのクルーとして自らが独立自尊する自立した立派な刷り込みのない素直で純粋なままの大人(たいじん)としてのモデルを日々の仕事を通して実践で示し、平和で真に豊かな社会と世界を本気で創造しようとしている会社なのです。「3つ子の魂100まで」の言葉に象徴される、今最も大切な幼児期の子ども達に1000年後の真実を遺したい。未来をより素晴らしいものに変えるには教育を変えるしかない、子どもが自分達で創ろうとする世界を私たち大人がいかに信じて見守っていくか。そのために私たちはここに集まっています。カグヤの真の大ミッションはここにあります。』

これは社業の目的とも言える根幹の理念です。

会社というものは、別に商品を売っているだけではなく、サービスをしているだけではありません。会社会社にその目的が存在していて、その本質はその目的に対して何をしているのかということなのです。

私たちが信念を持ち、何を拡げているのか、何を実現したいのかは理念に由るのです。

その理由を明確にして、信じたものを行じていくとき、それを共に実現する方々が顕現してくるように思います。自分が大切な岐路に立つとき、覚悟を決める時、それは理念に立ちかえる時であろうと私は思います。

自分が何にいのちを懸けているのか、全身全霊を尽くすのかは、その使命の用いどころ、また心構え、その覚悟にあるように思います。文章に書くのは簡単ではありますが、読んで理解するのも容易ですが、事実、これを実践するということはとても難しいことです。しかしそれが志を立てるということなのです。

「立志万事の源となす」

これは吉田松陰先生の士規七則の言葉です。

使命感とは、志如何によるものですから仮初のものでも借り物でもなく、その志を自ら立てることが全てのはじまりであることを忘れてはいけません。

 

自他一体~残心~

武士道の死生観の中に「残心」というものがあります。

辞書にはこう書かれています。

1 心をあとに残すこと。心残り。未練。2 武芸で、一つの動作を終えたあとでも緊張を持続する心構えをいう語。(goo辞書)

これはそれぞれの解釈があるのかもしれませんが、この心構えというものが何かというものが何よりも大切ではないかと思うのです。

そもそも残心とは読んで字の如く、心を途切れさせないという意味で使われます。何かのことが終わったとしても常に心を途切れさせないという意味ですが、私の意訳ではそうではなく常に心を切らすことはない状態を維持し続けるという意味です。

例えば、お仕事でも生活でも家庭でも心を常に配り続けて注意を切らさない、油断をしないで心で物事を観続けている状態、言い換えればいつも死を覚悟しつつ判断は常に死に照らして物事を観ている状態のままの自分でいるということです。

心をきらさないというのは、頭で考えている最中であってもその心は覚悟を決めているということです。悔いのないように今を遣り切っていく生き方を続けていき、その中で全身全霊の全部を出し切っていくような生き方を続けていることが一つの残心であるように私には思えます。

そしてもう一つの残心でいう余韻の意味は何かといえば、必死に真心を尽くして取り組んだあとに自分の力だけで遣り切らせていただいたのではないと感謝の心に満たされ続けて活きているという意味ではないかと思います。

つまりは必至で真心を尽くして尽力するとき、自分の思ってもみないような最善の結果、奇跡のような巡りあわせや出逢いに感動し心を深く打たれるときにしみじみと心の平安と幸福がその場を共有する人々全体と味わうときの感覚。

「自分が遣り切ったのではない、神仏のご加護や御蔭様が入って遣り切らせていただけたのだ」これは勝負の跡でもそうで、心から負けたくないと願い必死に努力するときその後に訪れるのは「自分がやったのではない、(何かの恩力)で勝たせていただいたのだ」と感謝に満ちるのです。

そしてその時なのです。

自他一体の気持ちが起きてきます。それはもしかしたら相手は自分だったかもしれないという直観、自分がこの人だったのではないかという結びの境地に入るのです。これらの気持ちはとても言葉で言い尽くせないのですが人生の道の真の歓び、楽しみなのかもしれません。

自他一体という言葉は、頭では理解できないのはそれは生き方や生きざまで感じる言葉だからかもしれません。必死の努力を続けていく中でどれだけの奇跡に出会うか、真実に出会うか、ご縁を尊び、一期一会の今を生き切るときにのみ学べるのかもしれません。

自分とは自他ではなく自自であり、他は他ではなく他他なのかもしれません。真心や思いやりが通じていけば心は一体になっていくのでしょう。

この武道芸道の「残心」はかんながらの道の大切な心構えと同じです。
より真心を籠めて、心を澄ませ清め続けて八百万の神々とともに歩んでいきたいと思います。

 

維新継承

昨日、リーダー研修があり最後の話で藤森代表から「主人公」と「伝承」という役割の話がありました。先祖が真摯に生きて今の自分があるからこそ、尊い御役目が自分にも必ずあることをもう一度よく考えるという機会になりました。

日常が当たり前になっていると自分だけで物事を考えますが、今の自分があるのはどのような御蔭であるのか、連綿と続いてきた風土や結縁、生死のめぐりのなかで受け継いできた魂やいのちの存在を実感します。

そういう自分をそういう今をどれだけ愛しく大切に生き切っているかを思うのです。

語り継ぐものに出会うとき、受け継ぐ側の覚悟を省みます。本気で生きているかというのは、本気で死んだ人たちの積み重ねの上に自分がいることを決して忘れないことかもしれません。

それは、今を真摯に生きぬくことで自分の御役目に感謝していることかもしれません。

今、自然農然り、古神道然り、大和魂然り、一つ一つのことを紐解いて自然からの手ほどきを受け学んでいますがこれも受け継ぐ側の覚悟があってはじめて語り継がれていくものです。外来の思想や、人工智が高く評価されてそれすらも誰も気にしないくらい浸透した昨今では、かつての風土の思想や自然智の価値を新たに実感する人も少なくなってきているように思います。

先祖たちがどのように生きてきたのかを知ろうともせず、周りだけをみて今までもずっと今のような生き方だったのだと思い違いをしてしまうことがほとんどです。戦争のことでも、私の祖父の代の話であったのに、受け継がれなくなるとすぐに感覚がマヒしているのが分かります。

これだけ継承していくことや伝承するということは、その時代の生き方の反映であり、そこに語り継ぐものと受け継ぐものの価値を等しくしていないと互いに成り立たないように思うのです。そう考えてみたら、それぞれが真摯に真剣に主人公として生き切った跡にこそ最も価値のある口伝が存在するように思います。

神主とは私の中では、自然のバランスを司る者、つまりは一切の無駄というものがない”しくみ”そのものになる者と定義していますが、これも受け継ぐにはそれ相応の覚悟があって先祖の叡智を直観するのでしょう。

刷り込みに誘惑されないで正しく受け継ぎたいという畏れと尊敬と謙虚さがあってこそ伝承は成り立つのです。先祖の素晴らしさを思うほどに、自分の襟を正すことばかりです。頭で理解することではなく、語り継ぎ受け継ぐという意味、つまりは真実の思想の継承なのです。

その人の時代があるとき、自分の時代があることに気づかなければなりません、同じ生き方をしても同じ時は共にできません、だからこそ自分の代を真摯に生き抜かなければなりません。そこには思想を受け継いでそれを正しく新しくしなさいといったメッセージと意志を感じました。

「飛鳥から江戸は旧邦なれども、その智慧は維新なり」

これは今年ご縁があった保田與重郎の言葉です。

そして中江藤樹の訳した孝経こうあります。

「旧邦を興して天命新たなり」

時代が変われども、受け継ぐ人がいることを教えてくださいました。思想など目には観えないものかもしれませんが、心に響いたことを心に刻み、志を貫徹していきたいと思います。

大事なことを直観しました、いつも本当に有難うございます。

 

個から全体へ

昨日、ある園での研修の中で個から全体への話をしました。そもそも全体から個へというのと個から全体へというものは何かということを深めてみます。

私たち人類は集団を形成してから国家というものを創りあげてきました。国家というものは集団を統治するという考え方を持ち、権力によって個を抑制して国家の利益を優先させてその中で生きているともいえます。

当たり前すぎて考えなくなっていますが、国民というのはその国家の中に存在する民ということです。その中で暮らしていくためには、国家のルールに沿って私たちは統治されているともいえます。個が勝手なことをしては、国家は治まることがないから全体から個への教育を受けてきたとも言えるように思います。

なので、明治維新などのときなど国家が入れ替わるときは個がそれぞれに自由な発想を持ち国家を揺るがせて国を換えてしまったのです。本来は国家が変わるときは、革命などが行われますが私たちの国の歴史では聖徳太子の時代からそれを尊ばないという思想が根付いていました。

個から全体へという発想というものは、「和をもって貴しとなす」という理念に由って語られています。個というものは、一人一人の主体性のことを意味しています。権力による統治の中での個ではなく、個の一人一人が主体的に協力して国家運営をするときまさにそこにより善い一家ができあがるという考え方のことです。

与えられた仕事を受け身にやらされている中でやるのではなく、自分には何ができる、自分にしかできないことは何かと主体的に自らが働きかけて役割分担していくことこそが本来の集団の持つ本質的な意味なのです。本来の社會というものは、人というものは協働して協力しあっていたから自然の中で逞しく親しみ生き続けてきたものであろうと思います。

それがいつ頃からか、権力の統治の中で過ごしていれば生き残れると考えてしまうようになったのでしょう。本来の個が死んで、集団を優先するというのは本末転倒であろうと私には思えます。個が生きて、個を優先するというのはその人らしさを存分に発揮することで多様性を認める神代から夢みた理想の一家を実現するということです。

それは祖神が長年、幸せに暮らしてきた生き方を真似ることなのです。

個を発揮するというのは、個を見守ることがあってはじめて実現します。それは権力による統治ではなく、和をもって善治したといってもいいのかもしれません。

そしてそのためには、総力であったかということが大切なように思います。一人一人が誰も怠らず必死に努力し一生懸命に全体のために尽くしているか、国家に依存するのではなく、国家に貢献しようとしたかということです。

個から全体という言葉には、八百万の神々を畏れ慎み生きていくという智慧が入っています。引き続き、テーマに持ち実践していこうと思います。

もったいない~尊い体験~

人には毎日、様々な機会が用意されています。

それはそれだけの体験が用意されているとも言えるように思います。一人一人の人生があるのは、その人にしかないその人らしい人生を用意されているということがここから分かります。

人生というものは、その人のものでありその体験がその人の人生とも言えます。

学校というところでは、答えを先に教えてその答え通りになることが良いことであるかのようなことを勉強します。本来は、先に体験をしてその体験が何であったか、その体験から何を学んだかということを使って様々なことを共に身に着けていくための学習をするものです。

本来の学びを、人生と定義するのか、勉強と定義するのかが異なっているのです。

もしも勉強をするために勉強をするのなら、結果ばかりを気にして良い結果がでるためだけに先に知識を得てはその知識を持っているかどうか使っているかどうかが論点になってしまいます。

そうなると、ちゃんとやったかどうか、ちゃんとやれたかどうかが判断の基準になります。仕事でも何でも、やったら終わったとその後の改善をせずそこで満足して中途半端になってしまうのはこの結果さえ合っていればいいという価値基準が刷り込まれているからかもしれません。

しかし人生ではどうでしょうか。

人生では、ちゃんとやったかどうか、ちゃんとやれたかどうかではなく、その体験から気づいたものは何か、その体験から学んだ経験は何だったのかを実感することが基準になるのです。その上で、如何により善い体験まで昇華していくか、その体験をより意味があるものに発展させていくかに価値基準が変わるのです。

そう考えてみたら、結果ばかりに囚われるよりも体験してみたいという好奇心やチャレンジ精神の方がより人生を楽しくしていけるように思います。なぜなら、せっかく一度しかない人生、一度しかない今、一度しかないこの機会、体験しないと「もったいない」からです。

遣る前にある程度予想して、きっとこうだろうとか、こうなるためにどうしようかとか、事前に調べすぎてそこそこの無難な結果に満足するよりも、尊い体験をさせてもらうのだからその一つ一つを根こそぎ学ぼう、この機会を活かそう、つまりは「もったいない人生を味わおう」と開き直った方が真に学べるように思います。

体験から学んだことは、本当のことです。

その体験から学んだからこそ、学びが楽しくなり、師友とのご縁にも、また自分の人生にも感謝できるように思うのです。すべての時間、すべての人生を、全身全霊でいるときがもっともいのちも輝き幸せを実感できるように思います。

もったいないからこそ、さらなる日々の体験を楽しんで生きたいと思います。

幸せの種蒔きという実践

人が生きるのに生き甲斐というものがあります。

生き甲斐とは何かといえば、生きることで歓びを感じる事です。

そしてどういう時に生き甲斐を感じるかと言えば、誰かの役にたっている実感がある時です。自分の存在が、人に歓んでもらっているとき、人は幸せを感じます。

しかしどうしても結果のことばかりを思ったり、相手がどう思うのかばかりを考えたり、自分のことばかりを思うと大切にしていることよりも目先のことを優先してしまうものです。

そういうことを続けていくと次第に歓びを感じるよりも、なぜ結果がでないのだろう、なぜ誤解されるのだろう、なぜ上手くいかないのだろうと不平不満に囚われていくものです。

長い目で考えたり、結果よりも意味を感じたり、自分の真心を遣り切ったり、全体が善くなることに尽力したりすることでそういう囚われから抜ける方法論もありますが、実際の自らの心は何を求めているのか、自らの心をどうありたいのかと向き合い、具体的な生きざまの実践にする仕組みを持つことで人は囚われにくくなるように思います。

仕組みというものは体制のことで、どのような体制で日々に取り組むのか、日々を生きようとするのかで自らの姿勢をも正していけるのです。もちろん、姿勢を正して体勢を善くしていけばそのうち体制もよくなるのだからどちらからでもいいのです。

四六時中自他の幸せのために尽くすような生き方や、四六時中困っている人たちのことに役に立とうと智慧を振り絞る中に自分の御役目があることを自覚していくように思うのです。

自他の幸せの御役目を与えてもらっているということは、日々の心を遣う機会を持つことのように思います。ないものねだりをしても仕方がないので、できることを積み上げていくこと、やれることは全部遣り切っていくこと、そういう中に相手からいただける有難うを噛み締めて幸せの種を蒔いていくように思います。

人は結果よりも大切なことを優先され、見守られることで自分の存在に感謝できるようになるものです。

存在を大切だと思えるとき、いつもそこに幸せの種に養分が注入されていくのを実感します。ご縁の大切さ、出会いの感謝、そういうものを忘れないためにもいつも相手のことを自分に置き換えて貢献していく実践をさせていただきたいと思います。

忙しい時こそ、大切なことを決して忘れないようにと実践を強くしていきたいと思います。

恩報愛人

昨日は中学時代のバレーボールの恩師の退職祝を郷里で行いました。

24年ぶりにお会いする恩師や、周りの先輩方、旧友は見た目には変わっていましたが人柄などは以前とは変わらず一緒に幸せで豊かな時間を過ごすことができました。

恩師へ贈るメッセージカードを集めていたら、そこに恩師との絆があることを実感します。

恩師の影響を受けて学校の教師になった人たち、今でもバレーを続けて指導している人たち、仲間を大切にすることや、忍耐の重要さ、そのカードから共通している部分が沢山観えてきます。

大切な時期に大切なことを教えてもらったことをいつまでも忘れずに、その後の自分の人生の宝物にして歩んでいる先輩方や友人、後輩の姿があるのです。

そういう私も、恩師とは深い絆をいただいていて自分の善いところを沢山引き出していただきました。それから24年間、ハガキを通しての関わりでしたが教育者として変わらずのポリシーを持ち続けていただ恩師に改めて心からの感動を覚えました。

恩師の最後の挨拶の中で、「バレーを通して少しでも人生の糧にしてほしい」という言葉に私が学んだのは恩師の後ろ姿から得たその生き方そのものであったことを知りました。

恩師という言葉は、「恩+師」でできています。そして愛弟子という言葉は「愛+弟子」でできています。恩も愛も、天人の「絆」を実感する言葉です。私が恩師からいただいた絆はこの恩と愛そのものだったのかもしれません。

これを私は恩報愛人、「恩に報いて、人を愛す。」とし、恩師や旧友に学んだことを心の題辞に刻むことにしました。皆の生き方や生きざまを感じて退職祝に集まった人たちの恩と愛を実感した有難い一日になりました。

蔭ながら支え見守り支援してくれた方々の御蔭に心から感謝しています。

これから昨日の写真を整理し、思い出のアルバムを創らせていただくのですが、改めて一期一会の出逢いの大切さを感じ直したいと思います。

 

日本源語

言葉や言語というものは、本来はその国の発祥から今までの文化を伝承して生まれてきているものです。私たちの日本語も、本来は日本人であるがゆえに使っているはずのものであったのです。

しかし明治以降、西洋の思想や文化を吸収して自国のものにするために言語を翻訳し西洋の事を理解できる言葉に日本語を変換し、西洋日本語というようなものにしてきたように思うのです。

今、私たちが使う言葉も実際は西洋の意味で使われていることが多いように思います。

例えば、グッドという言葉も良いと使われますが善いという字の日本語は西洋の良いという意味とは異なっています。日本の善いというのは、至善のことであり全てを「ことよさし」と受け止め受け容れ転じていくことを善いというのです。

しかし今の時代の善いという意味では、良し悪しの善いになってしまうのも本来の西洋の言葉で翻訳された日本語を使っているともいえます。他にも身近では、環境とか調和とか、循環とか、そういう言葉一つ一つが西洋から入った考え方や思想で使われ、本来の日本の思想の入った言葉では使われていないのです。

循環という言葉であっても、血液循環などの丸く流れるというサークルという意味で使われますが日本の循環では円満という全てのものが結びつながるということで使われていたのです。この結びという言葉もご縁と同義に使われるものであり本来の西洋人で使っているジョイントやミートなどという意味ではないのです。

日本語というものをちゃんと学ぶということは、人間である前に私たちは日本人であるという「源語」を学び直すということのように思います。

日本人とは何か、日本とは何かを学に民族学がありますが稲作からはじまり今にいたるまで何を食べて私たちが生きてきたか、その暮らしを通して何を大切にしたのかを伝承することが日本人として今を生きる私たちの故郷を鑑みていくことのように思います。

この故郷でさえ、西洋のホームタウンという言葉と同じではないのです。そういうものをひとつひとつ根源から紡ぎだし、本来の私たちの言葉が何を語るのかを自覚することが日本人に近づいていくことのように思います。

英語を勉強する前に、日本人になることが先であろうと思うのです。英語がしゃべれないのも、英語の持つ意味と日本語の持つ意味が理解できないからのように思うのです。私たちは、物音ひとつ、食べ物ひとつ、生き方ひとつ、全て異なる文化の思想の中にいるのです。

その思想をひとつひとつ紐解いて日本というものを生きることが、民族を伝承していくことのように思います。世間をみては、暮らしも政治も社会も日本らしさというものが何かということを実感しにくくなっているように思います。

今一度、日本の心、日本の精神、日本という言葉を再発見していきたいと思います。
私たちが世界へ伝えていくお役目に、この風土体験で昇華してきた日本文化があるのです。

言葉の理解から習い直していこうと思います。

初心鑑

世阿弥が遺したものに「花鏡」があります。

有名な一文に、「初心忘れるべからず」という言葉があります。

この時の初心は、何か始めたときの心を忘れるなと使われているようですが実際はそうではなく常恒に自分がどのような心でいるのかを忘れてはならないということを書いています。

そこには、こうあります。

「しかれば当流に万能一徳の一句あり。 初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。是非とも初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。この三、よくよく口伝すべし」.

これにも解釈を様々にする人がいますが、私にとっては花を自分の鑑として自らの芸を究め続けようとした自然から学ぶ姿。その時その時の時代で様々な出来事という風が吹く中で、常にその種(心)を見つめ、その種に花を咲かせていこうとする生き方の姿勢、つまりは世阿弥は生き方そのもののことを記していると私には思えるのです。

生き方まで高まったところで自らを磨くというものは、「実践そのものが人生」、「何も分けないのが人生」「今を遣り切るのが人生」、つまりは『人生こそが稽古そのものである』と定義し「、平常心を忘れずに自然を自らの鑑にして学び続けよ、それを当方の流儀の要とする」とその自らの生死観の思想を伝承したように思うのです。

そして伝承しようとするところにだけこの「初心」と永遠の命があるのです。

世阿弥に父観阿弥が遺した生き方という真心を受け賜る世阿弥の素直な真心、そしてその譲り受けた真心を息子元雅に伝えたいという世阿弥の親心、この世阿弥の「間合」にこそ純粋無垢、清浄無垢な「初心」という言葉がはじめて「為る」のです。

私にも生き方の鑑と呼べるような方が沢山あり、その人を自らの鏡にしながら自分の人生の稽古に励んでいます。師とは、自らを照らす鏡のようでありその鏡を観る時、自らの初心を映し出すのです。何を鑑にして生きるのか、それを花とするのもよし、それを月とするのもよし、それはその各々の美しい心にこそ聴けばいいのです。

有難いご縁はいつも偉大な存在を身近に感じさせてくれます。
私たちは生き方を通して人生を学び、生きざまを通じて一家を確立していくのです。

子どもたちに己の生き方を遺すのは自分の命を全て懸けられるだけの偉大な仕事です。

時事の初心を念じ、その真心を温め育て次世代へと家を発展させていきたいと思います。

始祖への糸を辿る

私たちは今を生きていますが、元々どのような由来で今があるのかということにあまり意識を継続することはありません。例えば、今までどのような生きものと生きてきたのか、今まで何を食べてきたのか、今まで何をしようとしてきたのか、そういうことも突き詰めずに生きていることがほとんどです。

それに自分の身の周りのことに囚われやすく、両親から祖父母、その先の先祖までは思ってもそのずっと以前がどうであったかということはあまり考えないものです。

しかし恵まれていることに私たち日本人には神話というものが残っており、自分たちの始祖がどのような目的で私たちを導こうとしたかということが今でも伝承されています。

これを創始理念とも言いますが、「はじめが何か」ということを大切にするということです。言い換えればそれを根ともいい、根は今でも創始理念に結びついて今の私達といった枝葉が出ているとも言えるのです。

根はどこで枝葉がどこかを知るということは、根を枝葉だと間違えないためにも重要なことです。自分一代のことのために自分を使う人と、身を捨てても根の養分を枝葉の繁栄のためにいきようとするのではその滾滾と湧き上がる根の養分を自分へ吸収していくことができません。

私達の民族の血の中には、始祖が決心した弥栄の理念があるのです。それを実現するために私たちは今でも発展と繁栄を願い日々に素直に尽力しているのです。穢れを祓い、禊し清め、いや栄えようと定めた真心があるのです。

私の思うかんながらの道ではこの始祖の理念を、清き明き直き心で実践することが何よりも理念を顕現していくことだろうと思っています。

人は考えませんが、なぜ今の自分が生まれていて今、なぜここで生きているのかを遡り、その理由を突き詰めればそこに理由というものがあることに気づけるものです。

その理由に気づけば、どうあればいいかは自ずと明らかになるように思います。

現在、日本のことを深めていますがなぜ世界に日本文化が必要なのか、私達日本人が世界で果たすお役目が何か、それをもう一度神話から見つめ直してみたいと思います。

始祖の動機が何だったのか、そして何を私たちが生成しているのか、つながっている糸を辿りその真意を確認しようと思います。

世界のはじまりは世界のおわりを意味します。世界が今もあるということは、必ず始祖があったということです。ここから世界共通の創始理念を紡ぎだして、世界へ正しく伝承できるものを掴みとりたいと思います。

日本を見直すためにも、まずは世界の発祥から考えてみたいと思います。