ソーシャルビジネス

昨年、バグラディッシュでグラミン銀行を設立して世界の貧困撲滅の実践を行うムハマド・ユヌス氏の講演を拝聴した。

二宮尊徳を学び実践する中で、今の時代にも同じ観点でビジネスに取り組む人がいるのだと理想と憧れとともに話を伺った記憶が今でも鮮明に残っている。

もともとこのユヌス氏の思想である「現在の資本主義が、人間について利益の最大化のみを目指す一次元的な存在であると見なしているとする。これに対して人間は多元的な存在であり、ビジネスは利益の最大化のみを目的とするわけではない」とある部分に私はとても共感している。

そもそもビジネスという意味の定義が今の時代は資本主義の中だけで、株主を中心にした会社としてのみ捉えられ本質としてのビジネスの在り方を問い直されてはいないままになっている。わが国では、渋沢栄一や二宮尊徳、近江商人など、もともと三方よしの考え方を根底に持ってビジネスというものを定義している。

かつて存在したビジネスは道徳の経済の一致や、売って喜び買って喜びみんな喜ぶという、そもそも何のために商売をするのか、経済をするのか、道徳があるのかという根本から捉えているからビジネスという元々の意味はその資本主義で定義されている今の時代のビジネスとは一線を画すのです。

先日の講演の中でも、東北の大震災の復興でユヌス氏が提案したのが「生活保護で補助し援助するのではなく、文化事業などを掘り起こししっかりとした持続可能な会社をたくさんつくり世界へと発信することだ」とありましたが私もとても納得できました。必要なのは、一方的な援助ではなく、共に生きていくための持続可能なビジネスにしていくことだと私も思います。

補助金の業界で一度でも仕事をすれば、すぐに何が間違っているのかは気づけるからです。
最初は補助が必要でも、すぐに自力で自立できるようにしないと時間が経ち当初の目的を忘れて次第に持続しない社会へとそれらを運んでしまうからです。

生きる支援というのは、自立支援というのは、生きていくための方法や、生きている意味や価値を感じられるソーシャルビジネスを共に行うことで成り立つのです。震災後、一年経って見て、現実に起きている問題を直視すれば国家の支援の官僚的な采配が如何に矛盾しているかを改めて実感します。

そもそもソーシャルビジネス、社会起業といったものは、新しい物ではなくそれが本来のビジネスの在り方そのものであったのです。昔からビジネスというものは、社会をより善くしていくために持続可能なやり方で取り組むということからお金という手段を使い成り立たせてきたのです。

今は職業が分断化され、福祉の会社、奉仕の会社、経済の会社などと分けていますがその分け方自体がおかしなことなのです。それを勝手にわけたのは、分類上、上から都合で分けただけで現場では分かれてなくただソーシャルビジネスというだけであるのです。

社会に自分を役立てたいと人はまず志を立てます、そしてその志を貫くための手段を考えます、そしてそれを持続可能にするためにあらゆる技術を使って具現化していきます。カタチにするには、ソーシャルビジネスとして理想を実現するための至高の経営技術が求められるのです、それは決してチャリティやボランティアと同じように語れないのです、今の仕事のむずかしさからこれを実現するには真の実力が必要だということを感じない日はありません。

本来、いろいろな会社があっていいとは思いますが私が目指している経済と道徳の一致の理想の会社は教育界や保育界には必ず求められる社会企業でなくてはならないと思います。何をもって持続可能とするか、子ども達のいる現場なのだから大きく捉えて自然であるということにこだわることなのです。

世界では同じようなことに目覚めている人たちはたくさんいます、そして結果をちゃんと出しているのです。目を開いて、人が棲まう社会全体の中で自らを正しく理解し、この道中を楽しんでいこうと思います。

道の御蔭

そのものの自然の姿に近づけるように栽培し、養育する。
これが自然という名の人道的な進め方である。

もともとすべてのものはお借りしているという理念から考える。

そもそも自分の都合よくいくものは何一つなく、万物は自然であるのだからその一部としての自分たちもそれを享受し、共生し、互いに貢献をすることでそのいのちのめぐりを生きるのが私たち生命体であろうとも思います。

そんなあたり前のことですら、今の人間優先の世界では気づけないものなのです。

そもそも自分だけで何かを創りあげることはできません。
どんな小さなことですら、たくさんの見守りの中で可能となっているのです。

まるで何か偉大な存在が手助けしていただいているような感覚。
そういうものを自然の中では感じることができるのです。

野生を自然と呼んだり、何か人間以外のものを自然と呼びますがそうではなくそれがいのちの道、かんながらの道、 人の道、この道というものなのです。

道を忘れて今はありません。
道が失われても今はありません。

今あるのは、すべてにおいて道の御蔭であるのです。

何より大切な私たち本来の姿に回帰して心の故郷を充実させていきたいと思います。
子ども達もともにこの道を歩んでほしいと願います。

オープン民主主義

昨日、久しぶりに田坂広志先生の講演を拝聴してきた。
以前、田坂塾に通ったこともありその思想に触れ大きく啓発されたものです。

知らなかったけれど原子力の論文を書き、その業界でお仕事をなさっていたそうで今回の大震災で官邸に招聘されて改革の指揮なども取られていたのが驚きました。

その中で、田坂先生が気づいたこと、何が本当の問題なのかということを生々しい実体験と人生の経験からお伝え頂きました。

そもそも国家の危険はすべてに楽観的空気から生まれます。昨日書いた平和ボケと同じで、どれだけの危機かと叫んでもそんなことはないだろうといった希望的観測を認知することで大切なことが素通りするのです。そして常にそういうことをやっていると、上層部にあるのがわけのわからない言語が飛び交うことです。これは保育や教育の方でも言えますが、語尾を微妙にすることでさもそれで善いのだというように誤魔化します。

大綱化や、何とか状態、直ちにではない、などなどキリがないけれど曖昧な表現をすることで言わなかったとはしないといった責任転嫁の言語体系が蔓延るのです。昨日も書きましたが、それはすべてさ「先送り」と言えばいいのに言わないのです。問題を常に先送りする上層部やリーダーに着いていく国民や部下は大変なことです。

また、物事の最初の情報と最後の情報を隠蔽すれば人はみんなお任せ状態の依存型の関係が発生するのです。根本的に何が問題だったのかをオープンに議論せず、結論としてどうあるべきなのかをオープンに議論せず、いちいち発生することだけを何回も議論してそれも隠れ部屋のようなところで繰り返す。

これに何の意味があるのかと憤慨するものですが、事実はこういう社会になっているのです。

以前、オランダに訪問した際に、子どものときから如何にオープンにしていくか、そして子どもに根本的な問題を投げかけ、そして最終的な問いを遺すようにするという参加型民主主義を見てきたことがあります。

今のクローズされた民主主義では決して話し合いや議論、国民が参加できることはないと私も思います。だからこそ、今こそ社会変革が必要でそれは子ども達も一緒になって取り組んでいく必要があるのです。

私が行う一円対話には、そういうことをすべて凝縮したものを詰め込んでいるのです。
これからもこの世界の行く末を見守りながら、自分から生き方と働き方を変えていくつもりです。

久々に田坂節を拝見でき、あの時の気持ちを思い出しました。
道を歩めばいつのときも「Unfinished Business」。

私も避けずに正面から向き合っていきたいと思います。
有難うございました。

真善と偽善

先日伺った自然養鶏でとても興味深い話を聴いた。

善い卵というものは、美味しいものというわけではないということ。
つまりは、 世間でいう善い卵は人工的に卵が美味しくなるように動物性たんぱく質などをを添加し人間の味覚に美味しくしようとするものだけれど、鶏にとっての善い卵は雑草や虫、土などをたくさん食べた卵であるという。

これは卵でも前者のものは孵化率が低く生まれた雛もあまり健康ではない、しかし後者の卵は孵化率も高く雛も健康であるということ。言い換えれば、人間の食べるための卵が善い卵という定義と、鶏にとって善い卵かどうかということでもある。

そう考えると、善いものというものは人間にとって都合が善いものと、そのものにとって本来善いものというものがあるということです。

善いというのは、元々であったから善いということ。
本来の姿が一番善いという意味でもあろうとも思います。

子ども達のことを考えてみても、もともとの子どもらしさが善いという声もあるなか周りは様々な子どもにとって善いだろうというもので保育や教育をするものです。しかし実際は、師からの話でもありますが保育や教育とは本来のものを忘れないようにすることや引き出すことであるというものです。

自分たちの都合の善いようにと教育していくことは確かに人間にとっては善いことなのかもしれません、自分たちのために働いてほしいからです。しかしそれが果たして相手やその生き物にとっての幸福であるとは限りません。その時の関係は服従関係となるのです。

しかしもし本来そのものがそうしたいと生きていて幸せであるものを活かし、その中でお互いに助け合い生きるのであればそれは幸せを享受しあえているともいえます。その時の関係は共生関係となるのです。

私たちはあまりにも自分たちの都合の善い方へと、それが善いことだと言い切って断行しますがそれはあまりにも視野が狭いのではないでしょうか。

人間だけで生きているのであればその視野になるでしょうし、今の大人の社会だけが中心であればそういう視野もあるでしょう。しかし地球全体でや自然をトータルでや、持続している方の社会から物事をよくよく俯瞰して観察すれば如何におかしなことをやっているかはすぐに気づけるはずなのです。

善いといっても、誰にとって善いのか?それが自分たちだけになっているのは常に視野狭窄であるのだと思います。自分の存在が如何に世界のお役に立てるのか、すべての生命はそれを感じているようにも見えます。

あの植物もあの昆虫も、そして動物、菌、石も太陽も月も、みんなそう願っているかのようです。そういうものと一緒に生きられるということはとても幸せなことであろうとも思います。今のような時代、大切なことを忘れてしまうのはその善いことという落とし穴である気がします。

まだまだ刷り込みを取り除くことに専念していきたいと思います。

土中の歴史

土を掘ると何層にも堆積した歴史が土中から感じることができる。
何年もかけて降り積もってきたものが、積み重なり今がある。

ある時代は、乾季が続き、ある時代は雨季が続く、様々な気候変動にあわせて少しずつ私たちも順応しながら循環の中で共に生きてきたともいえます。

一見、何も変わっていないような一年に見えても自然は雄大な時間の流れの中でずっと大きな変化の真っただ中にあると感じるのです。それを土中の歴史に感じるのです。

そこの屍の層をよく観察すれば、長い年月で順応した我々と、また共に生きてきた動植物や菌類までみんなこの地球に生息する者同士、一様に繋がりの中で助け合いながら変化とともに今を紡いできたのだと思います。

だから自然には無駄がないのだと思います。

そして変化が大きいことを知っているからこそ、皆が共に生きることを選んだともいえ、それは自分だけでは生きられないことを自然にいるものはすべて心で自覚していたのだと思います。

人間はあまりにも大きな変化に気付けなくなったのは、文明の些細な変化といえども目先しか見ないような生活になってきているからだとも感じます。日々を忙しくし、日々の情報に一喜一憂していれば次第に雄大な変化のことなどまったく見えなくなっていきます。

そしてまた目先の順応にあわせるために科学力を使い、便利さを追い、また弱体化していくのです。本来の自然は、雄大な変化だからこそ私たち生き物も毎年少しずつ雄大になっていけるように進化してきたともいえます。

進化とは、変化することで、そして退化することでもなく、やはり順応なのです。

目先の変化のために今では即席栽培できるように種をいじり、遺伝子を操作し、環境を管理しやっていますがはたしてそれは順応とはいえるものでしょうか?

これからますます自然の雄大な変化の中で私たちがやっていることは、子ども達の弱体化ではないかと、そう思うのです。

子ども達の生きる力を引き出すのは、まさに私たち先進国といわれる文明社会の人間の正対すべき課題であると私は思います。貧富の差も、食糧危機も、何もかも、身近な足元から危機は迫ってくるものです。

常に、脚下照顧し日々の小さな気付きを大切に過ごしていこうと思います。

誓う日々

環境や状況から学びというのはいくらでも深めていくことができる。
いつのときも自分の都合よくいくものといかないものがあるのも学びのためでもある。

時代によってある程度、自然な流れというものがある。

どうしようもないものを受け容れるからといって、それで何もしなくていいというわけではない。
その現実を受け容れつつも、自分がどうするのかを決心することが人の道なのだろうと思う。

何かの真実を知る時、憤慨することもあろうし、 受け容れ難いこともあろうとするのが人間でそれを避けようとしてはいつまでも外側の状況ばかりを変えようとするものです。

しかし現実を受け容れてから、どうするかのほうが大切なのはそれが真実だからだとも思います。真実を受け容れる力というものは、やっぱり素直かどうかという気もします。素直になれば相手はいなくなり、他人のせいにはしなくなるものです。

自分がそこから何をし、何を為すか、そしてそこから何を学ぶのかに行き着くからです。

学ぶというのは、全体の中で自分が大切な役割を担っていることを自覚することのように思います。一物が全体となっていると知れば、自分を如何に怠らずに勤め上げるのかはいのちのすべてが呼吸を繰り返すかのようなものです。

例えそれが大海の中の一滴の雫だったとしても、そこに確かな意義があり、またそれが吹けば飛ぶような小さな塵であったとしても、そこに一体となった真実との絆があること。

そう思うのです。

子ども達やいのちのことを思えば、受け容れ難い現実ばかりがあるようにも感じます。
時には、遣る瀬無い気持ちに心が滅入ってしまうこともあります。

しかし、希望を捨てず諦めず、自らの本業を遣り続けていくことだろうと思います。
この灯を絶やさせはしないぞと心に誓う日々です。

時処位

時代の変化とともに、その時に必然的に発生した法則というものの理解も変わってくる。
これはまるで、根源は同じでも辿り着く道がそれぞれに異なる事に似ている。

つまりは聖人が如何に色々なことを語り遺したものがあるにせよ、その時代時代に価値観は変化するものだからそれを正しく理解するにはその時代の価値観も理解しその上で正しくそれをカタチにしていくことができる人たちが時代時代を担うようになっているといっていい。

しかし、これはとても難しいことでその時と処と位のタイミングが合わなければ場合によってはかえって裏目に出てしまうこともあるのではないかと私は思う。古の先覚者たちの言動や行動を省みていても、正しいことを信じて行いながらも時代の価値観にあわなければどうしてもその人にしか観えない真実を周りが理解することができずその人を正しく活かすことができなくなっているようにも感じる。

時処位というのは、人間界と自然界との絶妙な組み合わせにより様々な目覚めのキッカケを与えてくれているものではないかと私は思う。

熊沢蕃山のことばの中に、 「山水の地理に通じ、神明の理を知る」というものがある。

これは、太虚といった無や空を体得するのにまずその自然の地理を善く学ぶことでその霊妙な働きや法則を知ることの大切さを説いている。私たちは、もちろん人間の中にいて人間から様々なことを学んでいる。

しかしそれ以前に、私たちの先祖はみんな人間より前のものから学んでいたものがあった。それは私たちを創造したものがどのようなものでそれから自分の大極を理解し太虚というものの中で生命を悠久に育んだともいっていいのではないかと私は思う。

つまりは、過去の聖人や聖賢はいったい何から学んだかということでもある。

時代が変わり、環境が変わり、価値観が変わっても、それでもいつも根源に立ち返れるのはいつまでも永遠に普遍であるものがこの世界にいつも存在することを理解しているからでもある。

そういうものから私たちは何をもっとも大切すればいいのかは、体験がない子ども達へ決して忘れることがないようにと神話に記され語り継がれてきているのです。日本人であればその大和魂とも言える三つの真心によって示されているのは三種の神器を観てもわかります。
これは過去に私たちがもっとも間違いを犯すであろうことを先祖が心配し、語り継ぎ忘れないようにと持戒さしめるために用意したものであろうと思います。

そもそもこの時処位というものがはっきりしていれば、自らが常に潜龍であること尊ぶことができ志気益々盛んに最期まで至誠を貫いていくことができるのだと思います。しかしそういうものを心で学んでいなければ、やはりどうしても時処位に流され後世に実体験としての大切なものを譲り渡していくことができないのだとも思います。

人間は体験したことでしか学べないようにできているのだから、体験したことはずっと体験したものによって心を伝えていく必要があるのではないといつも感じます。

これからも人間はずっと普遍なものに近づき、普遍なものをカタチにしていこうとするのはある種の本能ともいえます。だからこそ、そういう温故知新の気持ちをいつまでも大切にしていこうとするのが人間教育の基本である気もしています。

時処位と正対した先覚者の言葉に色々と深い感慨を受けます。
最後に、熊沢蕃山はこんな言葉を遺しています。

「木がらしに落るもみぢはくちぬともつきせぬ春に華や咲かまし、小夜あらし四方の落葉はうづむともわけゆく道はしる人ぞしる」

たくさんの降り積もった落ち葉をかき分けながら真実の道を辿りそのまま子どもたちに手渡していきたいと願います。

 

 

自然界と人間界3

元々集団で生きている動物に猿やチンパンジーなどがある。
人間がよく例えられるのは行動が似ているからでもある。

例えば、先日ある農園で最近イノシシやシカやタヌキなどが、畑を荒らすという話をしていたときに彼らはまだましでもっとも面倒なのはサルだと口を揃えて皆が話をしていたのを聴いた。それはなぜかと話をしていると、道具を使う上に狡猾だからだと話をしていた。

まるでどこかの話だなと思いながら聞いていたけれど、人間界での出来事と同じく自分たちの群れを守るためなら猿山合戦を繰り返して終わりのない勢力争いを続けている姿を見ていても似たようなものだなと思います。

その群れの中でも徳の高いサルが出れば群れはよく治まります。ジャングルなどでも、繰り返される弱肉強食の世界でそういう群れのリーダーがいれば争いも少なくなり平和に修まっていくのです。

それをまず理解し、人間界ではどうあるべきかを考えるときもしもこのサルで例えればすべての動物のことを考えるサルがいたらどうかということなのです。サルが自らの群れのことだけを優先せずに全動物の調和や豊かな森を維持するためにと考えるならばどうなるでしょうか。

人間が自分たち人間のことしか考えなくなると、必ず所属する群れという国家というものを優先し争いはいつまでもなくなりません。それは元々生存していくためのそういう本能を持っているからだともいえます。 しかしそういうものを乗り越えていくことで、リーダーとして自然の調和を司ることができるのだともいえるのではないでしょうか。

自然界では、当たり前にそれぞれがそれぞれで自分らしくいることで調和を永続しています。人間は群れの大きさや安定などのために、何度も何度も争い続けます。

目先の集団の利益ではなく、全体の集団として捉える壮大な理想が必要なのだと思います。
もしも自然界というもので生きている人間としての使命を覚えれば、動物たちや植物たちが安心して暮らしていけるような世の中にしようと思うことはこれだけ科学技術を発達させてきた私たちの役割ではないでしょうか。

また人間の社会が、また目先にならないように如何に全体のために生きようとする人々を育てるかはその人間を全人類としてひとまとまりとして考えるのがすべての国のリーダーの共通理解であるべきではないでしょうか。

今、時代は二度の大戦を経てついに次への舵取りを迫られています。

視野を広げ、本来の人類がどうあるべきかを色の違う、住処が異なる生活ゾーンが分かれているサル集団同士の問題だけに躍起になるのではなく どうやってこの刷り込みから抜け出せるのかを議論して人道というものをまとめていくことではないかとも私は思います。

結局、派閥争いや集団のいがみ合いではいつまでも目先に囚われるのだからもっと全体としての自然界から学び直していくことで原点回帰し新たな役割というものを再定義していくことになるのだと思います。

子ども達と一緒にこれからも考えて動いていきたいと思います。

世代交代

すべての生命には世代交代というものがある。それは時代が変わり、新しいものが生まれるのは流れが循環する中で時も一巡して新しく環境が変化していくことを意味している。

場所が同じところであっても、時間が経てば廻り回って戻ってきたときには少し変わっているのだから、時とともに新しいものに対応できるように歪をなくすためにも生死があり、古きものが新しいものになることで調整していくのであろうとも思う。

歴史を観ても同じく、時代の変わり目は節目というものは全てにおいて世代が切り替わっているのであり、昔の世代が終焉を迎え、新しい世代の時代になっていくから国も変わり、倫理観も変わり、ありとあらゆるものが変わってしまうのであろうとも思う。

しかしその時代の節目には、自分を否定されたと思ってしまう前の世代が必死に自分たちの遣り方をいつまでも固守しようとし頑固に頑張り続けるから新しい世代にスムーズに切り替わることができず、いつもトラブルを起こしてしまう。新世代の人たちは、自分たちを信じてもらえなくなることで自由にさせてはもらえず教育や過去の価値観の押し付けや洗脳等によっていつまでも先の世代での遣り方に従い維持していこうとなってしまうのであろうとも思う。

特に先の世代の時代は必要とされて認められていた価値観を新しいものたちから否定されることほど古い世代にとっては辛いものはない。その時の頑張りがあったからこそ今があるというのに、今の世代にそれが間違いだったと言われることは自分の生い立ちを否定されたかのように勘違いしてしまうものだからである。

しかしそれをもう一度よく深く洞察してみると本当は認識違いで新世代は旧世代を決して否定しているのではなく、時代が単に変わったのだと伝えているだけなのに対して、旧世代が自分の役割がまだまだ終わっていないと自分の居場所に固執しているだけという構図になっていることが多い。

特に親子関係でもそうだし、会社でも役員交代でもそうだけれど自分がいつまでもそこに居座っていたら後に来る人たちはどうしても自分たちのやりたいことを自由に取り組もうとはできなくなってしまうものなのです。

本来は、新世代は先代が築き上げてきたものを正しく壊し正しく作り直すという役割をもらっているのだからもっと信頼して挑戦させてあげることを繰り返すことで畢竟、それぞれの世代の役割を正しく果たすことができるのだろうとも思います。

それをやろうとする新世代のことを思えば、新世代が好きなようにしていくことを受け容れることが自分たちがやってきたことをちゃんと認めていくことになるのであろうとも思います。自分が今までやってきたらこそ、ここで新しく壊す必要があるということを受け容れるということなのです。

自分がやってきたことを正しく役割交代することが、世代交代の意味なのです。

それはまるで子どもが成人になるまでに大人が変な教育で自分たちの価値観を一斉に押し付けて刷り込もうとするのではなく、子ども達の世代なのだから子ども達の自由にさせてあげよう、そしてそれを温かく見守ろうとするのに似ているのです。

私の定義では、もう子どもが大人になったら世代交代の時期であると思っています。

いつまでも大人が社会に居座らないで、子ども達が子ども達の社会を子ども時代に創っていくのを見守る役割になったのだと私は思っています。

子どもの自由を奪う権利は大人にはなく、当然その世代を謳歌した人たちはもうすぐに譲り渡す準備をするべきであろうとも思います。子ども時代が奪われたからと子ども時代を取り返そうとするのではなく、そういう思いをしなくていいように子ども時代を与えてあげればいいのです。

時代はこれからも永遠に変化し続けていきます、これは誰にも止められません、止めれば自然の摂理で無理がきて崩壊するだけです。それを考えれば、子ども達、その新世代にこの世界を任せていくことの方がより無理なく自然に役割を果たし自分たちの命の繋がりも譲っていくことになると思います。

いつまでも自分の居場所をばかりを求めるのではなく、次に訪れるものたちのために席を空けておくこと、世代交代は役割交代なのです。

私自身、今の子ども達の新世代のために早々に子どもを見守る側に正しく入っていこうと思います。

 

我執の魔障

心を学ぶということは、心を磨くことで自らの生き様を変えるということである。

これは過去の聖賢の人たちの軌跡を学び、その人たちと同じような心のままで自分もあるかを観照しつつ内省し、新たな日々を正していくことで心の曇りを取り除いていくことであると私は思う。

なぜ日々に新たに学ぶかと言えば自分の生き方が本来の天命に叶っているか自然から離れてしまって歪んでいないかということを常に流されないように確かめるためでもある。

生き方を問うとき、それは心を問うことになる。

その心を問うときに、素直に生き方を変えることができる人と頑固にいつまでも自分を変えようとしない人がいる。

それは最初の問いの境目に、欲か心かのところですでに正否が決まっているのである。

それは生き方というものが何かを考えるとき、その人が何を優先しているかということを問い、その人が何を最も大切にしているかということを確認することが人生なのだとも思う。

日々に素直な人はすぐに根本まで辿り着き、答えが顕われる。
しかし日々に歪んでいる人は自我欲が邪魔をして、自分都合の歪んだ答えが顕われる。

この自我欲とは、私心のことであり、常に出来事を自分の方へと向ける心、自分の事の方が大事だと思っている心、いつも自分中心に物事を裁いている我執のことである。

我執の強い人はいつも人生がうまくいくことはない、つまり心が素直にならないから豊かではなく貧しいのである。その貧しさゆえに、様々なことがおかしくなっている、例えば人の話を素直に聴くことができなかったり、人間関係でいつも失敗したり、金銭トラブルを抱えたり、今が幸せだと思えることがなかったりする。

それは自分の中に棲みついている我執がいつも邪魔をして、何か自分が責められるのではないかと不安と恐怖で防御してしまいその魔障の壁が邪魔をするからいつも素直に正直な澄んだ心が出てくることがないのである。

心が出てこず魔が決めたことにしているのだから表面上となり、すぐにそれは裏目に出たりボロが出たりし憑りつかれたようにまた我執にしがみ付くという悪循環になるのである。

その生き方の悪循環から一向に抜け出そうとはしないことを頑固だともいう。

何が頑固かというと、いつも自分の方ばかりを守ろうとする人が頑固だといい、そういう人は自分で自他を責めることにより常に壁をつくりいつまでも自分を守ろうして凝り固まっている。

なぜいつも自他を責めるところから入るかといえば、自他から自分の身を守るため、自分を自分が責めることで防御し、自分が相手を責めることで防御することができるからでもある。

その防御壁という名の欲魔が障壁をいつもつくり邪魔をすることで、心を問う行為がいつも真心に到達できずにいるのである。

そして生き方とは、常に自分の心が決めることなのだから、そこが間違えてしまっては本当の自分の真心ではないのだから何をやってみても根本的には解決せず真に自分を変えることはできないのである。

自分を変えるということは、生き方としての在り方をどうありたいか、それはつまり本当に守りたいものは自分ではなく心の澄んだ自分の心で決めた何かであることになっていなければ変わることはできないのである。

だからこそその魔障を取り除くためにも正しい学問、日々の生活で慎み自分を格す必要ががあるのである。

自分が変わるというのは、自分の澄んだ心のままでいることは壁を自分から先に造らないことであり、誠の心を開いて素直に自分の間違いを正していこうと精進し、一番大切なもののために自分を使っていきたいという命の姿勢そのものの心の態度を変えることからはじめてできることなのであろうとも思う。

世の中には、おかしな教育を受けたり、幼い時に悲惨な思いをした人たちもたくさんいます。そういう環境にあったことを認め、哀れみの真心という慈悲愛心をもって、自他の境を超えていきたいものです。

万物一体の仁にはまだまだ道遠く感じますが、聖賢の方々の実践の気づきには学びに勇気づけられています。

致良知の実践、心を常に省み、一歩一歩を踏み締めながら誠を磨き、丁寧に過ごしていきたいと思います。