道導~みちしるべ~

人は道を通して学問を深めていくもののように思います。道があっても道に入らぬではないですが、同じ道を歩くのならやはり道なのだと決心して歩く方が楽しいのです。

少し考えてみると、自ら歩み出したものと誰かによっていつも歩かされたのでは同じ道であっても大変勿体ないことをしているように感じるものです。

人は何かの判断をするとき、辞めればいい、避ければいいという発想が元にあるとします。すると、そこから道から外れようとするのでしょうが結局はどこにいっても道はあり、”どの道やらないといけない”のです。それが自分のたった一度の人生、「生きている」という自然の摂理だからです。道に気づけなければ一生なんとなく終わることもできるのでしょうがやはりそれではもったいないのです。

この「どの道遣る」というのはとても大切なことのように思います。遣ると決めれば道が顕われ、遣ると決めないから道が観えないとしたら、まず今立っているこの道を、とことん遣り尽くそうと覚悟を決めることでどの道もまた開いていけるようにも思います。

そもそも学問というものは、理屈や名誉のためにしているとおかしくなるように思います。どのような学問を見てきたか、どのような学問をしてきたかというのは自らの人生の判断基準になるように思います。目的があって学ぶのですが、その目的を見失うから道が観えなくなるものになるのかもしれません。

中江藤樹にこういう言葉が残っています。

「人間、学問に志すというのは、道に志すものでなければならぬ。ところが今の学問は、己の知恵を磨くより、人に誉められたいという名誉心、はなはだしきは、金銭のために学問をするということで、その志たるや実に卑しい」

道に志すというのは、正直に学問をすることのように思います。正直であるというのは、日々に真心を持って体験したことを内省し改善しまた新たな実践を積み重ねて精進していくということであろうと思います。

しかしそういう体験を避けて思い通りにしようとし、反省ばかりをしては実践を怠り後悔ばかりというのでは自らの道を歩もうとしていないのではないかとも思えるのです。

道は、決心するところに顕われ、正直に行うときに歩んでいるように思います。そして志すにはそこに大義や正義があり、目的や理念に立ちかえって初心のままでいることのようにも思います。

昨日は、リーダー研修がありましたがリーダーの心得とは何か、愛敬するということや人格を磨いていくことの大切さを改めて感じ得ました。善い先生の道導があってこそ、はじめてその道は伸び拡がっていくのかもしれません。善い師善い友とのご縁は掛け替えのないものです。

「それ学問は心の汚れを清め、身の行いを良くするを以て本実とす」(中江藤樹)

真心を尽くして一日一日、またそのご縁を活かしていきたいと思います。

維新継承

昨日、リーダー研修があり最後の話で藤森代表から「主人公」と「伝承」という役割の話がありました。先祖が真摯に生きて今の自分があるからこそ、尊い御役目が自分にも必ずあることをもう一度よく考えるという機会になりました。

日常が当たり前になっていると自分だけで物事を考えますが、今の自分があるのはどのような御蔭であるのか、連綿と続いてきた風土や結縁、生死のめぐりのなかで受け継いできた魂やいのちの存在を実感します。

そういう自分をそういう今をどれだけ愛しく大切に生き切っているかを思うのです。

語り継ぐものに出会うとき、受け継ぐ側の覚悟を省みます。本気で生きているかというのは、本気で死んだ人たちの積み重ねの上に自分がいることを決して忘れないことかもしれません。

それは、今を真摯に生きぬくことで自分の御役目に感謝していることかもしれません。

今、自然農然り、古神道然り、大和魂然り、一つ一つのことを紐解いて自然からの手ほどきを受け学んでいますがこれも受け継ぐ側の覚悟があってはじめて語り継がれていくものです。外来の思想や、人工智が高く評価されてそれすらも誰も気にしないくらい浸透した昨今では、かつての風土の思想や自然智の価値を新たに実感する人も少なくなってきているように思います。

先祖たちがどのように生きてきたのかを知ろうともせず、周りだけをみて今までもずっと今のような生き方だったのだと思い違いをしてしまうことがほとんどです。戦争のことでも、私の祖父の代の話であったのに、受け継がれなくなるとすぐに感覚がマヒしているのが分かります。

これだけ継承していくことや伝承するということは、その時代の生き方の反映であり、そこに語り継ぐものと受け継ぐものの価値を等しくしていないと互いに成り立たないように思うのです。そう考えてみたら、それぞれが真摯に真剣に主人公として生き切った跡にこそ最も価値のある口伝が存在するように思います。

神主とは私の中では、自然のバランスを司る者、つまりは一切の無駄というものがない”しくみ”そのものになる者と定義していますが、これも受け継ぐにはそれ相応の覚悟があって先祖の叡智を直観するのでしょう。

刷り込みに誘惑されないで正しく受け継ぎたいという畏れと尊敬と謙虚さがあってこそ伝承は成り立つのです。先祖の素晴らしさを思うほどに、自分の襟を正すことばかりです。頭で理解することではなく、語り継ぎ受け継ぐという意味、つまりは真実の思想の継承なのです。

その人の時代があるとき、自分の時代があることに気づかなければなりません、同じ生き方をしても同じ時は共にできません、だからこそ自分の代を真摯に生き抜かなければなりません。そこには思想を受け継いでそれを正しく新しくしなさいといったメッセージと意志を感じました。

「飛鳥から江戸は旧邦なれども、その智慧は維新なり」

これは今年ご縁があった保田與重郎の言葉です。

そして中江藤樹の訳した孝経こうあります。

「旧邦を興して天命新たなり」

時代が変われども、受け継ぐ人がいることを教えてくださいました。思想など目には観えないものかもしれませんが、心に響いたことを心に刻み、志を貫徹していきたいと思います。

大事なことを直観しました、いつも本当に有難うございます。

 

自生のサイクル

昨日、シイタケやヒラタケ、キクラゲなどの種菌を榾木に仕込む作業を行いました。昔は、山の中に自生するのを待ってうまくシイタケがつけばいいと何度も繰り返し菌が降ってくるのを待っていたそうです。空気中には色々な菌がいて、シイタケがついてくれる可能性というのはどれくらいあったのでしょうね。

今は何でも簡単便利に購入して、種菌も移植できますが昔の人達の長い長いゆったりとした自然時間をかけて繰り返し大事にされてきたいのちをその気持ちになってみつめてみたいと思います。

榾木は森の中に休ませ、菌たちの生活するための住居を用意し、それを見守り約2年後には沢山のきのこが出てくることと思います。自然が共生するというのは、それぞれの生きもの生活を用意してその恩恵によって少し分けていただく中にこそ有難みがあるように思います。

約2年後というのは、私の見解ではきのこの菌が榾木の中で繁殖し確立したらまた別の棲家を求めて旅立つ際に協力してきのこになるというものです。ここできのこになるというのは、増えすぎた棲家を若い種たちが離れて新しい棲家へと子孫を残していくための自立になるということなのでしょう。

菌という生きものは、そのものが種であり種であるから繁栄発展していくように思います。そこから推察してみると、私達一人ひとりも大切な種でありその種が次世代へと希望を繋いでいくようにも思います。

種が散らばって土に落ち、地上で花を咲かせて実をつける。
こんな当たり前なことも、菌や植物や生きものから学び直しているところです。

さて発酵を学ぶ中で次第に発展して、菌というものを身近に感じるようになりました。発酵というものも、菌が活性化することで行われるものです。ある一定の菌の食べものさえあれば特定の菌たちがそれを食べ尽くす際にエネルギーを放出していきます。

私達のご飯と同じように、食べるから元気がでてその元気さが発酵の証とも言えます。どの食べ物を食べるかでお腹の中の菌の種類も、また菌の構成も変化するのですから如何にそのものの環境に相応しいものを用意していくのかというのは大事なことなのでしょう。

そう考えてみると、きのこではないですが私たちの身体は榾木のようなものなのかもしれません。菌が私たちの身体に棲みついてその体で繁殖し移動していくのですから。植物や木々も、根っこには菌があって菌がそこに棲みついてきます。

あながち、生命の本体が菌であり私たちはそれを助けるために身体を構成したのかもしれません。人間の細胞も60兆にもなるといわれますから、そこには何か菌の不思議な力が働いているのかもしれません。

マクロもミクロも宇宙ですから、これはこれでまだまだ見極め研究も実践も楽しんでいこうと思います。これから数年の自生のサイクルできのこの見守りがはじまりますがゆったりとした時間の流れを寄り添いながら味わっていこうと思います。

変化を優先

人が変わるという時には、通過するところがあるように思います。

変化というものは、そのものを受け容れるときにはじまるように思います。そしてその変化を阻害するものが何かといえば、不平不満や不貞腐れるという心の態度のように思います。

なぜそうなるのかというと、自分の思い通りにいかないことからそういう感情が湧きたってくるようにも思います。その感情がひとたび起こるなら、自分の思い通りになることが良いことでそうではないことは悪いことだといった自己中心的な思考に囚われてしまうのです。

これがなぜ変化を阻害するかといえば、そこには深層心理の中に「自分は変わりたくない」という気持ちが働いているように思います。物事や時代や環境は、刻一刻とと変化をして已みません。

今までようやく慣れてきたことも、そのうち変化が大きくなって慣れてきたことを手放さなければなりません。人間はもともとは安定したいものだから変化というものを嫌うのが普通なのかもしれません、自分がようやく変化に馴染んだところでまた変わるのかと思うと億劫になるのも無理はありません。

それは年齢や経験に関係なく、大変だと思っていれば思っているほどに自分は変えたくないのです。自分を変えたくないという気持ちが不平不満につながり、自分の方ではなく他者を変えてしまいたいという欲求から批判もまた発生してくるように思うのです。

人はそのものの変化をどう受け容れるかというものの中に、目的や目標を維持する力があるように思います。そもそも自分が目指しているものは何か、何のために今があるのかを自覚していればしているほどに不平不満ではなく足るを知り、真摯に素直に精進していくことを優先していけるように思います。

感情を包みこむほどの大欲といった志が立つことも克己心につながっているのかもしれません。どちらにせよ、変化できるというのは本来は有難いことのように思います。自分が変化をしなければ自分だけが変化しない人になってしまいます。自分が変化すれば周りの変化の御役に立てるようにも思います。

常に変化を優先していくという生き方というのは、常に円満具足という生き方を実践していくことです。不足することに不平不満ではなく、満ち足りていることに感謝してそれを活かそうと変化を楽しんでいくことのように思います。

人生に変化はつきものです、いくら抵抗してもそれが自然なのだからこの先もずっとその道は途切れません。だからこそどう生きるのかは生き方次第です。自分が変わる事の方が楽しいという境地を体験できるよう自らがまず実践を優先していきたいと思います。

体験の尊さ

私達すべての生きものは、人間を含め体験しないと分からないようにできています。

それは一度しかない自分の人生の中で、何を自分がしたいのか、何をしたがったのか、そういうものはすべて体験を積み重ねてみてはじめて自明していくものだからです。

この積み重ねていくというのは、言い換えれば時間を遡っていくもののように思います。つまりは体験を内省することで、その内省の意味を辿っていくかのようなものです。

過去から未来へも、未来から過去へも、今の積み重ねの中に存在するものです。これらの時間軸は自分で勝手につくりだしているもので、自然には今しかありません。そう考えれば体験の中にこそ私たちは生死を超越したところに棲んでいることを実感するということなのではないかと思います。

すべての生きものというものは、そのものの体験を通して学んでいきます。それは自然界では当然のことで、自然の循環に従って自分たちが体験したことを子々孫々へと引き継いでいくのです。今が積み重なっているだけという見方をしてみれば、その時代時代に内省をしてきた分の歴史が在るだけということです。

これを思う時、体験しないということがどのようなことかを考えてみるのです。

体験というものの尊さというものは、内省することによってはじめて得られるように思います。なぜなら、内省することが正しく体験をすることだからです。

毎回毎回の出来事はその瞬間瞬間に確かに意味が存在しています。それはマクロからミクロを観るように、ミクロからマクロが観えてくるように、一部と全体というものは首尾一貫してつながっているからです。その「つながっている体験」というものをどのように捉えているか、どのように味わっているかで人生全体というものが顕現しているように思います。

少しこんなことを書くと哲学のようになるのかもしれませんが、そうではなくそもそも体験こそが人生であるということを改めて実感するということだと思います。体験というものを大事にしていくには、体験しないことよりも体験していく尊さを実感する方を優先していなければなりません。そのためにも内省を続けて積み重ねていくことで、そのつながりを切れないようにと努力することが必用ではないかと思います。

長くなりましたが、体験も内省も今も、「つながり」の中で用いる言霊ということです。

だからこそつながりが観える人は、生死を超えた今を見つめます。しかしつながりが観えない人ではいつも未来や過去を憂慮するばかりで自分の今が分からなくなってしまいます。怒涛の如く過ぎ去る日々にも流されない平常心を持てるかどうかがより善く歩んだ道の姿なのでしょう。

ですから体験の尊さを忘れはいけません。なぜなら体験してみようと試みること、チャレンジすることが人生を切り開くことなのですから。

体験を勇気づけるゲーテの名文をいくつか紹介します。

「涙とともにパンを食べたことのある者でなければ、人生の本当の味はわからない。」
「つねによい目的を見失わずに努力を続ける限り、最後には必ず救われる。」
「 とにかく、とりかかれば心が燃え上がるし、続けていれば仕事は完成する。」
「 自分を信頼しはじめたその瞬間に、どう生きたらいいのかがわかる。」

体験することで得るものが真の智慧であり、そこに道を歩んだ軌跡が永遠に遺ります。最後にゲーテはこう問いかけます。

「君は本気で生きてるかい?」

取り組みを恐れずに取り組まないことを真に畏れ、前進していきたいと思います。

情熱感謝

何かの物事を成し遂げる際に、他力が入るという言葉があります。

これは遣っていく中で何度も実感し、そのうち他力の方が重要ではないかと感じていくものです。この他力とは、自力を尽くした後の他力のようなもので目には観えない何かの力が働いたことでその物事が為されるということです。

人は全身全霊の情熱を傾けて物事に取り組む時、自分の力を超えた何かによって支えられているのではないかと気づくものです。天が助けたくなってしまうような純真で直向な努力を怠らないことで竟には思ってもいなかったような奇跡に出会い、いつもそこに何か力を貸してくださった存在があったこと、まるで天と一体となったような不思議な感覚を覚えるものです。

自分の力の全力を惜しまず情熱を持って事に当たれば苦しい時ほど助けが入り最期まで遣り切らせていただくのです。その後に、いつも自分の思い通りではなかったけれど思った以上のことが起きていることに気づいては感謝するのです。そういうひとつひとつの感謝が今というものの中に存在していることを知ると、出し惜しみしないという考え方が身に着いてくるように思います。遣り切るというのは同時に遣り切らせていただいたということなのでしょう。

一般的には人間は誰もが失敗したくないものです。特に知性ばかりを評価されてきた生き方だと、他人の目ばかりが気になってしまうのです。何かを努力して乗り越えたことを評価されてきたならば、その人は尽力を出し切ることの方が素晴らしいことを自覚しているのです。

尽力を出す機会をどれだけ得られたかというのが本来の運かもしれません。運を伸ばし運を善くするには、自分の底力を出していく機会をたくさん求めていくようなご縁に出会うことかもしれません。

ご縁を大事にしていく生き方というものは、今を尽力するという生き方です。

二度とない時間、二度とない場所、二度とないこの今にどれだけ本気に向き合っているかという生き方です。情熱もこの今から湧いてくるものですし、自力というものもこの今に正対する心から派生してきます。そう考えてみると、情熱と感謝は常に表裏一体なのかもしれません。

最後に私がとても好きな西行の詩を紹介します。

「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

遣り切る生き方というものは、いつもその御蔭様に気づける生き方なのかもしれません。日々を大切に自他に活かされていることの御恩返しをしていきたいと思います。

好好~好奇心の妙~

「好きこそものの上手なれ」という諺があります。

これはどんなことであれ、その人が好きであればすぐに上達していくという意味で使われます。好きなことは、やらされるのではなく自らがやっているのだから発達が善くなり上達するということでしょう。

しかし一般的に人は元来は怠惰にできていますから、好きなことは何もやらないことだといって好きなことが次第になくなっていくようにも思います。

ここで好きになるということがどのようなことかを深めてみます。

好きになるというのは、自分で好きで居続けるための努力がつきものであろうと思います。好きになるコツを掴んでいる人は、努力していることに気づかないだけで必ず努力は行われています。つまりは好きというのは好きでいることをやっているから好きになるのです。

この好きというのは、何もしないから好きなのではないということです。毎日毎日、四六時中、好きなことを維持するにはその陰で大変な努力が動いています。上達というのは、欠かさない練習によって得るものですからやったらやらなかったりではなく常にやっているから好きでいられるのです。

それはまるで養分を吸い上げていく植物のように、もしくは生きものたちの呼吸のように已めることはない努力なのです。これらの努力をしていくことが苦にならない、つまりは自分が達したい目標に向かって取り組んでいることが楽しくなっていてはじめて好きだと言えるのです。

しかし好きでいるにも好きになるにも、その前に好きになることを知らないのではいつまでも好きではない、否、「嫌い」だと決めつけて努力を避けてしまうから辛くなるとも言えるのです。

確かにどんなことでも自分には嫌なことがほとんどなのが人生なのかもしれません。寒いと外にでたくないとか、朝早いと辛いとか、評価されるのが嫌だとか、考えるとキリがありません。

そんな理由があったにせよ、それを転じて好きにすることが上達するコツであろうと思います。このコツとは、自分の好きなことにしてしまうことを掴んでいるということです。嫌いなことも好きにできるということかもしれません。

例えば、自分にとって興味がないことがあったとします。しかしそれをしなければ目標に達しないことが先人や先達者の声を聴くと必然であることを自明するとします。その場合は、嫌いなことを好きにならなければなりません。ずっと嫌いなままでは上達することがなく、より一層辛く苦しいだけで伸びていかないからです。

それをどのように工夫するか、方法論から入ればそこには自分の好きな分野に置き換えるというやり方もあります。原則論から入れば、習慣になるまで身に着けたかというのもあります。沢山の場数を増やしていくことでその場数にそって心身に沁み渡っていくのです。

好きになるということは、好きになるまで探求するということかもしれません。私の場合は、これも何かの意味があると感じ取ったり、これは何につながっているだろうと掘り下げていくことで次第に楽しくなっていきます。

好奇心という基本技術があるのかもしれません。好奇心を発揮していくためには、自分の好きなことをやって呼び水にするのも方法のひとつかもしれません。今の遣らないといけないものの中に、別のテーマを持つというやり方もあります。

どちらにしても、努力するということなくして好きになることは絶対にありません。しかしその努力を主体的にするのか受身でやるのかでは努力の本質が変わってしまうのかもしれません。努力の本質とは、生活習慣を変えることだと思います。言い換えれば、自らの意識を変えて心身を新しく入れ替えていくことだと思います。

好きになってはじめて、仕事も向こうから近づいてきますし、真実も、目標も、道理も歩み寄ってきてくださいます。それは人でも物でも、出来事もでもすべて同じく、好きだからこそ相手は自分を好きになって下さるし、物も出来事も好きでいてくださるのです。

相思相愛になるには、それだけ自分から素直に好きだと言えることだろうと思います。これだけ好かれている自分が素直に好きといえないのは、もったいないことだと思います。自分が一番愛する心をもって好きでいることに純真無垢でいることや純粋清浄でいることが好きになるコツでしょう。

そしてその好好を楽しめているとき、理念、志、そして使命を味わっているように思います。すべての今を全てのことを好きでいる自分でありたいと思います。

発達を邪魔しない

発達というものを考える時、それは自ら発する、そして達するということはすぐに自明します。発達とは他人からさせられるものではなく、自ら発することであるからです。

昨日、保育環境セミナーで藤森平司先生の講演で情緒の安定の話がありました。
ここで少しご紹介します。

『「保育指針には情緒の安定のことが書かれています。そこには一つ目は「欲求を満たしてあげること」人は意欲がないと発達していかないからです。つまりいくら指摘しようがどうが本人が自ら「やりたい、したい」と思わなければ発達しないからです。二つ目は「共感」してあげること。その子のしたいことに共感してあげること。相手に何かを言う前に、まず共感してあげないといけません。三つ目は自分に「自信」を持たせること。よくできたことに褒めること、自信を持たせること。四つ目は「リズム」を持たせること。一日のリズムを身に着けさせてあげることです。」』

とありました。

これも発達というものの側面を捉えてお話してくださっていることがわかります。

発達というものは誰かによってさせられることでもなければ、自分以外のものができるものではありません。そういうものを如何に邪魔しないかということが、周囲の見守りには重要だということではないか私は思います。

『子どもの発達するのを邪魔しない』というのはカグヤのミマモリングポリシーコピーですがこれはここから考案されているものです。

人は相手を自分の思い通りにしたいと思うものです。そういうことがその人が自然に育つことを邪魔してその人らしくすることができなくなるのです。自然界でいっても、そのものがそのもののように育つのであってこちらが育てたわけではありません。

言い換えれば、そのものが育つのを邪魔しないように手入れしたということではないかと思います。この手の入れ方は着かず離れずに、そのものを観ては、その発達するのを見守るのですがこれがとても難しいことなのです。それは自然の中で生きる叡智を人が体得していることに似ています。

この邪魔しないというのは、そのものを尊重するということですがつい自分の我が入ることでそれを邪魔してしまいます。真心を入れるのではなく我を入れればすぐに邪魔になるのです。

御互いに大事にし合うことで御互いを見守りあうことができるのですがどうしても偏り一方的になってしまうものです。まず相手を大事にすることは過保護過干渉をすることではなく、相手の全人格を肯定し相手のいのちを大事にすることなのだと思います。その中で如何に自分も大事にしていくかということです。常に自然共生の法理がそこに働きます。

しかしそれがすぐにできないのはそこには私たちが今まで育ってきた環境の中での思い込みや先入観、今では様々なことが刷り込まれています。この一つ一つを取り除くために、発達を信じるという意識を新たに身体に沁みこませていくことが発達を邪魔しないための自戒になるのかもしれません。

どのような手を尽くしていけばいいか、悩みは深まるばかりですが初心に帰り見守る保育の道を学び続けていきたいと思います。

時々の初心~人の成長~

ソフトの名前の変更にあたり、色々な意味を考え直しています。

能の大成者の世阿弥に「時々の初心、忘れるべからず」という言葉があります。これは、出会いというもので置き換えて考えてみるとその本質が理解できるように思います。

出会いというものは、それまでの出会いがあります。ある出会いから、人は様々なことを学んでいきます。それは職業との出会い、出来事との出会い、人との出会い、場所との出会い、様々な出会いを生きています。そうして出会いから何かを学び、そして卒業したら次の出会いを学ぶのです。

同じ人と一緒にいても、御互いが出会ったことから学び、卒業すれば御互いに次の学びに進んでいくのです。御互いがずっと一緒にいられるというのは、御互いが努力精進するのを已めず常に切磋琢磨し学び合って成長進化し続けている証だともいえるようにも思います。

先ほどの時々の初心というものは、一つの物事を乗り越えるときそこでかつての初心に別れを告げて新しい初心に出会うという意味ではないかと私には思えるのです。

昨日のセミナーの情報交換会でも、見守る保育ということを学ぶと1年目も5年目も10年目でもその時の見守る保育に出会うということ、つまりは道というものには終わりがなく常に初心を新しくしていくことが大事だということをお話ししました。

これは温故知新と同じ意味であり、常に新しくしていかなければ初心を忘れてしまうのだということなのです。

ソフトを新しくするというのも、それまでの初心を卒業しもう一度、新たな初心に出会うという意味ではないかと思えるのです。それは単に新しく販売するとか、数字を出すとかという意味ではなく、自分を新たにして新しく次の初心を達するために真摯にゼロから学び直すということであろうと思います。

それは説明を単に変えるなどという次元の話ではなく、そもそもの新しい初心を築くことのように思うのです。またはじめから行うのかということを人は嫌がるものかもしれませんが、それでは初心に出会えません。

初心に出会い続けるのは、「もう一度新しく出会いたい」と願う心からはじまるのかもしれません。

人は長年共に過ごしていても、そのうち次第に落ち着いてくるものです。しかし進化成長を已まない人と共に過ごすなら自分自身も同様に新しくしていかなければなりません。そこには過去の出会いとは別に新しい出会いへと刷新していく努力がいるように思います。人は成長し合える人と出会いたいと心で願っています、だからこそ自分も一緒に成長できる関係でありたいから常に自己改心の努力をするのです。

つまり挑戦するというのは、新しくするということです。そしてそれが時々の初心ということであるのです。日々は真剣勝負です、ややもすると昔の学びの方が楽なのでそこに依存してしまいますが過去は過去、それをすでに習得したのならスパッと卒業して次の学びへと駒を進めることが進化成長の法理です。

同じソフトをやるにも、まったく異なる新たな意識に変えて最初からやり直していこうと思います。バージョンアップをやめてから4年目に入って、ようやく新たなバージョンアップに行き着きました。また次回もその時が来るのでしょうが、伴に理念の大切な道具と歩める日々を継承し歩めることを心から有難く思います。

しかしいつの時代も道具が変わるのではなく、変わるのは道具を用いる人の方だと心を定め気を引き締めて初心を学びこんでいこうと思います。

新たな出会いと別れに心から感謝しています。

個から全体へ

昨日、ある園での研修の中で個から全体への話をしました。そもそも全体から個へというのと個から全体へというものは何かということを深めてみます。

私たち人類は集団を形成してから国家というものを創りあげてきました。国家というものは集団を統治するという考え方を持ち、権力によって個を抑制して国家の利益を優先させてその中で生きているともいえます。

当たり前すぎて考えなくなっていますが、国民というのはその国家の中に存在する民ということです。その中で暮らしていくためには、国家のルールに沿って私たちは統治されているともいえます。個が勝手なことをしては、国家は治まることがないから全体から個への教育を受けてきたとも言えるように思います。

なので、明治維新などのときなど国家が入れ替わるときは個がそれぞれに自由な発想を持ち国家を揺るがせて国を換えてしまったのです。本来は国家が変わるときは、革命などが行われますが私たちの国の歴史では聖徳太子の時代からそれを尊ばないという思想が根付いていました。

個から全体へという発想というものは、「和をもって貴しとなす」という理念に由って語られています。個というものは、一人一人の主体性のことを意味しています。権力による統治の中での個ではなく、個の一人一人が主体的に協力して国家運営をするときまさにそこにより善い一家ができあがるという考え方のことです。

与えられた仕事を受け身にやらされている中でやるのではなく、自分には何ができる、自分にしかできないことは何かと主体的に自らが働きかけて役割分担していくことこそが本来の集団の持つ本質的な意味なのです。本来の社會というものは、人というものは協働して協力しあっていたから自然の中で逞しく親しみ生き続けてきたものであろうと思います。

それがいつ頃からか、権力の統治の中で過ごしていれば生き残れると考えてしまうようになったのでしょう。本来の個が死んで、集団を優先するというのは本末転倒であろうと私には思えます。個が生きて、個を優先するというのはその人らしさを存分に発揮することで多様性を認める神代から夢みた理想の一家を実現するということです。

それは祖神が長年、幸せに暮らしてきた生き方を真似ることなのです。

個を発揮するというのは、個を見守ることがあってはじめて実現します。それは権力による統治ではなく、和をもって善治したといってもいいのかもしれません。

そしてそのためには、総力であったかということが大切なように思います。一人一人が誰も怠らず必死に努力し一生懸命に全体のために尽くしているか、国家に依存するのではなく、国家に貢献しようとしたかということです。

個から全体という言葉には、八百万の神々を畏れ慎み生きていくという智慧が入っています。引き続き、テーマに持ち実践していこうと思います。