古来からの学び方

一般的には人は最初の仕事を学ぶとき、知識から入る人と体から入る人がいます。器用な人は知識から入りますが不器用な人は体から入るようにも思います。しかし本来は両方必要なことで知識も体もいるように思います。

考動ができる人というのは、心に浮かんだことをすぐに形にしていくために頭と同時に手足も動いているものです。学ぶというのは決して頭だけではできることではなく、心と体が一体になったときにはじめて沁み込んでいくように思います。

自分に沁みこませていくような学び方、慣れ親しんでいくような学び方をしてきた人が少ないのは知識編重型の教育を受けてきたからかもしれません。もしくはやらされてきたから知識を掘り下げて自分のものにし智慧にまで昇華するということをやろうとしなかったのかもしれません。

ヤル気を育てるということがどれだけ大切な事か、この歳になってみてそれをはっきりと自覚するようになってきました。自らが常にヤル気をどれだけ育て続けてきたか、その歴史の重み、体験の質量が心と体にはもっとも大切なことなのでしょう。何をするにも努力から入れないのでは何事も為し遂げることはないのです。

人を真に導くということは、その人のヤル気をどう見守っていくのかということかもしれません。宮大工の棟梁西岡常一さんの「口伝の重み」(日本経済新聞社)でこういう話が紹介されていました。

『校長は、上武豊太郎といった。私たちが直接話を聞くのは、修身の時間である。こんな話をされた。「君たちは、農業経済学というものを習うてるやろ。そこには「最小の労力をもって、最大の結果を得る」それが原則や、と書いてある。しかし・・・」と言い、「我々、日本の”農人”はそうであってはならない。自分ひとりの働きで、何人の人を養えるか。これが根本や」農の基本は金儲けや効率ではないというのだ。そのあと「しかし」と続け、「試験のときは、こういうことを書くな。零点になるから。」なるほど、農人とはそうあるべきだと、感じ入ったものである。__背骨を入れられた。と今でも思っている。』

戦後の教育では、また巷のニュースでも経済の原理ばかりが優先され如何に効率よくラクをして成果を出すかばかりを詰め込まれると本来の大切なことが忘れさられていることが多いように思います。

大量生産大量消費の中で、如何に労働をするのかということを教えられ、本来の労働の価値、作業ではなく仕事という価値を学ばないで大人になってしまうと経済の歯車にだけなろうとしてしまうのかもしれません。

農一つを学ぶにも、本で書いていることはごくわずかで実際は農地に出て観ては上手くいかないことばかりと正対します。土や草や虫、そして気候を学ぶのは決して本ではできず試行錯誤しながら、大袈裟に言えば七転八倒しながら心して現場で学ぶしかないのです。それが知識を入れて知識を削除したということでしょう、言い換えれば「モノになっていく」ということです。

そうして自分が繰り返し努力することで根気もまた育っていくのです。

これらのヤル気というものは、本来のあり方の方を大切にし続けるということでしょう。そして学び方も、ヤル気を育て続けるために知識を入れてはそれを削除するために体験するという学び方、そして体験したことを掘り下げてそれを本物の知識にしていくという学び方になっていくはずです。

まずはその人のヤル気を育てていたのがかつての教育(古来からの学び方)だったのかもしれません。

人は自ら学ぶ力があり、自らがヤル気を出して取り組む時、自然に知識も智慧も体得もできるように思います。素の自分を如何に直すか、その素の中に何を据えているかが、長い人生においてとても大切なことのように思います。

経済効率を優先すれば時間の使い方もまた経済効率を優先になるのでしょう。非経済的であったとしても、そのヤル気が育つのならばその人に合わせて見守っていってあげることが思いやりのように思えてなりません。初歩の基本を間違えてしまったら、その後は全部間違いになる怖さがあるように思います。初歩の基本は的を外してはならないのです。

本来の子どもたちが望んでいること、発達に合わせてどのように学び合いの環境を発展させていくのか、そこには互いのヤル気を尊重することからなのかもしれません。戦後に操作された今の教え方と学び方を古道に照らして修正していきたいと思います。

一期一会を大切に、これからも何事も同時であることにこだわっていきたいと思います。

口伝

宮大工棟梁の西岡常一さんの著書「口伝の重み」(日本経済新聞社)には、技法というものが如何なるものかということが書き記しています。

先祖代々の重みを、受け継ぐということがどのようなことであるのか、その生き方や生きざまを拝観していると心に染み入るものがあります。

姿勢とか、考え方とか、今の自分に照らすとちゃんとやらなければという激励を戴いている気がしています。その中で、代々、西岡家棟梁が受け継がれた家訓を祖父から伝えられる場面があります。

正座して、父と一緒に聴いたとあり、これが祖父からの最期の教えだったと言います。受け継ぐ側も承る側も、そのような大切なことを最期にするというのは清々しく感じます。これを思う時、私が教えるということが安易ではないか、心して教えていたのかと思うと恥ずかしい思いがし、本来の心というものは教えにもあるのだと痛感いたしました。

その口伝ではこうあります。

「仏法を知らずして堂塔伽藍を論ずべからず」
「天神地祇を拝さずして宮を口にすべからず」
「法隆寺大工は太子の本流たる誇りをもて」
「伽藍造営には四神相応の地を選べ」
「堂塔の建立には木を買わず山を買え」
「堂塔の木組みは木の癖組み」
「木の癖組みは工人等の心組み」
「人の非を責める前に自分の不徳を思いをいたせ」
「百工あれば百念あり一つに統ぶるが匠長が器量なり」
「一つに止めるの器量なきは謹みおそれ匠長の座を去れ」

これら一つ一つは、いつ頃からあったのかもわかっていないそうです。しかし、その一つ一つは先祖がそれぞれの人生を生き切る中で生涯をかけて艱難辛苦の泥沼の中から咲いた蓮の花のような叡智であろうと思います。

文章に書けばすぐに書けますし、読めばすぐに理解はできますが、その重みを理解することなとはできません。それを口伝で伝え、家訓とするのにはそれ相応の理由があり、先祖たちが失敗を積み重ねて乗り越えてきたなかで遺したものであろうとも思うのです。

震災で、津波に関する石碑のことなども同じことを繰り返さないようにと子々孫々への思いやりをもって先祖が様々なことを伝承してくださっています。神話もまた、先祖が私たちに語りかけてくるのもどのような国を造れば善いのか、そしてどのように暮らしていけばよいのかを教え導いてくださっているものです。

それを受け賜る側の姿勢として、今の自分はどうであろうかと猛省する気持ちがします。そして、先ほどの口伝の続きにはこう書かれています。

「諸処の技法は一日にして成らず祖神達の徳恵なり」

全ての技術とは、必ず一朝一夕になるものではない、長い時間をかけて猛練習猛特訓の上で築いてきたものであるということを諭してくださっています。決してできないからと諦めるのではなく、その上で何をすべきか、どのように真剣に猛稽古に打ち込むかといった祖神たちの見守りを感じるのです。

口伝とはその重みを感じる側がいて受け取る側がいるのかもしれません。子ども達のことを思えば、伝承していくことの大切さを改めなければと決意に満ちます。真摯に一つ一つを古道に照らし学びとっていきたいと思います。

円満両全~ご縁の真理~

人間は教えているようで教えられていて、助けているようで助けられているものです。

これはとても不思議な真理です。

一見、自分が相手のためにと動いているのですが、その実、深く内省してみたら自分のために動いていることになっているのは過ぎた後にじっくりとふり返ってみたら次第に理解できるものだと思います。例えば、ある人に大切なことを伝えていたら同時にそれは自分に伝えられたものではないかと鏡のように自分に返ってくるような体験をした人は多いのではないかと思います。

つまりは、自他というものはお互いに結び関係しあっているものだからこそその結ばれている関係において相手の存在を自分だとし、自分が相手だと深く洞察していさえいれば何かの教科書がなくても自ずから真理が明らかになっていくのです。

昨日の一日をふり返ってみても、自らが動き相手の立場を思いやり動いてみるとその時は自分が相手に何かを教え導くことをしていたとしても、実際はそうさせていただいたのは自分の方ではないかと感謝に帰るのです。

これらの気づきというものは、御蔭様といった日本の言霊にあるように自分がやってあげたのではなく、させていただけたという考え方のことです。また相手の御蔭、何か偉大な見守りの恩影を投影しているという意味になってもいるのです。

つまり人は相手がいることではじめて自分が活かされるということです。もしも自分にとって都合の善い世界に住まえたとしても、もしそれがたった一人であったなら大変な苦しみを味わうものです。

人は相手がいるから一生涯を学べ、人は相手の御蔭で本当の自分、その人生を知覚し味わっていくことができるのです。

これらを一方的に、教える側と教えられる側で分かれてしまうことほど虚しいものはありません。人間というものは、常にこの今、この瞬間にも何かの教えが入っているはずと繰り返し内省し、その内省して気づいたものに感謝し、御恩返しをしていくことではじめて尊い縁を活かしていけるように思います。

やってあげているようでやってもらっているのは自分、見守っているようで見守られているのは自分、どちらかだけではなくて、常に円満両全であるのがこの世の人と人との間のつながりの真理であろうと思います。

それを気づかせなくなるのも、教えから遠ざかるのも自分だけの自分といった自我欲を優先してしまうからでしょう。相手を信じる真心に自分を信じる思いやりで接していくことや、もしもこの人が自分だったならと親愛の心で接するならばそこにだけ本物の教えがあることを知り、丸ごと感激感謝できるように思います。

人は一人では学べず、必ず相手があるから学べるのです。それが学問の道理、学び合いということの意味でしょう。だからこそ人との出会いがあることが何よりも有難いのです。

一日一日は色々な人たちと関わり、沢山のお話をしていくものですがその一つ一つが自分に教えられたものを見落としてはいないかとしっかりふり返っていきたいと思います。

自学自習の心得

機会とは何かということを深めてみます。

そもそも機会というものは、出会いと同じく、人生を変えていくものです。そして機会とは、何のためにそれを遣るのかという初心を思い出すものであろうと思います。

人は何かの機会に出会うことで、「何のために」という原点に出会います。

つい目先のことや諸事に流され目的を見失いますが、一つ一つの事件や出来事、問題や課題といったことに正対し素直に出会うとき、まさに機会(チャンス)が訪れたとも言えるのです。

その人に初心や目的がもしもなければ機会も機会にはならず、当然出会いがあっても出会いに気づくこともありません。何となく頭でっかちにこういうことだろうと思い込んでみても、それでは本来の出会いに気づいたわけではないからです。

人生というものは、様々なメッセージを日々に戴いているように思います。それに気づくか気づかないかはその人の感性にもよるものです。もっと受け取ろう、もっと学びとろうと思う人間的向上心があってはじめて人は自学自習、つまりは自分で自分を教えて自分で自分を学んでいくことができるのです。自らを創りあげ練り上げていくのは他でもない自分自身の責任だからです。

そしてそのための機会を活かすためには、誰かに教えてもらえるなどと敷かれたレールの上で満足していてはならないと私は思います。そうなると機会が何かということにも気づきにくくなってしまうからです。

本来は人生というものは、自分で切り開いていくものだからこそ一切の妥協を許さずに真摯に努力し全てのご縁と全ての出会い、全ての機会を大切に学びとろうとするのが感謝の姿勢であろうとも思うのです。

また貢献というものは、こんな自分でも周りは見捨てもせずに育ててくださっている、未熟な自分でも周りは大切にしてくださるという恩返しの上に立っているもののようにも思います。

さらなる日々の精進をしていこう、間違いに気づいて改善し、機会を活かし素直に生きることで運を伸ばしていこうとするのが無二のご縁を大切にしたことにつながっていくように思います。

この無二のご縁こそが機会の本質であろうと思います。

ご縁を尊び、ご縁を楽しむにも、ご縁を活かすという機会に対する捉え方から意識改革をしていくのが善いのかもしれません。無数のメッセージが星の光のように舞い降りる日々に感動と感激を覚えます。どんな出来事にもそこには確かな意味があるという安心感に包まれるのです。

子どもたちのためにも日々を大切に、どんな小さな機会も見逃さずに学び取っていきたいと思います。

生存本能の本質

気候変動を感じていると、本来のあり方というものを見つめる機会が増えてきます。

人間は、自然を征服できると思うように傲慢になってきたのは科学技術の進展と関係が深いように思います。科学で証明できることが、さも真実なのだと思い込まされる教育を受けるからかもしれません。

誰かが自然から抜粋して具体的に発明した一部の技術を応用してつくった機械や、その知識が至上の価値であると思い込まされるからかもしれません。

科学で証明できないものは全部宗教や呪術の類だと、分別されるところから人間以上の存在を敬わず畏れないようになってきたのかもしれません。西洋ではエコロジーとか言いますが、何をもってエコロジーだというのか甚だ狂った考え方のように思います。自然という絶妙微細なものを人間がコントロールすることなど不可能なことです。

しかし今の人類は勘違いをさせられそもそも自然というものや宇宙というものは、解明されているかのように語られますがその実は少しも解明できてはいません。否、科学では解明できず証明できない何かがあることをいつも究極には辿りつきます。その時だけ科学では証明できないものがあるとはじめて受け容れているのです。こんなことでどうするのだろうかと疑問に思います。

本来、自然など征服できるはずもなく、また科学も万能ではありません。その思想そのものが歪んでいるのに気付かないというのはなぜだろうと感じるのです。本来は、敵わないものであることを当然とし、その自然に敬意を払い、自らを従え天地に融和しつつ、慎ましく生きてきたからここまで生き残ってこれたのが我々人類のように思います。

今では、科学で証明されないものは否定するかのように伝統文化や職人たちの技術、伝承されたものが消失してきています。ここに大変な危機感を覚えますし、未来の子どもたちのことを思えば義憤が激しく沸き立ちます。

今まで数千年も廃れてこなかった生きる智慧を全部捨てていくのです。これがどれだけ危険なことであろうかと実感するのです。実は、滅ぶというのは今まで大切にしてきたことを手放すということなのかもしれません。伝承されてきたものを入れかえるということは、かつてそこまで経験してきたものを捨てるということになるのかもしれません。

だからこそ、先人たちは家訓を遺し、先祖代々で得た経験を様々なカタチにして私たちに譲ってきてくださったのでしょう。その譲られたものを有難いと学んだのがかつての私たちの謙虚な直毘霊だったのでしょう。

もう一度、様々なことを省みる必要性を実感します。そこにはまず科学で証明できないものでも信じられるくらいは刷り込みを取り除かなければならぬように思えてなりません。自然の直観や野生の勘、血の絆など、古来からの叡智を現代へ持ち込むことかもしれません。

それが生存本能の本質というものです。

時代は過渡期に入っているからこそ誘惑や落とし穴に嵌らないように細心の注意を払い、神代から連綿と結ばれてきた初心を省み、正しく伝承していく自分へと心を高め、魂を優先する実践を積み重ねていこうと思います。

真の悦び~新しい可能性~

負けた悔しさというものを持つということはとても大切なことです。

人生の中で自分の心を入れかえようとするとき、そのキッカケの一つになるからです。自分というものの可能性をどのように見出していくのか、自分というものをどのように発掘するのか、そこには納得できるまで遣り遂げようとする決心があるのです。

人間はどうしても怠惰な性格から、自分にとって楽な方を選択してしまうものです。一見、苦しそうに周りから見えることでもそれは苦しいことではなかったりするものです。本当に苦しいのは常に自分が変わる方を選択するまでの過程です。

もがき苦しむというのは、変わりたいと願う自分の可能性と対峙するからです。このままでいいとか、変わらなくてもいいとか、人は今の自分に満足しているものです。そこから外れてしまったら、自分には何が残るのだろうかと不安にもなるからです。

しかし、そのようなすがるような過去の自信に囚われるよりも未来へ向かっての自信を育てていこう、身に着けていこうとする方が前のめりに歩んでいけるようにも思います。

人間には常に励ましというものが必要だと言ったのは、ゲーテです。

そのゲーテにこのような言葉が残っています。

「われわれの本性は、怠惰へ傾いている。だが、われわれは活動へと心を励ます限り、その活動の真の悦びを感ずる。」

つまりは、努力次第で人はいくらでも変化する可能性があるということです。

自分が思っている以上の新しい自分に出会えるということです。人がそうなりたいと強く願うこと、そうなると信頼した人が信じることでその人はその人そのものに変化して已みません。

人間の可能性を引き出すのが指導であり、指導者はその人間の可能性を信じるからこそその人を自己実現、社会の共生、貢献と幸福へと導けるのでしょう。

変われないでもがくのもまた変わりたいと願う心の内からの叫びでしょう。そんな時は、心を信じて、心に従って、心から学び直すことのように思います。変わるべきというよりは、変わってみたいと、今度こそ信じてみたいと挑戦を続けていくことのように思います。

私はそのように生きる人たちの励ましになりたいと思います。

これからの世紀は、もっとも人間が自分で自分に打ち克つための真の学びの期間になるように思います。世界は今、時代は今、過渡期を迎えているからです。今、此処に心を籠めてミマモリングの哲学を定め、人類の可能性に挑戦していきたいと思います。

問題の元

昨日は、大阪のある園へ訪問し保育の書類についての話し合いを行いました。書類が煩雑になっていき、書くことの意味や目的というものが分からなくなってくるものです。どんな方法で書けばいいかを議論する場は沢山ありますが、なぜ書くのかということから考えなければならないように私は思います。

本来、問題というものは問題の元があります。それは、基本というものかもしれませんがどのような目的があるからどのような問題が発生しているのかをよく洞察しなければなりません。

問題の元とは、その問題が発生する原因のことです。方法論を議論しているときは、すでに脳が楽をしたいから逃げている状態とも言えます。人間というものは、楽をしたいから方法論にいくのであってそもそも楽をせずに意識を改革しようと思うのなら方法ではなく根本論になるのです。

人は何かを継続するときの意識の持続というものがあります。それをやっているうちに最初の意識から外れて基本の技術もつい忘れて入れなくなってしまうものです。

意識を一点に集中しなければ、最期まで遣り切り遣り遂げるということは難しいのです。一つには、意識しなくても基本の技術は欠かさないでいられる状態までになっているかどうか、もう一つは意識そのものの質がどうなっているかがあるように思います。

技術の方は、先ほども書いたように基本を忘れない程に習熟している、自然にできるまでに技術が上がっているということです。そこに意識の質を変えていくということがあります。この時の意識とは何かといえば、怠惰かどうかということです。意識が怠惰であれば、楽を選んでサボるばかりでどんなことをやろうとしても言い訳を先立てて方法論にばかり逃げるのです。

二宮尊徳に、「勤労」、分度、推譲、至誠があります。この勤労とは、勤労意識のことであろうと私は思うのです。

そしてその意識を付けるためには、書くということ、書くことで意識付けするという意識の勤労もいるのです。保育でいえば、如何に発達段階を意識付けするか、発達に照らして子どもから保育を学んでいくのか、それが基本となるのです。

スポーツの基本に、走り込みがあるように、それが当たり前のところになっていなければどんなスポーツもできないように応用から入ってはいけないのです。

常に基本を鍛錬しつつ、応用を行うということが真の技術になるからです。真の技術のためには、その技術を磨くための意識付けがいるように思います。それが実践とセットになって繰り返し磨かれていく中で、応用の技術もまた展開されているのです。

話を戻せば、根本に合わせて基礎を訓練することが何よりも先に意識付けられることで応用の時の基盤になるということです。

意識付けのための実践の一つとして、この書くということはとても効果があることのように思います。自分の意識改革ができれば、現実が変わってくるのだからまずは意識を変えるという根本を外さないことが基本の技術であろうと思います。

理念があるからこそ、何をやることがもっとも楽ではないかを確認していくことで減らせるものと減らせないものが自明してくるように思います。理念を優先するということは、楽な方を選ばないで挑戦を已めないということなのでしょう。

安易な方法論の議論にならないように、姿勢の方を常に省みていきたいと思います。

 

当たり前 元土

以前、ブログで大人びてくるというのは世渡りがうまくなるということを書いたように思います。

例えば、考えるということ一つでも、当たり前のことが観えなくなるのも世の中に合わせていく方が楽だからと選択したことでそうなっていくのです。そしてこの当たり前ということが分からなくなるから、問題が観えなくなっていくとも言えます。それは「常識的には」という名のものであったり、「一般的には」という名ものであったりしますが、そう割り切ってそこは語り合おうとはせずに話はその当たり前を飛ばした応用の方法論を学んだ知識人たちのノウハウばかりに依存してしまうのも自分自身がこの「当たり前」が分からなくなるからです。

真理やシンプルなものを、自分のものにするにはこの元の当たり前のところからやり直さなければ応用などはできはしないはずなのです。当たり前のことができてから応用というのは、万物の基本の技術だからです。

まずこの「当たり前」に気づくというものは、素朴な疑問を持つことだとも言えます。子どもはみんな不思議がりますが、あれはまだ世の中に合わせず自分の問いを持っているからです。それが大人になればメンドクサイから考えるのを避けようとして大人になるのです。

これを逆さにするには一般的には、そんなことを考えても意味がないと人々が仕分けるような問題をいちいち自分が考え続けているということに似ています。世の中がこうなっているのだから、別にそれでいいではないかと言いだすときはすでに当たり前のことを見失っているともいえるからです。これはとても苦しいことかもしれませんが、それだけ考えることを避けるように生きているから本質と急に言われても分からないのです。

また言い換えれば世の中の常識に迎合するというのは、自分で意味を考えなくなるということです。

こうなっているのだからと諦めてしまえば、当たり前であるはずの「これは変だ」という発想を持つことができなくなります。言い換えれば、これは問題だということに気づかなくなるのです。つまりは問題が分からない人になっているのです。与えられた問題を解く人と、自ら問題を解く人とでは天地の開きがあるように私には思います。

世の中をそうやって洞察すると人間はとてもおかしなことばかりをしているものです。

少しまわりを見渡していても、世の中に合わせるための方法論ばかりに満ち溢れているともいえます。例えば、食糧に化学薬品を入れることも、時間を道具にあわせて人間があくせくしていることも、パソコンを打ちながら仕事をしたと思っていることも、言いだしたらキリがないですが、この自分がおかしなことをしているということが気づけるかというものも問題を発掘する力の一つであろうと思います。

例えば、物事を考える時に土や水、光や音というものから考え始める人たちは当たり前のことが分かっているということです。この当たり前というのは、本質が観えるということです。

常に物事には本質があり、それを維持しようとすれば特異なところにばかり目を向ける前に何が元かと考え抜いたものを実践していくことのように思います。

それは当たり前すぎて世の中で上手に生きている人たちには見えないことなのかもしれませんが敢えてそこに取り組むことが根本治療につながることだと思います。医の本質とは、土から見直すということであろうと私は思います。

元というもの、それは土がもっとも当たり前の傍にいるのだから、この元土というものをもう一度、自分なりに深めていこうと思います。

 

問題直視力

今のような情報化社会の中で、最も重要な生きる力に問題を解く力があるように思います。これは学校でやっているような、問題を解く力のことを言うのではありません。言い換えれば、問題が何かを発掘して意味づけしていく力のことです。

本当の問題とは何かと考えてみると、それは答案の中にあるものではありません。それに問題があったから問題を単に解けばいいというものでもないのです。それは問題というものの奥にこそ真の問題があり、その真の問題を解き明かすなかでそこから見出したもの、そのメッセージともいえるものを自分なりの意味と答えをつけていくことが大事なことのように思います。

例えば、歴史というものを考えてみます。歴史といっても、自分の人生の歴史をはじめその人がどのような過去から今までを過ごしてきたかは年号で表現できるものです。しかしそれがどんな意味があり、何のメッセージをいただいたかというのはその人が答えを出していくものです。

また他にもご縁というものがあります。これも、なぜこの人と出会ったのか、このご縁は一体何とつながっているのか、何を意味するのか、それはその人がずっと点を線にし、面にしていく中でつながりの中にあるものを深く見つめて答えを出していくものです。

このように出来事が起きることに意味があるのではなく、その出来事に意味があるとどのように感じるか。そこには理念があれば、出来事は理念に添って起きるのだから流されずにこれは一体何なのかと常に答えを導きだすのは自分の主体性であるのです。

流されるというのは、一体何なのかを感じなくなり点は点にしか見えず、線にもできず、日々に一喜一憂しているようなものです。それでは、せっかくの貴重な体験をもったいないことにしているようにも思います。

日々というのは、一期一会であるのはそこに確かな意味が存在しているからです。その確かな意味を紡ぎながら一反のかけがえのない貴重な織物を仕上げていくのが人生だとしたとしたらそこで何よりも重要なのは問題を直視しそれを解く力なのです。

問題を発掘する力、問題を発見する力、問題というものを解明していく力、つまりはこの力は真の問題を直視しそこに毎回テーマを抱き、今、ここを意味付けすることを忘れるなということでしょう。初心を大切にしていくには日々の意味づけを丁寧に実践していくことが何よりのように思います。

自分にしかない問題を、理念を主軸に仲間と一緒に解き明かしていく有難い日々にはその問題を直視する歓びにも恵まれた日々のことです。

そこに人生の面白さ、醍醐味もまたあるように思います。ひとつひとつのことを感情に流されず、これは一体何なのかと自問自答を楽しんでいきたいと思います。

寄り添う

相手に寄り添うには、相手を理解しないとできません。

相手のことをまず理解して、どうしたいのか、何をしたいのかを自分が把握してそこに一緒に向き合っていく中ではじめて寄り添うことができるように思います。

そして理念に寄り添うや、目的に寄り添う、その人の自己実現に寄り添うこともそうですがまずはその本質から考えなければなりません。

つまりはその意味は何か、その価値は何か、共に真摯に学びを已めずに共に前進し続けるのです。前進とは単に前に進むだけが前進ではなく、信じていくということです。

今はまだ分からなくても必ず分かるようになると信じる事や、どうすればいいのかを共に学び共に実感していくのにも似ているように思います。

言い換えれば、必ず善くなると信じ続けるということです。

相手を見るというのは、相手の何を見るかということです。相手の信じたものを時折相手が見失いそうになったりするものです。そういう時にも、観ていてあげることや見守ってあげることで相手は大切なものに近づいていくことができるように思います。

理念の大切さというものは、まるで海上にある灯台のようなものです。そこを常に観続けるからこそ少し気候が荒れても霧で見失っても、そこに辿りつけると信じて寄り添う存在を実感し、本能を発揮して到達していくことができるように私は思います。

人は寄り添っている偉大な存在を実感するとき、確固とした自信を持てるように思います。また寄り添っているものを実感しないときは、不安になり焦り、学べなくなるようにも思います。

学び続けることが人生なのだから、学び続けるための環境に寄り添いというものはとても尊い実践であろうと私には思うのです。自分に寄り添っているものは何かを自分の中に抱けることが自立の鍵になるのでしょう。

大自然、大宇宙、人間愛から万物のいのちに至るまで、すべてのつながりの中で寄り添ってくださっているはずです。もう一度、人が自らの生き方を学び始めるキッカケづくりについて考え直していこうと思います。