結び~真心の共感~

人の心に共感する仕事というのは、人の心に寄り添う仕事です。数々の現場でいつも感じるのは自分の真心がどこまで相手と一体になっているか、自分のことに思えているかという自問自答でした。欧米ではカウンセリングという言葉もありますが、それでは何か足りないとずっと感じていました。

なぜかといえば、相手と自分が分かれているなかでいくら相手に近づいてでもそれ以上は近づけないという場所があります。それは自分が相手と同じにはなっていない、どこか分けてしまう場所があるからです。相手の心に寄り添うというのは、ありとあらゆる感情に一緒に向き合うのですから単に知識や頭でできることではなくまさに全感覚を研ぎ澄ませていくものです。

それに自分がどんな状況でも望みを捨てず信じているからこそ、相手はその自分によって哀しみや苦しみが癒されていくのです。不安や心配の中で真摯に耐え忍び乗り越えようと人がするとき、そこに希望を探します。その希望を見出し守るのが本来の共感ではないかと私は思います。自分がどれだけ相手の絶望に寄り添いながらも自分が希望を捨てないか、それがどれだけ厳しいことかといつも感じるからです。

聴福人、一円観を実践する中に、傾聴、受容、共感、感謝があります。その中のすべてはある一点に向かいます。それは日本文化の真髄でもあるし、かんながらの道の達する境地でもある「結び」の一点です。

心がよそにいかず、心をうしなわず、いつも心がそばにいるという境地は、「分けない」ことではじめて可能です。どんなに忙しくてもどんなに状況が変化があっても、心はいつも結ばれたままであるという安心を与えることです。そしてその結びのご縁というものも、「この人と私は強い結び合いがある」と互いに信じることで希望の糸は織られ紡がれていくからです。

この結びという真心は、目には観えませんが私たちの精神の支柱になっているのではないかと私は思います。かつて、私の祖母や私が尊敬する方々は皆、この結びによる真心の共感を私にも発揮してくださいました。

そのことで矛盾する様々な感情を全て丸ごと受容でき、御蔭様の実態を見出し、全て感謝に昇華していきました。この考え方は、これからの世界を変える可能性を秘めた私たちが尊ぶ「和の心」と密接につながります。

一円観の境地は、数々の実践現場でのみ磨かれるものですから心を離さず、心を寄り添い、心を分かち合い、心を結び合い、心と心の共感によって得られます。

単なる思想ではなく、如何に現場で技術として活かせるかが何よりも大事です。現実を変えなければ世の中も変わっていかないからです。聴福人を育て、子どもたちの未来を一緒に創造していきたいと思います。

後の先~正直に向き合う~

先日、ある食事会で向き合い方についての議論がありました。それは向き合う姿勢そのものについて向き合うという話です。人は向き合うことで自分を知りますが、同時にどのように向き合うかでそれまでの自分ではなくはじめて本当の自分に出会うとも言えます。

人生は自分の身に起きる出来事に対して、自分自身が都合で歪めずどれだけ素直に選ばずに現実を受け止めていくかというのが人生の修業のように思えます。自分の実力を知り、自分を育てていくのも、素直さがなければ難しいように思います。

例えば人生に起きる出来事は全て必然だと受け止めることができるなら、その後に「選ばない」という覚悟が生じるからです。そして選ばないと決めるなら、自分には合っているとか合っていないとか迷うのではなくそのままそれはもっとも今の自分に相応しいと正直に受け容れられるのです。そうしたとき、はじめて今の自分の本当の役割や天から与えられている使命に気づくことができるようにも私は思います。

横綱白鵬の話に「後の先」という話があります。これは相撲では相手より一瞬あとに立ちながらあたり合ったあとには先をとっている相撲の立ち合い方です。これは言い換えれば全て受け止めて打ち克つという戦法のことです。

その横綱の白鵬の日経新聞のインタビュー「基本はぶつかり稽古」と題する中でこう書かれていました。『全身砂にまみれ、土俵に倒れ込んで動けなくなる。兄弟子の竹刀が飛んできても、反応する力さえ残っていない。口に塩を突っ込まれる。最後にバケツの水がザブン。これを荒稽古というのだろう。「1日3回泣いてた。ほぼ毎日ですね。稽古場で2回、夜寝る前に1回。稽古が苦しい時、泣いて。終わった後先輩にお前のためだからって慰められて泣く。夜は、明日また稽古始まるんだっていうね。自然と涙が出てくるわけ。ふとんでね。でも当時やってたことが、今生きてるわけね」』とあります。

今でも白鵬はこのもっとも苦しい基本のぶつかり稽古を欠かすことはないと言います。

後の先の本質とは、この基本の向き合うという素直な姿勢をどこまで徹底するかが重要なのではないかと私には感じます。現場というのは相撲の土俵のようなもので、常に真剣勝負です。その人生においての現場の場数をどれだけ逃げずに真摯に素直に謙虚に向き合うかというのは、自分の心がけを見つめれば向き合うことができます。

どの状況であっても真心を籠めることも、命懸けでやりきることも、それは常に人生の稽古である信じているからです。年齢は関係ないといくらいってもまだ若干29歳の白鵬の土俵での立ち合い方から私たちは日本人としての大切な心「正直さ」を学び直すことができます。

どんな相手であったとしても、どんな場面であったとしても、どんな機会であったとしても、自分自身が素直に謙虚に向き合って真摯に正直に実践し自らを磨くことが理想を追求するという姿勢と心がけなのかもしれません。

やっていることは異なっていても、目指すその姿から勇気をいただけることが沢山あります。同じ時代でそれぞれの分野で生き方のモデルがいることは、道を歩む仲間がたくさんいる有難さです。未熟さを痛感することばかりですが、修行できる有難さに感謝し、日々の土俵に対して選ばずに基本を崩さずに精進していきたいと思います。

 

一円対和~認め合う社會~

人は物事を対立で考えるときに、様々な問題が出てくるものです。そもそも一つであったものを二つに分け、それを対立させるのはお互いを認め合わないからです。本来、ニワトリが先かタマゴが先かというだけで、同質のものの先をどちらにしようかという話であることがほとんどです。

なぜそうなってしまうのかといえば、そこに対立思想があるからのように思います。自分とあなた、これとあれ、善か悪か、正しいか間違いかなど違いを分けてお互いに要求していけばその先には紛争や戦争が待っているかもしれません。

だからこそお互いに対話によって近づいていこうとするアプローチを世界中の様々な教育現場では試行錯誤されているのです。私たちの会社には一円対和というものがあり、二つ以上の分かれたものを一つに融合するというマネージメントを持っています。

本来、違うと思っているものも皆で持ち味を活かしあえば大和になるという思想と実践です。これは、お互いが違うからこそお互いを活かしあえば偉大な力になるということです。そのためには対立から対和へと舵を切ることと、その中でお互いが認め合うことで和合するという一円観を磨くことです。認めてもらおうとばかり思うのは自分を特別視するからですし、相手に自分を認めさせたいからです。

それぞれが違うというのは、それぞれに与えられてる才能や使命があるということです。言い換えれば「協力できる」「助け合える」「一緒にできる」ということです。お互いに一つの目的のためにその力を活かしあえばどの組織でも、衆智を集め、一家団欒の平和な社會が顕れてくるように思います。そしてこれが和合です。

この和合という考え方は、私たち日本を代表する文化の一つです。

対立し比較されまたは個性が認めてもらえずに心が傷ついている人たちはたくさんいます。その人たちが少しでも自分の持ち味に気づき、その個性を共に活かしあい認め合う世の中にしていくために、日々の実践を強く厚くしていきたいと思います。

人生の物語~個性~

人は物事を考えるときに、無理やりに二つに分けて理解しようとするものです。これは善か悪か、正しいか間違いか、できるかできないかなども極端に考えてしまうものもあります。

私が好きな心理学者に河合隼雄さんがいます。発達障がいの勉強をする際に、その著書や対談テープを随分参考にしましたが実際は人生というものとどう向き合っていけばいいかという指南書のようなものがほとんどでした。

その中で分けるということについて書かれている文章があるので紹介します。これは、小川洋子さんとの対談の中からの抜粋です。

「河合:分けられないものを分けてしまうと、何か大事なものを飛ばしてしまうことになる。その一番大事なものが魂だ、というのが僕の魂の定義なんです。
小川:数学を使うと非常によくわかりますね。
河合:お医者さんに、魂とは何ですか、と言われて、僕はよくこれを言いますよ。分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂と言うと。善と悪とかもそうです。だから、魂の観点からものを見るというのは、そういう区別を全部、一遍、ご破算にしてみることなんです。障害のある人とない人、男と女、そういう区別を全部消してみる。」『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮社)

人間は、分類の中でしか人間は認識しないものです。私たちの会社も分類分けの中には入っておらず、無理やり分類分けされていますがわからない人には変な会社と呼ばれています。

結局は分類の中で人は物事を自分の都合で分けては認識していますが、実際の世の中は分類分けできない複雑で矛盾なものであるのです。中庸や中心などというものもそうですが、そのままに観得る状態であってはじめてその意味を感得できるように思います。

物事にはわからない部分があるからこそそこに物語があるように思います。わかりきった人生を生きるのではなく、分からない部分を愉しむ心の余裕やゆとりがあるからこそ目には見えない部分が実感できるようにも思います。

頭ばかりよくなり現実を自分の思い通りにしようと我を強くしていけば、次第に思い通りではない愉しいことも感じる力がなくなってくるように思います。分けないというのは、頭でわからないところを直感するということです。

物事を直感するとき、そこに偉大な物語があることに気づきます。二分法ではなく、直感法で理解するには体験による気づきと内省、振り返りを優先する生き方に換えていくことかもしれません。

最後に、河合隼雄さんの言葉です。

『物語の「主人公」は自分。人間は一人ひとり違うのですから、それぞれが自分の物語を作っていかなければなりません。』
・・・

『「せっかく生まれてきたこの世で、自分の人生をどのような物語に仕上げていこうか」という生き方の方が幸せなんです。』
・・・

『僕の言い方だとそれが「個性」です。「その矛盾を私はこう生きました」というところに、個性が光るんじゃないかと思っているんです。』

たった一つのたった一人の自分の物語が人生です。その人生の物語を面白く愉快にしていくのも自分自身です。マジメに考えることも大事ですが、マジメの中に遊びがなければ物語に気づけなくなります。

今のような時代だからこそ、敢えてふざけて生きてみたいと思います。子ども達にも遊びの中でその人らしい物語を生きれるように、自分自身がチャレンジしていきたいと思います。

 

 

 

 

魂の傷~社會問題~

人は幼少期をはじめ、無意識のうちに心に傷をおっていることがあります。社會の中で自分がどのような環境の中でどのようなことを感じたかは、その人の心の中にあります。その心の傷は、見た目にはわかりませんがいつまでも痛む人ともう治っている人がいます。

例えば、怪我もそうですが古傷が痛むというように昔怪我したところが何かしらのことで傷んだりします。同じように、心の傷も古傷のように痛むことがあります。人は何かしらの怪我をしてはそれを乗り越えて強くなっていくのです。

傷ついて痛みが分かるということは、同じように傷ついた人の痛みが分かります。苦しみも喜びも楽しみも、人間には共感という与えられた天性がありますからその力によって互いに癒しあうところに人間の社會の根がはっていくようにも思います。

ただ、今の世の中を見渡して観ると心を傷つけるよりも魂が傷つけられているような気がしてなりません。自信を失い、自分の役割を実感できず、自分の居場所をなくしたり、昔でいうところの日本人の大切にしてきた美徳、正直、素直、謙虚、誠実、思いやり、真心、勇気といったことが社會の中で否定されることで魂が傷ついてきているようにも思うのです。

魂が傷つくという言い方は曖昧かもしれませんが私なりの言い方をすれば、それは子ども心が傷ついていくということです。

子どもの権利条約の根幹を提起したヤヌシュコルチャックは、大人は大きくなった子どもであると定義しました。身体が大きくなったから大人になったのではなく、みんな子どものままに大きくなっただけです。

それは産まれてから死ぬまでずっと同じく、子どもは子どもであるのです。

その子どもを、無理やりに大人(今の自分たちの境遇に同じに合わせさせよう)にしようとするところに魂の傷つきがあるように思うのです。その大人とは、社會の乱暴な側面ばかりを強めてそれに慣れさせていくかのようにです。

子どもの心を失うことは、心が傷つくだけではなく魂も傷つきます。どんな時でも子どものままでいいと見守ってくれる周囲があればその人は自信を持ち、魂を育てて健やかに逞しく生長していくように思います。

社會の中で傷つく人たちが増えているからこそ、その社會の一員として自分が何ができるかを考えないといけません。子どもの素直さをいつまでも失わないためにももっと大きな目で社會を見渡し、もっと深い心で社會を癒し、もっと篤い耳で社會の声を拾っていきたいと思います。

決して自分の問題ではなく、その人個人の問題ではない、人間における全ての問題は社會問題です。社業の中でさらなる徳の発明に精進し、社會をより善く直すためにも実践で弘めていきたいと思います。

魂磨き~人類の夢~

昨年に貝磨きの体験をしてから、貝をとても身近に感じるようになりました。貝というのは、古代人の夢であったように今では感じています。古代の人たちが貝を首飾りにし、土器の模様にしたのは、きっと貝が人間社會そのものを顕していたのではないかと私には思えます。

人生はまるで貝磨きのようなもので、人間は一つの社會を集団になって形成し、その社会の中で自らの本性をお互いに磨き合いつつ豊かで平和幸福に暮らしていきます。まるで一人一人がそれぞれにいのちの塊、その魂の原石であり、その魂を出会いによって互いに輝かせては大切な思い出という物語を宇宙の記憶の中に保存していくかのようです。

一人ひとりが自らで魂を磨いてきたからこそ、私たちは発展と繁栄を繰り返してきたように思います。その中で私たちは何度も何度も繰り返し繰り返し、まるで海の押しては引く波と同じように魂を磨き続けてきました。

貝の中に観る神性とは、「めぐりとひかり、いのち」の3つではないかと感じます。

磨き方は人ぞれぞれですが、みんなで一緒に磨こうとしたことは時を超越して今でも変わらず受け継がれています。

機会をいただけること、ご縁をいただけることが何よりも有難く、人生で一緒に出会えることに感謝の心に包まれました。

最期に、「人類の夢」という詩を紹介します。

「人は誰しもが何かしらの魂の原石です。
  だからこそ磨けばだれでもその人らしく光っていく。
 一人で磨くのではなくみんなで磨いていけば
必ずの世の中は澄んできて美しい世界になる。
 だからこそ一緒に磨こう、魂を磨いていくことは、
    子どもから私たちが学び直していくこと。
 子どもを人類の先生にして、私たちが学んでいくことこそ魂磨き。
     一緒に磨く仕合せ
を感じていこう。」(藍杜静海)

何が人類の初心であるか、それを出会い御縁をいただけた方々の道しるべになれるよう精進していきたいと思います。

 

一緒に磨く

人間はいつの時代もあらゆる方法を用いてその人間の本性を磨いていくものです。あらゆる環境の中で、それぞれが懸命に生きてはお互いに切磋琢磨し、その精神や魂、心を磨いて往くものです。

磨くということは、人間そのものの本質に近づいていくことのようにも思うのです。

この磨くということにおいて、松下幸之助さんが54歳の時にPHPで語った話が遺っています。私はこの語りがとても気に入っていて、「一緒に磨く」ことの本質が入っているように思っています。

「人間には、自然からかぎりない繁栄、平和、幸福が与えられている。
それをたとえていうならばダイヤモンドみたいなものである。
ただの石をただ磨いてもダイヤモンドにはならない。
しかしそのダイヤモンドの原石でも磨かなければその美しい本質は現れてこない。
それと同じことで人間の優れた本質も磨くことなしには発揮されないわけである。
・・・
人間にはその本質として、繁栄、平和、幸福というものが原則的に与えられている。
その本質がだんだん出てくるだろう。
そうすると、みだりな闘争とか破壊とかそういうことが少なくなってくるだろう。
少なくなってくるだけ、一方で繁栄とか平和とか幸福とかが反比例して生まれてくると思う。

だから磨き上げてしまったら楽土ができる。
もっと磨き上げるまでに数千年、数万年、あるいはそれ以上かかるであろう。
しかしそういうことを信じてやることが大切だと思う。

それではだれが磨くのかというと、それはみんなで磨こう。
これは一人や二人で磨いてもなかなかうまくいかない。
みんなで寄って磨いていこうじゃないかというわけである。
そうすれば磨き方も、ある人はその磨き方よりこの磨き方のほうが早く磨けるという人もでてくるだろう。
つまり万人の智慧というか、いわゆる衆知を集めて磨こうではないかというのが行き方考え方なのである。」(松下幸之助発想の軌跡著者: PHP総合研究所より)

人間はダイヤモンドの原石であるといい、その原石も磨かなければ光らないといいます。その通りで、常に原石を磨き続けなければ悠久の歴史の中での地球上での自分たちの真の役割に気づけなくなるように私は思います。

人間はダイヤモンドの原石だからこそ、磨き続ける必要があるのです。そしてそれを誰かがやればいいのではなく、一緒に磨こうとするのが本来の人間に備わっている徳なのであろうと思うのです。

その徳が備わっているのが人間であるからこそ、その徳を磨いていくことで徳が光ってくるのです。

私たち日本人をはじめ、全ての人間の心の中には和があります。そしてその和の精神は、一緒に何かをする中で衆知を集めて顕現していくものです。左右東西前後の異なりを超越し、円満に一円観にありとあらゆるものを融合してさらに善いものへと転じていくのです。

それをどう耕し織りなし掘り起こすのかは、その人の「磨き」にかかっています。

自分が原石であることを忘れないように、常に磨き続けていきたいと思います。与えられているものに感謝して、素直に謙虚にありたいと思います。

 

おかげさま~我執を手放す~

自我欲といった欲望とは何かと内観してみるとある一つのところにたどり着きます。それは御蔭様の心を見失うということです。人の謙虚さとは何か、それは際限のない欲望に己が打ち克つことのように思います。

協和発酵の創業者加藤辮三郎の言葉に「欲望に限りがなく、些細なことにも腹を立て、おかげさまを忘れて自分の行為には高い値をつけようとする。 」があります。

如何に自分が能力が高いか、如何に自分が優れているか、如何に自分が価値があるかと、人はその自分というものがよほど特別であると思いたくなった時こそ、欲望に呑まれるように私は思います。

本来は自分の力ではないものを、本来は御蔭様で今があるのを忘れては、俺が俺がと自分の優秀さを周囲にひらけかしさも自分が特別な力を持っているかのような錯覚に陥るとき、人は絶対観から相対観に移行し、本来の原点や初心を忘れては我欲のままに周りに我執をまき散らすのです。

今の時代、毎日は大変からも知れませんし自分ばっかり苦労していると思いたくなるのも仕方がないことのようにも思います。だからといって頑張った頑張ったからと真面目過ぎては周りに矢印を向けて、御蔭様であったことが観えなくなり、不平不満と愚痴ばかりを言っていて大切な生き方や働き方を見失ったなら、一体何のためにやっているのかと自分自身が一番悲しい思いになるのです。

大変な時こそ笑うのは、自分ばっかりという我執を捨て去るためです。本来は自分は周りの皆様の御蔭様で存在できていることを忘れず、自他実現のためにと自分の役割を全うしその仕合せに感謝できることが我執に打ち克つことのようにも思います。

自分への執着よりも如何に自分に向き合うか、人生の課題はいつも自分の生き方の中です。相田みつをさんの詩に「いいことはおかげさま、わるいことは身からでたさび」があります。

まさに他人のせいにしないときが、御蔭様の心を忘れていない時だということです。

まだまだ相対的なものの見方に囚われ我執に呑まれてしまうことばかりです。絶対的な境地にはまだまだ到達できませんが、子どもの憧れるような生き方を志した以上、その道から外れるわけにはいきません。

日々の一期一会に感謝して、御蔭様を片時も忘れない自然の姿、かんながらの道を実践していきたいと思います。

ありがとうございます。

遊び心~童心に帰る~

遊び心というものがあります。英語ではユーモアやユニークという言い方をしていますが、この遊び心というのは物事の全てにおいて重要なことであろうと思います。遊んでいるのか学んでいるのか、遊んでいるのか真剣なのかというように、まるで事物一体になっている人の集中力の中には遊びが必ず入ってきます。

その遊び心は何かということを少し深めてみようと思います。

遊び心は辞書でひくと、「遊びたいと思う気持ち。また、遊び半分の気持ち。」「 ゆとりやしゃれけのある心。」「音楽をたしなむ心」などと書かれています。

ゆとりを持っている人というのは、どこか真剣な中にも遊び心がありそのものを心から面白がって取り組んでいます。子どもの頃は、何をやっていても面白く、どれをしていても愉しく、大人になってみると何が面白かったのだろうかと思いますが今でもその感覚は覚えています。

好奇心と呼んでもいいのかもしれませんが、何に対しても興味が湧き、どんなものでもやってみたいと思うのです。ワクワクドキドキのままに、集中して愉しみ時を忘れて気が付くと日々がいつも充実しているのです。

人はそのワクワクドキドキを真面目過ぎることで見失っていくものです。面白くもないことを真面目にやるより、真面目なことも面白くする方がなんでも楽しくなってきます。結局は、自分の中にあるワクワクドキドキの蝋燭の火を灯し続けているかどうかがその遊び心を満足させるコツのように思うのです。

遊び心がなくなれば仕事も人生もつまらないものになってしまいます。

畢竟、私にとっての遊び心とは子ども心、つまり童心です。

言い換えればこれは理想を求めて已まない心のことです。

人は理想を失うとき、子ども心を失います。

どれだけ真剣であるか本気であるか、覚悟が決まっているかは、その人の遊び心を観ればわかります。よくニコニコ顔で命懸けという言葉を使ったりもしますが、大変でも愉しい、苦しいけれど仕合せ、ピンチだけれどチャンス、禍転じて福になる、そういう心境というのはワクワクドキドキし続けている証拠なのです。

子ども心は、大人から押し付けられた刷り込みによって真面目であることを強要されて失っていくものです。優等生に仕立て上げられる中で、本来の遊びは次第に消失していきます。

人生は一度きり、どれだけ面白いことに出会うかが人生の豊かさであり仕合せのように思います。日々に出会う奇跡にどれだけ心がワクワクするか、そしてリスクを取りどれだけドキドキするか、まるでそれは遊びそのものです。

子ども心が亡くなった人に遊ぶことはできません。

私たちの会社の理念である子ども第一主義は、その理想を諦めさせないことで子ども心を見守りたいと祈る実践でもあります。子どもの周囲の大人が、童心をなくしてしまうことを私は一番危惧するからです。

童心というものは、純粋に素直に、謙虚に正直に、そして何よりも自然を愛し野生を尊ぶ心の中に棲んでいます。ワイルドに飛び跳ねるように世界を廻り、ナチュラルに仲良く元気に、ピュアに明るく健やかにセンスオブワンダーの原点、その童心に帰る日々にしていきたいと思います。

 

忘れないこと~実践の真価~

私たちはなんでも忘れていく生き物です。日々に情報量が多ければ多いほどに、かつての出来事は忘れてしまいます。これも一つの生存本能で、全部おぼえてしまえば膨大に混雑した情報を整理することができなくなります。言葉ができ本ができコンピューターができるように、今では脳の代わりを道具が担うようになりました。そこに情報を保存して溜め込み、それを取り出すことができるのです。

しかしそれも自分が在る程度は引き出すための情報を持っていなければ取り出すこともできません。つまりは、覚えている機能は自分自身なのだから主はあくまで自分であって道具ではないのは分かります。

そして何かの決断や判断をするときは、その膨大な情報量の中から自分の中で吟味し決心して物事を決定します。それは何のためにやるのかや、なぜこれをやるのかと、自分の心に尋ねてはそこからできる最善の決断を自分が下すのです。

それは初心とも言います。その初心は物事のはじまりであり、自分がそれを行うための動機の元です。原点といってもいいし、根本や本質、目的という言い方もします。その決断を下すにはシンプルな答えが出てくるものです。情報量がいくら膨大であっても、何のためにかと問うとき情報の束に隠れていた真実が出てくるように、かき分けてもっとも真底にあるものを探し出すのです。

しかしそれをまた見つけても、日々の情報量の塵や埃が降り積もりまた気が付くと見失ってしまいます。これは忘れてしまいますと言った方がいいかもしれません。まるで神社の参道に積る落ち葉のように、日々に掃除をしていなければ参道がどこであったかもわからなくなるほどです。

だからこそ神社では参道の掃除を神職の方々は欠かしません。それは初心や原点を忘れないための実践だからです。なぜ日々に塵や埃を自ら掃き清め洗い流し澄ませる必要があるのかは初心を忘れるからです。

情報量が多ければ多いほどに、どんな時も初心を忘れていないか、道を見失ってはいないか、一人慎み内省し、また初心に出会うのです。

理念など誰でも分かるし知っているという人も沢山いますが、しかしそれを片時も忘れたことはないと言い切る人たちはどれだけいるのでしょうか。人間の修養というものは、己に克つことですがそれは初心を忘れない人になるということのように私には思えます。

常日頃忘れないための実践とは、塵や埃にかぶらないように大切に守ることです。常に心の原点に回帰し、心の原点を忘れないために掃除のような実践、つまりは初心の実践を実直に守り続けることで忘れないように工夫していくことが最善のように思います。

人生は一度きりですから、大事な役割や使命を忘れないように実践を何万回と積み重ねて修業していきたいとおもいます。