忘れないこと~実践の真価~

私たちはなんでも忘れていく生き物です。日々に情報量が多ければ多いほどに、かつての出来事は忘れてしまいます。これも一つの生存本能で、全部おぼえてしまえば膨大に混雑した情報を整理することができなくなります。言葉ができ本ができコンピューターができるように、今では脳の代わりを道具が担うようになりました。そこに情報を保存して溜め込み、それを取り出すことができるのです。

しかしそれも自分が在る程度は引き出すための情報を持っていなければ取り出すこともできません。つまりは、覚えている機能は自分自身なのだから主はあくまで自分であって道具ではないのは分かります。

そして何かの決断や判断をするときは、その膨大な情報量の中から自分の中で吟味し決心して物事を決定します。それは何のためにやるのかや、なぜこれをやるのかと、自分の心に尋ねてはそこからできる最善の決断を自分が下すのです。

それは初心とも言います。その初心は物事のはじまりであり、自分がそれを行うための動機の元です。原点といってもいいし、根本や本質、目的という言い方もします。その決断を下すにはシンプルな答えが出てくるものです。情報量がいくら膨大であっても、何のためにかと問うとき情報の束に隠れていた真実が出てくるように、かき分けてもっとも真底にあるものを探し出すのです。

しかしそれをまた見つけても、日々の情報量の塵や埃が降り積もりまた気が付くと見失ってしまいます。これは忘れてしまいますと言った方がいいかもしれません。まるで神社の参道に積る落ち葉のように、日々に掃除をしていなければ参道がどこであったかもわからなくなるほどです。

だからこそ神社では参道の掃除を神職の方々は欠かしません。それは初心や原点を忘れないための実践だからです。なぜ日々に塵や埃を自ら掃き清め洗い流し澄ませる必要があるのかは初心を忘れるからです。

情報量が多ければ多いほどに、どんな時も初心を忘れていないか、道を見失ってはいないか、一人慎み内省し、また初心に出会うのです。

理念など誰でも分かるし知っているという人も沢山いますが、しかしそれを片時も忘れたことはないと言い切る人たちはどれだけいるのでしょうか。人間の修養というものは、己に克つことですがそれは初心を忘れない人になるということのように私には思えます。

常日頃忘れないための実践とは、塵や埃にかぶらないように大切に守ることです。常に心の原点に回帰し、心の原点を忘れないために掃除のような実践、つまりは初心の実践を実直に守り続けることで忘れないように工夫していくことが最善のように思います。

人生は一度きりですから、大事な役割や使命を忘れないように実践を何万回と積み重ねて修業していきたいとおもいます。

  1. コメント

    毎日の積み重ねは本物になっていくと信じていますが、初心を忘れた積み重ねは身を滅ぼすということを、身を持って働く中で学んでいるように感じます。ありがたい事にその都度、自分に何が足りないのかを何方かが教えてくださっていることを思うと、僕の初心を周りは知っていてくれていると感じ、見守られる豊かさを感じます。自分も、周りやお客様の初心を応援する人でありたいと思います。

  2. コメント

    大切なことも、続けているうちにマンネリ化し、続けることが目的になったりしてしまうことがあります。また、他にも大切なことができると、その都度、優先順位が変わったりします。時どき思い出すことと、忘れないことは、根本的に生き方が違います。相手次第というのでは、その価値は定まりません。相対を捨てて絶対に帰し、絶対に生きるためには、天を相手に生きる覚悟が必要なのではないでしょうか。

  3. コメント

    振り返りはしていても、それが理念からかと思うと、自分の価値観からのように感じます。初心を忘れないために始めた実践がいつからか、やっていることを盾にしているように思います。主体がいつも自分だからこそ忘れ、伝わるものになっていないのだと感じます。そもそも決めた時点での動機がどこを向いているのか、根本を大事にしたいと思います。【●】

  4. コメント

    風鈴の音の一つでも、そこに職人の思いが入ると「ただ涼を得るため」ではなく「今お前は胡坐をかいていないか?苦労したことを忘れるな!」という傲慢への戒めに聴こえるのではないか、ということを致知の記事から感じました。職人は物を作る度に思いを籠め、その都度初心に返っているのでしょうが、自分はどうかと考えれば、カグヤは生き方と働き方の一致、その生き方から省みる必要があることを感じます。今日のこの状態も、また一つの改善の機会として受け取っていきたいと思います。

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