本心

人は自分の本心を知ることは何よりも大切なことです。一番身近にいる自分に素直になれなくなってしまえば、些細なことでも迷いが出てしまいます。それくらい自分というものとの信頼関係は日頃の生活に直結してくるように思います。

人は自分のことが分かってくればくるほどに、自然体になっていきます。それは本心が分かり本心に対して素直になれるからです。本心でいられればありのままの自分を分かってあげられますから同じように他人のことも理解していくことができます。

他人のことを思いやれる心というものも自分を分かってほしいときではなく他の誰かのことを分かってあげたいと理解に努めるときに次第に実践できるように思います。

理解が深まるとき、相手のことがまるで自分のことのように理解できます。そうなると自分の本心が相手の本心を励まし支えていくことができるのです。このように繋がっている場所、一緒である場所、そういう絆の結ぶところで心は一つになっているものです。本心というものは、自他の境目を超越したところにあるのです。それが自分に素直に正直である状態です。

そして共感する力は相手を分かろうではなく、心で相手に寄り添おうとするようなときに発生します。わかってもらいたいと満たせない心を持ち続けると、己に負けてしまいかえって迷い惑うことが増えていつまでも自分探しなどに走ってしまうのかもしれません。

そういうときこそ、「本心」を理解するために誰かのために思いやり利他で抜けるといいように思います。本来、人間の心の正体は利他心ですから自らが助け合い思いやるときにこそ顕現するのが心です。

心の穢れを祓い清めて本来の本心を常に見守り続けていきたいと思います。

刷り込みを取り除く目~本質を味わう~

人は目を用いて物事を見ようとします、人は情報の80パーセントを目だけで得ているともいわれます。しかし実際の現実はとても目だけではすべてを見ることはできません。その目には観えないものは他の感覚で掴んでいきますが、今の時代は目だけを集中して酷使し目で何でもすべて理解しようとしているように思います。

科学的にも目と脳の神経の距離が近いため一番脳に影響を与えているともいいます。つまりは目は脳そのものとも言えます。たとえば、食べ物を食べる際にも好き嫌いとかもありますがだいたい思い込みで食べていることがあります。きっとこんな味だろうと思い込んでは、その味を脳で想像しながら食べるのです。

特に今の時代は、ファーストフードが流行っていますから見た目の味と同じ味であることを重んじます。毎回、新しい味を食べるのではなくきっとこんな味だろうと思っていることに安心するのです。もしも食べてまったく思い込んでいるものと違うのなら不安で食べないかもしれません。

以前、暗闇の中で食べるレストランの話を聴きましたが目が使えない状況になると何を食べているのかが最初はわからないのです。時間がたつと味覚が戻ってきて味が分かるようになります。他にも見た目はトマトのように赤く色を付けたスープを出しても、中身の味はキューリにしたりと変えると最初はトマトと思い込んでしまっているからキューリだとはすぐに気付けなくなります。

これなども一種の思い込みで食べているということです。言い換えれば見た目のところで判断してそのものの本質を味わおうとはしていないということです。

こういうことは日常的に行われていると思います。相手を思い込みで判断したり、他人の話をちゃんと聞かず自分の刷り込みで聴いていなかったり、見た目のところで理解しては本質を掘り下げず深めなかったりと、結局は目と脳しか使っていないのです。

本来、そのものの中にはすべてにおいて本質というものがあります。これは一体何なのか?本当は何か?といった、そのものの本質を聴きもらさず味わい盡そうといった求道精神のような学問の姿勢というものがあります。

何を学ぶのかの定義が、知識であれば本質までは必要ないのかもしれませんがもしも学びの定義が思いやりや真心を学ぶのであれば本質でなければ意味がありません。

如何にそのものの本質を見抜く力をつけるかは、見た目や思い込みといった刷り込みを自分自身が常に取り除く精進をしてこそできるように私は思います。刷り込みがあることも忘れ、思い込みで見ていることも思い出さず、自分の価値観にも捉われているようであれば、見ても観えず、聞いても聴こえず、食べても味わうことなく、触れても感じない、臭っても嗅ごうともしないことと同じなのです。

自分自身が本質である理由は、外界からの歪んだ洗脳に負けないように真実を知る覚悟と真実でいる勇気があってはじめてできるのかもしれません。そしてそれは世界の問題を自分の問題だと捉える大きな観点があってできるようにも思います。

日々に本質の中にある味を見極められるように、騙されてしまっている脳を騙しつつ体験を味わい盡していきたいと思います。

 

 

自堕落と向上心

自分が向上しているのかを客観的に自覚するのに自堕落の三要素というものがあります。自分がやっている気になっていても、やらされているのでは自らを自らで積極的に高めていないかもしれません。常に自分の人生において自分を育てるのは自分自身ですから自分がどのように自分を育てているのかを自覚するのは大切なことのように思います。

その自堕落の三要素とは、下記です。

①形式的であること(心を籠めない)
②便宜的であること(この程度でいいじゃないか)
③小市民主義であること(自分だけのちっぽけな問題にとらわれる)

一つ目の形式的はそのままで、形だけ結果に近づけはしますが自分の真心を籠めようとはせずに頭だけで考えて取り組むことです。どんなに善いご縁や機会、環境に恵まれていても頭で形だけをなぞっていては自分が向上することはありません。心を籠めることではじめて自分を活かすことができます。

二つ目は、自分の中で間に合わせでその場しのぎで乗り切るということです。これはぎりぎりになったからや忙しかったからなど、今風でいうところのてきとーに面倒だからそれで済まそうとする考え方です。メンドクサイとなんでもいい加減に取り組んでいたら本質的に取り組むことができません。その場だけでいいというのは、後のことを考えていないからです。自分の目的や初心を忘れないことで自分を活かせます。

三つ目は、自分の価値観に縛られて周りを省み慮ることをしなくなることです。自分が大変ではなく周りもみんな大変なのです。自分の心配ばかりに捉われて周りを思いやることができなくなれば自分を周囲のために活かしていくことができなくなります。どうせなら自分の問題はきっと世界の誰かのお役に立つと転換したり、自分の問題そのものは社會と繋がっていると思った方がいいのです。自分の問題に捉われるのではなく、もっと視野を広めていくことで自分を活かすことができます。

このように自堕落というのは向上心が減退することで発生してきます。人は自分には甘く他人には厳しいものです。自分に厳しく自分を律することで自立することができますから、まず自律ができるようになってはじめて自立して誰かのために自分を活かし働くことができるように思います。

自堕落ができるというのはその陰で、誰か自立している人に依存している自分がいるかもしれません。すべての問題を自分の問題として矢印を自分に向け、主体的に積極的に自分を成長させるために日々に精進していくことのように思います。

それは誰かの目に見えるところばかり求めるのではなく、目には観えない本質を正しく捉え、理想に自分を近づけて高めていくことです。

日々の生き方を定め決心して本質的に歩んでいくことを引き続き大切に本物のままにしていきたいと思います。

正解よりも正直に

今の時代は正解を求める人が多いように思います、小さな頃から教育によって正解があると思い込んでしまうことで刷り込まれてしまうのかもしれません。

正解があると思うから完璧になることを求めたり、どうしても正解に対して減点法で物事を捉えてしまいます。つまり何が答えなのかを探ってしまい、答えがあっていると思えば安心し答えが分からないから焦るのです。

例えば、お医者さんが患者さんを手術はできても心を寄り添わずに手術して病気は治るのかという問いです。手術は問題なく正解通りにやったといったってそれでいいわけではありません。病気になっているのだからその病気に寄り添い、そのうえで手術するのですが患者さんは医者が正解通りであることは求めていません。それよりも心を通わす正直な関係であることを望むのです。

普段の仕事一つとってもそうです。仕事に正解があったとしてその段取り通りにきちんとできたから正解であるわけではありません。もちろんミスなくその仕事は段取りよくできたかもしれませんが、相手がいるのが仕事ですから相手に心を寄り添い思いやり誠実にやったかどうかは段取りとは関係ありませんから仕事は正解だったとしてもそれが正直であったかどうは別なのです。

正解よりも正直であるということは何よりも大切です。

それは頭で考えて仕事するのが先か、心を寄り添い仕事をするのが先かという優先順位の問題になります。人間は頭で考えて仕事をした後に心を入れることはできません。私たちも一円対話というのをする前に、心を整える内省をしますがいくら頭で内省したと思っていてもそれは内省ではありません。頭で正解だという刷り込みを持つ時点で心の優先順位が下がってしまうのです。

そんなことをするとせっかく真心や思いやり、正直になった自分をいちいち頭で正解にしてしまおうとすることで大事なことが失われてしまいます。合っているのだけれどなぜか上手くいかない、正解なはずなのになぜかおかしいという感覚に陥ります。これでは大切なご縁も機会も見失ってしまうことになります。

いちいち正解にしないと気が済まないのは、考え方の中に次回は間違えたくないという観念があるからかもしれません。しかし人生を生きて観る中で実感するのは正解にして間違わないことよりも、正直にやって誠実に取り組むことの方が本質的には間違っていないのではないかと私は思います。

なぜなら人は誰しも自分が体験したことが誰かのお役に立つようにできているからです。自分が体験したことを深く味わい、その体験したものを乗り越えたり同じ体験をしよう、もしくはしている人と一緒に乗り越えようと心を寄り添うのならばそれは必ず誰かのお役に立っています。

変に頭で考えてお役に立ったかどうかを正解を求めて思い込むよりも、心を寄り添い体験したことをそのままに伝えて一緒に助け合った方が本当の安心が得られるからです。人は安心したいから頭で考えるのでしょうが、頭で考えてばかりだから不安になるのです。正解を聞いて安心するという悪循環は、これはやはり「正直」で抜けるしかないと私は思います。もともと安心している人はみんな正直です、安心しているから頭で考えずに心が定まっています。そして安心すると信じることができます。

自分自身が安心したいから正解を求めるのか、それともそもそも安心しているから正直にいるのかではその生き方が違ってきます。みんな生きていたら正解が無数にあり、どの正解も間違いであることだってあります。

その人一人一人の人生の中に正解があるのではなく、そこには正直があるだけです。せっかく産まれてきたのだから何か必ず体験したいことがあるのが人間ですから、知識を先にいれて体験しなくてもいいという不自然な道理はないように思います。知識を先にいれて正解を求めるのをどこかでやめて正直に生きて誰かの役に立てる喜びに安心して生きる生き方を子どもたちに譲っていきたいと思います。

人生の御守

自分の心の状態次第で視野というものが変わってきます。自分が満たされていない時や自分が不安なときは知らず知らずに視野は狭くなってくるものです。本来満たされないから満たすのではなく、満たされているから満たせるのですが謙虚さや素直さがなくなってくるとすぐに求めはじめます。そうなると心が観ている世界よりも現実の世界だけしか見えなくなります。

例えば、問題ということの考え方があります。視野が狭く余裕がないときは、早く問題を解決したいことばかりに捉われるものです。そうなると問題そのものよりも解決したいとばかりに躍起になりますから問題を正しく見つめることができません。一時的に解決したと喜んでもすぐにまた同じ問題にひっかかります。対処療法ではないですが、その時だけの問題を解決しても根源治療にはなりません。

もしも心にゆとりがあり、視野が広いなら問題というものを見つめようとします。私の言葉ではよく問題を味わいましょうという言葉になりますがその問題そのものを観察しそれをじっくりと味わってみようという観点を持てます。そうすると問題の本質が次第に観えてきますからすぐに解決することよりも問題をどう学びに転じようかと味わい楽しんでいくことができます。そうなると問題そのものが解決になりますから問題がなくなってしまうのです。

このように問題は解決するのではなく味わうことで視野を広げるのです。つまりは視野が広いというのは問題をなくす方法ともいえます。日々の仕事や取り組みの中で如何に解決解決と考えるのではなく、一度しかない人生の中で出会う様々なご縁に対し、そのご縁を味わい学び活かしていきたいと生きることで丸ごと問題は全て善いことになるということです。

そのためには理念が必要です。

何のために自分が生きるのか、何のために働くのか、つまりは自分がどう生きるのかという「生き方」を定め、常にそこから考える習慣を持つ必要があります。生き方が定まっていないとすぐに自分の判断を目先の問題からなんとかしようと思ってしまいます。生き方が決まっているなら、どうするかではなくどうありたいかと自分の初心を取り戻したところで判断できるからです。

どうありたいかと思うとき、現実の問題よりも自分の問題が現れます。人生は常に自分自身の問題ですから自分との問答に於いて信念をもって生きていくしかないのでしょう。この信念を助けてくださるのが人生の御守ともいえる理念です。

心に理念を持つことは、人生に御守を持つことです。

一度しかない人生で後悔しないように、自分が何を優先しているのかを忘れないように日々理念を御守にし生き切っていきたいと思います。

教育の目的

教育の技法としてのティーチングとコーチングがあります。これは教えるときの教え方ですが、よく一般的に言われるのは主体が先生か生徒かでその違いがあると言われます。

しかしこれはここが問題ではないと私には思うのです。本来の教育とは誰のためにあるのか何のためにあるのかということを考えてみると分かります。

例えば、国家教育や社員教育、学校教育とあるように教育には目的があります。誰かによって何かを教えているのはこの言葉が示すように一目瞭然です。国家が国民に国家の一員として教え込む、会社が社員に会社の一員として教え込むのです。そしてそれは何を教え込むのかは目的によって異なります。

本来、教育が示しているのは何のためにかを考えればその意図も読めるからです。もしも国家のためだけや会社のためだけ、学校のためだけになればそれは教育がその人のものではないということです。あくまでそれは権力によって管理するために教え込まれるものになってしまいます。

私が中学高校と学校に反抗した理由は単に子どもで未熟だったからではなく、学校のための教育に納得ができなかったからです。今思えばなぜあんなにも反抗したのかと思いましたが、言行不一致の本質的ではない学校体質に憤りがあったのかもしれません。そしてそれでも無理に教え込もうとする場合はティーチングというものを用います。これは主体が国家、会社、学校側にあるということです。その場合は相手が主体ではないのだからコーチングは使えません、あくまで一方的に教え込む方が進めやすくなるのです。

その逆にそもそも教育は子どもたち、相手自身の成功、本人の仕合せのためにとなるとどうでしょうか。その場合は、対象となる相手は”できる”ようになりたいと思うのを助けるという考え方になります。主体は組織ではなくその人自身の仕合せになりますから相手がそれができるように寄り添うためにコーチングを用います。相手自身の問題に寄り添い相手が自らで解決できるように導くのです。

本来、人はその人が人格的に成熟し成功し仕合せになるのなら世界も一緒に仕合せになるものです。理想論と笑われるかもしれませんが、一人一人が真摯に一生懸命に自分の役割を果たすのなら世界は必ず仕合せに出会うように思うのです。それは先日の樹木研修でも同じく、木々が一生懸命に生きていればそれが森全体の仕合せになるように、人々が一生懸命に本来の生に生き切れば社會全体は幸せになるのです。

それを日本理化学工業の大山会長は、「皆働社會」と名付けていました。私もその考え方に心から賛同しています。

そしてティーチングもコーチングも含め、本来のいのちを尊び教育することではじめて教育の真価がでてきます。それを私は人々をファシリテーションするともいい、一円調和するとも言います。私のファシリテーターの定義はその目的が明確なのです。

もう随分長いこと既存の教育に刷り込まれている人は、教育とは何かによってさせられるものだと信じ込んでいます。自分から主体になって学ぶことを忘れていたりします。お互いの慾が絡まり合って真実から目をそらさせられたのかもしれません。染まってしまうとなかなか自分が染まったことに気づかなくなるのです。

そういうものを体験と気付きによって思い出させ、本来、何のために誰のために学ぶのか、社會を仕合せにするのは一体誰なのか、真実と実践と伝道によって平和を広げていきたいと思います。

本質を見失わずに、現実の中の理念実践を展開していきたいと思います。

悠久の樹禮

昨日、高尾山にて樹木研修を行いました。前回は座学で樹木の知識を事前に学びましたが今回は実地で山に入り樹木を見ながらの研修になりました。

高尾山はお店や人がとても多く、登山路も人だかりでまるで大都会のようでしたが人が少なく樹木を観察できるルートを選んでくださった御蔭でゆったりと樹木を観て学ぶことができました。

昨日はブナについての学びがありました。ブナは関東では標高800メートル以上の冷涼な場所にしか生育しません、しかしなぜ標高600メートルの高尾山に存在するかというテーマです。

実際に歩いてまわると樹齢300年以上のブナの木たちが高尾山には遺っていました。しかし最近のものはなくすべて300年くらいの大きなものばかりです。これは江戸時代が小氷河期であったことを証明するからということでした。今よりもずっと寒かったのでブナの樹が繁殖できたのです。今では温暖な気候の中で樹勢も弱り、このままでは高尾山からブナは消えてしまうそうです。

こうやって樹木は気候の変動に合わせて、自分たちの住処を拡大していきます。樹木からかつてこの場所はどんな気候だったのか、そしてその中でどのような順応してきたのかを知ることができます。

自然界というものは、変化に順応するものだけが生き残るようにできています。小さな環境の変化を察知し、変異を繰り返しつつ時代に合ったものが生き残るのです。気候が変われば気候に合わせて自分たちを変化しつつ多様化し、どの気候になったとしても誰かの種は残せるようにと変異を繰り返します。

つまり自然の樹木というものは「来たものを選ばずに受け容れて自分の方を変えるという戦略」に生きているということを学び直しました。より強いものを遺そうとするのは、自然の中で生き残る必要があるからです。

老子に、「柔弱の徳」があります。

これは(人間が生まれたときは柔わらかく弱々しい。 その人間が死ぬときは硬くなる。 すべて草や木も生まれたときは柔わらかで脆い。 それが死ぬときは枯れて堅くなる。 このように堅く強いものは死の仲間であり、 柔らかく弱いものは生の仲間である。)という意味で解釈されます。

昨日の樹木の観察から、私は自然の変化に最も強いものは自然の法理に敏感で鋭敏であるということではないかと直感しました。樹霊や霊力というものもそこに近づいていくことで実感できるのかもしれません。

つまり樹木は特に長生であればある種ほど、自然に精通しているのではないかと私には観えます。ここから如何に樹木の智慧を学ぶかが重要に思うのです。

かつての祖先たちは樹木が悠久に生きる樹禮に何を観ていたか、私たちよりも地球で長く変化を乗り越えてきた尊敬する大先輩である樹木の傍で、このまま学びを続けていきたいと思います。

昨日も貴重な学びがありました、有難うございました。

結束力~一緒に生きる幸せ~

先日、自然養鶏の烏骨鶏を観ていて気付いたことがありました。烏骨鶏や生き物たちは一緒に生活をします。餌を食べるのも、移動するのも眠るのも、そして卵も交代で協力をして温めます。一緒にいることを大事にして、離れることを嫌います。それは一緒にいる方が生き残れるからです。しかしそこにもう一つの大切な目的が潜んでいることに気づくのです。

それは何か、生きるという意味です。

本来生きるというのは苦しいものです、だからこそ楽しいことがでてきます。生と死というものは、死があるから生を知り、生があるから死を知ります。もしも世の中にどちらかしかないのならそこに真の生を知ることもありません。

これと同じように、苦楽というものも両方あるから真の楽を知るのです。そして苦楽を共にすることができたことで真楽も一緒にすることができる、それはつまり人生を実感することができるのです。

一緒に生きるということは、人生を生きている実感が持てたということです。如何に家族や仲間の存在が大切かというのは、一緒であることが何よりも幸福感に満たされるからです。

どんな生き物も一緒に暮らしていきます。それは自然がともにあるように、地球とともににともにあるように、太陽や月とともにあるように、一緒にいるときに実感するのがしあわせです。

もしも能力や効率だけを優先するとどうでしょうか、先ほどの烏骨鶏では養鶏場で狭い柵の中で何羽も詰め込まれ卵を産ませるだけの存在に変わってしまいます。もしも機械のように生き物を扱えば大量生産大量消費が優先され効率を重視し、生きるとは単にものをつくればいいということになってしまいます。

しかしそこに仕合せがないのなら何のために産まれてきたのかになるのです。極端な言い方をすれば製造できないのならば要らないとなるのではないかと思うのです。本来、人間は憲法にも保障されているように幸せになる権利があります。

しかし実際はその幸せよりも経済を優先し、人をまるで何かのものや道具のように扱ってはいないでしょうか。一緒に繋がり結ばれていた絆を分断し、孤立させ製造マシーンのように変えていく教育が果たして一人一人の幸せを保障しているようには私には感じられないのです。

自然と名のつくものは、常に一緒にいることを尊びます。言い換えれば結束力です。結ばれて束になればどんなものに克てる力があるという意味です。どのような社會を子どもの遺していきたいか、それは大人の生き方にかかっています。

自分自身の意識を変革し、一緒にいる仕合せ、一緒である豊かさ、つまり生きる楽しさを味わってこそ人生を生き切ったと実感できる子どもが憧れるような大人ではないでしょうか。

今一度、自分の働き方から見直していき、助け合いの真心を育てたいと思います。

主体性~活かされている実感~

自然界の生き物たちは主体性があります。それは私たち人間も含めて主体性を発揮している存在です。道が已まないのも、私たちは生き活かされる存在そのものだからです。

これを深めてみます。

そもそも私たちは地球の一部としての自分です。オゾン層の膜の中で空気に守られ、水の循環に守られ、太陽の光を受けて私たちは暮らしています。これは地球そのものが主体として生きているからです。その中で私たちも一緒に生きています。

もしもこの地球の活動がなくなったなら必然的に私たちもいなくなります。地球の歩みと一緒になり私たちも歩んでいるのです。地球が冷えれば氷河期になり、地球が温められれば灼熱期もあるのです。

どうしたって私たちは地球の影響を受けるのは、地球の主体とともに主体であるからです。老子に「道は常に無為にして、而も為さざる無し」がありますが地球に生きている以上、活かされている存在として自分も活動の中に一体となっているからまた道も自然に行われているのでしょう。

そう考えてみると、活かされている実感こそが主体性であるのです。活かされている自分に気づくことが自分が生きているという実感にもなります。人間はどう死んでいこうかと思いを定めるとき、どう生きていくかに出会うものです。自己中心になると観えなくなるのが「すでに活かされている存在」ということですが、敢えて生死に正対するとき、生死を超えたところに活かされている自分に気づくのです。

自然界の生き物たちが美しく感じるのは、自分たちが活かされているからです。生きるとか死ぬとかを超えたところで地球に活かされているから美しいと感じるのです。いのちというのは、活かされていると実感するときはじめて直感するものかもしれません。

人間は自分たちが生きているとか死んでいるとか、主体だとか受け身だとかいいますが本来、大前提として活かされているということにそろそろ気づき覚醒する必要があるように思います。

だからこそ一緒に活かされていることに仕合せを感じて地球に感謝できるような暮らしを考え直せばいいのです。つまり諦観としてどうせ活かされるのだからこそ御蔭様に生きようという意味です。

当たり前の中にある感謝に気づくことこそが感謝の本質だからこそ、自我私欲の傲慢に気付き、地球に活かされている今を大切に活かしていきたいと思います。

 

余計とは何か

自然の畑に入り、一年のめぐりを静かに振り返っていると老子に共感を覚えます。色々と余計なことをしたなと反省ばかりです。そして改めて余計なことをしないというのは何か、その余計は何が余計かを見つめ直すのです。

当然ここでの余計は自我私欲のことです。

人間は一人一人が自分のことを特別な存在だと思い込み、そのことから自我や私欲に目が曇っていきます。本来、自然は素直な存在ですがそれもわからなくなるほどに自分のことで一杯にしています。つまりは自分全ての私物化というものです。

そしてこれは自分の存在だけに限らず、自分の身の回りで発生することまで私物化していきますから思い通りにいかないことに対して大変なストレスを感じてしまうのです。起きた出来事に対して無為自然であるというのは人生を深く味わい昇華し、内省を続けては心身を練磨してはじめて為せるように思えます。

計算している時点で捉われている、頭で考えている時点で間違っているとはだれも思うことはないでしょう。自然は考えませんから素直ですが、人間が考えるのは自分の心配をしたいからかもしれません。

老子に「天は長く地は久し」があります。

「天は長く地が久し、天地の能く長く且つ久しき所以の者は、其の自ら生ぜざるを以て、故に能く長生す。是を以て聖人は、其の身を後にして而も身は先んじ、其の身を外にして而も身は存す。其の無私なるを以てに非ずや、故に能くその私を成す。」

意訳ですが、(天地が悠久なのは無理に自分を生かそうとする意識がないから悠久なのである。同じく聖人も、自分自身のことなどは後にしてまるで無我の境地である。だからこそ自然のように渾然一体となった自分が生きているのです。)となります。

これは自分自分と自分のことばかりを思い悩み、天地自然から離れてしまってはとても自然のようには悠久にはならないといっています。人間は自分を中心に種を思い、自分を中心に周りを考えます。しかし天地は天地を中心に動いていますから、無為自然にその理に従い丸ごとの自分を活かすのでしょう。

他人を思いやりなさいや、他人に真心を盡しなさい、隣人を愛しなさい、相手を自分だと思って大切にしなさい、自分を犠牲にしてまでも信を貫きなさい、これらの言葉は何の教訓かということです。

余計なことをしないようにというのは、その余計を如何に省くかにかかっています。人生の中で3つ子の魂の頃から次第に付きまとう自我が人生をつくりあげていきます。その自我の御蔭で修身があり、その自我の御蔭で人間は考えるようになりました。

ただし、天地自然の中でそれを合わせようとするところに真実を悟る妙味もあります。何が余計か、その余計を見つめて日々に精進していきたいと思います。