研鑽の芯

先日、鹿児島で西郷隆盛の遺訓の本をある方にいただきました。そこには様々な詩文から、様々な記録が書かれており、西郷隆盛が何に気を付けて何を大切に自らを研鑽してきたかが書かれています。

歴史上の人物というものを深めていけばその栄枯盛衰から如何に己に克つか、如何に己を慎むかということの大切さが感じられます。

孔子が論語で言うのも、ほとんどが己に克つことの大切さを説いています。如何に我をなくし、如何に思いやりに生きるかを示し続けるのです。

西郷隆盛も、勝海舟からあんな善い人間は見たことがないと評されていました。江戸の無血開城の際も「西郷さんは始終手をひざの上に置いて正座を崩そうとはせず、敗軍の将である私をあなどるような様子は少しも見せなった。」 と西郷さんの様子を後世で語っています。

その西郷隆盛も昔は、気性が激しく正義感が強すぎて数々の問題を起こしてきました。そして二度の島流しで自らを鍛え磨き、己に克つことを得たように思います。

人間はそういう意味では、真の敵は己にこそあり本来の修業とは「君子慎独」にこそあるように思いました。

最後に西郷隆盛の遺訓から一つ紹介します。

「道というのはこの天地のおのずからなる道理であるから、学問を究めるには敬天愛人を目的とし、自分の修養には己に克つということをいつも心がけなければならない。己に克つということの真の目標は論語にある「固なく、必なく、意なく、我なし」による。すべての人間は己に克つことによって成功し、己を愛することによって失敗するのだ。」

孔子は、固執せず、あて推量をせず、無理強いをせず、我を通さない、この四を断つことこそが己に克つことであると言いました。孔子誕生から2500年経っても、これは人類の修業であるのは自明の理です。

他人のことを言う前に自分はどうなのか、自分自身を慎み反省していきたいと思います。

 

樹木の生き方~5本の樹~

今年は樹木のことに興味があり、樹木から生き方を学び直しています。

もともと私たちは地球に住んでいます。植物の混植をしてみたらすぐにわかりますが同じ土に沢山の植栽があると植物は元気になります。それが多様であればあるほどに、元気さは増し美しい花を咲かせます。ここから私は同根であるということを学びました。

そして同根であるということは、私たちは同じ葉を持つということでもあります。ゆずり葉という葉もありますが、同根なのだから自分がしてほしいことは相手にもしてあげる、自他は一体になっているのだから皆兄弟ということです。だからこそ光も葉も水も土も分け合い与え合い譲り合いながら存在しているのです。

樹木の生き方を通して私が一番感じるのは、地球の一部としての姿を実感することです。特に今年は巨樹とご縁が沢山ありますが、巨樹には樹霊があり、その生き方を直感すると何よりも与え続けて譲り続けて杜になる姿が観えます。

未来のために今、何をすべきかは巨樹は言葉にはしませんが多くを語ってきます。昔は巨樹の精霊の下に長老たちが集まりどう生きるべきかを語り合い永続して暮らしを維持してきました。自然の中に生きていくものがもっとも長く生きられることを知っていたからです、人工的な中に住めばもうもとの野生には戻れません。それは動物園の飼育された生き物たちが二度と野生に戻れないのと同じです。

私たちは野生を取り戻さなければこの先の大異変に生き残ることができないかもしれません。何が野生か、何が本能か、何が自然か、周りにまだ遺っているものから学び直す必要を感じます。

今の時代は、資源を貪り自分たちの世代で使い切ろうとします。子孫へ譲るのではなく、自分が全部消費しようとします。これでは国は亡び、世界もまた消失するのは火を見るよりも明らかです。

昔、仏教をインドで広めた王にアショーカ王がいます。この王は、全国各地に石碑を立てて全国民に「五本の樹」を植えることを記します。そこには、こう書かれています。

「薬効のある樹。果実のなる樹。燃料になる樹。家を建てる樹。花を咲かせる樹。国民ひとりひとりが5本の樹を植えそれを森として見守りなさい。そしてそれを決して自分の代で切ってはならぬ。」と。

もともとは暴君だったそうですが悲惨な戦争を体験し、改心して平和の維持につとめた王だそうです。子子孫孫のために陰徳を積み、譲ることで平和を創造する。国民たちとともに平和を願う王の気持ちが5本の樹の話から観えてきます。

理念というのはこうやってわかりやすく伝えるものであることを実感するとともに、物言わぬ樹木から学んだアショーカ王の観察眼に頭が下がります。私自身も今は、郷土樹のタブノキ、薬効の銀杏、楠を育てています。

いつの日か5本の樹を植えて子どもたちのために譲れる自分を育てていきたいと思います。

関心という絆を結ぶ

自然界には絆というものが存在します。

それはつながりとも言い、何かと何かが常につながっているという関係のことです。物理的に一緒にいるだけではなく、意識的に一緒にいるというのもつながりです。集団でいることや家族でいることもそうですが、つながりを大事にしていくことで種を守っています。

そしてそのつながりとは関心とも言えます。如何に関心を維持しているかということです。関心とは日々に気にかけ日々に心配し、日々に思いやり、日々に祈るということです。

人は自分の関心にのみ関心がある人と、他人への関心を持つ自分に関心がある人がいます。前者は自己中心的で雑であり、後者は自他中心でありきめ細かいものです。自分中心であるということが雑なのは、つながりを感じる気持ちが欠けてしまっているからです。自他中心の人は常につながりを感じながら事物の関心を忘れないので真心が入り丁寧なのです。

関心の持ちようを絆に換えていく人たちが日々に結び合う人たちです。相手への思いやりは常に関心を持つ心を育て、絆を結ぶ実践を積み重ねることになります。

かつてマザーテレサが「愛の反対は憎しみではなく無関心」と言いましたが、これは自分中心になることで愛が消失するということを言っています。他人の気持ちが分からなくなるのはそれだけ自分の関心にしか興味がないからです。自我を優先し続けていると孤独になるのは、絆や関心の中にある愛に気づけなくなっていくからです。

そんな時には、感謝の心や素直な心に立ち返ることで他人への大きな関心という愛に目覚め直すことが善いように思います。つながりがあるから人は救われ、つながりが消えるから人は救われないのです。一人ではないという実感の中にある豊かさは決してお金では補えないのです。

そして日々に人の心配をするのは関心を高めていくことです。

畢竟、関心とは自他一体の関心であり法則では鏡の法則とも言いますが自分のことを知ることがもっとも大切であり、その上で自分を高めて活かすことが何よりだからです。自他への関心、全体への関心を育めば自ずから自分のことを知り、自分の意志を強くしていけるからです。

これは老子の「人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり」につながります。つまり他人を知ることで自分の鏡にし、自分を知ることではじめて自分を他人の役に立てていけるということです。

常に自分の心を見つめて絆を結び、いつも謙虚さに気づいていきたいと思います。

タブノキの祈り~古代の真心~

昨日、大隅半島にある樹齢400年のタブノキの巨樹を見に行きました。一本だけで一つを杜を形成し、そこに沢山の生き物たちを見守り活かす姿に心癒される思いがします。

もともとタブノキというのは、古代では信仰の対象となった樹ともいわれ祖先はその樹霊を尊び大切にしてきました。それが霊(タマ)の木であり、それが  タモ、タブ、タブノキと変化したとも考えられているそうです。
万葉集の大伴家持の歌、「磯の上の都万麻を見れば根を延へて年深からし神さびにけり」の都万麻もタブノキだと言われています。これは意訳すると、(磯の上にそびえ立つタブノキは根を深く広げて年数が経ちなんと神々しいものだ)というものです。昨日のタブノキにも神々しさを感じました。

もともと神社の由来もそうですが、お社があるところが神社ではなく神々しさがあったところに後から神社ができたのです。社殿は後付であり、元来そこに神が宿る自然崇拝、自然信仰があったというのが私たちの祖先たちの生き方です。

タブノキは古代の私たちが神様が宿っていると信仰し、大切に尊びその樹に祈ってきた思いと願いがあります。どうしてもタブノキを観ていたら、その昔の私たちの生き方に触れている気がします。

かつて今のように人間の都合だけで生活していなかった時代、自然の時の流れと自然の音と自然のめぐりと自然のひびきに生きていたころ、私たちは生き方のお手本として悠久の哲学者ともいえる巨樹に沢山のことを見習い教わり心を磨いていたのかもしれません。

ご縁をいただいたその巨樹から新しいいのちをお預かりしました。大切に見守り次世代へと譲っていきたいと思います。

 

真似

弟子が師を追いかけるのに真似をするというのがあります。自分が分からないうちは、一生懸命に真似をして追い付くのです。ここには大切な教えがあるように思います。

昨今、良いところどりだけをするという人たちがたくさんいます。自分にとってここが良いとそこだけを取り上げるのですが、それではその人の狭い価値観の中で単に良いと思っているところしか見得ていないことがほとんどです。

本来、尊敬するところや達人の人は表面上に現れている良いところとは別にその深層には膨大な背景や思想や実践が積み上がったものを持っています。つまり簡単にはわからない深みに到達しているのです。それをもし自分が習得するには、それを単に取り入れるのではなくその人の実践を丸ごと信じて真似をしていく中で気づいていくしかありません。

単に良いところだけを見てそれを取り入れるというのは、分かった気になっているだけでそこに良い悪いを判断しかえって疑ってしまうから「良いところだけ」になってしまうのかもしれません。

疑ってしまっていてはその良し悪しも決して観えることはありません。師のことや尊敬する人のやっていることややってきたことを丸ごと信じているから丸ごと真似をしようと志すのです。つまりは丸ごと信じているから真似ができるのです。

プライドというものは、自分にできてあの人にはできないから持つのではなく、真のプライドはその人の中に真似をしたいといった心に憧れを持ちそのご縁に感謝しつつ素直に学ぶことができてはじめて持てるのでしょう。

そしてその師弟の絆の中に師資相承や卒啄同時のように昔からある日本の職人文化があるということです。誠に学ぶというのは、単に知識だけを取捨選択するのではなく生き方を真似び「絆を結ぶ」ことと同じことなのです。

その絆の中にこそ、「真似」ができたという真実がありますから学ぶ人は真摯に師のことを丸ごと信じて取り組むことが大切だと思います。現在、見守る保育を広げていく中ですぐに話をするとちょっと見ただけで良いところどりだけをしてコピーをしてはその後は評論する人たちがいますがそれでは本質までは伝えることができません。

真似とは、真になるまで似せるほどにそのものと自他一体、自他同一に学ぶことではじめてできる境地なのです。

自分自身が真似をしてきて掴んだ智慧を分かりやすくし、同じように師からいただいたものを還元していけるように真心で実力を磨いていきたいと思います。

自他地球一体~自他免疫~

私たちの体は自然の一部として存在しているものです。つい人間は考える頭がありますから自分がもっとも特別な存在だと認識してしまいます。これは体についてもいえることですが、体に変調があっても脳がそれを受け容れずに自分勝手な解釈をするように全体と一部が逆転してしまいます。理性と本能も同じです、本能の一部に理性があるとは思わないのです。

しかし本来、地球の一部として存在しているのが自分ですからありとあらゆる調和の中でバランスを維持しようとする全体の一端として存在しているのです。

天候や気候の影響を受けますし、周りの生き物たちとの循環の影響も受けています。それをいくら無視して脳の中の自分の世界だけに自分が存在していると思い込んでも現実はそんなことはできるはずがありません。

そして人間が自然治癒する仕組みもまた地球が調和を維持する仕組みと同じです。

それを身体の免疫で例えれば日頃守っているNK細胞がある程度は自力免疫で自分を守りますが、それでも守れない場合はT細胞といった他力免疫が現れて外部からその病原菌を取り除きます。

これは自然農を実践する中で気づいた智慧ですが、自然界の植物たちも同じく自らで守る自力免疫をそれを超えてやってくる虫たちなどの外敵には天敵が現れて助けてくださるのです。

つまり人間の体も自然と同じく、自分の免疫とそれを超えてバランスを崩すと天敵が訪れて調和を保つのです。ここからも自然界で起きている病気を調和する法と人間の体を調和する法が同じであることが分かります。

そもそも人間中心に考えていれば、自力免疫とか他力免疫とかではなく全部薬などの人間の創りだしたものしか信じなくなりますが自然の一部であるというように認識しているのならば自然の治癒を信じることができるはずです。

如何に自分が人間を優先しているか自然を優先しているかが、対処法に出てくるのです。根源的に治癒するというのは、人間の対処療法ではなく自然の根源治癒にしていく必要があるのです。

根源になるというのは、自他免疫を使うこと、人事を盡して天命を待つこと、自然治癒を信じて治癒を邪魔しないように健康健全を実践するということです。それは身体だけに限らず、心身を健康に保つということです。心を清らかに澄まし、明るく前向きに周囲を慮り、御蔭様や感謝を実感し、今此処に自分のいのちを役立てて働く喜びを味わって活かしていくように元気な生き方をしていくことのように思います。

ちょっと抽象的ですが、自然をお手本に自分の生き方を見直していくということです。地球の一部なのだから地球と一体になれるよう、自然体に近づいていきたいと思います。

体調~自然治癒力~

人間には免疫機能というものがあります。それは自然治癒力のことで、病気になれば自ずから本に直そうという力があるということです。産まれた時から、どこが健康であるかを本能が悟っています。その本能に従って様々な調和を促し常に混沌とした体調の中から日々の健康を維持しているということです。

この産まれつき持っているというものが健康であり自然であると思うのです。その健康は生まれつきの体質ということですが他人と比べて強い弱いはありますがそれがその人本来の健康の姿ともいえます。

そして後天的に健康を維持するというのは、周りの環境に対して自らが努力精進して調和をとっていくもののように思います。それは例えば、今の時代のように人工物や薬品ばかりが横行するようになれば自ずからが体には自然ではないものを摂取しますからそれによって免疫が順応しようとしますから本来の健康が惑い迷い基本が狂ってしまうかもしれません。そうならないように自分の本来の健康を維持するための努力精進を怠らないのが自然治癒を維持するということになるからです。

本来、自然治癒というのは調和のハタラキです。それは自然界の天敵の仕組みと全く同じです。増えすぎたものを如何に調和して、一定の量に保つかというのが全生命のバランス維持の方法です。

私たちの体は自然の一部ですから自然と同じメカニズムを持ちます。その天敵による駆除のハタラキこそが病気を撃退する仕組みなのです。科学でいえば自然免疫と獲得免疫という言い方をしますが、これは自然界では本来の自分の体を強くする抵抗力と他の生物の力を借りて抵抗する抵抗力です。自力と他力とも言ってもいいかもしれません。自力の治癒を出し切った後に他力の治癒が出てくるという具合です。

これも自然の法理の一つですから病気というものは全てこの仕組みで健康に直すということでしょう。自然に沿って自然に従い体もありますから、その体を助けてあげるのは自然に合わせていくということでしょう。

免疫を如何に高めていくのか、それは日々の健康の実践によるものです。健康的な生き方とは何か、それは自然に合わせる生き方です。体調のことを改めて学び直していきたいと思います。

循環している実感

私たちは体験をすることで様々なことが細分化されていくものです。それはパソコンに溜まってくるメールのように次々に増えていくものです。そうやって増えて細分化したものが「分かれて」しまうともともとはじめに一つだったものが分からなくなっていくものです。

本来、二つ以上のものを合わせるというのは原点に回帰するということです。それは右か左か、善か悪か、あるかないかといった物質的な観点と観念で物事を判断するのではなく、思想のように「丸ごと」合わせて分けないところで理解するのに似ています。

そしてこの二つ以上のものを一円融合させようという意識があってはじめて平和が続くことのように思います。循環というものも、偏らないということであり、それは流れ続けていく中で一つのものにしていくから循ることができるのです。まるで川が大河になり海になり雲になり雨になりそしてまた川になるように、本来あったものは流されていく中で原点回帰していくのです。

しかしその流れを止めてしまうようなことをしてしまえばどうなるか、それは分かれたものを無理に処理しなければなりません。自然から離れれば離れるほどに分かれてしまいますからその分かれたものをまた分けて分解するとさらに悪循環を創出してしまいます。

例えば水の処理場のように、土や生き物たちの浄化力を活用せずコンクリートで固めた水道を用い、今のように洗剤や油を多用するものを流せば当然浄化が追い付きません。それを何重のフィルターや薬品で乗り切ってもその無理をした分のゴミが出てしまいます。そのゴミをまた分解するために別の処理場へと運ばれ・・・などと際限なく無理が続きます。

本来、一つに合わせるということはとても楽しいことです。朝晩が一日であるように、天と地が和合するように、音が歌を奏でるように一つになることをすべての生き物たちは喜び、いのちは仕合せを感じるのです。そしてそれが循環している実感なのです。

私たちは祖神から八百万の神々が平和を築いてきた民族の歴史を持っています。たくさんの神々が和して大和を体現してきました。それは分かれていても一つであるという考え方、英語ではワンネス、漢字では渾然一体というのかもしれません。

そういうものを如何に産出して発展発達を促していくか、そこに私たちの使命があるようにも思います。悠久の平和を祈り願う先祖たちが遺してくれた意志を受け継ぎ、正しいことよりも楽しいことを広めていきたいと思います。

人間~素直と成長~

人間は誰でも自分のことを分かってほしいと思っているものです。人が一人以上で生活する場にいるのは、自分を確かめたいからかもしれません。自分というものを認識するには、他の誰かがいなければならないからです。

不思議なことですが自分のことばかり考える人が増えている中で、本来は社會や周囲の人たちに依存して存在しているのだからもっと他人とか自分とか分けずに周囲へ関心や思いやりを持たなければ本当の自分のことなどわかるはずはないのです。

自分を知りたいのならば、もっと自分の保身を思い悩むよりは周りの人たちのことをもっと思いやった方がその中で本当の自分に出会うように思います。

その自分と他人ですが、分かってほしいと思うばかり人は相手に多くを求めるようになります。求める人というのはいつもイライラしているからすぐにわかります。相手が自分の思った通りにならなかったり、自分はここまでしているのに相手はわかってくれないとか、求め過ぎることで人間関係は不仲になっていくのです。

不仲というのは、本来、与えてくださっていることに感謝しているのではなく不足や不満不平を並べてはなぜ求めているのに伝わらないのかと文句が出ているのです。素直になれば相手にも伝わりますが素直にならないで斜に構えているからその分が伝わらなくなりかえってまた求め過ぎるという悪循環になっていきます。

よく考えてみたら、十分過ぎるほどにいただいているものが多い世の中です。誰かと比較さえしなければ、自分はあらゆるものを与えられていると実感するものです。それは心の力であったり、愛であったり、目には見えないけれど本当に沢山のものを感じる力があります。

その感じる力でもっとご縁を味わい尽くしていけば自ずからいただいている自分とのめぐりあわせや機会、この今のご縁の本当の素晴らしさに深く感謝できるようになると私は思うのです。

そういったものを如何にたくさん育てていくかが、素直になるということなのでしょう。素直になっていけば、自ずから感謝している自分でいたいと思うものです。自然体の思いやりある子どものようにいれるものです。自分の心を見つめていくというのは、素直になることであり成長するということです。

成長とは素直さです。

人生の中で如何に素直であり続けられるかが、成長し続けられるかということですから自然に学ぶ心をもって思いやりや真心を通じ合わせていけるように対話を大切にわかり合っていきたいと思います。

人間でいるということの仕合せを噛みしめつつ、歩んでいきたいと思います。

福祉企業~論語と算盤~

渋沢栄一(1840~1931)は、日本近代経済の父とも呼ばれ、社会福祉事業にとても熱心に取り組んだ方です。今では企業や福祉は別物とさえ思われている節がありますが、本来、これらの価値観が西洋から入ってきたときどのようなものだったのかを観直してみます。

その渋沢栄一の有名な言葉に「論語と算盤」というのがあります。道徳と経済という言い方をしてもいいのかもしれません。西洋から入ってきた福祉や企業という考え方をどのように解釈すればいいかを分かりやすくしたのがこの一文でもあります。

本来、今の時代は分かれてしまっているものをどのようにその人の腹で一つにするかがこの言うところを為すことであろうと思います。

本来、渋沢栄一は富を為す根源は仁義道徳のためであると言います。これは道徳上必要な経済を起こすのが実業道であると定義しています。その実業道とは「士魂商才」といい、その実践があってはじめて為ると言い切っています。

この士魂商才の意味はまず考え方として「正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。ここにおいて論語と算盤という懸け離れたものを一致せしめることが、今日の緊要の務めと自分は考えているのである」と、その上で具体的にはこう言います。

「人間の世の中に立つには、武士的精神の必要であることは無論であるが、しかし、武士的精神のみに偏して商才というものがなければ、経済の上から自滅を招くようになる。ゆえに士魂にして商才がなければならぬ。商才は道徳と離るべからざるものとすれば、道徳の書たる論語によって養える訳である」ということです。

常に武士道精神があっての商才であること、言い換えれば正しい理念があっての技術ということであろうと思います。これは医は仁術に通じる話です。「思いやりを強く、世の中の得を思うことは宜しいが、おのれ自身の利慾によって働くは俗である」ともいいます。実業道である以上、道を踏み外してはならぬと諭したのでしょう。

そしてこう戒めます。

「われわれの職分として、極力仁義道徳によって利用厚生の道を進めて行くという方針を取り、義理合一の信念を確立するように勉めなくてはならぬ」、つまり「論語と算盤とは一致すべきものである」ということを言うのです。

そもそも分けて考えるのは、その間に自分を中心にした価値観のモノサシではかろうとするからそうなるのです。人間や自分という考え方を優先する個人主義の西洋の発想を、それまで全体の一部である自然を少しだけ優先する発想の日本に取り入れる際に人間の欲望が強まっていき次第に歪んでいったのだと思います。

分かれたもの、いわば矛盾したものを一つに調和するというものは本人の中で行うものですから、常に大切な優先しているものが何かを重んじて生きていくことが大切なことのように思います。私の言葉では論語が算盤よりも「少し優っている」くらいがちょうど善い(適善)ということでしょう。

経済が発展すればするほどに、如何に人格形成に力を入れていくか、教育の本義です。本来はこれは国家繁栄の仕組みなのだろうと思いますが、個人の慾が強すぎる昨今を眺めていると渋沢栄一が心配していた通りになってしまったと実感しています。

どのような生き方、どのような会社が本来の論語算盤、福祉企業なのか、適善社業をもってそれを今の時代に体現していこうと思います。