真心の日々~御縁~

人は色々な出来事に日々に出会いますがそのご縁をキャッチできているかどうかは、その心が澄んでいるかどうかに由るものです。いくら一期一会の出会いがその場にあっても、ひとたび自分の心が曇ってしまえばその出会いに気づかずにご縁を活かすことができません。

ご縁を活かせるというのは、その意味を味わい尽くして感謝できているときにできるものです。そしてそれはまず自分の心の穢れを洗い清めていく中で心を澄ましていくことのように思います。

人は出会いによって人生が変わっていくものです。

思い返しても、あの時あの人に出会わなければ今はなかったと思うことばかりでしょう。それに今自分がどんな方々に出会っているか、その出会いを導いてくださっている方はどんな人かと思えば、自分にとって素晴らしいご縁をいつもつないでいただく方は自分の仕合せを導いてくださる導師なのです。

導師の御蔭で素晴らしい先生と出会い、導師の御蔭で素晴らしい仲間と出会い、導師の御蔭で素晴らしいご縁と出会う、その導師はいつも思いやりと真心で自分自身の出会いがより善いものに導かれるように祈りご縁をつないでくださっているのです。

天は公平無私です。それは誰かを選ぶのではなく、その人その人に素晴らしいご縁を与えてくださっているからです。ご縁に気づける自分があるなら我執を手放すこともでき、より自分のご縁に有難く感謝しながら自らの道を切り拓く幸せを実感できるように思います。

将軍家剣術指南役の柳生家にこのような家訓が遺っています。

「小才は、縁に出合いて縁に気づかず。
中才は、縁に気づいて縁を活かさず。
大才は、袖すり合うた縁をも活かす。」

剣術指南というのは、生き方指南です。武士道というものは道徳規範ですからどのように人格を磨き修養するかを示したモデルの生き方のことです。そして柳生家はこれを活人剣と言いました。

この活人というものは、ご縁をキャッチしてご縁を大切にできる人ということでしょう。それは今の自分が如何にご縁によって支えられているか、今の自分が如何に偉大で複雑不思議な糸の絡み合いやつながりによってできているか、今の自分があるのが何の御蔭であるのかを決して忘れてはいないということです。

畢竟、今の自分がある御蔭様に気づける人こそが自他を活かす第一級の人物だということです。

私は御蔭様で本当に多くの素晴らしい人たちや先生方、導師や恩師、本物の人物に支えられ今があります。今のお仕事をいただいているのも、今の人たちの御役に立てるようになっているのも、それはご縁を大切にしてきた自分へのご褒美かもしれません。有難く戴きますという真心の日々が今の自分のご縁を豊かにしてくださっているのです。

このようなご縁をいただけていることになんとも感謝しようがありませんから、少しでも恩徳に報いることができるように自分の生き方を通してもっと周囲の御役に立てるように精進し、道を修め道を弘め、後世の人たちのためにも謙虚と素直さを忘れずに真心の日々をつなげて歩み続けていきたいと思います。

本物の実践

「本物は続く、続けると本物になる」は、東井義雄さんの遺した言葉です。

実践をしていく中で何度も励まされる言葉です。

人は初心を忘れたり、日々に向き合わずに内省を怠るとすぐに流されて実践が甘くなっていくものです。自分の遣りたいことや好きなことを遣っているはずですが心がついてこず、頭でっかちにやった気になればそのうちルーティン化した業務のように実践を勘違いしてしまいます。

本来は何のためにそれをやるのか、何のために働くのかを決心していたはずのものが覚悟が定まらず迷走しまた流されるというようにブレナイ自分を練磨研鑽するには長い年月がかかるものです。

しかしそれでも続けていれば、次第に何かの機会を切っ掛けに質が高まり心が着いてくるように思います。心が育ってくればくるほどに様々なところが削り取られていき円みを帯びてきます。実践とは実績のことですからやればやるほどに積み上がった経歴や経過が今の自分を存在させますから毎日は死して後已むまでずっと真剣勝負だということです。

そして実践の心を伝える東井義雄さんの「小さな勇気」という詩があります。

「人生の大嵐がやってきたとき

それがへっちゃらで乗り越えられるような
大きな勇気もほしいにはほしいが
わたしは小さな勇気こそほしい

わたしの大切な仕事を後回しにさせ
忘れようとさせる小悪魔が
テレビのスリルドラマや漫画に化けてわたしを誘惑するとき
すぐそれをやっつけてしまうくらいの
小さな勇気でいいからわたしはそれがほしい

もう五分くらい寝ていたっていいじゃないか
けさは寒いんだよとあたたかい寝床の中から
ささやきかける小さな悪魔を
すぐやっつけてしまえるくらいの
小さな勇気こそほしい

明日があるじゃないか
明日やればいいじゃないか 今夜はもう寝ろよと
机の下から呼びかける小さな悪魔を
すぐやっつけてしまえるくらいの
小さな勇気こそほしい

紙くずが落ちているのを見つけたとき
気がつかなかったふりをしてさっさと行ってしまえよ
かぜひきの鼻紙かもしれないよ
不潔じゃないかと呼びかける
小さな悪魔をすぐやっつけてしまうくらいの
小さな勇気こそわたしはほしい

どんな苦難も乗りきれる
大きい勇気もほしいにはほしいが
まいにち小出しに使える小さい勇気でいいから
わたしはそれがたくさんほしい
それにそういう小さい勇気を軽蔑していたのでは
いざというときの大きな勇気も
つかめないのではないだろうか 」

自分を変えていくということは、自分の全身全霊を発揮していくことです。本当の自分らしさというものは、全身全霊で自分を誰かの為にと真心で生き切り遣りきるときに自ずから自然に出てくるものです。

あの植物や動物、虫にいたるまで自分で計算して自分らしさのだし引きをするものはありません。人間は甘い環境の中で自分を甘えさせられることができる生き物ですから、あの野生の動植物のようにそのものらしくはなくなってきています。

そんな時こそ小さな勇気が必要ではないかと私は思うのです。

日々の実践というものは、頭で行うものではなく行動で示すものです。行動は頭よりも先に動きますから心が先に動いてきます。心が動き頭が着いてくればそれはもう実践がものになってきている証拠なのです。頭ばかりが先に動いて心が亡くなってしまうような人生はまるで道に入って道を歩かないような虚しいものです。

「本物は生きるのを已めない、活き続ければ本物になる。」

一度しかない人生なのだから自分と向き合い、自分を高めていくのが人生の醍醐味なのかもしれません。色々と誘惑や欲が多いのはどの時代でも同じようです。その自分の誘惑や欲の種類は人それぞれに異なりますが、小さな勇気を発揮してそれを凌駕するような本物の勇気の心、本物の実践を積み上げていきたいと思います。

樹霊から思うこと~祈りに生きる~

樹霊という言葉があります。

これは大辞林には「老木に宿っている霊」と書かれていますが、数百年から数千年の老木には霊が宿っているような様子があり、神道では神の依代として崇められてきました。それを樹霊があると呼んだのでしょう。

先日から樹木について深めていますが、銀杏の巨樹の新芽を見守りつつ学び直しています。

以前、宮大工の西岡常一さんの著書や映像の中で法隆寺の木について語る場面がありました。千年生きた木だからこそ千年の建物ができる、千年の木には千年の釘がいるといって和釘の重要性を説いていました。

その際、千年生きた木には何か千年生きた霊が宿っているのではないかと直感したのを覚えています。それは木に限らず、石なども同じです。以前、偶然に拾った石英の石を鑑定していただいときにここまでくるのに1億年といわれました。そこには1億年の石霊が宿っているように私には実感して感動したのを覚えています。

人間はこれらの長い年月の霊と寄り添うときにだけ、永続してきた今を実感できるように思えます。

今の時代はそういう長い年月の霊を大切にせずに、現代文明の知識の方がさも優っているかのように軽々しく破壊していきます。宿っているものの価値を感じず、ただの物体としてしか感じられなくなっているところにいのちを感じる感度も、それを見守り大切に伝承していこうとする民度も喪失してきたように思えます。

司馬遼太郎が「樹霊」という著書の中でこう語ります。

「人間の暮らしから樹霊の連り添いと樹霊への崇敬の心をうしなったときに、人間の精神がいかに荒涼としてくるかをうすうす気づいて、おびえるような気持でいる」

人間以外の生き物がいないと思い違いをし、人間だけが生きているのだと周りの生き物をエサかのようにいのちを蔑ろにし、それだけ生きながらえようとすることへの気持ち悪さ。いのちをいただくのではなく単なる食べ物、感謝で大切にするのではなく単なる道具と化していく心の貧しさを実感するのです。

人間は人間だけで生きるものではなく、色々な生き物の中に人間がいるだけです。心が亡くなってくれば人は、そこに宿る霊を感じることもできなくなるのかもしれません。

伝承してきたものは実はそのものに宿った霊(魂)こそにあるのかもしれません。八百万の神々という思想は、心が優しく思いやりに満ちた社會を存続していくための先人の智慧の結晶だったのでしょう。

子どもたちに遺した先人の思いやりや願いは今を生きる私たちの実践する姿の中に宿っています。いつまでもその霊魂を感じられ、霊魂を入れられる祈りを大切にした生き方をこれからも選んでいきたいと思います。

 

伝導士~道を切り拓く~

昨日、ある保育園で新理念研修を行いました。

この園は、すでに12代園長が交代し脈々と歴史を積み重ねた上に今の姿があります。その今をもう一度、再確認し味わうことで私たちにとっても理念を新たに学び直す善い機会になりました。

そもそも時間や歴史というものは、地球の土の層が積み上げられていくようなものです。氷河期には氷河期、温暖期には温暖期、それ以外にも様々なその時代の背景によってその土も異なってきます。しかし今があるのは、それまでに積み重ねてきた歴史があるからこそ今はその上に成り立っているのです。

以前、樹木の生態系のお話をお聴きした際に「今の樹木は4億年の自然淘汰の結晶で成り立っている、今の森の姿は4億年の積み重ねの上で出来上がってきた森なのです」ということを知りました。

これを同じく、私たちの今の姿も先祖代々から積み重ねてきたいのちの歩みが成し遂げた発達なのです。

そしてそれは「道」であるように私は思います。

どのような足跡を遺してきたか、どのような歩み方をしてきたかは振り返ればそこに確かに遺っているのです。いい加減なことはできず、自分がちゃんと歩んだかどうかは子孫や後人を歩む人たちの心に刻まれていくのです。

そしてそれが文化というものです。

この文化は、一緒に歩んだ軌跡なのです。ここまで連れてきてもらった、ここまで来れた、それは一緒に歩んだ人たちの努力の御蔭でしかありません。一人ではここまでこられなかったものが、たくさんの人たちの協力や支援の御蔭で今があるのです。

道を切り拓くというものは、自分の足で歩むということです。どんなにそれが茨の道であったとしても、それがどんなに厳しい道であったとしても、一緒に歩んでいくからこそ愉しい道になっていくように思います。

道を味わい、道を噛締め、道を活かす。

そういうものをみんなで一緒に確かめることが理念研修の本質なのです。今の時代は、スピードがあがり早く早くと結果ばかりを求めようとします。そういう教育を施されれば道を切り拓く大変さよりも簡単便利に手に入る結果に一喜一憂したくなるのかもしれません。

しかし人生は脈々と文化を継承し、子子孫孫、子どもたちがそのあとを歩んでくるのです。だからこそ自分たちの責任を自覚し、自分たちがどのように歩んだかを遺すのかが今の時代を生きる私たちの使命なのです。

責任を果たすというのは、使命を果たすということです。そして使命を果たすというのは、自分自身を精いっぱい生き切るということです。そして生き切るとは道を切り拓いていくことなのです。その生き方が子どもを信じ見守る先導、つまり伝導士なのです。

一緒に歩む仲間がいるだけで道を歩む愉しみが倍増します。これから新しく歩む道の先がワクワクします。引き続き、切磋琢磨しながら研鑽に励み、道を先導できるよう精進していきたいと思います。

自信を切り開く

先日から自由のことを深めていく中である学校が行う自己評価というものを拝聴し、もう一度自己評価とは何かと考え直しています。

他人は評価というものをします。もしくは評論というものをします。人間は自信がないと自分のことを誰かに評価してもらいたい、自分の評論を通したいと思うのものです。

結局は、自分の自信というものは自分のことを自分で評価できる物差しがないといつまでたっても自分に自信を持つことはないように思います。これを自己評価といいます。そしてこの自己評価というものは、自分の決心や覚悟と関係するのです。

そもそも自己評価というものは、自分との信頼関係が築くものです。もっとも身近な自分が自分のことを信頼するかということがあってまず自信が産まれます。たとえば決めたことを守っているか、自分が決心したことを応援しているか、自分の真心に嘘偽りがないかと常に正直に取り組むことで周りの環境が変化しようが人から失敗だといわれようがその人の中の自分はいつも自分を励まし応援を已めないのです。

自信というものは外から得られると勘違いしてしまうと、結果次第で自信が着いたりつかなかったりとしてしまいます。しかし実際は、自分が信じたのだからそれでいい、自分がそうしたいと思ったのだからこれでいいと自分自身のことを信じてあげるために努力をし真摯に生き切ることで自信はより強く育っていくのです。

自信がない人は他人の自信を奪います。自分の言動や行動の中で、すぐにネガティブな評論を展開したり、すぐにあきらめて文句を言ったりしていると、それが周りの自信を奪っていきます。楽になりたいと思えば思うほど他人の評価を求めてしまうのかもしれませんが、どこまでいっても自分を信じるのは自分というのは、もっとも身近な自分を信じるというのは自分のたった一つの人生を信じるということにつながっているからです。

自分への信頼というのは、楽を選ばずに苦労の中にある楽しみを選択して本心が望む自分に従って勇気を出して挑戦するときに伸びていくものです。天が与えた機会なのだから、それを全て感謝に変えてご縁を活かそうとするときに信頼はより強いものになるのです。

自分で考えるということや、自分で向き合うということは、自己評価です。考えないことへ逃げないということが自己評価の本質なのかもしれません。

自己との対話が素直にできるようになるには、自己との折り合いをつけなければなりません。本音本心を優先してあげるような真心の生き方を信じてあげなければなりません。

嘘をつくから自分自身に自分が言い訳するのですが、それでは自分+自身というコンビを組んでいる双方の相方の信頼が得られず関係がギクシャクして歩めなくなります。

そうではなく、自分に自信を持つために楽を選ばず苦労したって愉しい人生を自らで道を切り開き、その際に自分を自分で励まし、自己発奮して自分の真心と行動を一致させていくことで自分を評価できる正直な自分、あるがままの自分にしていくことです。

自信を切り開く人たちはいつも周りの人たちに自信を持たせてあげることができます。逆に自信を切り開こうともしない人は他人の自信を奪ってはそれで満足して何もしようともしなくなります。

「他人の道は他人の切り開いた道でしかなく、自分の道は自分で切り開く道なのです。」

人生は一度きりなのだから、自分の道は自分で切り開くということを大前提に生きるということを常に自らが忘れないでいてほしいと子どもには願います。自分にしかできないことをやり遂げて、最幸の人生を味わい尽くしていけるよう日々に情熱と挑戦と行動と実践に満ち溢れた充実しきった活きた背中をみせていきたいと思います。

 

愉快な仲間

昨日、久しぶりに共に苦労を分かち合った園長先生と一緒に会食をすることができました。

今では別の組織へ移動し、改革の担い手として新しい道を切り開こうとしていらっしゃいます。

歩んだ道が確かだったかどうかは時間が経つことで観えてきます。共に何を信じて実践してきたか、そして何を信じて生きてきたかが道跡として遺っているからです。思い出話に花が咲きましたが仕合せだった出来事にすべて美化されていきました。今の仕合せに出会うということが本当の幸福なのかもしれません。

善いご縁をいただけるということは運命であるようにも思います。人は自分が生きようとする生き方で仲間を集めてご縁が広がります。生き方が運命を決め、運命が人生を決めていきます。誰と出会うか、そしてどう生きるのかはその人のものですから学問の有難さ、仲間のお蔭さまに涙がでます。

私は最初に創った理念ブックのはじめのページに次の論語を書きました。

「子曰わく、与に学ぶべし、未だ与に道に適くべからず。与に道に適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべし、未だ与に権るべからず。」

道中では色々な方々とのご縁がありますが、その一つ一つの出会いが深い意味があります。みんな道は一人で歩みます、しかし道中は語り合うこと、支え合うことができるのです。それが人生の美しさなのかもしれません。

その方が何より素晴らしいことは「愉しむ」ことを忘れないことです。思い返せばお会いしたときから、苦しいことがあっても愉しむ方でした。そして神仏の御加護だと謙虚に真摯に学ぶ方でした。今でも本当に理想を志して大変な中で奮闘しているのではないかと察しましたが愚痴ひとつ溢さずに「知らないことが沢山で毎日が愉しい」と快活に語られる姿に歩みかたの醍醐味と覚悟の仕方を教えていただきました。

「おもしろきことなきこの世をおもしろく」という高杉晋作の言葉は、ひょっとすると全ての人生の責任は自分のものなのだから自分の人生を愉しむのだという志を立てよと仲間を激励しているのかもしれないと実感しました。

ご縁は本当に不思議で日々に辿っていけば、目の前にいる人も目の前にいない人もそこでは確かな糸と絆で結び合っていますから出会いは何よりの学びです。

そして出会いを実感するとき、同時に誠に有難きは生きているということです。

生きてさえいれば、いのちさえあれば愉しみも希望もそこに全部丸ごと存在します。

昨日の気づきから自分は愉しみをまだまだ存分に伸ばしていけると実感しました。仲間や同志、先達が愉快な背中でそれを語り掛けてきます。あんまり真面目に頑張りすぎて悩まないこともまた道の福処世術なのかもしれませんね。

生きているこのいのち、どのような華を咲かせるかは人生の終焉の愉しみですから唯一の自らの天与の道を明るく素直に小唄でも口ずさみながら朗らかに歩んでいきたいと思います。

また一緒に道中を愉快な仲間たちと味わい語り合える日が楽しみになりました。
有難うございました。

真心の醸成(志道と志事)

吉田松陰の志というものは、多くの志士の心を動かしました。

そこには志というものが何か、そしてそれは何をもって志が育っているのかということを自らの背中を通して塾生に語り掛けました。周囲からは狂人と呼ばれ、危険人物として疎まれました。

本来、志高く歩む人を理解するというのは周りからみれば変人の類なのかもしれません。一般的な姿と考え方も異なり、見た目も異なり、素行も異なるのは、常識の枠に囚われることがないからです。

吉田松陰もその時代には常識的に理解されず、それでもそれを貫きました。たとえば、友との約束のために脱藩をします、今では外国に亡命するくらいのことです。そのあと黒船に乗ろうとします、これは宇宙船に乗るようなものです。そして安政の大獄の真っただ中、仮保釈中に老中暗殺のために武器を藩に願い出ます、これなどは仮出所中に銃や武器を国家や裁判所に貰いたいと嘆願するようなものです。

「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」という言葉も遺ります。塾生たちに遺した言葉には「諸君、狂いたまえ」などという言葉も残っています。これなどは、「もっとおかしくなりなさい、遣り切りなさい」と他人と異なってもいいからもっと変人になることを奨めているのです。

なぜこうすればこうなるとわかっていながらもこれをやり遂げたのか、そこには本人にしかわからないものがあったのだろうと私は思います。

吉田松陰の立志という生き方はまずこれらの言葉に見られます。

「志を立てて、以って万事の源となす」「志定まれば、気盛んなり。」

すべては志からはじまり、そして志におわるという意味でしょう。そして志は覚悟が決まれば、気が満ち溢れ燃えているはずだというのです。

そして孟子の下記の言葉を引用して「講孟余話」という授業の中で弟子たちに発奮激励を語ります。

「志士は溝壑にあるを忘れず、勇士はその元を喪うを忘れず」

意訳ですが(志士ならば道義のためなら窮死してその屍を溝や谷に棄てられてもよいと覚悟し、真の勇士は志のためならばいつ首をとられてもよいと覚悟を決めているのだ)という意味です。

そしてここにはこう続きます。「書を読むの要は、是れ等の語に於て反復熟思すべし 」と。

志士が本を読む意味は、これは孟子のいうところを繰り返し繰り返し読み直しその書いている本人の真心に透徹するまで思うことであると。読むというのは単に字を読めばいいのではなく、志で道を切り開く同志を思いそれに志心を奮い立たせていくということでしょう。

吉田松陰の志道というものは、決して仕事ではなく志事であったのです。

言い換えれば、人生を懸けて志を貫こうとし、それを塾生たちが感じ取ったのです。吉田松陰は出来合いの指導などを行っていたのではないのです。では塾で何を行ったのか、それは志道と志事を実践していたのです。

その塾生の一人、高杉晋作はこう言残します。

「何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大ばか者なり」

そしてもう一人、高杉と合わせて塾生の双璧と呼ばれた久坂玄瑞の言葉で締めくくります。

「私の志は、夜明けに輝く月のほかに知る人はいない」

私の志も、あの天高く広がる宇宙のほかに知る人はいないという心境です。別に誰に分かってもらう必要もないし、誰に知ってもらう必要はない、ただ自分の志道を貫くだけというのがこの志の道の目指すところなのでしょう。

色々な出会いがあり今がありますが、易経の「潜龍用いるなかれ」、その信念を日々に棲む水面に憂いつつもその真心を醸成し、確固不抜の志を高めていきたいと思います。

立志という生き方

人にはそれぞれに生き方というものがあります、同時に働き方というものもあります。私たちは生き方と働き方を一致するということを目指していますが、これは志を育てるためです。

そもそも志というものは、最初から誰でも持っているわけではりません。生き方を定め、言行一致させていく中ではじめて志は育っていきます。そしてその志は、様々な現実の中の紆余曲折、艱難辛苦の中で、それでも自分は生き方を貫けたかどうか、言い換えれば道を切り開き脚下の実践を遣り切ることができたのかという内省により醸成されていくものです。

志を持つのも育てるのもその人次第です。

途中でそれを已めてしまえば、世の中の安逸の中であっという間に自分の生を終えてしまいます。人の人生はとても短く、志を育てていかなければ気がつけば何をやっていたのかと悔いてしまうことにもなりかねません。自分の生き方と向き合うのは自分にしかできませんから、それに生き方には嘘がありませんし他人のせいにもできませんから志とはもっとも身近で自分のことを信頼する伴侶そのものになっていきます。

吉田松陰は、塾生との手紙のやり取りの中でその志が育つような数々の叱咤激励を送っています。

たとえば、塾生の山田顕義へは「立志は特異を尚ぶ、俗流と与に議し難し。 身後の業を思はず、且だ目前の安きを偸む。 百年は一瞬のみ、君子は素餐する勿れ。 」と記します。

これは私の意訳ですから意味が違ってくるかもしれませんが敢えて訳すと、「志を立てるのならば他人と異なることを恐れてはいけない、世俗のことや常識の中でそれを実践するのはとても難しいことだ。しかし世間の常識に囚われれば自分の身の保身ばかりを思い煩い、目先の安楽安逸に流されるばかりになるのです。百年という月日は一瞬に過ぎないのですから、君子は決して現状に甘んじるんではなく志に生きるのですよ。」と。

これは山田顕義が15歳の元服(成人式)の時に、吉田松陰が扇に書いて送ったものですが何を優先してあなたは生きるべきかとその初心を塾生に自らの生き様で与えています。

そしてさらに感動的で印象に残る叱咤激励に塾生の高杉晋作に送った手紙があります。
そこにはこうあります。

「貴問に曰く、丈夫死すべき所如何。僕去冬巳来、死の一字大いに発明あり、李氏焚書(明の学者李卓吾の書)の功多し。其の説甚だ永く候へども約して云はば、死は好むべきに非ず、亦悪むべきに非ず、道盡き心安んずる、便ち是死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生きるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。又一種大才略ある人辱を忍びてことをなす、妙。又一種私欲なく私心なきもの生を偸むも妨げず。」

これはそのままに味わってほしいものです。吉田松陰と高杉晋作が如何に志で絆を結び、共に不二の道を切り開いていたのかが分かり感動します。死を前にしての、生を語り、その生き方を示しています。

そして志を立てることを最期に述べます。

「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措きて唯だ言うべきを言ふのみ」

これは私の人生観からの意訳ですが、「もし死んだとしても志がそれで立てられるのならいつでも死んでもいい。しかし生きて志が立てられるのなら生きることだ。常に志を求め言うのなら、常に自らの生死のことなどは度外視して志は語るものだ。」

「立志」という生き方。

これを実現したのが松下村塾なのでしょう。

孟子はこう言い遺します。

「自ら反りみて縮くんば、千万人といへども、吾往かん」

そして孔子はこう言い遺します。

「三軍も帥を奪うべきなり匹夫も志を奪うべからざるなり」

引き続き、君子の道とは何かを自問自答しつつ覚悟を育てていきたいと思います。

 

主体性とは

自由と自立にとって何よりも重要である主体性について深めてみます。

私たちは幼いころから、与えられたものの中で何かを行うように何度も訓練されてきました。教育によって与えられた環境と与えられた課題によってそれをきちんと遂行することで評価されてきたともいえます。

つまりは先に相手から与えられることが大前提で、与えられてないものを自ら先に行うということをあまりしてきてはいないのです。言われたことはやるけれど、言われていないことはわざわざやろうとはしないのです。今の教育ではそういうモチベーションは育ててきていないといっても過言ではありません。

そういう中でいきなり自由な環境があって「なんでもやっていい」といわれても、どうしていいのかわからなくなり身動きしなくなるのはそれまでにそういう体験をあまりやってきたことがないからです。

本来、自由な環境を活かすというものは誰かによってまず与えられてからやるものではなく、与えられなくても自らの意志で遣りたいことがあるということです。たとえば、志があるからこそ道を求めては自らが新たな道を切り開くという具合にです。

そして主体性というものの責任は、与えられる責任ではなく自らが世界や人生への責任を持つということです。誰のせいにもせず、何かのせいにもしない、自分の全人生が丸ごと自分の責任となったときはじめてその主体が全人格の自分自身と一致するのです。

その人が志が立っていれば、自ずから主体性は引き出されていくものです。しかしその志が弱ければどうしても与えらる中でや、誰かによって動かされる中でしか自分を動かし発揮していくことができなくなります。

本来の自分を存分に発揮するには自由が必要であり、その自由の中で主体性を発揮していることが自立であり、それが自分らしく自分にしかできないことを実現し、そのプロセスこそが世界でたった一つの自分にしかできないことで世界へ貢献することになるのです。

人間がありのままで生きるということは、何も思い通りになることでも何もしないで与えられることでもありません。自らが自らの人生を真摯に求めているからこそありのままになるのでしょう。

これを論語、「中庸」ではこう記されています。

「天の命ずるをこれ性と謂い、性に率うをこれ道と謂い、道を修むるをこれ教えと謂う。道は須臾も離るべからざるなり。離るべきは道にあらざるなり。是の故に君子そのみざる所を戒慎し、その聞かざる所を恐くす。隠れたるより見(あらわ)はなく、微(かす)かなるより顕(あらわ)なるはなし。是の故に君子その独りを慎むなり。」

天の命じたものが性といい、その率うをこれを道という。本性から遣ろうとするからこそ今の道に出会っているはずですがこれが実際の人生と道が一致させることができずに人は疲弊しているのでしょう。主体と本性が一致するのなら、それは道です。その道を修めたものが教え、そしてそれを育むと書いて「教育」です。そしてそれが実現してこそ一人一人の人生の主体性が存分に発揮されているということになるのです。

本当に今、此処が道だと思っているか、だからこそ独りを慎むということがどれだけできているのかを何よりも内省するのが君子なのでしょう。

子どものころは、やりたいことが本当にたくさんあるものです。あれもこれも全部やりたいと思うものです。自由というものの真価、何でもやっていいという有難い環境があることに感謝できるのです。

まさに人生のキャンパスは白紙、そこにどのような絵を描いている最中であるのか、それは単に新しいことをやればいいというわけではなく、本当に脚下の実践を大切にし自分に与えられた天与の道を丹誠を籠めて日々に歩んでいるのかという意味でしょう。

自立とは、一人一人の幸福、そして社會の幸福、言い換えれば全人類全世界の幸福に直結しているものです。

主体性とは、「性」が主体と書いて字の如くです。

自由と自立の本義を改めて確かめ直して時代の教育改革に挑戦してみたいと思います。

ご縁に活かされる

人生というものを振り返ってみると、様々なご縁に導かれて今の自分がいることがわかります。

そのご縁は、人間だけではなく様々な事物や時間、場所に留まらずありとあらゆるいのちとの邂逅によって得られています。これは自分で選んだようで自分で選んだようでもなく、自然の流れの中で自らがそれに気づき、それによって発達しているようでもあります。

世界では産まれた時代や生まれた場所で、様々な人生を送ります。それがどのようなものであるのかはその人にしかわからず、ある時はその悲惨な人生を知り悲しく涙を流し、ある時はその栄光に満ちた人生を羨み祝福をしたりもします。

しかし実際の自分の人生を思うとき、自分に与えられた道が一体なんであるのか、なぜこれらのことが自分の身の上に起きるのかと考えると、意味というものはつながっていて、その意味をたった一人の自分がひも解くことが何よりも大切であることを自覚するのです。

何も考えなくても生きられるようにできていますし、どれだけ考えても生きられないこともあります。人生とはまるで、大河の中に浮いている葉っぱのようでもありますがその道中がどのようになるのか人事は尽くしても天にお任せしていくしかないのでしょう。

先日、「遠野馬物語」(高草操著)里文出版の冒頭に作家の曽根綾子さんの言葉に出会いました。とてもシンプルな文章ですが、そこに人生というものの大切な意味が込められていいるように思いますので紹介します。

「人間は長い歴史の中で、たまたま自分が生まれ合わせた時代の、たまたまそこに居合わせ場所で、最善を尽くして生きればいいだけなのである。それ以上、小さな一人の人間に何ができるだろう」(失敗という人生はないより抜粋)

この小さな人間に何ができるのだろうか、、、ご縁という不思議で霊妙な世界に生きる私たち。

どれだけ大切に過ごしているのか、もう一度、今いるこの場所、周囲の人たち、そして自分を見つめ直すことができる言葉です。

一期一会の人生を真心のままに活かされていきたいと思います。