本当の自由

社會の中で何かによって教育されることで、他人はルールというものに自然に慣れ親しんできます。しかしその社會のルールは、自分が理解して一つ一つ納得し自分に置き換えたものであれば使いこなせますが、外圧的に何かの力によって単に従っているだけではだんだん自由の本質が分からなくなるのかもしれません。

人は自分が自由だと思っていますが、その自由とは自分が在る程度のルールの中で自由であることを自由と思っています。以前ブログで書いた想定外と同じ理屈で、自分の中である程度想定している自由のことを自由だと思っているのです。

実際の自由とは、何ものにも束縛されない自由であり、自分らしく生きているということの自由です。それは、自分の全人格が認められているものでなければなりませんし、そこには無条件であるがままでいてもいいとなっているものです。

インド独立の父、マハトマ・ガンジーにこういう言葉があります。

「私は人格をすべて表現するために自由を望む」
何をもって独立するかというのは、自分たちの人格を守るということでしょう。今の世の中は、評価中心の社会をつくりあげ、何かあれば人間を査定し、一方的なモノサシで計ろうとします。そしてそれをまるでその人の人格かのように評します。
しかし本来は人は一人一人まったく異なる個性を持っているし、人格もまったく別のものが備わっていますからそれを十把一絡げに扱うというのは、人格を尊重していないということになるのです。
同じ人間だからと社会をつくったのですが、同じであることを強要することで同じ人間でもなくなるという不合理が起きるという仕組みです。
また今まで散散そういう社会の中で生きてきたら、満足してしまいますから今さら新しい自由を欲しようとしないのも人間かもしれません。よほどの抑圧よりましだと言うように、周りと比べて周りよりも良いのだからと自分を納得させることで仮初の自由を満喫するのです。
これは比較という刷り込みで在り、本質を視るよりも何かと比べて考えて答えにするといった外的なものに縛られるという癖がついているのです。比較をしないで考えるには主体性が必用ですし、自ら自主的に判断する場合は自立し自律していなければ本質にならないからです。
「人は自由を得たのち、いくらかの歳月を経過しないと、 自由を用いる方法を知らないものだ。」(マコーリー)があります。
そもそも民族が融和していたものを西洋的な国家観として成立させようとすると、自由というものの定義もまったく別のものに刷り込まれ置き換えられたのでしょう。
これはどの組織でもそうですが、「何でも遣って善い、自由です」といっても人によっては数年から十数年、意味がわからず何もできずに停滞するのと同じです。指示命令の中で動くことを憶えた生物はなかなか元通りになることは難しいのです。
今の人たちが本物の自然体を身に着けるのが難しいように、本物の自由もまたとても難しいものなのでしょう。自分で物事の本質を見極める、そして自分の人生を自分で丸ごと生き切るということは天命を活かすということなのでしょう。
東洋思想には、この「道」という生き方がありますから道に入れば自ずから目覚めていくのかもしれません。最後にまたマハトマガンジーの言葉です。
「間違いを犯す自由が含まれていないのであれば、自由は持つに値しない。」
自由というのは、来たものを選ばないで受け止め受け容れる勇気なのかもしれません。避けたり逃げたりすることで自由は得られず、正面から取り組む時のみ正直であり素直になり、そして自由になるのです。
自由を得て人格が次第に善くなっていく仲間を観ていると、幸福な気持ちになります。
有難うございます。

 

道楽~人生体験~

人が生きるという実感とはどのような体験をしているかということです。

体験こそが人生であり、体験の価値を知るものだけが人生の価値を知るように思います。

人は様々な体験を通して生長していくのは、体験が夢を膨らませてくれるからです。

例えば日々というものは、色々な出来事が実は起きています。気づいていないだけで、好奇心さえ開いていれば本当に無限に無数の出来事に囲まれているのです。しかし日々に流されてしまうとそういう出来事に気づく感受性も衰えていくものです。

何かの出来事が起きるのに対して、その出来事は何だろうと意味を求めて前向きに主体的に取り組む時は好奇心が揺さぶられ新たな発見に出会います。しかしそれとは逆に日々に出来事が起きているのにそれを流してしまうとだんだん感覚が麻痺してきて気が付けば無関心になってしまうのです。

それはとても勿体ないことのように思います。

出来事とは、別に無理に起こそうとしなくても起きているものです。ですからわざわざ遠くにいかなくても、別に新しいことを無理にしなくても、今ある出来事を真心をもって取り組んでいけばそこにはいつも世界が開いてくれていることに気づき感謝できるのです。

体験の尊さというのは、人生の楽しさを与えてくださる尊さのことです。

何が起きるかわからないけれど、ワクワクドキドキと楽しくなっているのは流されないという強い意志、また一度きりの人生なのだから流れないという主体性があってのことなのでしょう。

自分の思い通りにいかないことばかりですが、その反面、自分の思い通りにならないことが面白くてたまりません。そういう前向きな生き方の中にこそ、真の人生の歓び、仕合せ、感激があるように思います。

一生青春、一生感動、掛け替えのない唯一の生であるからこそ来たものを選ばずに全部を有難く受け止め、一つ一つをご縁のある方々と一緒に歩んで大きく夢を育てていきたいと思います。

体験させていただけることに感謝しつつ、世の中のスピードに負けないくらいの努力と精進と内省で道を楽しんでいきたいと思います。

行動指針

カグヤには行動指針というものがあります。これは以前、クルーの皆と語り合い話し合ってどのような会社にしようかと考えて出し合ったものです。

そこにはこうあります。

「本音で語り、本質を追及する」
「関わる全てに尊敬・尊重を忘れない。」
「明るく楽しくイキイキと、心身共に健康に。」
「御互いを信頼しあい、高めあい、協力を惜しまない。」
「信念・理念に誇りを持って、夢の実現に向かい続ける。」

という五つの項目です。

これは、自分たちがどうありたいか、自分たちが行動するときにどういうモデルを示していこうかと語り合い一つ一つを精査していきました。

そもそも行動指針とは何かといえば「基本」のことです。

基本とは例えば、茶道や武道の基本も心得や型からですがもっともはじめに身に着けることということになります。それはとても地味で目立たないものですが、それがあってはじめて他のことができるというものです。

基本ができていない状態でいくら何かをやろうとしていても、それは付け焼刃になるだけで何も為し遂げることができません。自分に矢印を向けてまず自らの行動が基本に忠実であるかどうかを見直すというのが行動指針になります。

人間にとっての基本は人格形成のように思います。

以前、師から教わったものに「自由は人間ができていないと使いこなせない」というのをお聴きしました。いくら自由の環境を与えてもらっていたにせよ、どれだけ好きなことをやってもいいと言われても、自分自身の人格を高めていなければそれは活用できないということです。

人は何かしら決められた中で動いている方が楽です。指針などなくとも、規則があればそれだけで自由になった気がするものです。何も規則がない、誰からも何も言われないということほど不自由なことはありません。一般的な日本の社会ではガチガチに規則やルールが秩序よく整理されていますから考えなくても合わせていけばある程度は自由です。

しかし尊重し合う社會に入れば、その自由を守る一人としての責任が発生してきます。そうすると、自分で周りの自由を奪わないように、他人に迷惑をかけないように自らの行動を律していく必要があるのです。

自由には責任が伴うのは、その行動を正すのは自分次第ということでしょう。

常に自主自立の心というのは、自らの人生の主人公を自らで育てあげていく責任のことです。
人生の課題もまた其処にあるように私には思えます。

有事のときにも無事のときにも、ふり返りを怠らず常に行動指針に照らして今の自分はどうであるのか反省し続けていきたいと思います。

 

人生

自分の人生というものを考える時、自分をどのように守っていくかは自分次第でもあります。

色々な環境下の中、時として自分の生き方というものを見つめる時があります。

それは自分はどのように生きて活きたいか、そして自分は何を大切にしているのかを自覚するのです。そうして自覚したものが、何よりも大切であるならばそれを守ろうと人は真剣に人生と正対していくのでしょう。

その時、その時に同じような生き方を貫いている方々に出会えるというのは幸運かもしれません。

人はどこか自分で先に生き方を妥協して周囲に迎合する方を選んでしまうと、その時点から自らの性格が歪んでいくものです。本来の性格が素直にならないのは、自分の遣りたいことをやらなくなるからでしょう。

自分の遣りたいことが保障されるということの価値というものは、自分自身の存在を丸ごと認めてもらえる人と環境があるということです。

そういう人に出会い、そういう環境の中に過ごさせていただけるということは自分という人生を生き、そして自分という生き方に活かされるという自然とのつながりに感謝できる今に棲んでいることを実感するのです。

人は自分というものを守るのは結局は自分自身なのかもしれません。

なぜなら、人は産まれてきては心の奥底で感謝があるからこそ自分のいのちを何かに役立てたいと祈るからです。その祈りをやめないからこそ、生き方に出会い、生き方を優先しようとする勇気につながるのです。

思い返せば私も師と出会い、大切な生き方を守っていただきました。
そしてその上で、自らの性格を直すための人生の課題をも同時にいただきました。
今度は自分の周りの生き方を守ることをさせていただけるようにもなりました。

このような邂逅をいただけるのは、全てにおいて「生き方」を優先できたからかもしれません。

自立していくということは、自分の脚でちゃんと立つということでしょう。
今は足取りが覚束なくてもいつかは必ず立派に自分で立てる日が来ます。

いつまでも安心基地になり子どもが巣立っていくのを応援していきたいと思います。
有難うございます。

 

社會人

人間の自由というものを考えてみると、色々と想うことがあります。自由とは何かといえばこのブログでも以前書きましたが、自由自在の自由です。

決して不自由か自由かの時に使われるものではなく、その人があるがままに自由自在でいるということ、言い換えれば自分らしさを持ち自分の人生を歩んでいるうということです。

今の時代は、外圧的に様々な規則やルールを押し付けてはその人の自由というものを奪っていく仕組みがあちこちに張り巡らされています。特に学校になると、理由も教えず説明もせずに無理に強要し、規則を破れば矯正させるという非常に厳しい状況をつくりあげています。

大人の管理の下、如何に正しい行いをさせるかということに焦点が置かれているように思います。しかし、動物でもそうですが力による抑制というものは長く維持できるものではありませんし、本心から行うわけでもなく、時間が経ち環境が変わればすぐに忘れてしまうのです。

だからこそ内省をし、本人が自覚し自明するまで自らが実践をしじっと待つという覚悟が必用なのかもしれません。今は、時間がない時代ですから短い時間内であれもこれもと膨大な量の知識や規則を詰め込もうとすれば必然的にガチガチに余裕のない状況に陥るのは火をみるよりも明らかです。

その中で子どもたちは、自由を渇望します。しかしこの自由とは、不自由から解放されたい自由であり本来の自由ではありません。私は幸運にも素晴らしい師と出会い、本質を見極め自分で考えて自分で行動することの尊さに気づくことができましたがそういうご縁をいただけるような方に回り逢えるというのは今では稀なのかもしれません。

これは社會のあり方でも同じですが、権力を持ち、強烈な管理の中で人を束縛すればするほどにそれはより一層弱い立場の人達へと圧力がかかるものです。いじめの構図も同じく、余裕のなく心が閉塞するような状況下では強いものは弱いものを虐げることで自らを守ろうとする構図から発生するのでしょう。

結局はそういう社会から逃げ出すために人は、自分に嘘をつき、他人のせいにするような脳みそになっていくのかもしれません。本能は素直だったからこそ、人間社会のそういうことに流されるから自分を見失うのかもしれません。

社會とは何か、社會をどう産み出していくか、それは自分の責任です。

どのような社會にしていきたいか、どのような社會人になりたいのか、それが学ぶ目的なのかもしれません。社會に出たら、色々なことを自分なりに自分のやりたいようにできるためには、様々なことの本質を見抜き、勇気を出して世の中のためにと貢献し共生していく必要があるように思います。

つまり以上のことを一言で締めくくるならば尊い社會の一員として、「全ての問題を自分の問題」として捉えられているのかということです。

この他人事という刷り込みは今の社会ではなかなか取れず、そのために私のライフワークのほとんどがその問題に集約されてしまっているのです。

最後に本当の主体、本来の主人公、自由自在とは、自己実現のことをいうのでしょう。
正直な人たちが安心して暮らせる世の中のために理念を実践していきたいと思います。

 

 

野生の直観~柔軟性と調和~

私たちは本来、自然界の中で野生に栄えた生物です。

自然農をはじめ田畑に出ても、植物や虫たち、それぞれが自由自在にあるがままに生きています。そのものがそのものらしく生きているのを邪魔しないでいるのと同時に、そのものの特性を活かしつつ共生するために調和をはかっています。

自然界というものは、常に相手を変えるのではなく自分を変えることで調和するのです。

長い時間をかけて、御互いの持ち味を如何に活かせるかをそれぞれに活かそうとします。

それは自然界が活かし活かし合う関係で成り立つからなのでしょう。

自然界から離れるというのは、自分の思い通りにしようとすることかもしれません。進化が停滞し退化するというのは、自分の方を変えようとしないことをいうのでしょう。

自分を変えるには、相手の持ち味を善いと感じる観察眼や心から周囲によって自らが活かされるという真理に気づくことなのかもしれません。

今の人間社会の中で生きれば、それぞれが自分の思い通り生きることを自分らしくあるかのように錯覚して報道します。しかし実際の自分らしさというのは、あるがまま、言い換えれば難に対しても柔軟性を以て対応できるということなのでしょう。

つまりは、自分が周囲を尊重しているからこそあるがままということです。

昨日から小笠原流流鏑馬という古武道を習いはじめましたが、馬との阿吽の呼吸からですが自分の中の筋力や体幹がまだまだ合わせられずあちこちが痛みます。一つのことをするにも痛みを伴うのは、それだけ自分が成長しているあかしであり鍛錬しているからこそ進化できるのです。

新しいことに対する筋力は常に痛みを伴いますが次第にその痛みは新しい自分、新しいステージに向けての準備段階なのです。

仲間が新しいことに挑戦するのを一番身近で見守る自分が、何よりも挑戦することを触発されたようにも思います。子ども達のモデルになるために、自らが変化の源になりたいと日々に願うばかりです。

プロセスを楽しみ、自らの変化から自然との共生、野生の直観を磨いていきたいと思います。

大切なことを忘れないDAY

昨日は、理念から3年前の震災の教訓をふり返るために「大切なことを忘れないDAY」として防災や教訓などを研修しました。

研修では「想定外」についての話し合いを中心に、釜石での事例や、釜石の子どもたちの実績などをDVDを使って学び合いました。

その中で気づいたことがあったのですが、人は想定外というものを考えるのに、想定内とか想定外とか言っていること自体が「想定」しているということだということです。

想定というのは、考えられる範疇での出来事ということで実際の災害は自分の考えが全く及ばないほどの巨大な存在というのが本当の意味で想定できない=想定外ということだということです。

それぞれに想定外の出来事について語り合いましたが、想定内のことばかりを話している姿に如何に自分たちが平和ボケしているのかを痛感します。

本来は、自分のいのちを自分で守ろうなどということは自然界の中では当たり前すぎて本能でいつもそれを発揮して生き残っているのです。しかし実際の今の世の中は、そういうシンプルな自然の姿すら分からなくなるくらい人間が自然から隔離した文明社会の中でどっぷりと安全や安心に浸かってしまっているのです。

そういう文明社会が壊れるような災害があった場合は、いのちを守ること以外できないはずですがそういう目にあったことがない今の世代ではぬるま湯の中でギリギリの感覚というものを喪失してしまうのでしょう。

人は本当の危機を肌で感じながら生きるのは自然への畏怖や畏敬を忘れないということです。神道では神様という偉大な存在に畏み畏み敬い常に謙虚にと私たちは日常から生きてきましたが今では自然を征服するという発想のもと、人為的に操作された人間中心の傲慢な暮らし方の中でそういう畏怖畏敬の心もなくなってきているのでしょう。

自然から離れるということが一体どれだけ恐ろしいことか、地球に住まう私たちが地球と住まうことを忘れてしまうところに文明の崩壊、否、人間中心の限界を感じてしまいます。

以前、「直視」ということをブログで書きましたが直視しないからいつまでも傲慢に胡坐をかいてしまうのでしょう。直視というのは、素直でなければできず謙虚でなければ視れません。自分の今の生き方が自然からどれくらい離れているのか、自然というものを常に意識して生きているか、あの教訓から学んだ本質は自然からの警告であったはずです。

人間が傲慢になって人為的に造りだしたものが、自然に破壊されるのを目の当たりにして自然の中で生きて活かされているのだから自然と共生していく方を優先しよう、あらゆる生きものたちとともに地球に活かされていることに感謝していこうと、初心を忘れずにいることが何よりも後人へつないでいくことではないかと私は思います。

最後に社内では、災害の教訓から新たに5つの鉄則をつくり今後実践することにしましたので紹介します。

【防災鉄則の5箇条】

第1条 危機意識の欠如、備えを怠るな

第2条 自然への畏敬を忘れるな

第3条 固定概念に縛られるな、最善を盡せ

第4条 自分のいのちを守ってから他人を助けよ

第5条 ピンチの時には野生の勘を取り戻せ

子どもたちに豊かな自然風土と幸福な暮らしを譲っていけるように実践を積み上げていきたいと思います。

自分らしくは御蔭様

自分らしさというものを守るというのは信念が必用です。

人は自分らしさを優先するよりも、周りに迎合していく方が楽になっていくものです。それは周りと同じことをやっている方が安心するからです。自分が人と違うということを受け止めるということができなくなるのは幼い頃よりも周りと同じになることを求めるような社会や教育を施されてきたからとも言えます。

もしも幼い頃より、違って当たり前という社会に居れば違うということは自分らしさになるのだからそれを大事に自分で守っていくことができるからです。

多様性というものは、本来、そのものがそのままでいいということ、つまりはあるがままが自然であるということを認める生き方のことです。自分の中にある天から与えられた普遍的ないのちの形をそのままに生き切る時、人はこの世の中で使命を果たしたと実感できるものなのかもしれません。

産まれながらにして、何かその人は遣りたいことがあるということは自明の理です。それは子どもでもお年寄りでも、自分らしく生きている人はこの世に生がある限りその目的に邁進しています。

孔子も仏陀も聖徳太子も、何かを為したから偉業なのではなく自分らしく生きぬいたことが真の偉業なのかもしれません。

他人と異なる道を歩むと決めたら、その瞬間から様々な困難が降り注いできます。私も自分で決めた道を往こうとすれば、今までできていたことが途端にできなくなりました。それに周りも秩序を乱すような行いをすることに対して非常に冷淡な対応に変わってきました。

それでも動機が自分のためではなく、これをすることが世のため人のためという思いだけは誰よりも強く持ちましたから理解くださる方々の有難い真心と思いやりで少しずつ進むことができています。

そう考えると、自分の信念を鍛えてくださったり、助けてくださったりと、見守りの中で育ててくださった人たちの御蔭様で今があるのも明白です。御恩返しというものは、自分らしく活かすことでお世話になっている方々へ真心を盡していくことなのでしょう。

自分らしく生きることで出会いがより豊かになります。

個性を尊重して、他を尊敬して子ども達のためにも歩んでいきたいと思います。

安心村社會

ムラ社会という言葉があります。

これを辞書で調べると「1 有力者を中心に、上下関係の厳しい秩序を保ち、しきたりを守りながら、よそ者を受け入れようとしない排他的な村落。村の決まりに背くと「村八分」などの制裁がある。」「2 同類が集まり、ピラミッド型の序列の中で、頂点に立つ者の指示や判断に従って行動したり、利益の分配を図ったりするような閉鎖的な組織・社会を1にたとえた語。談合組織・学界・政界・企業などに用いる」(goo辞書)とあります。

強烈なピラミッド型組織で、一方的に秩序を維持する集団ということでしょう。
絶対的秩序を守るのがムラの存在であり、秩序そのものの人がムラ人という定義です。

しかしこの村という考え方が悪いというわけではなく、この村社会が悪い方へと使われるのは思いやりで見守るのではなく、保身や利権を守るために強制的に管理するときにまるで「いじめ」のようなものが発生してくるから問題なのです。その人らしさを蔑にする組織では希望を持てません。

本来の村というのは、相互扶助で成り立ちます。お互いに力を合わせて生きていくために、御互いに譲り合い見守りあいながら生活をする共同体です。その中で個が引きたっても、それを寛容し村が活かしていけばいいのです。

しかし軍隊のように徹底して組織を管理すれば、それは義務や権利ばかりをそれぞれが主張しあう秩序だった共同体となります。その中での自分らしさを出すのは、組織の危険因子ですから村全体でそれを排除しようとするのです。

つまりは村がどうかではなく、個が尊重される集団か、それとも集団を優先し個は抹殺する集団かではその個の扱われ方も異なっていくのです。

ありのままの個を認めないという社会がムラ社会です。村の掟や制約に従うことは大前提で例外は認めないということでしょう。学校も病気や法事以外は休めないという強迫観念、逃げ場のない無言の圧力に個性を埋没させて集団の一員になるしかないと諦めてしまうのです。もしもそうではなく、「なぜ?どうして?本当は何?」などと考えてしまうとそのことに気づきますからいよいよ逃げ場がなくなっていくのです。表面上の逃げ場にあわせることは、ムラのルールに従うことです。本来の逃げ場の定義は、安心基地、つまりは自分らしくいてもいい、あるがままの方がいいと理解してくれる場所のことです。

有無を言わさず理由も伝えず、一方的にただ“これをやりなさい”と一斉画一に一律に全員でそれを実行する義務を押し付けられる。

こんなことを秩序といっているのは、まったくの人権無視であろうと思います。管理者というものは、自分が正しいと思い込めば従うのは当然だという発想を持つのかもしれません。この国は立場や肩書が優先され、物事の本質を考えないでいた方が楽だというような風潮をつくりだしています。

大人にとって都合がいい子になってもらって安心というのは、大人が不安だから管理したいだけでしょう。子どものとってどうかということから社會を観直す必要を感じます。

そうしてみると、あるがままでもありのままでも受け容れてくれる場所があるということが人が安心して働くことができる故郷でありそれが村であり、国であり、そして「家」であるはずです。かつて聖徳太子が実現したような大和の国家の理念が我が国にはまだ存在しています。

本来の安心村社會を創造するためにも、そのままでいい、あるがままでいい働き方と生き方の実践を創意工夫と勇気をもって今後も続けていきたいと思います。

子ども達の安心できる一家になれるよう、その人らしさを認め大切にする実践を積み上げていきたいと思います。

 

子どもの権利~社會とのつながり~

人は社會の一員として認められることで人権を獲得していくものです。

人権というものは社會の中に存在するものであり、無人島で一人で生きるなら別に人権などというものは必要ありません。

この人権が守られないとはどういうことかと言えば、社會から無視され否認されるということです。これら人権無視がなぜ起きるかといえば、一方的な価値観を押し付けてそれを守らせようとするときに個人の尊重を蔑にするということで発生するのです。

それが発展して、自分のことを自分で決めることを与えない、つまりは自己決定権すらない子どもたちが世界にはたくさん存在してしまっているのです。これは子どもだけではなく大人でもそうですが、自分で自分の人生を生きる権利をはく奪され誰かの言うことを強制的に従うようにと利権を優先されているのです。

学校などでも、無視が流行るのは本来はその人の個性や存在が尊重されるはずのものが認められず、何かその人が人権を発揮しようとするとき抑え込む作用が働くことでいじめの構造ができあがるのでしょう。

一つの価値観で無理やりに教育することは、子どもの権利条約に違反しているのです。

子どもは自らで生きる権利があるというのは、子どもは自らの生き方を尊重された存在だと認める事が大前提でしょう。その大前提を無視し、大人の都合で子どもを無理やり変えさせようとするのは何か強い圧力を感じます。

そしてそれは大人たち自らを苦しめている原因であることにも気づきます。
学校とは、そこで働く人たちそのものがもっともその苦しみを受けるはずです。

社會から隔離するのをよしとせず、社會とつながることが学校を改革する根源かもしれません。大人になって学校から実社會に出て観たら、あらゆるものが違っていました。それに海外に留学し海外で働けば、なおさら学校でのことはまったく役に立ちませんでした。

そう思う時、大人側の無理解こそが子どもの無理解であったことに気づきます。如何に子どもを理解するのかというのは、如何に自らを理解するかということなのです。世界に目を向けるということは、学校以外の世界が社會には広がっているという現実を受け止めるということでしょう。

このままでは社會というものを誤解した子どもたちがそのままおかしな社会を無理に創りあげてしまうかもしれません。教育に関わる者は、常に社會というものを直視し、その社會を担うものであることを決して忘れてはいけないと心から戒めました。

最後に子どもの権利条約の素になったヤヌシュコルチャックの言葉を紹介します。

「子どもを理解することは、大人自身が自分をいかに理解するかである。子どもを愛するとは、自分自身をいかに愛せるかということ。人は誰しも大きな子どもなのだから。」

今こそ、大人たちからまず自らに気づくモデルを示すときです。

機会を活かして学びを深めていきたいと思います。