丹誠の徳

二宮尊徳に報徳訓というものがある。この「訓」という字は、普遍的な教えのことでよく教訓という言い方で代々語り継がれているものです。言い換えれば、これもまた子孫を思いやる真心で創られた大切な生き方の智慧であろうとも思います。

人は一生の中でそういう教えに出会える人と、出会えない人がいます。伝承していくということは、そういう古来からの大切な日本の心を受け継いで守り次世代へと生き方そのものを譲っていくことであろうとも思います。

どんなこともそうですが、根源とか絶対とか普遍というものや自然は当たり前のことすぎて見向きもしないようなことばかりですがそこに忘れてはいけない離れてはならない叡智があります。

改めてそこに気づけるかどうかは、その教訓に触れて学び続けていくからのように思います。

報徳訓にはこうあります。

「 父母の根元は天地の令命に在り 身体の根元は父母の生育に在り
子孫の相続は夫婦の丹精に在り 父母の富貴は祖先の勤功に在り
吾身の富貴は父母の積善に在り 子孫の富貴は自己の勤労に在り
身命の長養は衣食住の三つに在り 衣食住の三つは田畑山林に在り
田畑山林は人民の勤耕に在り 今年の衣食は昨年の産業に在り
来年の衣食は今年の艱難に在り 年年歳歳報徳を忘るべからず」

今の自分があるのはなぜか、今の自分がいるのは何の御蔭であるか、そのためにその御恩に報いていこうとするのが最も大切であるということを説きます。「身体の根源は、父母の生育にある。父母の根源は、祖父母の丹精にある。祖父母の根源は、その又父母の丹精にある。こうして押しきわめてゆくと天地の大生命に帰する。そうすると天地は大父母だ。」と諭します。

これらの天地の丹精があるから、今があり、その自然の真心があって自分というものが生きているということが根源です。そういう大切なことを決して忘れてはならないからこそ報徳を実践するのだということを教えています。

日々に省みてみると、人は目先の損得や身近な利害ばかりに執着し、こういう当たり前のことを忘れてしまうことから私心に囚われ迷い苦しみを生み出していると思います。

天地開闢から今まで、私達日本人の古来の心、天地自然の神恩に如何に感謝するのかを実践で示した生き方がこの報徳訓には凝縮されています。

丹誠の徳というものをもう一度、正しく考えてみたいと思います。

 

自ら同体験

同体験をするということは、体験からお互いのことを理解するということです。

人は体験を通して気づくのは、感覚があるからです。この感覚とは、全体の意味を深く捉えることができる力とも言えます。そうやって体験というもの中には、五感や六感と言われる直観を用いて知らずしらずに本質を捉えているのです。

例えば、同じところで同じものを食べて同じものを観て同じ場を共有するとします。すると、そこで見えたものは個々で異なっていますが感覚は同じものを捉えているのです。美味しいものを食べれば、それぞれが何か美味しいと感じるか直観しますし、同じ場で感じた自然の雰囲気なども誰かがそれを発するとすぐに他の誰かも直観で理解できるからです。

つまりは感覚というものは直観とつながっていて、その感覚を同じく体験することで頭ではわからなかったことが丸ごとお互いの感性のところで通じ合っていくのです。

それに同体験には、思い出の共有というものもあるのです。

人は思い出を共有することでその人を自分の中でつながりを実感するものです。共に何かをした記憶そのものの中に、互いの芯が生まれそこを合わせることで互いの信頼関係の基が築けるともいえるからです。

そして共に体験した記憶は、思い出せなくても自らの感覚がいつまでも覚えているものです。

だからこそ、共にあることを実感できる同体験を大切にすることが共生するということになるのです。その体験一つ一つの尊さに気づき、その体験に如何に価値を与えるかはその体験を高め、その体験を学び、その体験を楽しみ味わうことが大切です。

二度とない同体験だからこそ、そこに確かな絆があり一期一会の邂逅があるということ。

つい同じところに居て同じことをしているだけのような日々に流されそうになることがありますが、些細な小さな出来事ひとつひとつがとても尊いことを改めて実感します。

面白いことや楽しいことだけではなく、辛いこと哀しいこと、そして寂しいことも全部丸ごと自らで同体験することが人とのつながりや信頼、そして豊かな社会を築いていくのです。

自ら体験を昇華し、同じ体験をできたことに感謝していきたいと思います。

道義

世の中には、筋道というものがあります。それを道義といいます。

例えば、天に照らせば感謝することや人に照らせば恩に報いること、そういう生きていく上で大切なことを学のが道義です。

一般的には、今の時代はあまり誰も叱らなくなったといいます。この叱るというものは何かと言えば、道義に反することをするから叱るわけであって意味もなく叱るのではありません。

昔は、親や先人たちが親身になって自分の将来のことを長い目で観てくれてよく叱ってくれました。私にも人生の岐路や大事な場面は、必ず善い師や先生、友たちが自分を間違った方向へと歩まないように叱り飛ばしてくれたものです。

そして今があるから、その感謝に報いたいと真摯に道義を重んじて生きたいと願うようになったように思います。

叱る方も叱られる方も、どちらもとてもそこに深い信頼関係があることに気づきます。叱られるということは、相手から叱られる自分でなければ叱られることもないからです。

自分がそれだけ叱られる自分をさらけ出して頼り甘えることができているということが一つ。そして甘えないで必ず学びモノにしていこうとする真摯な信じる姿勢があることが一つ。

つまりは、自立ということと自律ということを体現しているからこそ人との間に尊い信頼関係というものを一期一会の人生の中で邂逅していくことができるように思います。

長い目で観た時や経験から感じた時、そして誰よりも相手のことを思う時はその道義を説かなければなりません。しかしそれはとても難しいことであり、自我感情などを超えてその人そのものが自分であったらと思う必要があるからです。

もしも自分がその人だったらと思うなら、気持ちは分かるけれどならぬものはならぬとその筋道を正しく伝える技術もいるからです。

いくらコンサルティングをして経験を積んだとしても、その一つ一つの正対というものは常に真剣勝負ですから試行錯誤、錬磨研鑽していくしかありません。

自分が今、学ぶ必要があるのは何か、筋道に従って全て実践により掴んでいこうと思います。

たくさんの愛をいただいて育ててくださった方々のことを心に刻みその恩義に感謝と実践で報いていきたいと思います。

求法の旅

今回の中国での旅は、色々な収穫がありました。

久しく体験していなかった様々なトラブルにも出逢い、友人との思い出も共有でき、変化を味わうこともできました。また同時に、慈覚大師円仁との出会いも今の自分を励ますことにもなり有難い機縁になりました。

思い出というものは、順風満帆であるときよりもむしろ艱難辛苦の時の方がいつまでも忘れないものです。しかし異国で八方塞がりを体験することは、本当に色々なことが試され、精神的に強くなっていたつもりでもまだまだ体験していないことがあることを実感するのです。

それに難が有ると書いて「有難い」ですが、その難こそが自分の信念を鍛え、自分の精神力を磨き、自分の運気を高めることを思えば、人は誰でも大変な時にもっとも学び生長していくのだと実感します。

帰国して、これから円仁の日記、「入唐求法巡礼行記」を拝読していく予定にしていますが思い通りにいかない中でも自ら求めて倦まず弛まずに前進し続ける姿にすでに大きな感化を受けています。

思い通りにいかない中に思いがけないこともある、そして思いがけないことがあるとき、そこに法が存在していることに気づくように思います。信じるということは、五体投地のように身を投げ出してでも真理を求めたいと願う心にあるのかもしれません。

それは自分のいのちよりも大切なものがあるときや、大義を優先したいと願うときにこそ、顕現してくるものかもしれません。

まだまだ自分には時間やスピードについての刷り込みもたくさんあるようですし、自己中心的な刷り込みも便利な生活の中で刷り込まれてきています。一生に一度の人生、それを忘れてしまえば目先の損得に自分を埋没させてしまうかもしれません。

常に初志が何か、何のために生まれて、どう死に逝くのか、常に一貫して忘れないままに旅を味わいたいと思います。敢えてゆったりと悠久の流れに身を任せつつ遅々と歩むことを恐れずに前進していきたいと思います。

幸福の秘訣

毎回、旅を終えるときに思うことがあります。

それは旅の意味についてです。

人は何かを学ぼうとしているから学ぶのではないように思います、同時に何かを欲しているから欲するのではないように思います。つまりは、不学不欲というように学ばず欲さずときこそがもっとも学び欲したということになると思うのです。

例えば、自分では学んだ気になっていても実際は自分の考えの及ばないところでその学んだと思っている以上のことが発生しているとします。それを学ぼうとすれば余計に学べず、学ぶのをやめてみてその後の意味を味わっていると自然に学びに達します。

また同様に自分では欲している気になっていても欲している以上のことが発生しているとすれば、欲するのをやめてみれば自然に欲したものがその中に手に入っていることに気づきます。

このように意味が後で着いてくるものを旅と定義したとしたら、旅とはそのものをそのままに味わう中にこそ何とも得難い邂逅の記憶になると実感するのです。

そしてそのほとんどは日々の何気ない生活の中にこそ存在しているように思います。

この何気ない生活というものは、先ほどの不学不欲の中にあり、来たものを素直に受け取ることができるとき、過ぎたことを澄んだ心で意味づけができるときにこそ、無尽蔵の教えや学び、また人生の求道で得られる感謝の醍醐味も味わうことができるということです。

人生、そのものの意味をどのようにつけたのか、その意味をどのように味わったか、そこに幸福の秘訣があるように思います。どんな出来事があったにせよ、それに感謝していけるような人生、そしてあの件もこの件もまたそれは偉大な見守りの中であったといつも実感できた人生。

自分がいつも何か偉大なものに助けられてこの地上の旅ができることに感謝するのです。

その一つ一つ分かれていない太古からの旅の記憶、その意味を日々に紐ずけていけば、自ずから学ばなくても学べているのです。この人生という美しい秘境の楽園にいる自らの意味を感じることが旅そのものの本来の味わいなのかもしれません。

旅とはつながりなのです。

このつながりの中に歩んでいることは、目には観えないものを実感するときにこそ顕われてきます。自分の中に或る無邪気な子どもの心が旅を求めてはいつも遊びたがっています。日々の遊び場にすべてを投じていきたいと旅を思うほどに好奇心が働きます。

「ゆめうらら うみの小舟と 流れゆく はるかかなたの 星旅のなか」 藍杜静海

内省を味わい意味を楽しみ、この旅の記憶の醍醐味と人生の妙味を尽くしていきたいと思います。

有難うございます。

学志一如~独りでになる~

昨日、不思議なことに自分の人生に大きな影響を与えるお寺に参拝することができました。このお寺は、赤山法華院といい円仁と非常に深い所縁があるお寺です。この円仁は日本人最後の遣唐使と言われていますが、世界でも有名なのはその旅行記です。

この円仁の記した「入唐求法巡礼行記」は、玄奘の「大唐西域記」、マルコ・ポーロの「東方見聞録」とともに、三大旅行記のひとつとされ、唐の国や仏教中心地の様子が鮮明に窺える古代史の第一級資料となっています。

特に他の2つのものは誰かに口述したものを記入させたのに対し、円仁のものは自筆で記したものです。その内容は、9年半の中国での滞在記ですが全てのことが思うようにいかない中で、それでも真理を求めて已まず命を懸けて人々のために学ぼうとする姿勢が感じられ、少し読んだだけでも心が震え魂が揺さぶられる思いがします。

帰国後は、円仁は天台宗の指導者として、比叡山において教えを伝授するだけでなく、当時文化の遅れた東北の人々の苦しみ悲しみを救おうとして、寺院の建立、土地の開発、産業の振興に力を尽くしました。青森県にある恐山菩提寺なども円仁が開基したものです。

訪問した赤山法華院はこの円仁を大切にしてくださった新羅人たちの建立した寺院です。中国で仏教が弾圧され、旅券も発行されず、帰国できない、すべてないもの尽くしの中で円仁にインスピレーションを与え、具体的な方法までを与え、そしてその道を諦めさせないで見守りその求める道を陰ひなたから助けてくださった所縁の場所です。

天啓というものは、いつもピンチの時こそその周囲に必ず有難い見守りがあるものです。すべてのものは一人でなるものではなく、独りでになるものです。その独りでになるものは必ずそれを助け導く周囲の存在があるということです。

同じように円仁もここで仏様に出逢い、その道を示されたのではないかと現地で改めて直観しました。この時の助ける方も助けられる方も、その人間の間にある思いやりや真心が共に天に通じたことを忘れまいと今でもその赤山禅院では大切に語り継がれていました。

この新羅人とは、韓国人の先祖であり言語のルーツを辿ればそこに至ります。その当時からずっと私達日本人と韓国人、中国人が交易をし、共に助け合ってきた歴史に改めに感無量の思いがしました。1200年前のこの三国間の関係と、今回、韓国の友人とのご縁で中国の方に導かれて訪問したこの機縁に不思議な感謝と感動を覚えました。

時代が変わろうとも、私たちが大切にしているものは何かを見失っていけません。

真理を求めて旅をすることも、その旅の中で大切に受け継がれたことも、如何に世界が変わろうとも変わらないものがあるのです。その変わらないものを大切に暮らしていくことが、真理を体現することになり、その脈々と受け継がれた血縁と記憶をこの時代にも復興させていくことが私達子孫の使命の一つではないかと思うのです。

今回の仏縁は本当に意義深いものになりました。

東北の巡礼から、縁を辿り、気が付けば赤山での教えに至りました。帰国後もまた辿りたいところが大いに増えました。まだまだ所縁を楽しんで、直観の赴くままに学び続けていこうと思います。

学志一如、実践を貫いていきたいと思います。

選ばない意味~人生の仕事~

選ばないということの考え方がどういうものなのかを書いてみます。

人はみんな自分勝手で自分が受け取りたいものとそうではないものを選り好みするものです。その時々の気分や状態で目の前にある出来事を裁いたり仕分けたりしてしまうものです。そうすると、本来、大切な意味があった出来事を自分の捉えた小さな範囲や自分の視ている世界にしてしまえば本質的に学ぶことが少なくなるのです。

カグヤでは理念ブックの最初の1ページ目に、こう書いています。

「浅き河も深く渡れ、低き山も高く登れ、本質を深め、独立自尊せよ」

これはカグヤの信条としてもっとも大切な徳目で、これがなければ学べないから何よりも尊ぶようにという戒めの意味を籠めて記されています。

学ぶということは、そもそも自分のレベルや自分の範囲で知ったことを言うのではなく、その学びとは何かということを実践の中に気づき自らをより高めて常に変化刷新していくことを言います。それは来ているものを選ばずにどれだけ謙虚に受け止めてその全てを感謝に転じたかという実践をすることになっているのです。

そもそも受け止めるというのは、来たものをあるがままの意味で捉えるということです。それは自分がどうかではなく、来たものは全部自分に必要なことが起きているとその全ての出来事や物事、そのご縁に深く感謝して自然のままに有難くお受けしていくことが本来の姿です。

例えば、病気になったとしてもそこに何かの意味がある。嫌な出来事が続いてもそこに何かの意味がある。そう思う人は、どんな出来事からも学びその教えが入ったことに感謝し、素直に成長し、正直に受け止めてその機縁を活かしていくことができるのです。一期一会の境地も同じく、人生の中で二度とない一度きり一瞬だけの掛け替えのない出会いだからこそ、自分の全てを出し切って清々しくしていこうというものも似たようなものです。

一昔前は実践が追い付いておらず、意味を感じきれずに色々と悩んでは選り好みしていたものです。しかし、選ばないという選択をしてからは日々に来たものを受け止めて自問自答し取捨選択して削り取っていくことで最期に残ったものが何かというものを待つ心境に入っています。

それは全てをチャンスだと思えるか、ピンチをチャンスに換えているか、自分が丸ごと信じているかを優先しているかが問われるからです。実は選ばないというのは、傲慢なのではなく選ばないほどに全てのことを意味があるとして素直に受け取ったのかと自問自答をすることで自らを玉にしていこうという覚悟のことです。

これには実は大変な積極的な力が必要になります。

なぜなら全てを直視し、その全てに手を抜かない、自分を出し切ったかということがモノサシになるからです。できそうなことをやるのではなく、常に一歩先、届かないところまで高めようと精進したか、日々挑戦したかと自分に問い続ける、そして自分が答え続けた結果をチェックしていく必要があるからです。

しかしそうやって人は自分を自分で育てていかなければ、独立自尊していくことはありません。それは環境に左右されるのではなく、自らが環境に流されずに言い訳を断ち続けて自らを磨き続けるということに他なりません。それはどんな日々も流さないようにしていくこと、言い換えればどんな出来事も先生であるということ、つまりは自然の先生が教えてくださったご縁を活かそうとする積極的な姿勢が自らの道を切り開き常に本筋から離れまいと自らに打ち克ち続ける真剣勝負をすることなのです。

出来事全てを自然の大先生からの有難いご指導だと受け取るならば、それにいちいち歯向かったり無関心でいることはあまりにも勿体ないように思います。自分に必要な学びは必ず自分に必要なものを全部今、この瞬間に足元に用意されているというのが私の持論です。

人生は自分のことを信じる事から、そして自分を信じるとは選択した今までを疑わないことから、そして自分の覚悟とはかつて決心したことの集積であることを自覚し最期まで諦めないことを言うように思います。信念とは最期まで守り切ったか、失くさなかったかというものだからです。

まとめると今を遣り切る、今に生き切ることこそが、選ばないということの大切な意味でしょう。日々、学ぶことだらけであること、日々、有難い教えを沢山いただくこと、その来ているご縁に心から感謝して、全身全霊で真心で取り組むことが御蔭様を有難うに換える大和魂です。

須らく、善き人生とは仕合った質のことを言うように思います。生まれてきて今日で13642日目です。残された人生も手を合わせて姿勢を正して、真剣に自分との仕合をしていきたいと思います。

そういう毎日こそが人生の仕事そのものであり、子どもたちに譲り見せられるような背中なると信じています。せめてもの感謝の現れとしての「選ばない」を今後も持続できる自分を育てていこうと思います。

芯の強さ~ミマモリングの芯~

人は逆境をたくさん体験することで強くなっていきます。この強くなるというのは、優しくなるということです。真の優しさというのは強くなければ発揮されないからです。

男の生きざまとして、強い男に憧れるものです。その憧れは強さへの憧れですが、単に喧嘩に強いとか権力があるとかが決して強いと定義しているのではありません。ここでの強さとは、どんな時でも優しくいれる強さ、相手のことを思いやれる強さのことを言うのです。

ラグビーの伏見工業の教育者で有名な山口良治さんの「信は力なり~可能性の限界に挑む」(旬報社)にこういう一文があります。

「『もう嫌だ。好きなことして、好きなこと言って、何もかもどうでもいい』そんな風に思う時というのは、自分のことしか思っていない。人間というのは、自分ひとりだけのことしか見えず、自分の外への回路を閉ざしてしまうと小さな弱い存在になってしまう。他人のことを自分のことと同じように考えられる、そういう優しさが人間を成長させ、困難な局面に立ったときにそれを乗り越えられる強さになるのだ。」

自他一体にいるというのは、その人のことを自分のことと同じように考えられるかどうかによります。つい人は自他を分けて、自分のことばかりに囚われてしまいます。私も忙しくなる時こそ、大変な時こそ、自分の身の上のことばかりを心配して初心や大義を見失いそうになってしまうものです。

そういう心のブレを芯の強さに換えるには思いやりや優しさで抜けるしかありません。

また信じるということは、言葉で書くほどに簡単ではなく意味を感じる力に比例しますから内省し自らを高めていき日々の道場で鍛えていくのみです。どんなに高望みしても、その日一日の真剣勝負の中で強く優しくありたいと実践していくしかないからです。しかしその有難い日々の機会に感謝しながら自学自習することや、前進できることが生きている歓びにもつながっているように思います。

山口良治さんの指導者としての姿勢は、本当に学ぶことばかりです。私達の掲げたミマモリングにも通じているもので、このようになりたいと思うばかりです。さらに本ではこう続きます。

「99%信じても、1%の不安があったらその通りになる。100%信じる事が大切」

丸ごと信じるということに生きざまを懸ける、そこに感動を共にする自他一体があるように思います。

通称「泣き虫先生」と呼ばれ、いつも感動しながら生徒と共に泣いて笑って感激していくことで強さも優しさもまた味わい深いものにしていくことが大切だと教えてくださっているようです。

「僕は涙というのは素晴らしいと思うんです。 みんな子供達に「負」をつける前に、涙が込み上げてくるぐらいの気持ちを出してやることによって、自分の思いが涙に変わっていくくらいの気持ちになってくれれば、もっと違ったものが生まれてくるんじゃないかな、伝わって来るんじゃないかと思うんです。  僕に涙がたくさんあって良かったなと思います。」

耐えて信じるものだけが持つ美しい涙を私も学び直したいと思います。自分の刷り込みに気づいたなら、迷わずに自分の方を変えるチャンスだと感謝を信に換えて心の芯を強くしていきたいと思います。

芯の強さこそが優しさであることを忘れないようにいたいと思います。
子どもたちを見守る信を育てていくのが私たちカグヤの強さの源にしていこうと思います。

心の通じ愛

人は心を通わせながら一緒にいることに歓びを感じるものです。心を通じるというのは、心を合わせるということです。

例えば、何を考えているのか分からないというのがあります。心が通じなくなってくると何を考えているのか分からなくなってくるものです。そういう時は、共に哀しみ、共に歓び、共に味わい、共に怒りと、何かを一緒にすることで御互いが通じていくものです。

この通じるというのは、何よりも大切なことで一緒にいるというのは共に一体になって実感するということだからです。

楽しいことがあって善かったと同時に思える事や、悲しいことがあって辛かったねと同時に感じること、自分が先に周りの気持ちと一体になってそう感じることが心が通じ合うためには大切です。

自分のことを分かってもらおうとし過ぎたり、自分のことを誰にも吐露せずに自閉的になってしまえば、この共に体験するとか、共に味わうとか、共に感激するということがなくなってきます。

すると心が離れていくものです。心というのは敏感で、そういう心ないものには針を触るかのように遠慮してしまうものです。そうなるとまた同時に実感することができなくなるものです。

相手の幸せを同時に喜べることや、誰かと一緒に何かを創りあげる幸せは、社会で生きているということにおいて最も大切なことであろうと思います。人が社会を創るのは、共に生きることを求めているからです。

一生に一度だけ、一期一会に出会った人たちだからこそそのご縁に感謝して信を優先してその掛け替えのない時間を大切に過ごそうとする生き方。

そういうご縁の集積こそが、人生をより寛美にしていくように思います。

共に歓び、共に怒り、共に哀しみ、共に感動し、失敗も成功も共に味わう。その心の通じ愛を感謝にしていくことが自他一体の幸せで生きる利他につながるように私は思います。

自分から心を通じていく努力を忘れてはいけません。

心は自分から通じていけば、自分の何倍も何十倍も幸せを創造していけるからです。心の通じ愛でより大きな愛を世界に膨らませていきたいと思います。

ものづくりの精神

何かを創るというものには行為があります。人は思っても知っていても、それを実際に自分でやってみなければ創っているとはいいません。何かに取り組む際に、やってみたかどうかというのは大変な勇気が要りますがそれをしてはじめて自己形成といった本来の成長になるように思います。

本田宗一郎にこんな言葉があります。

「人生は見たり、聞いたり、試したりの3つの知恵でまとまっているが、多くの人は見たり聞いたりばかりで一番重要な“試したり”をほとんどしない。」

人は自分を省み、反省するのは見たり聞いたりしたことをよくよくふり返り自分を観て心に聴きます。しかしそれで反省した気になっては、いつまでたっても次を創ったわけではありません。

次を創るというものは、反省して次にどうするかのほうが大事なことだということを教えているのです。失敗は成功の母とも言われる所以は、本来の失敗とは悪いものではなく、その失敗を糧にそれを転じてモチベーションにし次へのトライのキッカケにするというものです。

何でもそうですが、失敗したら倍返し、失敗を恐れずに思い切って前に進むというのも、目標と目的をはき違えないようにするためです。何のためにから離れない人は、どんな時でも目的が何かということを忘れていません。だから、どんな失敗があってもそれが必然であったこと、その失敗は自分に次への改善を指示してくださったとすぐに気持ちは切り替わります。

しかしそれが与えられた目標になってしまい、自分で目的を深めていないとすぐに失敗しただけで納得してそこで考動を終わらせてしまうことがあるのです。何のためにかというのをモノにするというのは、自分の言葉でその志をものにしないといけません。

そしてそれは本質からずブレずにやってみることではじめてものになるのです。試すというのは、志を試すことであり試練というのは、日々に試しては訪れず失敗と成功にどれだけ真剣に向き合って自他一体に取り組んだかということです。

悔しい思いも悲しい思いも、複雑な思いもそのままに、必ず次こそはものにするという覚悟でその事物と一体になるほどに没頭すれば自ずから創ったことになるのです。真の変化とはそこまでしないと変化と一体にはなれません。

本田宗一郎の「試す人になれ!」と言うのも、この試すことが創ることだからです。創ることは失敗することだからです。

創れないと嘆く前に、今が常に変化の試練だと思ってその試練に思い切って飛び込まないからかもしれません。何のためにこれを与えてくださったのかと思えば、諦めて肚を括って何事も試しに遣り切った方が清々しいものです。

試練を沢山経験することで、創造力もアイデアもはじめて磨かれるように思います。試練を試練にしていけるように、ものづくりの根本精神を大切にしたいと思います。