自然治癒の学び

病を得て、治癒を待ち、回復するのには長い時間がかかるものとそうではないものがあります。しかしほとんどがその病そのものの質によるものですか、相応の時間を要するものです。

どこかで何かが無理をすると、バランスが崩れて外部から病が入り込んできます。そうなると感染症に罹ったりすることで、様々な炎症が体内で発生して心身共に苦労することになります。

先月からの体調の不調も落ち着いてきましたが、するとすぐにまたいつものように求道して寝不足になりまたハードに働き向き合いはじめるところを鑑みると自分は元気な証拠だと懲りないことに驚くばかりです。ふり返れば少し体調が悪い時の方が、坦々と安全運転のようでいいのかもしれません。

今回の長い病の体験の中でまた得るものがあったのですが、治癒というのは常に内部から訪れてくるものです。それをじっと待つというのは大変なことです。例えば、外側では様々な出来事が次々に発生してきます。特に自分を捧げていこうとするならば、求められ応じるままに日々は忙しくなっていくものだからです。

しかしその出来事に心が着いてこなかったり、身体が着いてこなかったり、感情が伴わなかったりすると、そこから中心が乱れ治癒が働き難くなってきます。それを薬ですぐに治療だとしても、一時的にその身体や気持ちを整いますが副作用があるもので全体の治癒にはやはり掛かる時間は必ず掛かるのです。

長い時間をかけて治癒をしていると、ちょっとずつですが隅々まで回復していくのが自明で伝わってきます。動的と静的ではないですが、自然と同じく急な災害で何かが崩れても、それを時間をかけて回復していくかのように常に私達の姿も自然と同じように働き治癒も等しくできているものです。

しかし自然治癒をするのは待つだけのように思われますが大変な勇気と決断が必要です。病になればすぐに治さなければという常識を持つ私たち現代人は、すぐに治せる方法ばかりを試しているうちに自然治癒の邪魔をしてしまうことがあるように思います。治ったとか治らないとかあまり考えていると、感情の起伏にまいってしまいます。

そうして急いで修理をしてしまうと、後後で面倒なことにもなります。例えば私の地元の神社が、水害で水路が崩れましたがそれを工事でダムを設けコンクリートで固めてからは水質が汚れ、生き物がいなくなり、暑くなると嫌な匂いが漂っています。そもそもの神社とともに守ってきた自然の水の流れ、浄化という本質から離れて人間の都合が優先してしまうと修理の意味をなさないように思います。

自然を敬い、自然に見習うということは、自分の中にある自然と対話をすることに似ています。自然は常に内部から訪れるものだと私には感じるからです。内部から来る自然によく耳を傾け、勇気を出してじっくりと待つことが本来の自然であろうと思います。

せっかちなのはまだまだ常識に囚われている自分への警鐘であろうと実感しました。自然治癒に感謝し、その自然の自信を今日の実践に換えてまた使命を探求し、捧げ切る日々を楽しみたいと思います。

 

目的意識~夢を掴む~

自分が何のためにやるのかということを持つことを目的と言います。人は目的を持っていなければ、行う事柄の意味を日々に積み上げていくことはできません。単に同じことの繰り返しであっても、それが何のためかと培っていく人と、そうではない人では長い年月で大変な差がついてしまいます。

例えば、何かを行う際に、単に言われた通りに従って考えずに行う場合は目的を持っていないとも言えます。しかし何のためかを全てに考え抜き、確固たる信念にまで昇華した目的を持ちそれに取り組めば着実に目標に近づいていく実感もまた得られるのです。

この目標というのは将来、こうありたいという結果のことです。そして目的はそれを実現するために一体何をするのか、言い換えれば何のために今、これをやるのかを自分が持つということです。もっと平坦に私なりの言い方をすれば、目的は「何のため」、目標は「何であったか」ということです。

目標を持つというのは、将来の夢を持っているということです。こうなりたいとか、こうありたいとかもあるでしょう。しかし本来の目標というものは、今、最も身近な人の御役に立っているところの延長線上にあると思うのです。家族でも友人でもお客様でも、社会に何の役に立っているかを観ればいいのです。

なぜなら人は、無意識ですが自分の魂の声にしたがって自らの道を必ず歩んでいるからです。それがどんな職業であれ、誰かとの出会いであれ、そのすべては必然であるからです。

必然というと運命論者かと言われるかもしれませんが、そうではなく社会というのはひとりでにできたのではなく、周りの全ての中で自分が存在しているからです。

万物は循環し万命は流転するように全てはつながっている中で自分が生かされているものです。あのお花一輪も自分のみで生きているのではなく、そこからつながりを辿れば地面の土、周りの草花、昆虫、気候、山々、雲や風、太陽から月、銀河系や大宇宙、全体無法まですべてにつながって存在しているのです。

自分勝手に自分だけで夢を探しても本来はつながりのなかで今の自分の布置があるのだから今の自分をあるがままに受け容れる方が将来の目標が観えると思うのです。日々の生き方が死に方であり、夢とは死を想えば観えてくるはずだからです。自分の生きているうちと、死んだ時のことを考えれば目標は誰でも設定できるはずです。

そして目的とは、自分が生きるのは何のためにあるのかを常に心の芯から離さないで過ごすことのように思います。そうすることで意志が明確になっていくように思います。この意志とは自分の自我欲も感情も迷いも惑いも、善転させて芯の強さにしたことを意志と私は呼びます。

そういう意志の強さ、つまりは何のためにこれをやろうと自らをしっかりと持つことこそが本来の自分らしさであり自分を持つということになるのです。どんな時も自分を持つというのは、言い換えれば目的を常に忘れないでいる自分を維持するということです。

ちょっと周りの環境や相手の意志の強さに負けてその場に流されないように、「何のために」ということを常に今を深く探り、そして着実に今の学びを掴み取っていくことが目的意識というものです。

人生はどのような目的で生きるかでその目標も周囲に顕現していくものです。それはまるで何か偉大なものに導かれるようにシンクロニシティに包まれ自然に自らの道を照らしてくださるように実感するものです。

今、思い返しても「今」この瞬間瞬間の選択の連続で夢のような日々を過ごしています。

夢とは、今にどれだけ一期一会に遣り切るかというのが夢を実現することだと私は信じています。自分の都合ばかりを思い計算せず打算せず、どれだけ利他に自分を尽くし切ったか、目的を達成するためにいのちを懸けたか、今に出し切ったか、その場所にだけ存在しているものが夢の本質のように思います。

過ぎ去っている今を何回眺めても、道逝く人を想えば人の夢はとても儚いものに感じます。
だからこそ、目的意識というものを常に自分の中に確認した実践を行いたいと思います。

天才児

障害児という言葉があります。今では障害の害の字が合わないからと障碍児としています。

私は前から何を持って障害かということについては色々と自分で調べてきました。誰が言いだしたのか、そして本当にそういう意味かということをです。

かつては「障礙」とか「障碍」と書いていたものが戦後の漢字制限で「礙」「碍」の漢字が表外漢字になってしまったため、「害」という漢字を宛てて「障害」と書くことが広まったということや、また保育施設などに補助金を出すためには特別な子どものための費用とはできず、障害児だと出せるからという理由で省庁の担当者が名目をそうしたこと、ほとんど本質的ではない安易な理由でその言葉の定義が書き換えられたことに憤りを覚えたものです。

その後はヨーロッパへ視察し、保育現場で問答したときも日本で使われる障害という意味と世界で使われる障害という意味が異なることも知りました。大前提で使われる人間の尊厳や人権という言葉の意味も日本とヨーロッパでは使われ方が異なります。子どものためにという言葉も、大人主体で使うか子ども主体で使うかで異なります。

先日のドイツ視察でも、向こうでは障碍児のことを天才児であると定義していました。例えばIQが高い子どもも障碍児ですし、アスペルガーやLD児と呼ばれる子どもたちも障碍児、もしくは非常に何かに突出した能力を持つ子どもも障碍児ということで天才をつぶさないようにと丁寧に配慮します。

しかし海を渡って日本の現場を見ての認識は、普通のことができない子ども、何か病的なものを生まれながらに持つ子、気になる子というような何かネガティブな意識を持っている人が多いように思います。天才から問題に換わるのです。

だから配慮の仕方も、天才を扱うのだから天才に接するためにどうするかという配慮の考え方と、問題を扱うのだから問題に接するためにどうするかという配慮の考え方という配慮する側の考え方に相違があるのです。

そもそも動物と話ができるとか、直観的にイメージで理解するとか、透明なセンスを持っているとか、心の世界を映せるとかいったことは、その人の役割や天命から生まれながらに必要だと自分に持たせている能力です。それはその人の徳が、世の中の役に立てるようにと自らが選んで発達しようとしているものです。

それを阻害するのは何かといえば、周りの人たちの刷り込みではないかと私は思うのです。矢印を相手へではなく自分へと向けてみれば、平均的ではないものを普通ではないとし、それをネガティブに捉えるか、それをポジティブに捉えるかは、社会を形成していこうとする私達大人たちの生き方、あり方、工夫が常に問われているだけです。

思いやりのある社会を創ろうとしたら、そういう多様な能力を持った人たちがそのままでもいい環境を創りだそうとすることが本当の豊かさにつながっているはずです。

障害になっているのは、子どもの方ではなく、自分自身の先入観や固定概念が障害になっていないかと内省することこそが配慮の本質ではないかと私は思います。異なっている能力そのものを引き出し、認め、活かそうとすることに社会の真の価値があるように思います。

障碍児については全ての子どもが天才だと配慮していくことが、私たち大人の固定概念を取り払うことになるのでしょう。気になる子がたくさんいるということは、それだけ天才児がたくさんいるということです。そして天才が良い悪いではなく、普通が良い悪いではなく、ただその天が与えた才がある、そして人にはそれぞれお役目という差異があるのだと認め、大切にしていくのが自然の見守りと同じような視点の姿勢に立ち返ることです。

多様な自然がイキイキするように、それぞれの役目という持ち味を活かすためにこの障害という先入観と言葉の定義そのものを発達を通じてひっくり返していこうと思います。ミマモリングプラスの、差異分析も、天才児の意味もそこに籠められています。

本来の実践~初心を忘れない~

人間は大切なことを忘れてしまう生きものと言えます。

例えば、初心などもそうですが最初如何にそれが大切だと理解していても日々に流されていく中で次第に考えなくなりそもそもなぜこれをやるのかという理由すらも思い出さずにマンネリ化していくものです。

他人が言った言葉でもそれが自分のものになるまで一つのことをじっくりと時間をかけて自分で考え抜いたり、考え抜いたことを行動したりすることで自分の考えになったとなるまでやることではじめて本来の自発性が働き取り組んだといえます。

しかし誰かに言われたことをただ鵜呑みにして、それをやればいいのだろうと自分の頭でその意味や本質を考え抜かなければ次第にそれはその人の考えに単に従ってやっていることになり、自分自身が決めたことではなく誰かに依存して続けてしまっていることになるからです。それでは面白くなくなり、自分がやりたいことが分からなくなるのです。

何かを誠実に続けるには、自分が物事と常に正対し続けるという本質を伴います。

だからこそ自分が決めたことを自分がいつまでも決め続けるというのが初心を忘れないということです。一旦決めたからとそれでいいわけではなく、決めたらそれが最期まで決め続けたままにしなければならないのが本来の実践です。

しかし毎日の繰り返しの中で、慣れてきてしまうと何となくやることが先になり、そもそも何のために行うのか、なぜそれはやろうとしたのかということは後回しになっていくから忘れるのです。

日々に新しくならないのは、やり方を覚えてしまってそれに落ち着こうとするからです。脳が考えるのをやめたがるからです。だからこそ単にやることが続くことが良いわけではなく、正しく実践し続けることが善いのです。

その人の考えであっても自分の頭で考えてそれを自分のものにするというのが学問です。

例えば、何かの気づきがありやってみようと思ってはじめた日々に行うお祈り一つであってもただ単に手をあわせているだけでそこに心が入らなければ何のために祈るのかを忘れてしまうものです。だからこそ、大変でもそもそも何のために祈るのかと常に初心を毎回思いだし、自分で考えを深めて今此処に心頭身一体に定めて行動しなければ最初の定義した意味から次第に外れてしまうのです。

本質というものは、毎回何かを取り組む前に自分の頭で考え抜き、心で定めたところを思い出し常に初心を忘れないようにしなければ辿りつきません。

言われてからやるとか、頭で分かったところでやるとか、それは考えないことでラクにはなりますが、そのラクこそが遣り甲斐や生き甲斐などを見失い、受け身になり楽しくなくなる原因になっているのです。

考えずに流されてしまう毎日ではなく、自分から考え抜いてでも流れに乗って味わっていこうとするのでは同じ旅路であってもそこに一日の充実があるかどうかが決まってしまいます。同じ積み上げるのならば、無機質に積み上げるのではなく、大切に積み上げていきたいと願うのが自分の人生です。

それに周りにあわせて他と比較して生きるのはラクですが、本来の本懐のままで自分を遣り切ることこそが人生の醍醐味であろうと思います。今に生き切るというのは、なぜこれをやるのかを常に自問自答し自分の頭で考え抜き続けるという実践を行うことでしょう。

「あなたは最初なぜ昔に自分がこの今の姿を決めたかの理由を忘れていませんか?」
「あなたはそもそも初心がどのようであったのかを忘れていませんか?」

常に自問自答は、自分に問いかけ自分が応えることでふり返りが正しくなります。

本当の問題は、何のためであったのかを流されて忘れてしまっていいることかもしれません。 いちいち忙しいとか疲れたとか、時間がないとか場所がないとか、ないないないないという根本がない言い訳にかまけて、自分で常に考えるのを怠らないように日々新たな実践に心を籠めていきたいと思います。

日々を澄ませていくためにも、内省を怠らずに本質に帰りたいと思います。

新たな挑戦~原種の旅~

昨年は、稲が穂イモチ病にかかり収穫がうまくいきませんでした。今年は古代米(紫米)に挑戦しています。この古代米とは、稲の原種である野生稲の特徴を受け継いでいる米のことです。

もともと野生型の稲の種子は褐色や黒紫などの色がついているものが多いのですが、人が栽培することによって無色(白色)の種子へと変化していったと言われています。

このことを「栽培化」といって現在の稲は、この栽培化によって白く粒そろいで栽培しやすい性質になってきたとのことです。野生化と栽培化の差とは、どのようなものでしょうか。その差を看取る予定ですが違いを視るより同じものを探したいと思います。

以前から野生種をそのままに育ててみたいという気持ちもあり、今回は野生種を野生種のままに育てていくための挑戦を自然農の畑で行う予定にしています。

畑の一部に、水が溜まっている場所があり、その場所をうまく活用してそのまま野生で育ててみるときと、庭のビオトープで栽培しているものと比べてどうなるかも見ものです。

昨年の失敗を、今年のテーマに換えて学んでいくということは楽しいことです。ちょっとやそっとではへこたれないというものは、稲や米、その他の野菜と同じで、曲がりくねっていても最終的には天に伸び、実をつけ、種になるのが自然です。

自然農では、曲がっていた方がより生命力が強いと言います。曲がりくねるのは、思った通りではなく順応してでもへこたれないで諦めないで遣り切ったいのちがそこにあるからでしょう。

今年の古代米は、原種と栽培種というものを考える上で興味深い時間を過ごせそうです。

古代米は、一般に、生命カが極めて強く、荒れ地で無肥料・無農薬でも丈夫に育ち、干ばつ・冷水などにも強い性質を持つと言います。

そもそもの姿から、現代の姿を学ぶことは、種のグレートジャーニーを味わうことです。久高島に訪問してルーツを辿った旅も、今年の挑戦で実になっていきます。人生にはまったくの無駄がない。それを感じつつ、新たな挑戦を楽しみたいと思います。

 

知ると分かるとは

物事を知るということは大変難しいことです。そしてそれを分かるようになるのはさらに難しいことです。

例えば、物事を知るというのは簡単に分かったから知ったというわけではないことがわかります。表面上のところだけを頭で理解していることと、それをどれだけの深さで受け止め受け容れ自分の体験や経験で知るというのは一緒の意味ではありません。

情報化社会の中で、頭の中で別の世界を持っている人たちが増えています。バーチャルとリアルがごっちゃになり、この知るということができない人たちも増えているのです。

知るということは、「経験を積む」ということです。その経験を積むというのは、こういうことだろうと単に知ればいいわけではありません。本来の知るというのは、そこから全世界の問題を見抜いたり、物事の本質を掴み取ったり、その知ったことから自分の世界での真の役割を見出していくことや、世界の苦しみを共感し自分を磨いていくこと等々、知るというのは自分の中で真実を知るということなのです。

そして分かるというものが何かといえば、これらを「受け止め・受け容れる」ということなのです。ちょっと知っただけで分かったとなるのは、真に経験を積んで実践をしているのではありません。それは単に知ったことを分かった気になっただけなのです。

分かるという行為は、大変難しいもので分かるというのはそのものの問題をありのままに受け止め、自分の我をも捨てて受け容れたときに分かったと言えるからです。分かった気になっているのではいつまでもバーチャルの世界から抜け出せません。現実を受け容れるというものは、全ての問題に逃げずに直視する必要がありそれをしてはじめて分かることができるからです。

ひとたび、真なる知ると分かるができればその人はそこから自他一体の共感、そして理念の実践、伝道していくことの3つのことが開始するのです。

世の中を変えたいと願う心は、以上の3つの実践に必ず辿りつくように今では思います。物事を知り分かるためにも、本当のことを知るための真摯な精進、本当のことが分かるための本気の内省を継続していきたいと思います。

心の訓練

心の訓練というものを考えてみます。

心というのは形がありませんから、どこにあるのだろうかと思われるものです。自分の心、自分の感情、真底から丸ごとの自分とは何かということを知らない人の方が多いと思うのです。

日常で心が摩耗していくとき、その本心がどこにあるのかがふと自分でも分からなくなるということは往々にして起きる事のように思います。私自身もいちど心が迷い、ざわつき、執らわれてしまうと、自分のことが分からなくなってしまいます。

そしてそのように自分が分からなくなれば、真心も分からなくなるのです。そんな時、私は他人の御役に立てるように真摯に自分の誠を尽くして本来の自分を取り戻します。

かんながらの道を歩む中で気づいたことがあります。

この真心というものは、あるがままの心でいるときに顕現しているということ。
そしてそれは、本心のままに生きている自分のままでいるということでもあろうと思います。
生まれたての赤ちゃんの素直な姿でいつまでもいるようなものです。

時折、素直な姿に心が洗われるようなときも心は澄み渡っていきます。
人の本心や本音こそが禊になり穢れを払っていくのです。

また同様に真心は、感謝のときにこそ顕われます。

つまりは、至誠神の如しと言われるように「まこと」の姿そのものが自然なのです。

心とは何か、「心の本体は感謝」なのです。

自然でいるということは、常に心を澄ましていることが必要です。
自然体とは、感謝体になっているということです。

そしてそれは日々の感謝の実践によって得られるように今では確信しています。

人格を練磨することに時間をかけて日々に修養して良知を学び直してシンプルにしていくことが人生の大目標なのかもしれません。ここでの良知とは、本来の全ての関わりと出来事に感謝し、澄み渡った感謝の情愛を自分の真底から引き出していくようなものです。

それに気づく機会は、いつも人間関係の中で得られています。

これからも諦めず、直向に心の訓練を実践し、生まれてきた世の中を生まれる前より清々しくしていけるように様々な出来事に正対し受け容れ、感謝に転じていきたいと思います。昨日も大きな学びがありました。まずは実践ありきで、何事にも子どものように素直に取り組んでいきたいと思います。

今日は七夕です。

「笹舟の 流れる河に 満ちてくる 心の音色 澄みやかにきす」 藍杜静海

真心を有難うございます。

人間の道

昨日、致知出版社の方が来社してくださって一緒に社内木鶏会を行いました。この社内木鶏会とは、人間学の本、「致知」を使ってそこから気づいたことを一緒に学び合う勉強会です。

もうこの社内木鶏会もはじめて6年半ほどになりますが、もうそんなに経ったのかと懐かしくなりました。私たちが始めたころは20社くらいだったそうですが今では800社にもなったとのことで感慨も一入でした。

最初の出会いは6年半ほど前、致知出版社がまだ青山にあるときに社員皆で訪問し藤尾秀昭社長にお会いしたときからです。お時間がないと仰っていた中、若い私たちにホワイトボードを使って2時間以上も親切に人間学のことを情熱を傾けてお話をしてくださいました。

その時の情熱の燈火をそのままに継続してきた今までであったように思います。私達の身のまわりにも随分、致知を購読する人たちも増え、その出会いの素晴らしさ、その感動した学びの邂逅はいつになっても心に鮮明に思い出すことができます。

生き方を通して人は、人生を学び、そして互いに活かしあって伸ばしあっていく人間の道を人間学という言葉を通じて教えてくださったこと心から感謝しています。

またちょうどここ1か月ほど、深い悩みがあったのですが昨日の突然の致知の社員の方の来社で解消することができました。継続すること、実践することがテーマの記事で昨日は社内木鶏会を行ったことも意義があったように思われます。

思い返せばあの当時、致知がちょうど月刊発行部数が6万冊くらいだとお聞きしていました。そして、この致知の部数が10万冊にいったら日本が変わるというお話をしてくださったのです。

この10万冊で日本が変わるという話は、教育者、森信三先生が亡くなる少し前に藤尾社長にお伝えになったというお話です。それから6年半、今の部数を確認したら99600冊まで来たとのことをお聴きしました。

あと、400冊というお話をお聴きした時、本当に嬉しくそして励まされ勇気をいただきました。続けていく中で、いつも10万冊にいついくのだろうかと気になりながら拝読してきました。その中で、新春セミナーの様子や、周りの取り組み、致知から出版される本もいくつも購入する中で、いつの日に10万冊なのだろうかと思っていたからです。

それがあと少しだとお聴きし、心躍る気持ちと、勇気を奮い立たせてくださいました。諦めずに続けて実践していけば、必ずその時が来るという実感です。それまでのプロセスそのものが、成功なのだと改めて実感しました。

10万冊いくことが問題ではなく、10万冊に辿りつくまでの全てが世の中を変えることになるのだと思えるからです。実際は、目に見える成果は儚いものですが1000年単位で物事を捉えれば、大きな変化、普遍なカタチが顕現したことが観えてきます。

偉大な循環の中で、自らの真心の一燈を確かなものにしたというのはそれだけで大変尊いことだを思います。このタイミングでお聴きできたこと、来社いただいたことに有難いご縁を感じます。

ちょうど色々なことで自信を失いかけそうなとき、やはりいつも身近に励まして下さる方々いらっしゃるということ。何よりも感謝します。そして天がその機会をいつも私達に与えてくださっているように思います。応援し励まされそして前に進む、人は互いに元気を出せと肩を叩きながら背中を押しながら歩むのが人間の道なのかもしれません。

出会いが人を創る、そして道が出逢いを開くということです。

一期一会を実践できる今に心から感謝します。

 

勇気

人は何かをしたことを満足したくなるものです。

例えば、これをやったのだから凄いとか、これをしていないからダメだとか、結果だけをみて判断してしまうものです。しかし本来、物事というものはそこに世間からの評価や評判などの基準で良いか悪いかを判断しているのは、自分がそう思われたいから求めることが多いのです。

世間の評判を気にして何かをすることは自我が求めているだけで、本来の自分の魂が望むものではありません。

自分の魂が望むものとは、全てにおいて日々にどうありたいかということでありそれは自分の生き方を換えることによって得られるように思うからです。しかしこれも大変難しいことで、生き方を換えるには勇気が必要になります。その勇気は、今までの自分の思考のパターンを変換して同じ状況を転じて福にして善いことへとしていく実行力が必要だからです。

同じことが起きるのが人生で、マンネリ化してしまうのも人生ですが、同じパターンをやめたいと強く念じるならば今までとは異なる乗り越え方をしていく必要があるのです。それはまるで、自分の内面の扉を開けて道をひらいていくような感覚なのです。

これを言い換えれば「受け容れる勇気」というものかもしれません。そもそも勇気の本質とは、どれだけのことを逃げずに真っ直ぐに受け容れるか、つまりは自分が与えられたものを受け止め心から信じるかということですが、そこに疑いがあることは受け容れたことではありません。

どんな環境や境遇であっても、今与えられたものには何か大切なことが潜んでいるということ、それを真摯に学ぼうとすることができてはじめてそこに感謝も真の歓びも幸せも楽しみもあるように思います。

自分の思い通りにいかないことは楽しくないものです。それは脳が楽しくないと思っているからです。それを邪魔するのは自分の身がかわいいからです。しかし心は生き方ですから、それとは反して覚悟を決めて今を遣り切っていくと一瞬一瞬が幸せであるように感じられるものです。そしてここに転じるのも勇気の一歩が必要なのです。

楽よりも楽しい方を選ぼうとするとき、そこに勇気がいるのです。何が起きるから分からないけれどそれも全て天に委ねようとする勇気、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という捨て身の覚悟というものが求められるのです。

この捨て身の覚悟が私の思う覚悟力の本質で、その時こそ人は勇気をもって変われるのかもしれません。どれだけかわいい自分自身を捨てられるか、そうすることで身がから離れ本来の魂といった生き方や死に方が心に顕われるように思います。これは身近な人の闘病を見守りながら、何を捨てて何が捨てられなかったのかを見つめることができたことで気づくことができました。

本来の死生観とは、そういう身をどこか他のところに置いてでもという境地が必要なのかもしれません。ただ、それも極端な観念論ですから、日々の取り組みは真心をどれだけ籠めて遣い切ったかでもいいように思います。

自分のことを思い煩うよりも、人のために自分の真心を今日も遣い切るという方が私にはどうも合っているように思います。他人のためになる仕事、つまり自分を役立てるというのは、もっとも身近な家族を大切にしていくことからもすぐにできることだからです。理念を真心で遣り切ることも偉大な勇気の一端であろうと私には思えます。

最後にマザーテレサの言葉に励まされます。

「どんなに小さいことであっても、大いなる愛を込めて行うことは、人に喜びを与えます。そして、人の心に平和をもたらします。何をするかが問題ではなく、どれほどの愛をそこへ注ぎ込むことができるのか、それが重要なのです。」

どれほどの愛を注ぎ込むか、そこに生き方を教えてくださっているように思います。
今日も楽しく豊かになる一日を与えてくださって本当に有難うございます。

自然法則の発見

自然農に取り組む中で、ある不思議な法則を発見しました。

もともと自然はそのままにするのですが、人が蒔いたものや人に触れたもの、人が必要としたものにはその人の絶えない関心と応援が必要となるということです。

自然界に育つ作物は、人との関わりがあろうがなかろうが自由に野生化した中で生きています。野生化した中でそのまま育っているものは人間が関わらなくても自然の愛を享受し生きているのです。

しかし人間がひとたび関わってしまうと、そこに本来のそのもののいのちの循環の中に人間が入り込んでしまうのです。もともと人間との関わりがなかったものが、人間と関われば、人間との関わりを通して強くも、また弱くもなってしまうのです。

例えば、野生の花を切り、生けたとしてもそこには小まめな水替えや関心がなければあっという間に腐ってしまいます。また、作物も蒔いたり植えたりしたとしてもそこに見に行き負けないように支えなければ同じく天候や虫、雑草に負けて枯れてしまいます。また、野生の子猫を拾ってきても、人とのつながりができたらいつも気にかけ育てていかないと弱って病気になってしまいます。

このように人間と関わるということは、人間との関係が必要になるということです。

つまり関係を結びということは愛を結びことであり、ひとたび愛を結んでしまえばそのものはその愛の影響をとても大きく受けてしまうということです。

この時の愛の定義とは、関係のことであり、ひとたび関係を持てばその関係の中で愛が強くもなり弱くもなるということです。愛が弱くなればそのものの生きる力も弱くなり、愛が強くなればそのものの生きる力も強くなるのです。揺るがないほどになれば、そこに愛を疑わない境地に入るのかもしれません。

そのために絶えず見守るということは、常にそのものの持つ完全体を信じることと同時にそのものを丸ごと自分を捧げて応援するという関係を結ぶのです。

言い換えれば、愛を循環させていかなければ育ち合えないのです。

気づきませんでしたが、全ての関わりあうものたちはお互いを常に見続けると同時に応援し合っていたのです。それが関係を結ぶということであることに、人生ではじめてはっきりと気づくことができました。

ただ分かったからといってここから技術に昇華したわけではありません。
揺るがない愛とはどういうものは、身近な自然から学び直したいと思います。