性格学

せっかちという意味を調べてみる。

すると語源由来に、「急ぎ勝ち」というところから来ている。急くという字と、勝ちという言葉の組み合わせで、どちらかというと急ぐ方が多いという意味になる。似た言葉に、気早、おっちょこちょい、生き急ぐ、先走る、性急などがある。

対義語は、のんきといい、当て字に暢気や呑気を使いますが本来は中国の暖気から来ているようで性格がのんびりしていて、無頓着、気楽で気が長いなどという意味になります。

もともとせっかちな性格というのは、言い換えれば行動力があり思い立ったらすぐに実行せずにおられない性分だということです。またのんびりというのは、事がなるまでじっくりと待ち冷静に楽観的に信じるという性分だともいうことです。

それぞれが善く出ているときは長所であり、それが状況に反して悪く出ているときを欠点だと呼ばれるものです。どうしても自分の時に合わせようと相手に求めてしまいますが、御互いが御互いを認め合うとき、その両方がはじめて活かされて調和していくように思います。

また一人の人間としてもその両方を状況にあわせて生涯にかけて活かしていく必要があります。そういうものも周りから学び、自分の性格を活かしていくことができるからです。しかしそんなに簡単器用にはいかないもので、だからこそ多様な人たちの中で一生をかけてその両方を得ていくようにも思うのです。

例えば、せっかちの人は歳とともに、次第に落ち着いていくものです。これはせっかちの善し悪しを学び、どの状況の時にどうあればいいかを気づき身についてくるからです。そしてのんびりの人は同じく歳とともに、どのときは直観に従い行動すべきか、危機感をどう持てばいいかというのを学び身についてくるのです。

そう考えてみると、人は一人ではなく大勢の中で様々な性格の人が集まっていることがもっとも現在に対応し対処できるように思います。自分だけの判断では、そのような自分の性格がぴったりと当てはまる事柄と、そうではない事柄の時があるからです。

もちろん、人間として完全になっていくのに色々な性格が次第に陶冶されて円みを帯びていくことに人間の学びの意味があるように思います。

同時に、自分以外の性格の人達いてその人たちの御蔭で物事が正しく乗り越えていけるという実感と歓び、そして多様であることへの共生や貢献、感謝などを学ぶこともまた大きな意義があるのです。

自分がどのような性格かを知ること、同時に周りの性格がどうかを知ることは、御互いの持ち味を活かすためにとても大切なように思います。そのままでいいけれど、こうありたいよねと本音で言い合えることもまた仲間も定義であろうと思います。

色々と自分もせっかちな性格を直そうと苦心してきましたが、どうせどうにもならないことに当たれば道草を楽しもうという境地にいくしかなく、やはり天はうまく調整してくださっていると思います。

諦めるところから、認めることから、自他の性を、人間を深く学んでいきたいと思います。

自然の叡智

今年は自然農の畑を改善して、新しい工夫を凝らしています。

最初から大した知識もなく、直観をベースに取り組んでいると御蔭で色々なことが観えてきます。自然というものの偉大さというものは、誰かから教え込まれた知識ではなく、もともと最初から備わっていた知識で理解するときにこそ認識できるものだからです。

教えてもらわなければできないのではなく、自分からやってみようと信じてみなければできることもできないのです。

自然とは、誰が教えなくてもそこに生きる智慧を享受されています。

植物たちが自ら伸びる時機を知っているように、親鳥が雛を孵し育て始めるように、誰が教えていなくてもそのものはそのものの命に従って一番大切なことを忘れることはできません。

後の知識でいくら刷り込んだにせよ、そのものの本性や本命というものは無自覚無意識に誰にも拒むことはできないのです。

自然というものを観察するに、人の中の自然というものがどういうものであるかの認識が必要です。

春の種蒔きの重要性を実感し、そこで種蒔きが成功しなければ秋には物乞いをするようなことになりかねません。人生というものも、如何に種を蒔くサイクルにあわせて行動するかということが問われるのです。

自然には全てに時機というものがあります。

その時機時期を逃さずに怠惰や安逸を戒め、如何に自律するかというのはそのものがそのものの時機通りに働いたという生きた証に他なりません。

自然というものは、そこに怠け心はなく全ての愛情を注ぎこむ自然界に倣い、その愛情に真摯に応えていこうとする愛の循環があるのです。

見守るの見るというのを学ぶに、この自然農はとても大きな役割を果たせるように思います。何もしないのではなく見るという偉大な行為。そしてそのもののもともと備わっているものを信じるという守るという偉大な行為。

自然から学ぶことは教科書から学ぶことよりも偉大な生命の叡智を思い出させてくれるものです。

飽きたらず、観察し、そして怠らず、実践し、教えないものを覚りたいと思います。

生死の行方

人は生き方が選べるように死に方も選べるように思います。

例え人生が今までどのような習慣を持ち生きてきたといっても、最期の瞬間に自分の求めた真の生き方に気づけたなら死に方もまたその瞬間に変わるように思います。自分がどのように死ぬのか、それを正面から向き合えば今、自分がどのように生きるのかが問われます。

これは今の自分の生き方そのものが死に方そのものになるからです。

生き方とは、簡単に言えば今この瞬間にもどのような選択をしたかの集積です。人は日々に大小さまざまな選択をして生きています。

人によっては、思いやりや優しさ、善や真心で幸せの種を蒔いていくような生き方を選ぶ人もいますし、また逆に利己的で自分のことばかりを優先し、奪うことや独占することばかりで不幸の種を蒔いていく生き方を選ぶ人もいます。

人はそれも自分で自由に選択することができ、どんな境遇であっても誰かの御役に立ちたいと願ったり、幸せを噛み締めてその幸せを周りへと広げたいという人になりたいと思うのです。

しかし世の中を直視してみれば如何に思い込むことで生きてしまっている人があまりにも多いのではないかと思うのです。人生が寂しいものになり、孤独になるのもその思い込みから抜け出せずに自分の自我に引き籠ってしまうからのように思うのです。これは自分で思う以前の問題で、そうならざるを得ないような生き方を選択した過去が存在しているのです。

人の思い込みというものは、過去に何かの出来事がありそのことの不幸を転じることができずに引き籠ったことで発生したままその記憶から抜け出せなくなることに似ています。そうして抜け出せないだけではなく、いつまでも同じことの繰り返しをしそれが次第に生き方に反映されてしまうのです。

過去の出来事がいつまでも尾を引くことで、その思い込みから抜け出すことができないのです。

思い込みはいつまでも自分の外側の世界に心を開かず本来の人間の美しい姿や愛情、自然の真心などが歪んで観えません。

本来、この世界はとても豊かで美しく、感謝と愛と真心、偉大な思いやりの中で私たちを活かしてくれていてそこに気づくことで心を幸せにし、その心の余裕こそが人々の中の平和を生み出していくように思うのです。

それを奪うのは全てにおいて過去の思い込みといった刷り込みによるものです。

これを取り除くには、覚悟が必要でその覚悟とは今の心が決めたということがいります。つまりは過去の自分と決別し、新たに今に約束した新たな自分の生き方を徹底して習慣にまで昇華させて未来を変えるのです。

人は小さなことでも、心で決めたことを遣り抜けばそのうち世界が自分が引き籠ったものから解放されていくのです。それもまたご縁と道との出会いが必用でまるで「啐啄同時」のように生死の境目にある絶妙なタイミングがあるのです。

この「啐啄同時」は禅語ですが、卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛がコツコツとつつくことを「啐」といい、ちょうどその時、親鳥が外から殻をコツコツとつつくのを「啄」といいます。雛鳥が内側からつつく「啐」と親鳥が外側からつつく「啄」とによって殻が破れて中から雛鳥が出てくるのです。

両方が一致して雛が生まれる「機を得て両者相応じる得難い好機」のことを「啐啄同時」というのです。親鳥の啄が一瞬でもあやまると、中のヒナ鳥の命があぶない、早くてもいけない、遅くてもいけない、いのちを分ける大事で危険な一瞬だからこそ啐啄は同時でなくてはならないのです。

この人が変わるという瞬間、その生死の行方の境目というものは、運命の大きな掌の中にあるように思います。

コンサルティングをしていると、いつもこの機縁は透徹された絆を結び、仁義の通じ合った絶妙たる絶体絶命の時にこそ訪れることが多いからです。人の生き方や死に方というものを左右する、刷り込みの消去はひょっとすると生死の間にこそあるのかもしれません。

変わりたいという心の叫びが助けを求めているのかもしれません。

刷り込みを取ろうなどと、また世界を変えたいと真摯に願うのはひょっとすると狂人のような世界かもしれません。先日の死から再び学んだものは、生き方を変えたいと願う人たちの救いを求める心の叫びと許しの中にある愛の囁きでした。

生きていれば色々と向き合いたくない過去の自分も、今も変われない自分とも出会うものです。しかし未来を変えたいと願うなら、勇気を出して挑戦し、最期まで希望を失わないで遣り切ることができれば後は全てを天に委ねる。

それが生死の行方を決めるのです。

これからどうするか、、もう一段、自分は変化成長しなければなりません。
今は何を学ぶべきか、その道筋が少しだけ観えてきた気がするのです。

生死の行方は、私にも訪れています。

真理と刷り込み

人間というものは、真理を知っているからと人生が変われるわけではありません。人生を変えようとするならば、自分の中にある刷り込みを取り除くことが何よりも先であるのです。

その刷り込みとは、知らずしらずにうちに自分の中では正しいと思い込んでいるもののことです。

例えば、過去に誰かから教えられたことを鵜呑みにして何かを怖いと思っていたらいくらそれが安全な事であってもその人にとっては危険なものであり、何かを判断する際、自動でその選択肢から危険を避けようとして判断が歪んでしまうのです。

判断の歪みというものは自分では気づくことができず、歪みはいつまでも変わることはありません。その歪みは自分では間違っていないと思い込んでいるのですから、いくらそれを指摘しても気づかないという仕組みになっているからです。

ただどうしても前に進もうとするときや、それを避けては通れないときがあるのです。

それはどのような時かといえば、人生を変えたいと強く願う時のように思うのです。

自分ではこれだけやっているのになぜか前に進まないときや、壁を乗り越えられないとき、もしくはどうしてもうまくいかないと思う時、それは実は人生を変える時だということです。

人生を変えるには、自分と向き合わなければならず、その時は、自分の持っている大前提の刷り込みと正面から正対しなければなりません。それは鏡で自分のありのままを直視するように、もしくは誰かから指摘されたことを素直に聴き入れるように、あるがままの姿が何かを受け容れる必要があるのです。

つまりまず刷り込みに気づくということが最初の難関なのです。

この最初の難関は、素直でなければ超えられません。今までの常識や先入観を疑うのですから、真実に気づくためには自分の都合が入ってはならないのです。真実がいくら身近にあっても人が変わらないのは刷り込みが取り除けないからです。

これだけ先覚者たちが言霊や遺志を遺してくださっていても人間が変われないのは私は刷り込みによるものだと確信しているのです。そして人生が変わるのは、刷り込みに気づいてそれに打ち克つことが全てであると信じているのです。

悔しい思いも、悲しい思いも、辛い思いも、すべては素直へと通じる一本道です。
身近な人の死が改めて教えてくれたのは、刷り込みに向き合う尊さでした。

最後に、御礼参りに伺った祐徳神社のご縁にて素敵な文章をいただきました。

「素直になれば、態度が変わる 
 態度が変われば、行動が変わる 
  行動が変われば、習慣が変わる
   習慣が変われば、運命が変わる
運命が変われば 人生が変わる 」

もうずっと前から本当のことは分かっているのです。
みんな本当はずっと前から変わりたいということは分かっているのです。

それを変えてあげるお手伝いをしたいと願っていても、変われないことばかりです。

そんな時は、いつも魂が疼き、この刷り込みに打ち克つ真の強さが欲しいと願ってなりません。人間の未来のためにも、真の伝道のためにも、正面から刷り込みを取り除く仕事にいのちを懸けていきたいと思います。子どもたちには子どもの姿を保障する私たちの刷り込みのない存在が、先祖伝来の宝をそのままに引き継ぐことになるのです。

そして学ぶべき至善の真理は、生身の実生活にしてこそ本来の真理です。

現実の真っ只中にあるこの今こそが真理です。
ご縁と教えに感謝いたします。

 

縁愛3

ドイツに来て2日目になりますが、子どもの姿はどこでも普遍的で様々な運命に生まれてくる子どもがいますが自然の愛を一杯に感じて生きようとしているように思います。

今回はテーマを人間愛にしたので、なかなか現実の視察とは話をつなげていくことが難しいのですが新たな視点から東西の垣根を超えて物事の共通点を観察しています。

もともと人間というものは、生まれる前から自然の中にある愛のようなものを実感しているように思います。例えば、生まれてきたらすぐに親を頼るように、また自分は生きていいと信じているように、この世に出てくる瞬間から私たちは信じるという活力の中で生きています。

これは動植物でも同じですが、種から芽が出るのもそれは本来いのちというものはこの世の中で自分が助けてもらえるという存在、そして誰かを助ける存在であることを無意識に知覚しているように思うのです。

先日、子猫や雛が生まれましたがどのいのちの子どもたちも如何に世界を信じて安心し、その心姿の顕われとして「遊ぶ」その様子を観た時、活きるという信じる力、その行為は全て遊びの中に詰まっているのを実感したのです。

この遊びというものは、自然の愛を表現している人間愛の姿でもあり、遊びを通じて私たちは心の安らぎというものを実感し、生きている歓び、活きられる幸せを確かめていくように思います。

これは大人になろうがなるまえが、皆が楽しく一緒に遊ぶ姿の中にはどこか昔から信じていたはずだった愛を確認していることに似ていると私は思うのです。私がアクティビティを行う理由もまた、遊ぶ中に信を思い出し、その信の表明を全員で確認するために用いるのです。

人間というものは、何をもって遊びだと定義するかは安心した時に自然に湧き上がってくるいのちへの友愛の情、万物全てが一緒に遊んでいいとした存在の妙義に気づくときに愛を確かめるのかもしれません。

そういう遊びの中でつながっている自然の愛との邂逅が、私たちに人間愛とは何かを教えてくれるのかもしれません。子どもは、いつも心が遊んでいるのはいつも内なる自然の愛に応えていこうとした働きがあるからのように思います。

最後にガンジーの言葉です。

「人類が絶えず愛の法則と共にあったかなど、私は知らない。
だが、そんなものは私の障害とはならない。
愛の法則はまるで重力の法則のようなものである。
我々が認めるかどうかなどは関係ない。
愛の法則を真に知る者は、今日の如何なる科学者よりも偉大な学者である。
多くは十分なる探求がなされぬ故に、あらゆるものに愛の法則が働くことを理解できないだけなのだ。」

あって当たり前のものこそ、観えなくなっているように思います。ドイツにいても日本にいても、私たちはお互いの中にある尊敬を見出していく必要を感じます。自分の思い込みを超えて、子どもの姿からまた引き続き愛を学んでいこうと思います。

縁愛2

無事にドイツに到着し、安着祝いを行いました。

これで3年連続での参加になりますが、不思議ですが毎年来ているとなぜか故郷の一つのように感じてここでの空気や人々の雰囲気、食べ物や生活の様子に安心を憶えます。

新しく変わっていくこともありますが、離れていても戻ってきたら過去に触れた世界があるということが故郷へと回帰していくことかもしれません。ヨーロッパには縁がありますから、遠い昔に何か関わりがあったのかもしれません。

さて、今回は人間愛というサブテーマで進めているのですが子どもたちのことを思います。

子どもはとても純粋で、友達や家族を自分のこと以上に大切に思っているものです。昔は、自分の母親や友達の文句を言われたら本気で怒り喧嘩をしていたようにも思います。

自分のことを言われるよりも、大切な人のことたちのことを馬鹿にされることが嫌いで泣くほどの悔しい思いをした記憶もあります。

今、思い返して深めてみるとそれは自分との「つながり」の愛の絆を否定されたりすることをとても重要に感じていたからかもしれません。自分というものの理解を、つながりの中の自分であるというように実感していたからのように思います。

自分という存在は、大切なつながりや絆が自分を自分として存在しあらしめているという感覚です。自分は誰とつながっているのか、自分が大切にしているつながりは何か、そこに愛情や友情といったつながりを求めているのが人間の愛のようにも思います。

自分が何とつながっているか、そのつながりを太く厚くしていくことが人間を愛するということかもしれません。子ども心に、あのつながりの尊さを思い出しました。さまざまつながりを結び、その中でもとても美しいつながりを築くことができるなら、その愛の縁はより不思議なつながりとなって世界を結ぶのかもしれません。

最後にガンジーにこうあります。

「一人の人間の愛が百万人の憎しみを打ち消す」

色々なご縁の中から、どのつながりが存在することを信じるか、そこに世界を変えるヒントがあるかもしれません。子どもたちの中から見出していきたいと思います。

縁愛1

本日からドイツへ移動し、保育の研修に参加してきます。毎年、ドイツ研修に行く際はテーマを決めて深めていくことをしています。今年はつながりや人間愛について考えてみたいと思っています。

そもそも愛とは何かというと、つながりのことのように思います。よく愛のことを色々なことで表現されることがあります。あのマザーテレサは愛の反対は無関心という言い方をして、その愛の理解の深さを表現されました。

これもつながりが薄れてしまうからそれが無関心という言葉に顕われてくるように思います

例えば、友人や家族、そして仲間や自分と関わる人たち、もしくはご縁いただいた人たちのことをどれだけ思いやり、大切にしようとするかというのはその人の自分に対する深い人間愛が根底にあってできるものです。言い換えれば、自分のつながりに感謝して自分が何か偉大なものとつながって生きている、つながりの中に活かされているという実感というもの中に役割でいられる自分の存在を実感するのです。

つながりの中にいるということは、共生していることへ感謝してそのつながりを強くしていくというのが愛なのです。つながりと太く強くするために、人はどんな時もそれを細く弱くさせようとするものと向き合っていかなければなりません。

特に貨幣経済が発達し、昔のようにみんなのものだと分かち合うことよりも自分のものだと独占したり一人じめしようとするからそのつながりがより薄れてしまう中に身をおいてしまうものです。

しかしだからこそ、より一層強い愛を学び直し私たちは次世代へ愛をつないでいかなければならないと実感するのです。

愛は、そのつながりを希薄かさせ弱体化させまさに切ろうとするときにこそ出していくもののように思います。どんなに社会がつながりが薄れ閉塞的で自分のことばかりを考えている人たちが多くてもそれに負けない強い新しいつながりをつくっていくのが生き方を見つめ、自分を強くしていくことなのかもしれません。もしくは、そういう社会そのものをもう一度見つめて本来の愛のある社会の価値を再認識して私たちが変わることかもしれません。

どれだけ人間のことを信じて助け合っていくか、そこに愛の尊さがあるように思います。

東洋や西洋の垣根を超えて、家族というものをどのように形成しているものか、子どもの姿から普遍的な愛を学び直していこうと思います。

 

子どものままに

小学生の高学年の頃、尊敬する人はと言われたら植村直己と答えていたのを思い出しました。何冊も、違う種類の植村直己の本を読んでは感動して何回も読み直したことを覚えています。

何があんなに感動したのか、それを大人になって星野道夫の写真展にいったときに思い返しました。私には何か、この二人には共通するものを感じるのです。自分の心を映し鏡にして、子ども心をそのままに自然のままの姿を維持しているからのように感じます。

その植村直己が、子どもたちに語りかけた言葉があります。

「 君たちに僕の考えを話そう。

僕らが子どもの頃、目に映る世界は
新鮮で、すべてが新しかった。
やりたい事は何でもできた。

ところが年をとってくると疲れてくる。
人々は諦めみんな落ち着いてしまう。
世界の美しさを
見ようとしなくなってしまう。

大部分の人は、夢を失っていくんだよ。

でも、僕はいつまでも子どもの心を
失わずにこの世に生きようと思う。

不思議なもの、
すべての美しいものを見るためにも・・・

いいかい、君たちはやろうと思えば
何でもできる。
僕と別れた後も
その事を思い出してほしい。

やろうと思えば何でもできるんだ。」 (植村直己 42歳)

この後、マッキンリーに最期の単独登頂を実現し行方がわからなくなりました。

子どもの心は、好奇心であろうと今でははっきりと確信します。どんなことが起きるのか分からないけれどそのワクワクを信じて歩んでいくこと、自分の人生を疑わずに直観を信じて突き進んでいくこと。

そういうものの中に、魂の望む自分の道があり、そこに無限の可能性があるように思うからです。この無限の可能性とは、宇宙の広さや時空を超えたつながりの中にある自分を認識できるという意味で私は使います。

子ども心は、誰にしろ持っていますが様々なしがらみがそれを抑圧していくように思います。
美しさは、その全てを美しいと思えるほどに学ぶ事のように思います。

自然の間でも人間の間にもまた、美しいものばかりです。
美しい感性をそのままに、子どもから子ども心をいつまでも学んでいたいと思います。

いつまでも子ども心を邪魔しないでいられる大人になりたいと思います。

見守るという生き方

変えるというものに、自分の外側のことを変えるのと自分の内側を変えるというものがあります。

外側というのは、自分の内側を変えないで外側を変えようとすることでよく言い訳をするときや責任逃れをするときは外側に意識が集まります。しかし、問題の原因は外側ではなく自分の内側にあるものだと自分のそれまでの誤った考え方に気づき変えることで生活習慣そのものを見直すとき責任は自分になり内側に意識が集まります。

例えば、原理原則を知っているといっても、原理原則を外側で使うのと内側に対して使うのは異なるように思います。例えば、玄米を食べるというときに玄米を食べる理由を自分の外側から起きた問題を解決するために食べている人と、自分の内側から問題を解決しようと内省的な実践をしようと取り組むのでは意味が異なるということです。

人は、生き方まで変えないといけないということについては大変なアレルギー反応を起こすように思います。いくら頭では分かっていても、全身が拒否するというのは、過去の何かの出来事から好悪感情を抱き、思い込みから嫌いになってしまうのに似ています。

食べものの好き嫌いなどもそうですが、嫌いだったものを思い込んでいていくら美味しいといってもその人が食べようとしないのに似ていて、かつての嫌な思い出や記憶が拒絶を生み、そのことから過剰反応してしまうことで避けようとするのです。

子どもの頃に、無理やりにピーマンを食べさせられたり、または自分の発達に合わなかったことを無理をしてさせられたことが発達のねじれとなり、その歪が生涯をかけて生活に影響を与えてしまうこともあるのです。

しかしそれが本来は悪いというものではなく、そういう機会を得たことでそれを天からの贈り物として捉え、機縁を活かし実践を通じて乗り越えることができたなら、そこでまた人生で得難い邂逅をいただけるのが人間の真善美のようにも思います。

いつまでも内省を避けて通ろうとするのではなく、全てを受け容れて実は善いものだったと実感できるところまで弛まずに諦めずに徹底して実践していけば次第にそれが内省そのものになっていくように思います。

内省といいながら、外省をしていても内側の問題は解決していかないように思います。外の世界を信じるように、自分の中も信じることができればそれがすべてを福にしていくという考え方に出逢い、生き方を楽しめるように思います。

方法論が蔓延る世の中で、外側だけは足し算のように増えていきますが、これからは引き算の時代のように思います。これだけ物が溢れて豊かになったのなら、内側は引いていくような自らの生き方の見直しを全人類でやっていくことだろうと私は感じます。

そこに平和という生き方があり、真心対話を通じて異次元調和を志す新しい時代を子々孫々へ譲れるように思います。これは造語ですが真心対話とはあらゆるものに心が宿るとしその心の通じ合わせることと、異次元調和はあらゆる異なるものの個性をそのままに渾然融合していけるという意味です。

これが私の発達論の中心となる思想です。
見守るという生き方を、真摯に味わい、師と共に歩みきっていきたいと思います。

自然が働く

先日、自然治癒について色々と気づくことがありました。

もともと自然治癒というのは、自分の中に本来治る力がありそれが働くことで自然に治癒するという考え方です。そこには、病もまた自然の一部として治るために一時的に病むということです。

この考え方で有名なのはアンドルーワイル氏ですが、そこには信じるということの大切さを述べています。「患者がその治療法を信じること、医師がその治療法を信じること、 そして患者 と医師が互いに信じあうことである。 この三つの要素が働けば真の治癒が起こりうる」と断言しています。

この信じるというのは、自然を働かせるのにとても大切な意味が存在します。

そもそも外側の力で治るという考え方は、治れば信じるという現象に対して信じるかどうかを疑心暗鬼になっている状態です。しかし本来の信じるというのは、どのような現象であっても必ず内側の力が働いてそれが外側の力の協力を得て解決すると信じている状態です。

これは人事を尽くして天命を待つのと同じで、信じるからこそ人事を尽くすことができ、人事を尽くすからこそ他力を呼び込み最終的には福になるという考え方と同じであるのです。

そしてそれを引き出すのは、本人の信じる力、そしてそれを見守る人の力、そしてその本人と周りが互いに深く信じ合うことで自然発生的に根本から治癒していくことができるのです。

根源治癒というのは、信じるということで信じれば根源から治り、そこに疑いや不安があれば対処療法ばかりを遣り続けることになるのです。

信じるというのは、きっとこれで善いのだと思うことや、最終的には待っていればきっと善いことになると楽観的に考えることができるかということだと思います。そこには芯の強さと同時に、信念が必要になるように思います。

生きていれば色々と起こりますから、その一つ一つに正対し、何度も何度も困難を乗り越えていく中で信念が醸成されそして遂に楽観といった安心の境地を持てるように思います。そしてそういう時こそ、自然が働くということです。

自然が働くというのは、信じることが働くと言っていいと思います。

常に楽しく働くには、信じるかどうかということに由ると思います。
見守るということをさらに実感して内省していきたいと思います。