光を観直す

何もしないというのは味わい深いものがあります。

人は焦りから目先の解決ばかりを追い出すと、ものごとが観えなくなっていきます。
目に映るのは、足らないものを探しては頭を廻らせ悩み惑いの中に入りこみます。

そういう時は、都会のネオンの中で星が何処にあるのかまた観えなくなるのです。

自然の中に一人身を置き、暗闇の中にじっと佇むと星々が観えてきます。
また森の中で独り身を置き、静かに澄ませると音が聴こえてきます。

そういう境地に置いて、はじめてものごとは観えてくるように思います。

有事の時は齷齪しないで、凡事にこだわり、当たり前を徹底することが人事を尽くしていることになるように思います。何かの派手な解決策に身を乗り出すのは迷いの中に居る船のようです。

灯りが燦々と光っている中でいることは、確かに一時的には安心するのかもしれません。
しかしその安心は、目に見える安心であって心がついているようでついていないようです。

本来の安心とは、心の安着であり揺るぎない信念であろうと思います。
大事なのは、速やかに原点回帰していくことのように思います。

だからこそここでまた目を閉じ、眼を開く、そして光を観直すことが私の所以です。

志の火に燃料をくべ、自分の使命を確認していこうと思います。

 

愛と義と信と楽と幸

先日、愛着関係について話をする機会がありました。

最近の私はこの愛着というところに使っている愛は、古来から日本に存在している愛ではないのではないかと思っています。今の時代の義も、古来の義ではなく外来の言葉によって意味が変わってしまったのではないかと思うのです。本来の翻訳ミスもあるのかもしれませんが、実際は価値観によって言葉は形成されるのですから間違っていくこともあるように思うのです。

今では愛着とは、親が子どもに対して無条件で可愛がるかのように言われますが本来の愛はとても厳しいものです。今の愛は、親が子どもを甘やかし、子どもも親に甘えるだけの関係の愛着だということになっていることが多いのです。

そういう愛着を持っていたとしても、それでは他人との信を結ぶことができにくいように思います。そのことから、他人に頼るのではなく他人に甘えることで社会に自分を立てることができずに苦しんでいる人が多いように思うのです。

本来は、人間はまずこの世で行うのは、親から愛を学び、そして友から義を学ぶ、そして社会から信を得るというように成長していくのだと思います。

その最初の段階の愛で、何か躓けばそのあとの義が立たず、そして信も歪んでしまうのです。

人は信があるから、人から信頼されるのです。これは自分が根本に何を信じて生きているかを自覚していることであり、それを決めていることをいうのです。

私は会社でも仕事でもよく生き方と働き方の一致という説きますが、これはそもそもこれが分かれているはずがないと思っているからです。そして仕事も生活も重なりあった理念を主軸に、人事を尽くしいつまでも中道を学び続けて自分を生まれ変わらせていくというのを方針に設定しています。

そうすれば必然として、様々なところの問題を相手に内外左右されずに自らで自らの人生の価値を決心していくことを優先していくことができるようになるのではないかと思うのです。そうしていることが、保育を学び、さらにその生き方を通してはじめて子どものお手本ではないかと感じているからです。

この愛というものを学ぶのは、親から厳しい愛を受け取ったものでなければ分かりません。親代わりが必要な時代というのはおかしいと思います。本来は、親が愛を学び、子も愛を学び、そして義を貫くという生き方を実践し、そして信を得て、楽しい幸せな世の中にしていけるのではないかと思います。

見守るを実践していれば、見守り愛のことも学びます。
自立は、厳しさと慈しみの中で育まれるということは普遍の真理のように思います。

人生の中で人は人になるために道を通して互いに学びあい、見守りあい、人はそこから成長し、より魂の望むままに自分らしさに出会っていけるように思います。だからこそ日々を流されるのではなく、常に納得のいくように心研ぎ澄まして様々な出会いからキャッチしていきたいと思います。

人生を育てる

先日、あるコンサルティングを行っている園で研修を行いました。

そこはもう6年以上前から一緒に理念を策定し取り組み、実践を共にしているのですが一心協力して日々の保育に精進しています。いつもお会いしていくたびに皆さんが思想的にも技術的にも、また人間的にも全てにおいて大成していきていることに気づけます。

それもそこの皆さんが素直に学び続ける姿勢をいつまでも維持しているからです。先日も変化も学びも自分からするものであることをよく理解してくださっていました。子どもを見守るとは一体何なのかを、皆さんがよく日頃から保育で実践なさっている姿に改めて感心いたしました。

人はまず、反省をよくできる人が伸びる人のように思います。

自分が理に反することから様々な事件が起きて自分にとって難儀なことが発生してもそこから学ぶ人と学ばない人がいるのは事実です。学ばない人は、繰り返し似たようなことがいつまでも発生してはそこから後悔はしても正しく反省ができないのです。

それとは別に、毎回、正しく反省できる人は、自分が何が道理に反したのか、何が筋道に逆らったのかを深く掘り下げ自己観照ができ、そこからはじめて自分の生き方を変えることができるようになるのです。

人は成長していく方を選ぶという言葉を聞いたことがあります。

それは学び直せる方を選択していくと言い直してもいいように思います。この「直」という字は、毎回、自分が正しい方へと転じていく、本質や道理に照らして自分の方を変えていくということがいつもできるという意味であろうと思います。

それをいつもの日常の中で行うことができて「素」、素養の素が入ることで素直とも言うのでしょう。日々は変化するかしないかの連続であろうと思います。しかし、有難いのは必ず変化というのは起こりますし変化はこの世の常であり、これこそが私たちを学ばせて成長させていくのです。

人は結果を選ばず、生き方や学びを選ぶというのは勇気のいる事です。

しかしそれでも遣りたいと思う人だけが、ビジョンを持ち、夢を実現していく充実な生き方を全うしていかれるのでしょう。

常に、「自分は何のために此処にいるのか」「天は何をお望みか」を自問自答し内省し、焦らずじっくりと自ずから己の人生を育てていきたいと思います。

進化

変化というのは、常に前に時間と共に進むものだからこそ環境にあわせて自分の方が変わっていかなければなりません。

そして変化というものは大変なことであるのは、自分が変わるか、変えさせられるかしかないからです。

例えば、環境でいえば自然現象で次第に水が枯れていく場所があるとします。そうしたとき、水が枯れてくるのにあわせて自分を変えるか、他の場所に移っていくか、それともそこで朽ち果てるか、それは変化の兆しを見ていればすぐにわかるものです。

なので生きものたちは、いくら今まで自分がそれで生きてきたとしても自らが変化を選び進化していくことで変化を受け容れて学び生長していくものです。進化というものの本質は、前に進むということで時間が経ち環境が変わるのだから進むのを自分でするということです。

もしも自分でしないのなら環境から進められるのだから、無理にでもしないといけなくなります。生き物は急な変化に対応することはとても難しいからこそ、自然はあえてゆっくりと時間をかけて変化していく思いやりがあるのです。

しかし急を要する時代に生まれたり、そのような環境下にいれば変化は常に身近にあるものです。その変化に対して、変化を自らがすることを怠ればあっという間に変化がやってきて変化を迫られてしまいます。そうして迫られれば、変化に呑まれて否応なく変化に流されてしまう側になってしまうかもしれません。

だからこそ人は学ぶ必要があるように思います。

自然は学ぶものだけを遺し、学ばないものを淘汰させるように思います。

常に学び続けて自分を変化成長させていくのは、生き残るための智慧であるように思います。そしてそれは結果だけを追い、解決することだけを求めて焦り急ぎ欲を出すのではなく、じっくりと変化に学んでいくことのように思うのです。

変化とは、人が学ぶためにあるものです。

だからこそ、変化している最中にこそ真の学びがあり変化そのものが尊いと感じるのでしょう。
今の時代は、何も変えようとしない人たちが自然に進化する時代の邪魔をしようとします。そうやっていくら自分が進化を邪魔しようとしても、進化というものは決して人知がやるものではないのだからこの変化の循環は誰にも止められません。

だからこそ、自分が変化そのものになりながら学ぶことが自然や道理に叶っているように思います。安易に上辺だけの解決に手を出して満足したり、単に間違いを否定したりするのではなく、寛容と謙虚に、変化を学び道をどっしりと歩んでいくことを大事にしたいと思います。

家船

私たちはもともと海に囲まれた島国の中に住んでいる民族とも言えます。

海に囲まれているからこそ昔から漁業なども盛んでした。
そこに家船という人たちがいて、陸には土地を持たずに船で生活する人たちがいたようです。
家族全員が船上生活をする中で、生き抜くことを学んでいくのです。

船に生活するのだから、日々の点検を怠らずに船が沈没しないように手入れをし規範と実務、実践を大事に子々孫々へと暮らしを継承してきた様々な智慧があったように思います。

何か大きな出来事があれば、一家の一大事として昔は全員一致団結して困難を乗り越えました。私は今年の一年のテーマは「家」なので、家に関することで先日も思い当たることがあり二宮尊徳の「大海の家台船」の一説を社内で話をしましたが忘れてはならぬ私たちの在り方そのもののように思います。

そこにはこうあります。

『尊徳先生はおっしゃった。「家屋の事を、俗に家船(やふね)また家台船(やたいぶね)と言う。面白い俗言である。実際、家を船と心得ればよい。これを船とする時は、主人は船頭である。一家の者は皆乗合いといえよう。世の中は大海である。そうだとすれば、この家船に事があるときや、また世の大海に事があるときも、皆逃れられない事であって、船頭は勿論、この船に乗り合せた者は、一心協力してこの家船を維持すべきである。さてこの家船を維持するのには、かじの取りようと、船に穴があかないようにするという二つが大切である。この二つによく気を付ければ、家船の維持は疑いない。ところが、かじの取りようにも、心を用いず、家船の底に穴があいても塞ごうともしないで、主人は働かないで酒を飲み、妻は遊芸を楽しんで、せがれは碁や将棋にふけって、二男は詩を作り、歌を読んで、安閑と歳月を送って、終に家船を沈没させてしまう。嘆かわしいことではないか。たとえ大穴でなくても、少しでも穴があいたならば、すぐに乗合一同力を尽して、穴をふせぎ、朝夕ともに穴のあかないように、よくよく心を用いるがよい。これがこの乗合いの者の大切な事である。ところが、既に大穴があいてもなお、これをふさごうともしないで、各々自分の心のままに安閑と暮していて、誰かがふさいでくれそうな物だと、待っていてすむであろうか。助け船を頼みにしていてすむであろうか。船中の乗合一同が、身命をもなげうって働かなければならない時ではないか。』

一緒に暮らすというのは、運命共同体という意識のことです。

どんなに自分だけが助かろうと思っても、この大海原の世の中を生きていくには自分の帰属するコミュニティー(信頼できる仲間)を築き上げなければなりません。それができてはじめて自立したと言えるからです。

だからこそ自分の乗る船が沈没しないように、同じ船に乗り込んだ乗組員は命懸けで守り、それぞれが一心協力し続けていなければ自分も周囲も守れないのです。家族を守るというのは、一家の人達が心を合わせるからできるのです。

今の世の中は、何を守ることが自分も仲間も守ることなのかを勘違いしている人も増えています。すぐに信頼することを忘れ、自分だけでなんとかしようとするのもその信頼そのものの本質や意義が孤立する社会の中で欠落してしまっているのです。これも都市生活をし、画一教育の中で育った人たちの現代病ともいえるのではないかと思います。

自分だけが助かろうとするのではなく、如何に運命共同体を築き上げるかということを考えなければならないと思うのです。それが歴史を顧みれば人類生存の叡智そのものであったからです。

仏教のいう所の自利と利他ではないですが、利他を常に優先する人はそういうコミュニティーを自らで形成できます。なぜなら利他というのは、自分を守ってくれている安心感を常に信頼を心の主軸に置いて行動することができているからです。そうやってはじめて生きる力の根源になる仲間と自然に包まれて生きる幸せを味わっていくことができるように思います。

先人たちの絆や信頼を家というカタチにして残したのは生存の智慧そのものです。今に昔の人達の智慧を学びつつ、それを繋ぎ譲れるよう、遠くの灯台を見つめて子どもたちの未来に残る船を建造し前へと進めていきたいと思います。