ゆるし

今年は「ゆるし」をテーマに、様々なことを深めていますがとても奥深く発見することばかりです。よく考えてみればみるほど、私たちはゆるされている存在として今があることに気づきます。周囲に助けてもらわなければ生きてはいけない存在だからこそ自分がゆるされていることを感じるからです。

例えば、私たちは重力という恩恵を受けています。重力がなければ立ったり座ったり、運動することができません。そして空気という恩恵もあります。空気がなければ呼吸できませんから生きていくこともできません。そして太陽に水の恩恵、あらゆる恩恵を受けて私たちはゆるされてこの世に存在することができているのです。

このゆるされて存在するというのは、一人では生きていけないということでもあります。ここでのゆるすは、相対的に許す許さないで使われるときのゆるすではありません。本来のゆるすは、「恕す」ですから思いやりによって活かされているという意味です。

思いやりの中で存在しているのだから、少し損をして生きるのは当たり前のことだとも言えます。それを実践していくことを古語には陰徳とも言います。陰徳は、活かされていることを実感し活かされていることへの感謝に生きることを言うのかもしれません。

私たちはどうしても自分勝手にするあまり、自分がゆるされてもいいと周囲に押し付けようとするものです。しかし謙虚に自分がゆるされていることを感じていれば、自ずから与えてもらっている偉大な恩恵を実感し感謝の気持ちでゆるされていることに気づけるようにも思います。

当たり前に与えていただいている恩恵こそが「ゆるし」そのものの存在であり、謙虚にその恩恵に感謝するとき自分がいつも見守られ非常に多くのものに活かされ助けられていることを思うとき「ゆるされている」と感じるのです。

私の好きな言葉に「信じて聴く、ゆるされて聴く」という言葉があります。これは親鸞上人がノートのメモに書き残したものを偶然見つけたところの文章です。私はこの文章がとても好きで、聴福人の根底の理念にはいつもこの言葉が座右として存在しています。

引き続きゆるしを深めながら、子どもたちの今と向き合っていきたいと思います。

日本の保育

昨日は、日本の伝統的な保育についてある保育園の職員の方々と一緒に話し合う機会がありました。東京オリンピックを控え、世界に日本のことをもっと知ってもらい楽しんでもらうおうと取り組みはじめたことですが回を重ねるにつれて内容も深まっています。

私たちは日本人ですが、当たり前に使っている言葉や文化には疑問すら持ちません。本来、この当たり前であることは考えなくても教えてもらわなくても自然に長い時間をかけて伝承されてきたことですが実はこれはとても価値があることであるのです。

この日本文化の価値に改めて気づくことは、自分の価値に改めて気づくことにもなります。当たり前に自然に使っている言葉をはじめ、様々な価値観はその文化の裏付けがあって今も脈々と私たちの心身に流れているからです。

例えば、素直さや正直さというのは日本の美徳で「いつもお天道様が見ている」といって見守ってくださっている存在を身近に感じて暮らしてきました。誰が見ていなくても天が見ているとして私たちは天に対して正直な心を大切にして言葉を掛け合ってきました。

ありがとうや御蔭様、すみませんやお互い様なども天に対して語り掛けている言葉でもあります。相手に対してどうかではなく、いつも真心を感じながらお天道様や親祖に恥じないようにお互いに自分を律して生きていこうとしてきたとも言えます。

思いやりというのもまた、そこから出てくる言葉で自分だけのことではなく全体(ご縁あるすべてのもの)のために自分を活かしていこうとする心と行動の顕れでもあったはずです。

その文化の地下水脈は思い出しさえすればいつでも私たちはそこに立ち戻ることができます。いわば心のふるさとのような場所に、常に日本文化は存在し、私たちはその文化を伝承することによって本当の価値を学び直すことができるのです。

日本の保育を深めていくことは日本を深めていくことであり、自分を深めていくことです。

引き続き世界に発信していくためにも、日本の価値を再発見し甦生させていきたいと思います。

自己との対話

他人の成功ばかりを羨んで生きていたら自分の本当の価値には気づけないものです。自分の価値が何であるかを自ら気づくことは、自分のたった一度の人生を充実するためには必要なことです。それを歪めてしまうのは、自己との対話が少ないからのように思います。

自己との対話とは、自分の心の対話ということで自分がどうしたいのか、何を求めているのかを静かに考えて対話をする時間を持つということです。そしてそのうえで必ず思い出すのが「初心」ともいいます。

しかしこの初心は誰かと比較し自分がその誰かになろうとして承認欲求ばかりが強くなればすぐに忘れられてしまいます。自分が求める欲望に従い、周囲に認められたい自分を演じることで忙しくなるからです。

心が安らがなくなれば人は心を亡くします。忙しいという状態は初心を忘れている状態であり、穏やかで少し薄暗い中で目を半分閉じて瞑想している状態ではなく、明るく眩しい光の中で目を見開いている状態です。心の目で観ることをせず、目に見えるものばかりを見てしまえば心を閉ざしてしまいます。心が閉じないように常に初心を感じ続けることもまた自己との対話とも言えます。

自己との対話を続けることは、本当の自分に気づくためです。人は本当の自分に気づければ、自分自身であることに自信と誇りを持てます。そのように生きている人の周りには、同様にあるがままに自由自在に生きている人たちが集まってきます。それを仲間とも言います。

仲間が増えれば、みんなで仕合せで福世かな社會を創造していくことができるのです。自分を知るというのは、世界の幸福のためには必要なことで自己との対話は何よりも優先する人生のテーマでなければなりません。

今のような情報が氾濫する世の中において子どもたちにはもっとも大切なことを見失わないように御先祖様たちが行ったように仕組みを創造していきたいと思います。

TWICE BORN

私が好きなルソーの言葉に「We are born, so to speak, twice over; born into existence, and born into life.」があります。これは意訳ですが、「私たちは二度誕生する、それはこの世に出現したときと、人生の生き方や理念が顕現するときである。」と。

これを起業に例えれば、はじめに会社を創業したときはひたすらに存在するために努力をするものです。しかし誕生するだけで必死で目的が定まらなければその存在している理由が明確になりません。なんとなく続けているということもあるでしょう。しかし、大きな転機がやってきて理念と向き合うときが必ず訪れます。その時、第二の創業がはじまるのです。

これを二度目の創業、「TWICE BORN」ともいいます。

この大事な転機にまず気づけるかどうか、もう一つはその転機をどれだけ好機だと思っているか、そのうえで本当の目的を明確にすることができるかどうか、それが重要だと私は思います。

人生でも同じく、人は何度も転機に巡り会います。それを言い換えれば節目ともいいます。竹の節目も同様に節があるからしなやかになり、節が多ければ多いほど根が太く広くはり逞しくなります。その節目をどのように向き合いその都度に、もっとも大切にしたい自分の生き方を優先することを覚悟できるか、何度も生まれ変わりやり直すことが人生にも発生するのです。

起業も同様に、創業の理由や目的に何度も巡り会うような節目が訪れます。その際に、何のためにやるのかを明確にしそれを甦生させていくのです。

生き方のようなものは周りに見ればとても抽象的に思われるかもしれませんが、実際には同じ生き方を貫く人たちにとってはその姿は明確です。自分もこのような生き方がしたいと思っていれば、必ず同志や仲間に巡り会います。それぞれに与えられた道の中で、自分の生き方を大切にすることが自分を大切にすることであり、他を尊重することにつながるからです。

転機に運を掴めるかどうかは、その人が選んだ道に由ります。どの道を往くか、人生は分かれ道の連続ですが分からない場合は、どの人たちと一緒に行けば楽しいかどうかという選択肢を持つことも大事なポイントのように思います。

正しいよりも楽しいかという直観的な判断は、道に中る道理に叶っていることが多いように思います。楽しい道中を歩める人生を子どもたちが一人でも多く掴めるように、見守られ安心できる世の中にしていきたいと思います。

ご縁を信じて共に子ども第一義の道を一緒に歩んでいきたいと思います。

日本の精神文化

日本人には脈々と受け継がれてきた日本の精神文化というものがあります。私たちは当たり前になってしまい思い出しもせずに使っていますが、それは日ごろの様々な暮らしの中で見直していくことができます。

今のような情報化が急速に発達する時代において、如何に情報を取捨選択していくかはこの世代に生きる者たちの責任であり使命であると私は思います。

私が日本文化や日本の精神にこだわるのもまた、今のように情報過多の時代で言葉が氾濫しているからこそ私たちは何を守るのかということからはじめなければならないと思っているからです。

例えば日本語というものには精神文化が色濃く反映されています。「ありがとう」「おかげさま」「おたがいさま」「もったいない」「ごめんなさい」なども日ごろから使っていますがそのどれもが日本の精神文化と深くつながっているものです。

昨年、手掘りで井戸掘りをしたとき6メートルを超えたところで地下水脈に出会いました。そこには膨大な地下水が常に流れています。その水に触れたとき、懐かしさといのちと感じました。また日本に流れ続ける風土の文化を直に感じた瞬間でもあったように思います。

まるで井戸掘りと同様に、伝統や親祖から連綿と続いている歴史の深奥、その地下にはまさに精神文化という水脈がいつまでも流れています。表層は何もないように見えても、掘り下げていけば必ず地下水脈に中ります。それを如何に掘り出していくか、情報の氾濫する川の流れの中でそんな川に翻弄されるのではなくじっくりと悠久を流れる地下水脈に身を委ねられるか、それは今の私たちの生き方にこそ懸かっているともいえるのです。

現代は視野狭窄になり、近々のことだけや自分たちの世代のことしか考えない人たちが増えています。もっと古いものや懐かしいものに触れて、本来の日本人であること、日本の精神を自分たちが受け継いで子どもたちに伝承していくことなど本来の使命に立ち返る必要があると私は思います。

特に子どもの仕事をしていれば、日本の文化伝承は欠かせない一大事であることは少し掘り下げて考えてみれば誰でもわかります。

連綿と流れ続けているものを掘り起こすことは道を拓くことであり、子どもたちに歴史を繋ぐことは未来への希望の懸け橋になります。いのちを懸けられる仕事に出会ったことを仕合せに思います。

引き続き、子ども第一義の理念で生き方を観照していきたいと思います。

待つ文化~自然調和~

私たちの精神文化の根元には「待つ」という考え方があるように思います。なぜなら古いもの懐かしいものに触れていると、自然淘汰というやさしさを感じるからです。この自然淘汰はどこか悪いことのように認識されていますが、本来はそうではなく自然が調和させるという意味で元の姿になるといってもいいかもしれません。

この自然淘汰の意味は辞書では「自然界で、生態的条件や環境などによりよく適合するものは生存を続け、そうでない劣勢のものは自然に滅びていくこと。転じて、長い間には劣悪なものは滅び、優良なものだけが自然に生き残ること」(goo辞書)と記されています。

滅ぶことが自然淘汰という意味になれば印象も悪くなりますが、そうではなく自然調和されるとなると意味も異なります。淘汰の語源は、 「淘」は水洗いして選り分けることを意味し、「汰」は勢いよく水を流してすすぐことを意味する。水で洗って選り分けるという意味です。

自然に循環するものは、水によって浄化されていくものです。私たちの呼吸する空気の中にも大量の水分があり、水分が洗うことで元の水の状態に戻るために不純物を取り払っていきます。長い時間をかけて水が通ることで私たちは自然調和を取り戻します。

水があるからこそ私たちは生きていくことができ、水があるからこそ私たちは滅びていきます。水が万物生命の根源であることは揺るぎない真実です。日本の国土は、美しく瑞々しい水に包まれています。新鮮な生き物たちが多く、そこには水と共に暮らして順応した生き物ばかりです。私たちは水から学び、水を通して文化を形成してきた生き物です。稲作などは水の文化の代表的なものです。

水は循環してきますから、次にどのようになるかを観察して私たちは水を上手に活かしてどれくらい長持ちさせられるかを考えます。水は扱い方次第でいくらでも調和の技術を活かせます。その最も根幹にあるものは「待つ」ことです。言い換えるのなら「調和を待つ」といってもいいかもしれません。

長い時間をかけて待つことができるのは、水の循環を直観しているからです。水が循環するのを学ぶ人は、地球が「待つ」ことで調和するのを知っています。如何にその「待つ」速度に合わせて調和の中にいるか、先祖はそれを見極めて暮らしを充実していたのでしょう。

天から降る雨をただの水とは思っておらず、地下に流れる水もまたただの水ではない、さらには地球を循環する気化水のこともただの水とは思っていない。私たちのいのちの原点としての水を観ることが日本の文化を学び直す近道になるように私は思います。

引き続き、待つ文化を学び直しながら水を深めていきたいと思います。

生きる姿勢

昨日は、聴福庵のおくどさんのある厨房の整理を行いました。古民家甦生中は物置のようになり、作業するために作業道具が増えてまた作業途中のままのものがそのままになりますから約2年間ずっと片付かない状態でした。

それがここで整理できたということは、ひと段落着いたことで残すは煤竹天井の完成と暮らしの道具の調達くらいです。片付けをしながら2年間を振り返り、変遷を楽しみながら味わう時間が持てました。

何もなかったものが次第に形成され一つのカタチとして顕れてくることを「心想事成」とも言います。将棋の十七世名人の谷川浩司氏が扇子に書いてあるのが有名ですがこの意味をこう語ります。

「心に想うことは成るという意味ですが、そのためには平素からどれだけ本気で勝負に打ち込んできたかということが大切だと思います。真剣に、本気で打ち込んできた時間が長く、思いが強い人ほど良い結果を得ることができるし、そのための運も呼び寄せられるのではないでしょうか」

さらに別の記事ではこのように語られます。

「勝負の神様はそういうところをきちんと見ておられるし、それはその対局の時だけでなく、普段の生活すべてを見ておらえると思うんです。もちろん人間ですから一日中将棋のことを考えているわけにはいきませんが、体の中心に将棋というものが軸としてあるか、そこが問われると思います。」

私が古民家甦生を行う切っ掛けになった方もその床の間にこの「心想事成」と自筆で書いた掛け軸をかけておられました。今思えば、暮らしの甦生をしているのだから小手先で直すことなどはしないという覚悟だったのではないかと思います。

2年間真心を盡してみてこの言葉の深さを改めて実感したところです。民家が喜ぶかからはじまり、民家に自分の信念が試され、気が付けば民家によって自分が活かされていく。これは会社でもまったく同じことで、会社が喜び、理念が試され、会社に自分が活かされていく。この手順は、常に愚直に誰が見ていようが見ていまいが真摯に姿勢を正してきたからそのようになるのです。

何もなかったところから、事が成るに至るまでどれだけ真心盡したかは自分の本気の問題です。自分の魂を削り与えるほどに本気で取り組んだ時にのみこの「心想事成」の境地に出会えるように思います。

引き続き与えられたご縁に感謝しながら、誠を盡していきたいと思います。

 

道を歩む

人生の中には、選べない道があるように思います。いくら自分が避け続けていてもその道は必ず自分の前に現れてくるものです。一度ならずも二度も三度もその道が現れるのならば運命だと思ってその道を進むことで人は救われることがあるように思います。

実際には、その道があることがわからずその道すら現れない人もいます。前に進むのをやめてしまえば、道は現れずいつまでも停滞を続けていくのです。自分が否定した道や避けてしまった道は、目の前にあっても気づくことがありません。他の道ばかり探していると、結局はその場所をぐるぐるとまわっているだけで通過することができないのです。

人生というのは面白いもので、自分に与えられた道があります。道の良し悪しを選びたくなる気持ちもよくわかりますが、問題は道そのものではなく道をどのように歩いたかの方が本質的に生きることになるのです。

その道を歩まないという選択は、その道を味わうことがないということです。自分の人生の目的地に行くためにはその道は避けては通れないとしたらどうするか。怖くても辛くても苦手でもその道を通る必要が出てきます。

その時、その似たような道を通った人からの助言をもらったり、自分と同じ道を歩む人と一緒に歩いてもらったり、無我夢中になっているうちに勇気が出て歩んでいたり、歩み方はいろいろとありますが歩む必要は誰にしろあるように思います。

人生の旅路は、みんな大変でも目的地に向かってその道を歩んでいきます。その歩む道すがらに仲間がいたり、同志がいたり、パートナーが顕れます。その人たちは自分の代わりに歩いてくれるわけでもなければ、自分が歩かないのでと頼んだりすることができません。

その仲間たちはみんなそれぞれに苦しくても辛くてもその道を歩んでいくなかで、共に励まし合い、声掛けをし、時にはその背中を見せて勇気をくれたりする存在であって自分の代わりにその嫌な道を歩いてもらうことはできないのです。自分から先にその道が嫌だからと歩くのやめれば、道は閉ざされてしまいます。

道を歩むというのは、現実のことであり空想や妄想で誤魔化すことができません。だからこそ、その道を避けるのではなくその道を歩んでみようと敢えて足を踏み入れる勇気を出して前進していくことが人生の仕合せの王道のようにも思います。

その時、見守ってくださる存在があることの有難さはかけがえないものです。

私たちの会社は、道しるべになることを目指していますが道すがらに見守るお地蔵様のように道を歩む子どもたちを見守りたいと思うのです。自分の道を歩む人が次は他人の道を見守れるようになる。

子どもたちのためにも道を守り続けて歩み続けて味わい続けていきたいと思います。

時の流れ

昨日は時の感覚について個人差があることを書きましたが時には同時に遠近によって待つ長さも変わってくるものです。遠大な目的や目標がある人は、時はゆっくりと時間をかけて動いていくものです。それは例えば自然界のように徐々にゆるやかに変化を続けていきます。

地球誕生の45億年といいますが、宇宙などは私たちが想像を超える年数を経て今でも変化を続けています。その時の流れはあまりにもゆるやかで私たち人間からみるとまるで何も変化がないように見えるものです。

しかし実際は、ゆるやかで大きい流れはとても偉大な変化であり目に見えることとは異なり目に見えないところでは想像を超えた変化を続けていることになります。私たちは目に見える変化をみては一喜一憂して迷い悩み、判断ばかりを焦ってしまいますが実際にはこの偉大な変化の方に心の目を向けて観れば流れに任せるしかないという境地に至るのです。

偉大な変化の中で自分に与えられる役割というものは自分の目からはわからないものです。それは自分を超越したものに身を委ねるときに大任を預けられていることを直観するときに天の目というか偉大な変化に任せようという心持ちになります。

どうにもならないことに身を任せながら与えられた今に最善を盡していくという生き方は、まるで変化そのものと一体になった姿です。そうなることで絶対安心を感じられ、安心立命の心を持つこともできるように思います。

しかしそうならないことが多いのは、迷いがあるからです。その迷いは、目先のことに囚われ視野が近くなり遠大でゆるやかな変化を感じることがなくなってくるからです。自我の欲望を捨てることや、執着を忘れることや、自利をゆるすことは迷いを取り払うためには必要です。迷うことで人は心を亡くし、迷いから覚めて素直に反省し心が甦るようにも思います。

素直さというものは丸ごと信じきることで、言い換えれば自分には運があるという物の観方、また時に任せて委ねて信じて歩む生き方ができるということです。時はそういう人の味方になり、時がすべてを解決してくれるようになります。

時の流れというものは、誰にも平等ですからまた時がすべてを司りすべてのご縁を結んでくれるように思います。時を信じきる、時を信じ抜くという実践こそが、見守られていきるという私たち人間の目指す生き方かもしれません。

伝統と伝承を守りながら新たな道を切り拓いていきたいと思います。

時を待つ実践

人生には良い時もあれば悪い時もあります。この良し悪しは自分で決めていますから、それは心の持ち方や転じ方で工夫していきますがどうにもならない時というものもあります。

そもそも「時」というのは、人それぞれに速度も質も中身も異なりますから同じ時を一緒に過ごしてもその感じ方は十人十色です。生き死にを体験したような人は時の質量も異なりますし、マイペースでゆったりな人の時もまた異なります。人間にはそれぞれ与えられた時間と、また自分が求めている時間がありますから時は人によって平等だとも言えます。

その時というものに対する姿勢において「時を待つ」という心境があります。これはどんな人にも言えることで自分が蒔いた種が育ってくるのですからそれが育つのを静かに待つということです。

今起きている、良し悪しは以前自分が蒔いた種が芽がでて実になったともいえます。人生にも四季がありますから春蒔きと秋蒔きの種を蒔けば旬を逃さなければそれが実になります。実を収穫したいと思うのならば、その種を蒔き続けなければなりません。

人生には因果応報といって、必ずその原因と結果が結び付いているという道理があります。人生には必ず理由が存在し、いくら理不尽だと思ってもその原因は時間が経てば次第に解明していくからです。

その「時」との付き合い方や接し方が生き方であり、どのように時と上手く付き合っていくかが自分との向き合い方にもつながっているように思います。

松下幸之助氏はこうもいいます。「悪い時が過ぎれば、よい時は必ず来る。おしなべて、事を成す人は必ず時の来るのを待つ。あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。」

また私がよく振り返りに用いる本田静六氏に「決して散る花を追うべからず、出づる月をただ心静かに待つべし。」があります。

心静かに待つためには、習慣というものを身に着ける必要があります。それを実践ともいいますが、良し悪しの時でも平常心で実践し続けて心を静かにしておくということです。

心がざわつくたびに実践をやったらやらなかったりするのは心を亡くしているからです。どんな状況下であっても心さえ手放さなければ心はいつも付き従ってくれて心を穏やかにしてくれます。この「静か」というのは、時を待つ心境のことを言うのでしょう。

「時を実践しながら静かに待つ」ためには、習慣というものを身に着けなければなりません。習慣とは努力のことであり、継続こそが忍耐力や平常心を育みます。子どもたちにその努力の意味や幼いころからの習慣が人生を好運に近づけることを背中を通して伝承していきたいと思います。