孤高の志~覚悟~

アメリカのオバマ大統領が尊敬する人にキング牧師が居ます。インド独立の父と呼ばれるマハトマ・ガンジーに啓蒙され、非暴力主義で黒人公民権運動を行った方です。

「私には夢がある・・」の一節は、オバマ大統領も演説の中で使っていました。私もこの演説をかつての映像で拝見したときは、魂が強く揺さぶられた記憶があります。

このキング牧師の遺した言葉にも、魂が揺さぶられるものばかりで如何に覚悟を持って生きることが大切か、自分自身を自分で決心し生きよという本気さが言葉の中に滲み出てくるような思いがします。そのいくつかはすべて、自分の人生の責任を他人に委ねるなという自戒が込められているようにも思います。不可能を可能にし、夢を実現するのはまず自分自身が覚悟を決めることであるということをキング牧師の生き方から学び直せます。

例えば、「もし世界が明日終わるのだとしても、私は今日りんごの木を植える。」があります。周りがどういう状況であろうとも、どんなに苦しみに打ちのめされても私は自分で決心したことは最期までやり遂げるという覚悟です。

そしてこうも言います。

「そのために死ねる何かを見つけていない男は、生きるのにふさわしくないのではないか」と。

生き方というのは死に方です。どんな死に方をするのかを何のために死ぬのかを決めていない人では、どのように生きるのかもまた決まらないだろうということなのでしょう。

「ほとんどいつも創造的でひたむきな少数派が世界をより良いものにしてきた。」とも言います。本気で遣りきってきた人たちが周りを変えていったのだという事実を語ります。そして「最大の悲劇は悪人の圧制や残酷さではなく善人の沈黙である」と。善人は思っていても実践しないから単なる善い人で終わります。実践する人は歩んだ道が遺りますから必ずその道の跡に気づいた人たちが自らを変革していく変化になります。やらない不正とも言いますが、不正をしていなければいいではなく見て見ぬふりもまた不正であるということでしょう。だからこう言います。

「人は『発言する』ことにのみならず、『発言しない』ということにも責任を持たなければならない。」と。自分自身の覚悟はどうかを常に確認して発言するしないに関わらず、その責任を自覚しているかということを問われているのです。

その人生は、最期の暗殺される瞬間まで覚悟が光り続けた自分を生き切った方でした。暗殺の前日のスピーチには、夢を生きるとは何か、そして自分自身を生きるとは何かを感じます。それを紹介して終わりたいと思います。

「これから何が起きようとしているのか私にはわかりません。私たちの前途に困難な日々が待っています。でも、今となっては、私にはどうでもよいことなのです。

なぜなら、私は山の頂上に達したからです。だから私は気にしない。皆さんと同じように、私も長生きがしたいものです。長寿とはよいことです。でも、今となれば私にはどうでもよいことなのです。

私はただ神のご意志を実現したいのです。神は、私が山に登るのを許されました。そして私は山の向こうに約束の地を見たのです。

私は皆さんと一緒にそこにたどり着けないかもしれない。しかし、今夜、皆さんにわかって欲しい。私たちは、ひとつの民として必ずや約束の地に到達するということを。

だから、今夜、私は幸せです。私は何も心配することはなく、誰をも恐れてはいないのです。私の眼は、神の再臨の栄光をみたのです。」

孤高の志は不滅です、真心で真摯に道を切り開く本気の姿勢を見習い、日々に自己の完成を精進していきたいと思います。

価値観を磨く~人格を高める~

人は今まで生きてきた中で自分の価値観というものを形成してきます。それは自分にとって好きなものは何か、自分にとって都合のいいのは何かということが身に付いてきた経過とも言えます。それは言い換えれば「生き方」とも呼ぶものです。どのような生き方をしてきたかが今であり、その生き方の集積が今の自分の価値観とも言うものです。

その生き方を換えることが自分を変えるということです。生き方を換えるような機会に出会えることは仕合せなことですが、みんな自分の生き方を換えてまで何かをやろうとはなかなか考えないものです。自分らしさをはき違えたり、相手らしさというものも勝手に勘違いします。価値観があるから自分の思い通りにしたい、相手を思い通りにしたいと思うものです。実際に自分がしないかどうかとは考えずに相手に求めては期待をするのは理念を実践するのとは異なります。

イエローハットの創業者である、鍵山秀三郎さんの掃除道があります。今では日本全国でその道を学び掃除に取り組む人たちが大勢増えていますが最初に自分の会社で掃除を始めたとき、社員は誰もしてくれなかったそうです。しかもその掃除をしている鍵山社長の手をまたいでいったといいます。 社員がみんな自主的に掃除をするまで10年はかかったといいます。それでも「掃除をしなさい」と強制はしなかったそうです。自主的にやらないと本物にはならないと気付いていたからです。

その鍵山さんの言葉にはなぜ理念を実践する必要があるのか、なぜ価値観を超えて人格を磨き心を成熟させていく必要があるのかの理由が示されているように私は思います。そのいくつかを紹介します。

「この国をよくするのは、財務大臣でもなければ、総理大臣でもありません。国民一人ひとりの、ほんのちょっとした生き方にかかっています。」

誰かをあてにし期待するのではなく、自分自身が実践することが生き方であり覚悟であるということです。

「人間は義務でやらなくてもいいことが、どれだけできるかということが、人格に比例していると思います。」

主体的に自ら気づき自らを変革できるものだけが人格を高めていけるということです。義務ではないということが磨いているという証です。

「いままで、誰にでもできる平凡なことを、誰にもできないくらい徹底して続けました。そのおかげで、平凡の中から生まれる、大きな非凡を知ることができました。」

自分の生き方を換えることで世の中そのものが変わるという体験のことかもしれません。マハトマ・ガンジーが「世界を変えたければまず自分が変わることだ」という遺訓があります。

これは価値観のことを言っています。相手に変わってもらおうと思っても他人をあてにして自分の世界を変えることはできません。なぜなら自分の価値観がこの世界の見え方を決め、自分の価値観が実際の素直な世界とズレて見えているからです。

自分の価値観に固執し頑固になり、相手に自分の世界通りにいてほしいという欲望がある限り、世界はいつまでもとどまったままで何も変わることはありません。だからこそ思い切って自分の方を変えていこうとすることで、今まで気づけなかった新たな価値観に出会い自分自身の価値観をゼロベースで修正していくことができるのです。

自分が間違っていると気付くには理念が必要ですが、その理念に対して間違ったと気付いたならば柔軟性をもってサラリと変わってしまうことが謙虚さであろうと思います。そのサラリと変わるには、地味な実践が必要で日々にコツコツと理念に対して反省し内省し自分の価値観が独善的にならないようにメンテナンスする必要があるのでしょう。

価値観が異なることは別に悪いことではありませんが、一つの価値観を押し付けるというのは世界を縛り付ける妄想を拡大させているだけかもしれません。世界は本来は自然のように変わらずに存在しています。その自然の手ほどきを受けられる素直で謙虚な心をいつまでも忘れないように精進していきたいと思います。

私たちの理念「子ども第一義」とは、単なるらしさではなく子どもにどんな生き方を遺して譲っていきたいかということです。価値観で理念までも私物化し歪めることがないように克己復礼しつつ日々新たに理念の実践を深めていきたいと思います。

 

ブレない生き方~自己の理念経営~

人は理念や初心からブレることで、様々な問題が起きてきます。これは組織であれば組織がブレますし、個人であれば個人がブレます。自分が定めた生き方や優先順位が変わってしまうということは、何が大切なのかを忘れてしまっているということですから周囲から観れば何をやっているのだろうと思われるものです。

そもそも人は生きていれば、目先で起きる出来事によって忙しくなっていきます。忙しさというのは、心で決めた初心を失ってしまっている状態とも言えます。目先のことで追われていて視野が狭まりそれを処理するために日々を過ごしてしまうとそのうちその目先を処理するためだけに毎日を過ごしてしまうものです。そうやって過ごしてしまえば、重要なことを優先するよりも緊急のことばかりを処理することが優先されていくものです。

人生の優先順位がもしも緊急のことばかりでついていくならば、日々というのは浪費しその疲れも溜まっていきます。本来の重要なことが優先されてその実践を怠らずに順位が下がらないのならその日々は理想や理念、初心を忘れずに取り組めていますから疲れも程よく心地よい疲れを感じるものです。

人が理念からブレるというのは、初心(本来の人生目的)を忘れて生き方の優先順位を間違うことを言います。それぞれに人には価値観というものがあります。その人の価値観が優先順位を決めているといっても過言ではありません。しかしこの価値観というものは曲者で、今まで生きて来た人生観がその人の価値観を形成してしまいます。かつてどのように自分が生きてきたかが「生き方」ですから、その生きてきたままに自分が生きてしまいます。

しかしその生き方の癖が、もしも理念や理想と間違ってしまっていると気付いたならその生き方の癖を修正し、本物の習慣によって生き方を改めて上書きしていく必要があります。つまりは生き方の転換が必要になっていくのです。例えば、自利で生きてきた人が利他に生きると決めたとします。しかし実際は自利や我利ばかりに囚われてしまい利他で動くことが出来ないものです。それを何度も利他に向くように時間を設け、実践し、自分の心が変わらないように、自分の判断のモノサシがブレないようにと何度も何度も内省し修正していくことで生き方の癖が改善されていくのです。

人はもうこんな生き方はしたくないという反省が素直にできたなら、忘己利他(もう懲りた)と改心するキッカケにも出会えるかもしれません。しかしたとえそれで変わったにしても生き方の修正は一生涯の一大事ですから、実践を怠らず自らの精進を続けていかなければまたブレてしまうものです。ブレてもすぐに素直に直すことができればいいのですが、ブレていることに気づかないから余計に問題があるようにも思います。

昔のリーダーたちは、自分に耳障りのよくないことを忠言してくださる人を必ず身近に置いたと言います。そのことで自分の生き方のブレをチェックし、自らを素直に生長し精進していくための鏡にしたそうです。それはそれだけリーダーがブレると、周囲に大変な影響を与えてしまうことを自覚していたからなのでしょう。自分のことくらいや自分がなどと考えてしまうと、周りのことよりも自分のことで一杯いっぱいになってしまうものです。そうやって好き勝手にしてしまい自分の好きなことばかりやってしまうと確実に理念はブレてしまいます。

本来、本当に好きなのは、本当に大切にしたいと思った初心のことであったはずです。だからこそその本当の好きにどれだけ忠実であるかが自分を大切にしたことであり、その正直さが自分を信じて着いてきてくださった人たちを大切にしたことになるように私は思います。人はみんな自我や自利を超えた理念、つまりは大義に自分を使っていきたい、使ってもらいたいと願うものです。それがもしも個人的な欲望や我利我利に偏る価値観に従うのなら誰だって素直にやりたいとは思わないものです。

だからこそリーダーは、自分自身がブレていないかを常にチェックしていく必要があるように思います。理念というものは自分の心ですから、誤魔化しがききません。どれだけ自分の心に誠実であるか、正直であるかが「ブレない生き方」を実現していく鍵であるということなのでしょう。

生き方を換えるというのは、人生の一大事ですがその生き方が換わることによってはじめてその人の人生が大きく換わります。いつまでも換わらないのは生き方の方が問題だと気付くことが第一歩なのでしょう。生き方を換えていくための努力は、独立自尊、孤高の正対ですが常に理念を優先しているかを内省することで近づいていけるはずです。

仲間と一緒に歩んでいくのだから、周りを観ては自分を省みて実践を厳格に積み重ねていきたいと思います。周りの御力に少しでもなれるよう私自身も、克己復礼、精進をしていきたいと思います。

本物の学習

物事に取り組むとき、それが「身に付く」かどうかというものがあります。この身に付くとは自分自身のものになる、体得し会得するという意味で使われます。私もよく上手くいかないのはやってないせいだと言います。やって内省という意味で使いますが、やりもしないのに机上の理論をいくら語ってもそれは理想と現実が乖離していますから結果には結びつかないからです。

この理想(真)と現実(実)を合わせて真実とも言います。この真実は種を蒔けば実を収穫することができる自然のように常に自らやった分だけがかえってくる道理そのものです。

教育や学問も同じですが、やらされた人は身に付くことがありません。人間は誰しも必ず自分でやった分だけしか身に付きません。なぜなら体験しないものを学習するということはあり得ないことだからです。頭でいくら分かった気になったとしても、それは自分で体験したことではありません。学校の教科書で学んできた人は、なぜか体験せずに事を動かそうとばかりします。しかし実際の学問の本質は、常に試行錯誤しながら挑戦し、それを内省し改善し自らのものにしていくことで学習していくものです。

本を読んだり知識を得るために学ぶのは現代になってからで、本来の自然で生活していた頃はあくまで自らやってみて実践した分を紐解くために知識を用いていました。つまりは文化を伝承し継承するために、自分でやって内省してみて「ほどいた」分だけを身に付けることができたのです。

今は自分で気づいていない人が多いですが、気が付けば「やらされてやっている」だけの人が多くなったように思います。理論ばかりを戦わせては現場に行こうともしない、自分でやってみてもないのにどうやったらいいかばかりをいくら考えても、それでは真実に辿りつくことがないように思います。

やらされるという刷り込みは、一見、自分も同意してやっているような錯覚を起こしますが実際は頭でっかちになっているだけで自らやっているわけではありません。手間暇や面倒、または大変な思いをしてでもそれでもやっている人はその遣った分だけが自分の自信にもなり、自分の体験として集積されていきます。自然が正直なように人間の体験も正直です。正直者がバカを見るのは一瞬だけで、長いスパンで物事を観察すれば必ず遣った人が成長し成功するような仕組みになっているのがこの世の道理です。

頭ばかりをあまりに走らせているとやりたくないことばかりを思いつくものです、それはきっと脳ミソがサボり症だからでしょう。言われたことでも何でも、自ら気付くためにやってみることが大切だと私は思います。

やってみて、そのあとそれが何であったかを振り返ることができるなら理想と現実は必ず一致してきます。エジソンのように失敗を繰り返してでも成し遂げようとする根気強さが必要なのでしょう。自らやらなければ失敗もありません、やらされても失敗にはなりません。そうではなく自らやった分は失敗もありますが同時に成功もあります。どうせやるのなら、やらされることは一切はずして自分からやってみてやった分を愉しんでいくことが主体性が発揮される本物の学習になっていくのでしょう。

常にうまくいかないのはやっていないせい、上手くいくのは遣って内省と言い聞かせて今まで沁みついてきて身に付けた刷り込みを取り払い本物の学習を上書きするためにも主体性を発揮しやりたくなるような「身に付く環境創造」を模索していきたいと思います。

価値観の違い~思い込みと押し付け合い~

人間は人それぞれに価値観というものがあります、考え方の違いがあるといっていいかもしれません。例えば優先順位を1から10まで用意したものをそれぞれに選択させてみると、一人ひとり重要なことが異なるというように人それぞれに考え方があるとも言えます。

本来その価値観が異なるのはそれだけ持ち味を活かせるということでもあり、異なるからこそ御互いのやりたいことの組み合わせ次第では偉大に協力していくことができます。しかし一たびこの価値観の違いが人間関係において御互いに分かり合えない理由になっていたりするものです。

例えば、そもそも「信」を中心に置いているチームは助け合い支え合い認め合い任せ合うことができます。これは御互いの価値観の違いはあることを知りつつも、同じ方向と同じ目的のために力を合わせようということをそれぞれが決めているからです。そして決めたことが忘れられないように何度も御互いに初心を確認して、それぞれが価値観に流されずブレずに理念を優先して自分を周りに役立てていこうとできるように思います。言い換えれば信が立つのは、それぞれの価値観が異なることを肯定しつつも大切な初心や思いに対してみんなで心を合わせていくことができるからのように思います。

全然違うタイプの人間たちが同じ船に乗っているのだから、本来は違和感があるのでしょうがその違和感が仲間との信頼に変わってしまっているのがこの信じ合う関係です。アニメのワンピースの乗組員のように一家と仲間になっています。

しかし逆に「不信」が蔓延しているチームは価値観の違いがあるが故に御互いを理解しようとはせず、違うのだからと切り分けてしまえばそれ以上は御互いに近づいていくことはできなくなります。この人は価値観が違うと決めつけるのはその人の価値観でその人を決めつけてしまうからです。その人がどうかと思い込むのも、違うと相手を決めつけるのもすべては自分の価値観がそうしてしまいます。そうなると違和感が大きくなりお互いに価値観の押し付け合いになるばかりで仲良くなることはありません。 自分の思い込みが強いという人はすぐに自分の価値観を押し付けては、今度は相手の価値観も思い込んでいますからまるで腫物にでも触るようにびくびくしてしまいます。

その思い込みといった価値観を乗り越えて物事をゼロベースで観るには、まず大前提として素直な心が必要です。言い換えれば自分の価値観でだけで人の話を聴かないということです。そしてその自分の執着している価値観の優先順位を少し横に置いて何をもっともみんなが大切にしているのかを省みて考え直してみないといけません。理念や大義というものも、自分の価値観を超えたところに存在しているものです。何のためにといった目的や、真実や本質といった理想に対してどうありたいかという自分たちの決心や覚悟を定めたものに自分自身を合わせていこうとみんなが取り組むことで一心同体になっていくからです。

心を一つにすると書いて「一心」ですが、この心の置き所がみんなが定まってはじめて信は立ち上がっていくように思います。その信を立てるのは他でもなく自分自身であり、そして仲間たち一人ひとりの想いが立つことで絆も強くなります。倒れそうになる想いを何度も支えて、倒れても起き上がり、倒されないようにがっちりと掴む、理念を実践していくというのはまるで根をはり、養分を土から吸い上げ、風雨に晒されながらも太陽の光を浴びて大樹になっていく過程のようです。

認め合おうとはせずに価値観の違いばかりに目を奪われ価値観の押し付け合いばかりに終始しても結局は愉しくありませんし周りと協力して大きな目的を実現することもできません。周りに自分の価値観を押し付ける人は近寄りがたく、自分の価値観を守ろうとするあまり周りと協調することもできません。同じ価値観の人とは仲良くしても異なる価値観の人とは仲良くできないでは一緒に働くことも難しくなります。

組織にはいろいろな人がいますから、異なっていても同じ目的や方向を持つことでかえって異なっていることを活かそうと考え方を転じることが出来るものです。価値観が周りに理解されないと機嫌悪くふるまうよりも、こういう価値観もあるんだと感心して御互いに折り合いをつけていくことの方がお気楽に愉しんでいくことができるように思います。

価値観と理念とは同じではないことを改めて整理しておきたいと思います。引き続き、子どものためにも一緒に取り組むことの大切さを実践で伝えていきたいと思います。

自分自身

人は自分を信じて厳しくするのと、自分を信じないで厳しくするのではその甘えの構図は異なります。自分に厳しくすることは、本来は自分に甘えないということですが自分に甘えれば甘えるほどに間違った厳しさを自分に課してしまうものです。

自分というものは、本質的に進みたい自分と、現実的に進みたい自分が同居しているようなものです。つまり例えて観れば自分の中には二人の自分が存在しているように捉えてみればいいように思います。言い方は別にしてここでは「自分」と「自身」にして例えてみます。

自分というのが本質的自分だとしたときに、自身というのを現実的自分だとします。これらの自分と自身が協力関係にあるときは、自分自身になり一体となって信じ合うことができています。この状態のときは、無理に環境で自分を追い込まなくても自分の意志にあわせて身体が動いてくれます。朝早く起きて何かをしようとするときに自然に無理なく起きることが出来、健康健全で手伝ってくれるのは御互いの信頼関係が築けているからです。自分を少し優先してくれて自身がそれを支えてくれれば、ほとんどのことが融通無碍に自由自在に愉しく取り組んでいくことができます。

しかしもう一方で、自分と自身が不信になり信頼関係が結べていないと自分と自身が敵対関係になります。すると、自分がやりたくても自身がついてきませんから常に自分と自身で御互いに追い込み合ったりいがみ合って仲が悪くなっていては何をするにも無理をしないといけなくなります。朝早く起きて何かをするのも言うことをきかず、無理やりに目覚ましや何か環境で追い込んではなんとかしてしまうのです。環境を追い込んで無理やり自身を抑え込んだにせよ、自身と自分は同居していますからいつまでも仲が悪いままでは済まされません。如何に御互いに信頼関係を結んで折り合いをつけるかが大切で、これが他人との信頼関係を築くうえでもとても重要な要素になってくるのです。

自分自身と仲良くしていくには、信頼関係を築いていく実績が必要です。言い換えれば自分自身が御互いに甘えずに信頼を優先して協力していくことの集積があって、御互いがチカラを合わせて乗り越えていくことができるように思います。それは決して自身が言うことをきかないからと無理やりに環境で追い込むのではなく、自分自身と対話をして断捨離をし覚悟決心を定めて実践していくことだと思います。

実践というものは、自分自身の協働作業とも言えます。互いに信頼し合っているからこそ実践は続けていくことができます。実践できたという一日一日の積み重ねこそ、信頼関係の構築であり、御互いに「よく頑張ったね、有難う、御蔭様、恩にきるよ」という自分自身との励ましや思いやりが、周りへの信頼にもつながっていくのでしょう。

まず何かを判断する前に、自分自身が逃げていないか、甘えていないかを確認したら、後は真摯に実践を遣りきって内省していけば本らの自分自身に出会えるように思います。この世に産まれてきて、一生涯ずっと寄り添ってくれるパートナーは自分自身です。子ども達が自分自身のことを好きになるためにも、正直に信頼し合える関係を築いていきたいと思います。

 

子どもを尊重する~信じ合う心~

2日間を通してGTサミットでは改めて「見守る保育」とは何かについてその理念を学び直すことができました。一年に一度、初心を確認する上でも理念について学び直せるのはブレていないかを自覚自明するにも大切な機会です。

人はすぐに忙しさの中で自我に呑まれそもそも何のためにといった初心を忘れますから、常に自分の初心を忘れていないかということが一度きりの人生の生きる姿勢に於いて何よりも重要な自己修養になっていくと思います。

亀井勝一郎が「いっさいに対して私は初心でありたい」という言葉を遺しています。もしも人がいつまでも初心のままであるのなら、その人の一生は理想に向かって自分の役割を生き切った美事な人生であろうと思います。初心を忘れさせないメンターや理念を語る実践人の模範がいるということの有難さその恩恵の深さに改めて尊い御縁に感謝の念がこみ上げてきます。

昨日は、藤森平司先生からは「保育は人の生きる道に通じている」という話にはじまり、「見守る」ということについて改めて基本を確認することができました。赤ちゃんから「子ども達は自らで乗り越える力を持っている」だからこそ周りの大人たちが「見えない発達を理解しどう見通し、子ども同士の関係の中でその乗り越える力を身に着けていくか」。そしてその発達が理解でき、見守れるのは相手を信じているからであると仰っていました。

一般的に見守るを見ているだけと批評する人もいますが、それは日本語を知らない人とも言えます。辞書にも「見守る」という意味は「無事であるように注意しながら見る。また、なりゆきを気をつけながら見る。」や「 目を離さずにじっと見る。熟視する。凝視する。」ともあります。

それにやってあげると見守るでよく比較されて、介入するのかしないのかと議論されていることが多いのですが本来の大前提にその人が「子どもを尊重しているか」があるように私には思います。

どんな方法論があったにせよその大前提が”普遍的な道理”(いのちの尊重)に通じているであればいいのですが、実際は単にその人の偏見や、目先の大人の都合や独善的な価値観で相手を不当に扱うから問題になっているのです。それが結局は信じていないことにつながり、子どもが子どもらしく生きていくことができなくなるのです。

子どもが子どもらしく生きていくということは、相手を信じ、相手を尊重して相手の乗り越える力を信じて見守ることのように私は思います。一見、直接的には何もしていないようでもその心では「信じている」という自分自身との正対が求められているのです。

人は信じられることで自分の乗り越える力を信じることができます。そして可能性は信じることで発見発掘され、その人そのものの個性もまた光りはじめるように思います。保育が人の生きる道に通じているのは、それは人生の在り方、生き方に繋がっているからということでしょう。

未来をどんな社會にしていきたいか、それは私たちの願いであり子どもたちを思いやる真心が顕れる夢です。その夢に向かって今は歩んでいる最中ですから、改めて私自身も初心を忘れずに脚下の実践を愉しみながら信じて前進していきたいと思います。

いつもながらの真摯で大義に生きる背中を見せていただき、心から感謝しています。この邂逅の御蔭様に対して、さらなる恩返し恩送りができるよう日々を精進していきたいと思います。

情熱意識~薪をくべ続けること~

昨日、GTサミットが東京で開催されました。全国から同じ理念で保育を実践し高め合う仲間たちが集まり、語り合い学び合いました。総勢90名もの各地域のリーダーが集まると、会場は強い熱気に包まれます。

この熱気というものは、その人の熱意によって発生します。この熱量とは一体何か、これは情熱の意識のことです。これをやろうと決めている人たちや、やり遂げようと精進している人たちが持つ熱意の集積が会場の熱量になっているのでしょう。

人は熱意がなければどんなことをやろうとしても実現できることはありません。いくら能力があるからと、才能があるからと、取り組んでいても、長い年月継続して最期まで遣り抜くには必ず其処にその本人の熱意があります。

京セラの創業者稲森和夫さんも人生の方程式として、「人生 仕事の結果=考え方×熱意×能力」であるといいます。この3つがかけ合わさってはじめて人生が顕現してくるからです。その中で一番大切なのは、やはり熱意ではないかと思います。熱意がなければ一所懸命に取り組むことができません。人はどんなに壁が立ちはだかろうとも熱意があれば禍も転じて福にしていくプラスのチカラを得ることができます。熱意が乏しければ運にも気づけず、その運を伸ばしていくこともできません。熱意というものは、初心を燃やし続ける燃料でありその燈火を絶やさないという覚悟です。

また松下幸之助さんはこうもいいます。

「熱意に関してはだれにも負けないものを持たなくてはならない。知識なり、才能なりにおいては人に劣ってもよいが、熱意については最高でなければならない。指導者に、ぜひともこれをやりたいという強い熱意があれば、それは必ず人を動かすだろう。そしてその熱意に感じて、知恵ある人は知恵を、才能ある人は才能をといったように、それぞれの人が自分の持てるものを提供してくれるだろう。指導者は才能なきことを憂うる必要はないが、熱意なきことを恐れなくてはならない」

できるできないがモノサシの判断ではなく、熱意があるかないかがモノサシの判断であるということ。必ず初志貫徹するという熱意の質量が、今の自分の姿であるということかもしれません。

自分に如何に薪をくべ続けて火を燃やし続けるかは、その人の求めていく熱意と行動が決めていきます。一年に一度でも、熱意ある仲間が集まることでまた情熱に薪をくべてその火を燃やせばまたその燃えた火によってさらに前進していくことができるものです。

燻っている火がまた燃えていくのを見られることも仕合せなことだと思います。子ども達の情熱もまた、周りの大人たちの生き方が薪をくべていくように思います。自分たちの情熱が子ども達に譲られていくことを念じつつ、何よりも強い熱意をもってこの見守る保育を弘げていきたいと思います。

知愚一如

森信三先生の人生の中で、生き方を大きく転換した中の言葉で「知愚一如」という言葉があります。それに気づいてから、自分の中の学術研究の意味もまったく変わったしまったほどだったと後述しています。

そもそも「知愚一如」とは何か、それを少し深めてみたいと思います。

まず最初に森信三先生はこう言います。(「知愚一如」 即ち、知者も愚者もひと度、絶対者の前に立てば全く同価値であって根本的にはその間に絶対に優劣がつけられぬということが、真に分かることによって初めてわたくしの哲学体系たる「恩の形而上学」は生まれたわけです。(「不尽片言」より))

これは根本にはすべて優劣などはないという意識のことです。そもそも知識というものは知っていることが優れ、より知らないものは劣っているという考え方を持っていては本当の意味で「分かる」ということはありません。これは「分かった気にならない」という言い方を私はしますが、分かるという考えがある以上はその知ることが愚かだということに気づけないということです。

さらに「森信三一日一語」(致知出版)の中でこうも言います。「知っていて実行しないとしたらその知はいまだ真知でないとの深省を要する無の哲学の第一歩は実はこの一事から出発すべきであろうに。」と。

つまり真知とは何か、やろうともしない学ぼうともしないのでは意味がないのではないか。知ることが如何に愚かなことであるかということに気づき、そしてそこから学び方を転換しているのです。これはカグヤで言う「やって内省しなければやらないのと同じ、内省してやらないのでは学ばないのと同じ」というように私は理解しています。

そしてここから「恩の形而上学」という境地に入ります。そこでは「「恩」とは、この自己の一切が、自己を超えたものの力によって与えられ恵まれているのみか、さらに自己の今日に到るまでの一切の歩みもまた、同様に自己を超えたものの力によるとする意味である。」(森信三)

これは次第に真知を実践していく中で、感謝、御蔭様、そして報恩という境地に意識が高まってきたと感じます。私自身、日々に書いている感謝日記が次第に深まっていくたびに御蔭様を経て報恩や報徳の真価に辿りついてきています。世の中の学問や哲学などというものを考える前に、本来のあるべき姿に立ち返り実践をするのなら自ずから明らかになるのが真理というものなのでしょう。

最後に、知愚一如についてもっとも明確に顕されているものを紹介して終わります。それは兼好法師の徒然草の中にある一節です。

『但し、強ひて智を求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵出でては偽りあり。才能は煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より、賢愚・得失の境にをらざればなり。』

真実の人は賢愚得失は存在しないということ、つまりは一切は「無」であるということです。

世の中に、様々な知識の刷り込みがあるからこそ自らの実践を高めて日々に精進し、余計な知識は手放しつつ子ども達と道を味わうためにも自らの感化につとめていきたいと思います。

変化の本質

人生というものは二度ありません。だからどんな時も一期一会であるとも言えます。あの頃はと思い返してみても、あの頃は戻ってくることはありません。その頃に感じたことはやはり一期一会であるのです。そして人生には変化があります。同じ人間がずっと同じままでいるということはありません。人は変わっていくものです。

明治以降に、税金を管理する関係上の法律ができて自分の名前は一生そのまま変わらないというルールが現代になって適応されました。それまでは人は変化に合わせて名前を変えてはそれまでの生き方を変えて新しい自分としてその時代の変化と共に歩んできたと言います。例えば、上杉謙信の場合も虎千代→長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→不識庵謙信とその時々の変化に対して名を変えて新しい自分で生きていきました。

つまりは人は変わらないということはないということです。幼年期から少年期、青年期、成人し、壮年を迎え、熟年、老年など、人生は確実に死に向かって前進していくものです。その都度、他人はその状態が変わるのだから変化しないということはありません。不老不死で見た目もいつまでも同じ齢のままということは、生きている以上はありえないことです。人は変わっていくというのは、受け容れることではじめて今の自分に出会いますから変わり続けていく自分を味わっていくことが人生の醍醐味であろうとも思います。

しかし同時に、変わらないものがあります。それは道です。一生涯かけて何度も変化したとしても、いつまでも同じことを実践しているというものがあります。私であればかんながらの道ですが、この十数年で何度も自分の意識は生長し別人のようになったはずなのにいつまでも同じことを続けています。これは別に一生勤めた会社にいるという意味ではなく、一生同じ道を歩んでいくということです。そしてこの道を歩んでいるということは、そういう「生き方」をしているということなのです。

ファーブル昆虫記のファーブルは90歳で亡くなるまで、ずっと昆虫を研究してきました。その間、何度も食べていけない状態が続き、そして何度も引っ越しをしたり職を失ったりしました。しかしそれでも虫の研究は死ぬまで続けています。他にもミミズを一生涯死ぬ直前まで研究した進化論を記したダーウィンもまた大変な状況に何度陥っても遣り続けました。

変わるものと変わらないものがあるのが人間です。

人生は必死ですからどんな人でも使い古されて死に至ります。それは変わり続けていくということの本質です。しかし変わらないのはそこにはその人が持って産まれた理想があります。その理想に対して決めた生き方は、死んでも変わることはありません。その生き方は、どんなに変化してもいつまでも同じ道を歩んでいるのです。

変わるものと変わらないもの、その両輪を円満にしていくことが一期一会に生き切るということなのかもしれません。

出会いがあれば別れがありますが、それは新しい出会いと別れを同伴してきます。その中で一期一会の道を一緒に歩んでいくのだからそこは確かな御縁があります。

子ども達に受け継がれ譲られていくいのちだからこそ、これまでの御恩を忘れずこれからも感謝で共に変化を味わいながら生きていきたいと思います。