いのちのままに

昨日から鞍馬山に来ています。

不思議ですがこの山に来ると、いつも何かに包まれている感覚になります。もう何年になるでしょうか、子ども達の御志事をいただき参拝させていただくたびに山の気の有難さを感じます。

昨日も鬱蒼とした雨の九十九折坂を歩きながら、山全体と共に生きている波長や波動のような振動に触れては自然に包まれる御縁を感じていました。

私たちは出会いに包まれることで御縁に気づきます。その御縁に気づけば、自然に感謝する気持ちになります。それは私たちも同じように目には見えないものに包まれて活かされるいのちの存在だからでしょう。

いのちの存在は空気、水、火、そして宇宙、そういうものにいつも包まれています。

当たり前すぎて分からなくなったいのちの存在を、もう一度思い出すことの大切さは私たちが謙虚に生きてきたことの生命の記憶に触れていくことです。そしてそれを祖親は御縁といい、その御縁を感じる心を勿体ないといい、この世には一つも無駄なものがなく役に立つことという本質を今までカタチにして伝承してきました。

常に変わらず御指導いただける御縁によって、自分の真心を鑑にして徳磨きは高まっていくものです。人生の砥石は日々の初心の内省と、我執の削ぎ落としと実践による研鑽にこそありますが、時折、清水を沁みこませるように真心を洗い清めて静かに包まれていることを見つめ直す時間は人生にとってかけがえのない仕合せの余韻でもあります。

自然の厳しさの中には慈しみがあります。そういう厳慈の愛に包まれている私たちが包まれていることを思い出すことは本当のいのちの豊かさの意味に気づくことに似ています。

いつからか私たちは大自然の暮らしから遠く離れてしまい、同時にいのちを見つめることがなくなってきました。いのちに近づくとは、自然に寄り添ってみるということです。

自然は私たちよりもずっと長く悠久の歳月を暮してきました。

だから自然は私たちの先生です。

先生はだからみんな丸ごとで先生です

本来の先生は人間が偉そうにすることではなく、丸ごとみんな先生であるということを自覚することで全てが先生になっていきます。一視同仁、いのちの先生の言うことを素直に謙虚に聴けるいのちの生徒としての師弟一如の真心をこれからもあるがままのいのちのままに歩んでいきたいと思います。

 

害益の別なし

畑に出れば様々な虫たちや植物たちが必死で生きています。当たり前のことですが、他から食べられる存在であり食べる存在であるものはみんな必死です。それだけいつも危険と隣り合わせで生きているとも言えます。

生き物たちは食べられないために様々な工夫をしています。植物や虫は、食べられないように強い臭いを発したり毒を持ったり、棘を刺したりします。それはただ生き残るために防御しているのであり必死に生きている証拠です。

人間は害虫や益虫という言い方で虫を分別します。

人間にとって都合が悪いものは害であり、都合が良いものは益とします。大きな目でみたら全ての生き物たちは益です。しかし自分の都合で見ればそれは害になります。これは人間関係でもいえることで、自分都合で見ればすべて自分にとっては損害が発生しますが人類全体でいえば益になります。

虫たちや植物たちは別に人間に危害を加えたいから存在しているわけではありません。もちろん畑に出れば、虫刺されに遭い、植物に触れてかぶれたり切れたりします。でもそれは本来それぞれが必死に自らの身を防御しているのであり、危害を与えたいのではなく身を守っていたり必死に生きている証でもあるのです。

今は、害があるからとなんでも薬や道具を使って全て駆除しようとします。虫や植物、動物から見れば害は人間たちであり自分たちは必死に暮らしてきただけです。それを尊重してあげるなら、本来害益の別はなくなるのです。しかし今の世界の趨勢をみても、人間同士に於いてもその関係が見え隠れし自然の摂理とは離れて不自然なやり方で害を抑え込もうとしています。

そういうことを少し考えてみて、何でも害の方ばかりを見るのではなく益の方を見て活かそうとすることが本来の私たちの暮らしの智慧ではないかとも思います。

庭先の雀でさえ、チュンチュンと鳴いて周りの小虫たちを食べ楽しそうに水浴びをしているときは可愛いものですが、一たび自分が田んぼで育てている稲を食べはじめれば可愛くないと駆除するのはあまりにも視野狭窄ということでしょう。相手のことを思いやることで相手の理由も分かってあげる優しさを自然界は持っている気がします。

優しくなるためには自分の都合ばかりを優先するのをやめ害や益のモノサシを外すことからかもしれません。御互いに厳慈自然の中で必死で生きていることを尊重することで、それぞれが距離感の中で見守り合えるように工夫していくことが自然共生の法理ではないかと私は思います。

御互いに気を付けて御互いに活かし合えるような関係を深めていきたいと思います。

発酵の智慧~直感と技術~

昨日、発酵場の高菜漬けの高菜の漬け直しをしました。

基本は木樽に丸ごとお任せですが、気になるときに開いてみると塩加減が足りなかったり、漬物石がズレていたりと、毎回、ちょっとずつ色々と改善しなければなりません。発酵場は狭く中腰での作業は大変骨が折れるものですが、漬物を触りながら発酵具合を確かめるのは心安まる手作業です。

今のよく出回る漬物は、化学調味料を使ったり、防腐剤を入れたり、着色したりと発酵する時間をかけずに楽に漬物風として作られることがほとんどです。見た目は本物風にパッケージしていますが、発酵の時間すらかけていないものです。安心で美味しいものよりも、形が良くお金になるものが優先されています。むしろその刷り込みも功をなし、今では安心で美味しいものの定義が本物風の方が本物と逆転してしまいました。

特に人工添加物については悍ましく、ほとんど原料が本物ではないものを用いて加工されます。飲み物、食べ物も白い粉類と水さえあればどんな味でも偽造でき、色の粉と香料さえ足せば目と舌をうまく騙せます。そして残りは腐らないように殺菌、漂白、防腐剤で菌の発生そのものを抑え込みます。

昨日の漬物の中には三年目のものがあります。

一年に数度漬け直しをするだけで熟成したうまみや味わいがあり、漬け直しさえしていれば防腐剤に頼らずに長期に保存することができます。防腐剤で半年の消費期限だとか書かれていますが、漬物は漬け直していればいくらでも腐ることはありません。

発酵とは保存の仕組みですから、防腐剤などは要らないのです。

自然というものは、必ずそのものを分解して土に還すように菌が発生してそのものを食べて消化していくものです。これは菌類に限らず、全ての自然は還元循環しますから発生するのは自然のことです。これを無理やりに抑え込もうという発想自体が無理があり、それが腸内に入ることで腸内の菌類の活動にどのような影響を与えるのかはすぐにわかりそうなものです。

腐敗するための菌を発酵する菌に代わってもらい菌の新しい暮らしの寝床にすることで発酵菌に食べ物を保存してもらうことで自然そのものを邪魔しないで一緒に生きていく共生の智慧なのです。そしてそういう暮らし方のことが熟練の智慧であり、熟練の智慧を持つ職人文化があるというのが本来の私たち日本人の美徳であったとも思います。

手間暇かけて熟成させていくというのは、生き方を通しての実践が必要です。毎回、失敗と改善を繰り返し、面倒でも「カラダで覚える」必要があります。それが本物であり、それが自然だからです。

毎年、漬け具合材料、その時の心境や手入れによって微妙に異なりますから手で触れ香りを確かめ、舌で味わい、場の空気を感じるというように五感をフル稼働して”直感と技術”を磨き学ぶのが本来の自然の姿です。

発酵の智慧は、日々の偽造に刷り込まれそうな私たちに大切なことを思い出させてくれます。道は偽造できませんから発酵は道です、その後に技術があって人は自然が何かを自明自得するのでしょう。

当たり前のことまで分からなくなってしまう人工的な社会の中で、本物の自然に触れることで本来の智慧、「カラダで学ぶ」ことを呼び戻していきたいと思います。発酵を通して昔から変わらずに大切にしてきた直感と技術、熟練して磨くことの真価を子ども達にも譲り渡していきたいと思います。

 

 

自然学問

昨日、田んぼの稲の草刈りを行いました。自然に沿って見守る農法は、稲に寄り添って育てていきますから稲の声のようなものを感じながら一緒に育ち合っていきます。

梅雨の時期に生えてきた周りの雑草たちのも、所狭しと賑わっていました。土壌の発酵が活発な場所は、稲の成長も著しく周りの草草の追随を許しません。その空間は稲がしっかりと競り勝っています。しかし、土壌の発酵が鈍いところは稲の成長もゆっくりですから周りの草草に競り負けています。

草刈りは、その稲がどのような状況になっているのかを観察しつつ稲の目線で行う作業であるとも言えます。今は、農機具や除草剤、肥料などで直接稲の目線には降りていくことも少ない気がしますが実際に稲の中に入り込み、しゃがんで稲よりも低いところで草草と対面しているとどのような環境下で稲が育っているのかを感じ取れます。

誠実に手作業で相手の高さに降りてみると、相手の心に寄り添えます。生き物には共感する力がありますから、自分の目線で頭でったちでいたら大事なことが観えてはこないのです。

手作業の大切さは、心を感じるためにあります。そして手作業でしか観えてこない境地があるのです。それが現場での学び方とも言えます。

大変でもその現場に入り、その現場の目線で一緒に考え一緒に学んでいくことが本来の道です。道は、生き方ですから心をどうするかという課題に向き合うことです。簡単便利に頭でっかちに自分に都合がよい技術を頼り便利さを追求するのか、それとも大変でも苦労してでも心を相手に寄り添い真心を追求するのか。

実際にこの自然に触れれば、仕合せ中に本物の技術を持っているのが全ての生き物たちであることを実感します。その生き物たちを尊敬して近づいていくのだから、全身全霊で「カラダ」で直感していくのが自然学問というものなのでしょう。

稲から教わるばかりですが、今年も学び直しを楽しんでいきたいと思います。

世界の平安

全ての出来事というの物は、直接的なものと間接的なもので出来上がっているものです。それは直接目に見えるところと、間接的に観えるものが合わさっているともいえます。人は視野狭窄になると、目に見える直接的なところだけで物事を判断してしまうものです。しかし実際の物事は、目に見えないところの間接的な効果によって顕れてくるものです。

こういうことが分かるには、眼だけではなく心眼のようなものも同時に働かせることで気づけるように思います。そしてその訓練は、内省と振り返りによって行うものです。

例えば、過去のことを思い出すとします。その際、あの過去のことが生じたのは一体何が原因であったかということを見出していきます。すると、あの時の出会いがそうだったとか、あの時の行いが繋がっていたとか、あの時が運命の分かれ道だったとか、様々なことを思い出されます。そして今を見つめると、天の助けがあったとか、実践をしてきたからだとか、生き方が変わったからだとか、夢を信じたからだったとか、様々なことを振り返ります。

そうやって内省と振り返りを通して、人は直接的にも間接的にも、生じたご縁に気づきそのすべてを実感することで出来事や物事を全体を観ることができるように思うのです。もしそのように全体を素直に観ることができるのならば人間は方向を見失うことが少なくなるように思います。いや、言い換えれば人類は方向を見失わないのではないかとも思うのです。

今の時代は、間接的なことに対する意識が失われつつあります。振り返りと内省をする時間がないほどに何か急いでいるような気がしてなりません。別にただ早いという意味ではなく、内省し振り返る時間がなくなってきているのです。

目に見えるところばかりを見て生きるのは忙しくなるだけで思いやりを優先できなくなってきます。本来は、多くの間接的な見守りによって現実の世界は生じてきたのだからそこに対する感謝の心があってこそ御蔭様の有難さに気づけるものです。

一度、眼を半分だけ閉じて心の眼を半分だけ開き、同じ目で全体を丸ごと見つめその偉大な御蔭様に気づけるのなら如何に御縁を結べた思いやりで今につながっているかといった人類の初心をも思い出させていけるように思います。

大切な気づきを共有することで、心の平安も得られ世の中の平安も広がります。何を優先して生きていくか、力強く実践を高めていきたいと思います。

 

人類の未来予測

昨日、新潟のカマキリ博士こと酒井與喜夫先生にお会いすることができました。以前、「カマキリは大雪を知っていた」(人間選書)を拝読し感動してずっとお会いしたいと思っていた方です。

お話をお聴きしていると、その範囲は丸ごと自然全体に及び、カマキリだけに限らずあらゆる生き物たちの声を聴いて未来を予測していました。それは単なる天気予報ではなく、人類の未来の予測といってもいいかもしれません。

人類がこれからどう生きていくか、自然災害に対してどう生き残っていくか、本来の私たちが長年何を大切に暮らしてきたかを考えさせられる機会になりました。

昔から私たちは「民間伝承」というものが口伝でたくさん残っています。それは先祖たちが、長年の自然の観察をもとに分析してきた財産とも言えます。それらはすべてマグレではなく、場数によって得られた智慧です。

例えば、本来の農家の農は、自然に精通している農の農です。今の農は、農学を優先しあまり自然の姿からの洞察を重要視しません。本来の職業の本質は、昔は学ではなく道としてすべてそのもの(自然)と対話する中で磨き上げれてきた智慧集類とも言えます。

道から離れて文字や記憶にある学だけを正しいと信じるということ自体が自然を見失っていった原因ではないかと思います。文字や記憶にないものは、そのものが必死に生きているという現実味です。現場というものは、常に真摯であり必死です。生き残るために必死ですから本来の本能が働いています。今のように平和ボケしてなまってしまったセンスではなく、本来のセンスがハタラキあらゆるものを感受感得できたように思います。

そういう目に見えないものを観る力があってこそ、見えるものを素直に観ることができるように思います。世の中は、常に見える世界と見えない世界が合わさって丸ごと動いています。見える世界ばかりを知って、さもそれだけが正しいと思い込めば見えない世界があることを信じなくなります。もしくは見えない世界だけを信じて、見える世界をなおざりにすると見える世界が知らせてくる兆しすら感じられなくなります。

自然を見つめるとき、それは見える世界と見えない世界の両方”丸ごと”で理解していくのが自然そのものの智慧の理解であろうと思います。そしてそれは、自分の手と足、目と耳、全ての感覚を遣って「カラダ」で理解していくものです。「カラダ」は見える見えないに関わらず、全身全霊で必死ですから本来の智慧を感受できるのでしょう。

それが自然の智慧そのものであり、私たちに具わっている生きる力の源流です。

酒井先生の毎年1万キロに及ぶ、数十年の観察を通した生き方から自然の周波数とは何か、本来の未来予測とは何か、そして結びの中にある声聞縁覚とは何かをもう一度見つめ直す有難い機会になりました。様々なことを学ぶには第一に謙虚さが必要で、その謙虚さは常に丸ごとで自然に寄り添うことを肝に命じたいと思います。

自然界の生き物の中でもっとも自然災害に弱いのが人間ですから、その人間がこの先の気候変動の中でどう生きていけばいいか、子ども達にも自分たちの生き方が譲れるようにさらに実践を高めて精進していきたいと思います。

有難うございました。

本元の味

昨日、ある方にお会いすることができました。ずっと以前から知っている方でしたが、ご縁はいつも不思議で「場・間・和」の織りなす今のタイミングをいただけます。あの頃ではお会いしても全く分からなかったと、今、過去を振り返れば思うものです。

自分が通ってきた道の延長上にいらっしゃる方とのめぐり会いというのは、自分が通っているからこそその存在の価値を認識し、まるで過去と未来が回転します。

改めて道縁の素晴らしさに感謝するばかりです。

人は無意識ですが、風土の魂が宿るのではないかと私は思います。その風土とは、この私たちの住まう土地のことですがいつもそことつながり結ばれているのが私たちのいのちのように思います。

だからこそその自然の中には風土の魂ともいい、そういう人物のことを大和人と呼ぶのかもしれません。私自身の中に流れるその大和魂との邂逅も、道縁によって顕現してきます。

昨日は、ワークショップについてや様々な西洋からの教育手法についてのお話を拝聴することができました。この方の素晴らしいのは西洋から来たものを自分で美事にアレンジし、自ら風土に合うように仕上げていくところです。それはまるで海外の料理を、日本人が日本に合うようにアレンジしまた世界に返り咲かせるかかのように日本の和の精神を存分に取り入れたものに調理していきます。

私が目指した味付けをもう随分と先に現場で実現されており、ただ感動するばかりでした。なぜそうなるのかと内省するとき私が直観したのは、そこに「師弟一体心の境地」を感じました。

これは、日本の職人文化に似ています。師が全身全霊で弟子のことを思い、弟子も命がけで師を思う、その間、まるで自他一体の真心で智慧を受け継ぎます。そのようにして様々なことを結和させたのではないかと、これは智慧の感得力です。

そういうそもそも別であるものを自分のものにしていくチカラというのは、風土の魂や和の心が存分に発揮されたものではないかと私には感じます。そしてそういう人だけが「本元の味」を知っているのでしょう。本元の味を知るからこそ、様々な文化を含有でき異質なものを融和させていくことができるように思います。

本元の味が分かる人物に出会えるというのは、本当に仕合せなことです。
御蔭様の御引き合わせと、めぐり会いに心から感謝しております。

子ども達の未来のためにも引き続きこの縁起と学問を味わい楽しんでいきたいと思います。

純粋無垢な真心~素直さ~

この仕事をしながらいつも思うことが素直さの持つ伸びる力です。

伸びている人に共通するのは素直さとはいいますが、その姿を目の当たりにすると本当にこの力の持つ神秘を感じます。誰かが自らの体験で掴んだ智慧を、丸ごと吸収してはそれを活かすことができる力です。

同じように接しても、その人のことを信頼して素直に聴ける関係がある人は言われたことを信じています。頭で疑ったり、知識で推察したりすることなどなく、先に信じているのだから素のままに改善していくことができます。この素のままでいるという関係は信じているということと同じになっているのです。

人はもっとも分からないのが自分のことだとも言えます。

もっとも身近にいるくせに、その自分のことはほとんど自分では分かっていません。むしろ他人に指摘された方が、自分のことはよく分かります。自分で自分のことを勘違いしているから直すことができず、自分のことを理解してくださる信頼できる人に自分のどこを直せばいいかを聴いた方が素のままで直すことができるのです。

なぜ自分のことがもっとも分からないのか、それは自分が錯覚してしまうからです。こうありたいと思ったり、こうあってほしいと考えたり、こうあるべきだと押し付けたりしているうちに自分自身が歪んでいき、素であることよりも無理に自分をつくってしまうのが人間というものです。

しかしそうしてしまうと、自分のことを自分が間違って認識しはじめ、様々なことが無理やり調整していかなければならなくなります。例えば、本来は亀なのに鳥のように空を飛べると勘違いしたり、魚なのに陸を駆け巡るチーターだと勘違いしたり、笑えない話ですが実際にはそんな変なことを繰り返すのが人間です。

それを見た周りは、気持ちはわかるのですがその人ができないことはすぐに察します。しかしそれをその人がなかなか受け止めようとしないから、改善もまた進まないとも言えるのです。

そういう時に、信頼できる人があなたはこうだからと本来の自分の姿を観てくださって、こうしたらいいとその人の徳性に合わせて指導してくれたなら本来の自分に気づくことができるように思います。しかしその徳を聴こうとしていなければどんなに親切に教えてくださっていても聴いてはいませんから気づくこともありません。

人の話を聴く時に「ああ、そうだったのか」と常に聴ける姿勢がある人こそが素直な人です。心の対話を素直な自分と交わすことができ、さらに人とも心の対話を素直にかわすことができる人。そういう人が本質的に素直な人ということなのでしょう。

素直さを持つには、まず心の対話ができること、そして人の話を聴けることができなければ維持することもできません。自分を気にしすぎて周りの評価が気になって、聴く気がない頑固な姿では心の対話からもっとも遠い存在になってしまいます。

常に人との御縁を大切に、他人を尊重しながら自分のことを知っている人に自分を教えて貰い、純粋無垢な真心との対話を続けながら天に向かって自分を直しぐんぐん伸びる生長の仕合せを楽しんでいきたいと思います。

 

気分転換~福楽~

人はストレスというものを抱え込むといいます。このストレスは悪いものだと決めつけている人もいますが、ストレスは良いこともあります。実際のストレスには良し悪しはなく、そのストレスの御蔭で私たちは自己変革に向き合っていくこともできるとも言えます。

過度にストレスをかけてしまうのは、かえって柔軟性を失わせて変化を止めてしまいます。問題はストレスがあるかないかではなく、変化しているかどうかということになるのです。

変化というのは、柔らかな感性が必要です。老子の言う、「柔弱の徳」のように柔らかく嫋やか、しなやかであるものがもっとも変化できるということなのでしょう。それだけ柳に風のように変化を楽しめる境地に入ればストレスもまた感謝になっていくように思います。

そのストレスに対する感覚は、現代ではリジリエンスといって立ち直る力としても注目されています。一流のビジネスマンやリーダーは、ストレスに対するメンタルの持ち様が磨かれているから失敗を恐れず挑戦し、仕事もまたできるようになるというような感じに世間では語られ研修なども増えています。

ストレスの発見者ハンス・セリエ博士は、ストレスとの付き合いのために「気分転換」を大事にしたといいます。

如何に気分転換するか、気持ちを入替えるかで視野が広がり心の余裕をつくることを言いました。よく考えてみると、脳ばかりを働かせ、意識ばかりを一つのことに囚われ、目ばかりで物事を見ていたら次第に息をしなくなってきます。つまり空気を吸わず呼吸をしなくなってきます。

そういう時は、外に出て新鮮な空気を吸うことが大事だということなのでしょう。

正解ばかりを探しては真面目に正しいことをやろうとして常識に囚われ脳みそばかりを使うと、人は呼吸を忘れてしまうかもしれません。呼吸が止まるというのは、脳と心のバランスが取れなくなっているという状態なのでしょう。

ストレスがあるということは、そのストレスをどう転じて福にしていくかということです。様々なストレスは変化の兆しですから、その変化を見逃さずストレスを味わいそれをどう転じて面白くしていくかで呼吸法もまた身に着けていけるように思います。

楽を選ばず、真楽は苦しみの中にありますからストレスの中にこそ本当の楽しみがあると言えます。それは変化の歓びであり、変化の仕合せです。気分転換は、嫌なことを我慢して嫌なことを嫌々やるのではなく、気分転換に初心や本心を優先してあげる心の福筋を如何に鍛錬するかによるのでしょう。

遊び心も笑いも気分転換もまた福筋を鍛錬するための方法論です。

日々を味わい次々にやってくる楽問を選ばず遊び、福を楽しんでいきたいと思います。

見守り合い~人間愛の社會~

昨日、39回目GTの保育環境セミナーが開催しました。

ふり返ってみると、もう13年ほど前からスタートし毎年続けてこれたことに有難い思いとその間ご縁があった先生方が今の現場でご活躍しているのを思うと感慨深い気がします。

見守る保育を通して、子どもたちを見守り、子ども同士で見守り、大人同士で見守り、社會を見守り、未来を見守り、世界を見守る。

この見守ることの実践は、人と人との思いやりを通して何が人間として優先されることで幸せになるかを新たにする「道」のように思います。人間を深く愛するということが具体的にどのようなことを大切に生きることか、生き方そのものが保育そのものになっていますから奥が深いのでしょう。

昨日の藤森平司代表の講演の中で、「見守る保育の特徴は、子ども自身に解決させること。例えば子ども同士のケンカは子ども同士で解決させる。それはゼロ歳からできる。」とありました。これも、子どもを信じ、周りの大人も信じているから可能になりますがそこには深い見守り愛があります。また「その子ができないのなら他の子に頼めるようにする、先生が解決するのではなく将来の為にも子ども同士で解決できるようにする」ともありました。自立もチーム保育というものも、如何に自分が全て解決すればいいわけではなく、周りに頼み合い見守り合う関係をどう築くかということになります。常に「見守り合い」を優先しているのです。

講演を拝聴しながら、保育を通して人々を愛することでどのような社會を目指しているか、そしてどのように社會が平和になるか、同じように見守り合う社會(仁の世界)を築こうとした孔子のことを思い出しました。

孔子は論語でこういいます。

「樊遅、仁を問う。子曰く、人を愛す」〈顔淵篇〉 「子貢、問うて曰く、一言にして以て終身これを行なうべき者ありや。子の曰わく、其れ恕か。」〈衛霊公篇〉。

思いやりとは何か、それは人を愛すること、そして一生行うことは思いやりを実践することだと相手の身になって、相手の立場になって、思いやることだと。

これは「見守り合い」のことだと私には感じます。

最初は省みることもなく、礼も分からず律することもできませんから自分勝手に自分自身の思いしか出てこないかもしれませんが、しかし日々の見守り合いを通して自他の境目がなくなってきて御互いの思いが現れてきます。その思いを互いに大切に尊重していれば次第に思いやりになってきます。思いやりは、常に相手の心に寄り添って相手の立場を慮り御互いに助け合うことで愛が通い合うように思います。子ども達を信じて見守れば、子どもはみんな自然に見守り合いの中にいますから子どもから学んで子どもから自分を観直していけば子どもが創りたい本当の社會を邪魔しないでいられるようにも思います。

人類と人間の可能性を信じるからこそ、見守り合う社會も信じることができるのでしょう。この十数年で周りが変わってきた成長を省みながら、次第に子どもたちが将来築いていく社會が変わっていくのを感じて有難く思いました。

引き続き、志業に邁進していきたいと思います。