自然の姿~自分らしさ~

人間は生まれたときは自然であっても、時間が経てば次第にその自然から離れていくものです。例えば、世の中を見渡せば分かるように自然界の生き物たちが自然と共生し暮らすのに対し、私たちは都市化された世界の中で様々なシステム化の中で暮らしていきます。

自分をシステムに合わせていくことで、今の都市化された世界に順応していくのです。その中で様々な刷り込みや知識を身に着けては、この今の社会で適応できる人間になっていきます。

自然農を実践していると、何が野生で何が人工であるかはすぐに自明します。

本来の姿がどちらで、人工的であるのがどちらかは一目瞭然です。しかし、実際の世の中では人工的である方がフツウであるといい、自然であることを障害であるとさえ言ったりします。

自分自身がどういうものであったかも忘れてしまうくらいに、周りに合わせていることを当然に思ってしまうと自分らしさなどというものも分からなくなっていくのかもしれません。

自分らしさというものは、自然の姿です。

その人のままでその人のやりたいことを保障され、その人だけではなくその人も含めた自他を尊重している関係のことです。こうでなければならないや、こうあらねばらない、当然こうあるべきだという考え方の中には、そう教え込んだ何かがあったからそう思うようになります。

教え込まれていくのは自分で考えなくなるからです。自分で本当は何かと考え続けているのなら、教え込まれたものを鵜呑みにしなくてもよくなります。きっとこうだと思い込まされたものがあること、これは当然こうだという常識、自分自身はふつうであるはずという認識こそが自分が考えなくなる原因になっているのかもしれません。

自分で考える力というのは何か、それは私の言葉では野生に戻るということです。

動物園で飼育された動物が如何に野生に戻るのか、それは大変なことのように思います。それまで餌を与えられ、環境を用意され、ぬくぬくとなんでもある中で誰かによって何かを教え込まれたのですから、いきなり自然にいくと太刀打ちできないと思うかもしれません。

しかし本来は、生まれた時は自然であり野生だったのだから自ずから自分らしく自然に入っていくこともできるように思います。自分らしいというのは、あるがままの自分を認め、あるがままの他人を認めることです。押し付け合って創りあげた架空の常識は、自分の思い通りにしたいという欲の現れになるかもしれません。

それぞれの異なる個性を発掘し、そしてそれぞれの徳性を発揮する。

これらは「認める」ことで実現すると私は思います。そうすれば私たち日本人だけではなく人類は新たな可能性を常に開き続けることができるように思います。そして自由や平和もまたそこにあるように思います。

あるがままのその人でいいと願うなら自分があるがままの自分であることに自信を持つことのように思います。昨日は、相変わらずに自分を遣りきっている同志の後姿を拝見して勇気とやる気が新たに滾々と湧いてきました。ご縁の有難いのは、気付いた同志たちが自分の居場所でそれぞれに向き合って自ら使命に抗わずに徳を磨いている姿を拝見できることです。私自身も子どもたちに、自分らしい背中が見せられるようにさらにオープンに素直に邁進していきたいと思います。

ありがとうございました。

成長の本質~自然に伸びる素直な心~

松下幸之助さんの遺した言葉の中に、『成功者になろうとするのではなく、価値のある人間になろうとしなさい』があります。価値のある人間になるというのは、その人らしい人になるということです。そしてその人の価値を高めるために「仕事」はあります。仕事は人生のリハビリであるということを言っていた人もいましたが、確かに仕事がその人の役割を育ててくれますから自分の生き方を素直にしていくリハビリになるように思います。

その「仕事」に対して松下幸之助さんはこう言います。

『仕事をするに当たって、まず心を磨くというか、ものの考え方を成長させる必要があります。』

これは自分の考え方を、その心のスタンスを決めるということであろうと思います。仕事に対してどのような意識を持っているか、自分の持つ仕事に対しての信念といってもいいのかもしれません。つまりものの考え方を決めなさいと言います。その著書「道をひらく」(PHP)の中でこう解釈されています。

『どんな仕事でも、それが世の中に必要なればこそ成り立つので、世の中の人びとが求めているものでなければ、その仕事は成り立つものではない。人々が手軽に街で靴を磨きたいと思えばこそ、靴磨きの商売も成り立つので、さもなければ靴磨きの仕事は生まれもしないだろう。だから、自分の仕事は、自分がやっている自分の仕事だと思うのはとんでもないことで、ほんとうは世の中にやらせてもらっている世の中の仕事なのである。ここに仕事の意義がある。自分の仕事をああもしたい、こうもしたいと思うのは、その人に熱意があればこそで、まことに結構なことだが、自分の仕事は世の中の仕事であるということを忘れたら、それはとらわれた野心となり小さな自己満足となる。仕事が伸びるか伸びないかは、世の中がきめてくれる。世の中の求めのままに、自然に自分の仕事を伸ばしてゆけばよい。』

そしてこう締めくくります。

『大切なことは、世の中にやらせてもらっているこの仕事を、誠実に謙虚に、そして熱心にやることである。世の中の求めに、精いっぱいこたえることである。お互いに自分の仕事の意義を忘れたくないものである。』

この「仕事」のスタンスが、心を磨き、ものを成長させた考え方ということなのでしょう。つまり世の中(周りの方々)からやらせてもらっているという意識に変わっているというのです。

自分の仕事の意義というものは、意識していようがしていまいがその仕事に出てくるものです。その人がどのような仕事をするのかを観ては周りの人はその人を判断していきます、その仕事に懸けるその人の意識は確実に仕事ににじみ出て顕れます。だからこそ、謙虚に誠実に常に周りの求めに自分らしく精いっぱいこたえることがお互いに一緒に仕事をしていく価値であり意義になると私は思います。

人は考え方が成長することが自分が変わることであり、そうやって自分の生き方のスタンスの質が高まるからこそ自ずから結果もまたついてくるように思います。

自分でやりたいことを決める前に、与えられた仕事を真摯に真剣に取り組ませていただき、周りから信頼されるような価値のある人間になることが自然に自分を伸ばしていくことになるように思います。

自然に伸ばすとは素直な心です。素直ではない心の時、人は必ず行き詰ります。できないことを求めてはできることをやらないのでは、結局はその人の価値観を周りに強要するだけで周りにとって価値のある自分には近づかないように思います。

こうでなければならないという成功者のイメージを持つよりももっと価値のある人間になろうとする素直な心を持つ方が仕事も自分も「自然に伸ばしていく」ということなのでしょう。素直な心を持ったなら、誰のせいにもせずに言い訳もせずに自分に矢印を向けて自分の価値を自分で決めず周りにとっての価値に変えていけるように思います。自分自身にそういう素直な心が土台に入っているか、常に確認していくことが成長(伸びる)を確かめることにもなると思います。

子どもたちがだれもが自分らしい自分で、周りの役に立つ価値のある人間であると実感できるように常に求められたことにこたえられる自然に伸びる素直な心で変化し続け、精進していきたいと思います。

 

相乗効果(シナジー)の価値

相乗効果(シナジー)というものがあります。これは二つ以上の要因が同時に働いて、個々の要因がもたらす以上の結果を生じることを言います。

全ての出来事を振り返ると、効果というのは常に一つ以上の要因が重なり合って発揮されているように思います。人々がもしも大きな目的に挑戦するとき、誰にも頼らずに自分だけできるものなど存在しないと諦めることができるなら、同時に自分が相乗効果のためにベストを盡せばいいと覚悟を決められますが刷り込みが深く個別の成果は意識していても、相乗効果に対しては意識がいかないものです。

「7つの習慣」の著書、スティーブン・R・コヴィー氏は、相乗効果についてこう語ります。

「相乗効果は人生において最も崇高な活動である。残りの習慣すべてが身についているかどうかのテストであり、またその目的である」

つまり自分の習慣は、自分自身の実践がどれだけ全体の効果を発揮させたかをみることだと言います。自分だけは自分らしい実践を怠っても問題ないだろうという意識というのは、相乗効果の真価に気づいていないのかもしれません。

例えば、何かの仕事は一人でやった方が早いと思っている人がいます。もちろんそういう仕事もありますが、実際は自分の思い通りに進められない、他人と進めるのは面倒だといっては協力したくないから自分だけで全部処理していこうとします。しかしその時、肝心な視点が外れていることに気づきます。

それが相乗効果(シナジー)の価値です。

一人では相乗効果(シナジー)は生まれず、二人以上でそれぞれの個性を発揮して目的に対して助け合い協力し一緒に何かを行う時、自分の想像を超えるような効果を目のあたりにするものです。

自分だけではできなかったことが、誰かの協力によってできるという実感。それは例えば、離れていても心を寄せてくれる信頼できる人の見守りを感じているときや、仲間が勇気を出して諦めずに挑戦する背中を感じた時、そういう無形のものでさえ自分のモチベーションを高めてくれたり、信じる力を集めてくれたりと様々な相乗効果(シナジー)を発揮してくれるのです。協力の楽しみや協力の有難さ、協力の真価を知れば如何に相乗効果が素晴らしいかに気づけます。

そしてそれは常に「一緒」であること、助け合おうとする心、それぞれが自分の決めた実践(習慣)をそれぞれが確実に守ることで役割を果たす時に相乗効果(シナジー)は高潮するように思うのです。

仲間がいるということや、チームで取り組むということは、一見、みんなで同じことをしていることのように勘違いしている人がいます。しかし本来は、一人ひとりみんながそれぞれの個性を存分に発揮してそれぞれが全体のためにできることを全身全霊で実践するのを怠らない時にこそ期待以上の成果を全体に及ぼしているのです。

常に視点は自分だけのことを考えるのではなく、自分の実践がどれだけみんなの力になっているか、自分の習慣がどれだけみんなの効果につながっているのかの自覚を大切にして、皆の守りたい理念や優先したい目的に協力していこうとすることが自分の全体の中での役割を知る近道なのかもしれません。

同じことをするのは一緒ではなく、バラバラでも一緒であることはあるのです。それぞれが自分らしく協力する実践を一緒にしていればそれはバラバラでも一心同体です。一心同体になったとき、相乗効果(シナジー)は奇跡を呼び込み、一人ひとりの役割を明確にし、人と人の絆、そして人間であることの幸せを感じられます。

子ども達の未来のためにも、一人の力云々よりも、相乗効果(シナジー)の一員であることに誇りが持てるような社會を実践人になって創造していきたいと思います。

自分の道を征く~天分を活かす~

人間は誰もが不平不満というものが出てきます。幸せすぎれば感謝を忘れ、与えられ過ぎれば御蔭様を忘れます。そして自分のことを心配しすぎれば、他人との比較をはじめます。今、あるものがもっとも自分に相応しいとは思わずにないものばかりを求めては努力をしなくなるでは不平不満も悩みも解決することはありません。

この「相応しい」という言葉は、私は実践することではじめて体得できるように思います。実践させていただける有難さ、今の自分のことを深く知り、それを受け容れるからこそ実践を積み重ねていこうと思う気持ちが湧いてきます。

老子にこういう言葉があります。

「足るを知る者は富み、強めて行う者は志有り」

これは足るを知るということと、志を実践するということは同じであるという境地で語られた言葉です。足るを知るという言葉は、皆が知っている通り、ないものねだりをするのではなくあるものの方を観て感謝していこうとすることです。自分が天から与えられた徳やもっとも相応しい能力を使って、如何にそれを世の中に還元していくかを考えていこうとするものです。

自分が何を天から与えられているか、それを知るために私たちは日々に研鑽を積んでいるといっても過言ではありません。あれもほしいやこれもしたいなど、我欲もあるのでしょうが実際は天から与えられたものとはそれは合わないことがほとんどです。誰かの人生をみてはああなりたいやこうなりたいと憧れもしますが、実際は自分にしかない天命があります。孔子も、五十にして天命を知るというように、実践し研鑽を積み重ねてようやく50歳になった時に天命を知りました。そう簡単に、自分が天から何の命を受けているのかは自分自身も分からないように思います。

だからこそ志が必要です。志を持ち、精進を続けるという境地は自分の天命を信じて自分が何に向いているのか、どこに向かうのかを日々に怠らずに実践を続けることで自分の天命に近づいていくように思います。そこにはないものねだりはなく、あることが有難いと実践させていただけることに感謝の心があります。

以前、教育者の森信三先生が遺したある言葉に出会ったことがあります。そこにはこの老子の境地が書かれているように思い、如何に実践人であり続けるかの大切さ、豊かに富むことと、志を高めることの両輪の価値を再認識したのを覚えています。

『人間の偉さは才能の多少よりも、己に授かった天分を生涯かけて出し尽くすか否かにあるといってよい。』

天分を活かすというのは、まずその自分に不足がないと思うことからです。自分に与えられているものはすべて備わっている。だからこそ精進して引き出していこう、それをなんでもお役に立てるのなら立てていこうという心です。古今より、その天分は他人様のお引き立てにより引き出され活かされることが多いと聴きます。独り自ら粛々と実践を続けていると、それを憐れんで助けてくださる方々がいるように私は思います。それはまるで天が、陰ながら一生懸命に真摯に腐らずに素直に純粋に努力する自分のことを可愛そうだと憐れんでくれるかのようです。今の自分が最も相応しいと思えるのも、そういう境地を大切にしたいと思っているからかもしれません。また同時に生き方の先輩の凄まじい覚悟に、志がますます強くなるからかもしれません。森信三先生はこうも言います。

『教育とは流れる水の上に文字を書くような儚いものだ。だが、それを岩壁に刻み込むような真剣さで取り組まなくてはいけない。』

決して報われたかどうか実感できなくても、それでも信じて念じて祈り、そして本気で遣りきっていかなければ何事もはじまらないのだと仰います。これはまた有難い言葉で、大きな勇気と今の自分で相応しいと実践を心より楽しもうといった境地にも入れます。二度とない人生、どんな生き方をしたかどうかが天分を全うすることにつながっています。

この先の時代を生き抜いていく子どもたちの天命のためにも迷わずに自分の道を歩んでいく心の強さ、そして心の豊かさを真心で体現できる自分でありたいと思います。

徳を尊ぶ

人間に限らず、全ての生き物には何かしらの長所があります。生命というものはそれぞれに自分の得意を伸ばして生き延びてきたとも言えます。自分の得意分野を伸ばしていけばそれが自分が生きていく上での最良の戦略となるのです。

しかし同時に良いだけかといえば、そこには不得意も発生します。その不得意が出ることを気にしていたら何かをするたびに気になって得意を伸ばすことができなくなります。それに自分は得意のそれしかないと覚悟を決めている人であれば諦めもつくのでしょうが他にも得意がいくつもあると思っているから色々と不得意が気になるのでしょう。

老子に「その長ずる所を尊び、その短なる所を忘る。」があります。

この不得意であることを忘れてしまうという言葉はとても意味があるように思います。また、その得意であることを尊ぶということにも重要な観点があるように思います。

自分が天から与えていただいた徳はこれであったとそれをどれだけ自分が尊重しているか、そしてそれが何よりも尊いからこそ他のことを忘れることができるか。そこに本来の強みを活かし自分を役立てる工夫があるように思います。

何でも得意になっているうちに得意がなくなったり、不得意をなくそうと努力しているうちに得意がなくなったでは本末転倒です。得意を見極めるためには、周りの得意を観続ける実践が必要です。そして同時に周りの長所を尊ぶ実力も必要のように思います。

老子の「足るを知る」も同じく、ないものねだりはやめてあるものを如何に活かすかが徳を伸ばし自分を役立てる真髄なのかもしれません。自分の都合が入れば入るほどに短所を視たり、悪いところに見えたりしていきますが本来のあるがままのそれぞれの徳性を重んじていけるような自然体な内観力を磨いていきたいと思います。

 

独りと仲間の合一

人間は一人ではできないことを仲間と協力してできるようになります。自分一人でできることなどは実際にはほとんどなく、多くの人たちの力をお借りしてはじめて事は為されていきます。人は傲慢や慢心になるとき、焦りが生まれそして役に立つということの本質を忘れてしまいます。感謝の心があるからこそ人は自分が何の役に立っているかを自覚し、御蔭様の心を知るからこそ素直に自分が役に立てていることの倖せを実感できるようにも思います。

人は自分と向き合い自分に打ち克つ孤独な精進を積み重ねていかなければ、結局は矛盾を受け容れられず刷り込みに負けてしまいます。本来の焦りや慢心とは、自己との対話や自己への内省といった本質からブレナイ実践を猛特訓して本来の自己や自信を確立していくしかありません。本当は何かと自ら深めているからこそ、ものの本質を見抜き見通し心が強くなり自分を強くしていくことができるのです。そこには自己への甘えを断つ必要があり、自分を自分で甘やかさないとった自律と自立の精神が必要です。根性もここが必要で根気をもって日々に実践をしていき、不満なら実践を高めて厚くし増やしていけばそのうちその人格が磨かれていくように思います。

しかし今度は仲間との信頼関係は、敢えて甘え合える関係を築けなければなりません。自分からどれだけ胸襟を開き、心をオープンにして、共感し、気遣い、他人ごとにせずに、絆やつながりを切らさないように助け合い、信じて、預けて、任されて、頼まれて、認められ、愛されて、感謝されるような関係を創造し築き続けなければなりません。それは仲間を心から信頼し、心から仲間に信頼されるといった絆を結ぶ心が必要になります。本来の思いやりもここで必要で、思いをもった人たちと一緒だからこそ、仲間の「思い」を大切に思いやり続けて真心で自分のもっとも得意なところや持ち味を最大限活用して貢献していくことに集中することでその人格が周りに認められていきます。

そもそも感謝の心というのは、猛特訓できる仕合せ、仲間がいる仕合せを感じているものです。自分が道に入り、道を歩けるのは果たしてだれの御蔭なのか、そして道を独立自尊して歩み続けつつも、そこに学問を朋にする同志が一緒に歩んでくださることも、それは本当に有難いことであると思います。

何を見失うから当たり前のことが観得なくなるのか、それは足るを知らず、ないものねだりをしては完璧を目指し評価ばかりを気にするから自信がなくなるのです。本来は足るを知り、自分に与えられた天分をどれだけ周囲に役立てているかは自分が自他をどれだけ自ら尊敬しているかに由るのです。

子どもに譲ろうとしている生き方と働き方があるからこそここに一切の妥協があってはならないと思います。譲っていく真心は、己を忘れ周りのために真心を盡すことで子々孫々へとその「思い」が継承されていくように思います。

日々に何を優先しているかはその人の生き方や働き方に出てきます。自分の生き方や働き方を日々に内省してチェックし、改善を続けてもっとも至善な生き方、もっとも自然な働き方にチャレンジしていきたいと思います。

負けない強さの本質~信託感謝~

先日、ブログのコメントで「負けない強さ」を教えていただきました。

『「負けずに生きていく強さ」が必要です。この「負けない強さ」というものも重要な強さではないかと思います。「打たれ強い」「辛抱強い」「我慢強い」「粘り強い」「根気強い」という言葉もありますが、何があっても「志を貫く強さ」が欲しいものです。仲間と励まし合って「倒れても倒れてもまた立ち上がる」そんな「何度でも戦える強さ」を持ちたいと思います。』

とありました。まさにこれらはチーム戦で使われる「仲間と励まし合う」言葉で、一人は皆のために、皆は一人のためにと協力しているときにこそ人は真の強さを持つのではないかと私は思います。

自分に自信があるとかないとか、自分は強いとか弱いとか、それぞれ個人のそれは比較対象の中で自分で認識しているものです。誰と比べて自信があるのか、誰と比べて勝負するのか、それはその人の我と評価から出ていることがほとんどです。

先日、ある仕事をする中で仲間の有難さと尊敬を感じた一面があります。

その人は、お客様のためにはどうやればもっとも善いかだけの判断で行動するのです。私のこともなんの躊躇いもなく活用し、お客様の倖せを信じて最善を盡すのです。自分の力があるとかないとかは別に関係がなく、常にゼロベースで仲間を信頼して新しいことに挑戦するのです。

そのエネルギーは、新しいアイデアや創造性、そして応援や勇気を仲間にもたらします。私自身もその行動する背中を見守りながら、自分が何をなすべきかが自明するのです。自分の強さなどは関係がなく、理想や理念のために仲間を信頼して大切な”みんなの思い”を守るのです。その唯一無二の仲間と一緒に取り組む倖せ、その最幸のチームとの一期一会、まさにこれが「負けない強さ」の本質ではないかと思うのです。

自分だけでやっていると思うのではなく、仲間がそこまでつないでくれたネガイがあることや、仲間が自分を信じて助けてくれたオモイがあること、仲間がいるというアンシンや、仲間とともに歩んでいるんだというココロがあるからこそ真の強さが持てるのです。

この真の強さがないものは、何かがあるとすぐに勝負の前に力尽きてしまいます。本来の勝ちたいというものも、何があっても勝ちたいという貪欲さからくるものです。しかしこれも仲間と守りたいものがあるから託されて負けるわけにはいかないから勝ちたいのです。もちろん自分一人、己に打ち克つ孤独も必要ですが、理念や目標を同じくする仲間があるからこそ信頼ができます。仲間との絆は甘えや弱さと勘違いされますが、信じて任されたという責任、その信託は厳しいものなのです。

背景に持っているものや背中に背負っているものが大きければ大きいほどにその人は負けるわけにはいきません。そして対するものが大きければ大きいほど自分だけでは乗り越えられないものです、つまりなにがなんでもと必死です。だからこそ人類はみんなで手をつなぎ、心を一つにして「仲間の信頼」という絆によって力を繋ぎ合せて一緒に負けない強さを持ったのではないかと思います。

仲間を信頼するものは逆境をバネにさらに強くなり成長して負けくなってきます。疑いこそが自分だけの力に固執し、信じることで我執を手放せます。信を中心にするチームは、いつも愛に溢れます。任せた、託した、命じた、これらの運命共同体の信託はチームの絆の証でもあり結束です。

人間はいつも極限の中で新しい自分に出会い今の自分を刷新していきます。その時に仲間の信託と仲間への感謝が基盤にあることは自分を一回りも二回りも偉大に成長させるうえで何よりも重要なことではないかと思うのです。結束なく戦うものはとても弱いように思います、なぜなら「結束」こそが人類が手にした自然の叡智であり力の源だからです。

この「信託感謝の強さ」を御縁を活かし丸ごと磨いていきたいと思います。

 

真の強さ~人類の目的~

先日、ある人と話をする中で強くなることについて考える機会がありました。

強さについての定義はそれぞれで異なります。それはヒーロー願望などもそうですが、そのヒーロー像もそれぞれです。例えばドラゴンボールのように、常に自分ばかりを強くして自分をバージョンアップして強化していくヒーロー像もあれば、ワンピースのように仲間たちと一緒に強化していくというヒーロー像もあります。

先日、ドラゴンボールで強い敵と戦うときに、主人公の孫悟空は仲間と一緒に戦うよりも一人で戦いたいからともっと強くなりたいといって一人で出ていきました。そしてライバルのベジータもそれでいいとし、自分も一人でやりたいと言いました。この物語は個人の最強を目指しているのです。それに対してワンピースの強さは全く異なります。ワンピースは自分たちの生き方とその絆や夢を生きるファミリーを守りたいわけで最強を目指しているのではなく、仲間たちとの物語そのものを大切にしているのです。

集団や組織で圧倒的な主人公でいたい場合はドラゴンボールを目指すのでしょうが、それぞれが主人公でいる場合はワンピースではないかとも思います。目指す姿も異なりますから、自分が好きな方を選べばいいのですが目的が異なる場合は別の番組を選択してその人がそれぞれに強さと求めればいいのではないかと思います。

しかしこの強さという言葉は、昔から”我が強い”という言い方もあるくらいですから強いというのは我がとても関係しますから真の強さがある人は弱さも強さも受け容れる人になっているのですからきっと無我の境地ということなのでしょう。人間は何のための強さであるのかを省みるとき、誰かのためにの志が偉大であればあるほどに真の強さに近づいていくように私は思います。

私の思う本当の強さとは仲間との信頼です。

なぜならそれが人間の意義だからです。もちろん自分に克つことは自分自身との向き合いですが、社會で克つためには仲間たちとの協働が必要です。人間は社會をつくる生き物ですし、人類は如何にいのちを次世代へと存続していくかが最大の使命ですから本質的には信頼をカタチにして多様化していくことでそれを実現してきたのでしょう。

最後に私が子ども達の未来を思う時、とても示唆がある言葉があります。この言葉がきっとその人らしさを引き出し、子どもたちが安心して自分らしくいきていく道にたどり着くのではないかと思います。これは若い頃、私の人生の価値観を変えた「7つの習慣」の著者、スティーブン・コヴィーが語ったものです。

「強さは、似た者同士の中ではなく、多様性の中にこそ存在する。」

志に従って理念をカタチにして、子どもたちに勇気を与える存在のままでいたいと思います。人類の成熟した未来にあるものが何か、それを見守り続けていきたいと思います。

試行錯誤~楽しみを湧き出す~

自然農の田んぼではありとあらゆるものを毎年チャレンジしています。作物も毎年同じものを同じ場所でやることもあれば、異なる環境でやってみることもあります。水はけや日当たり、また他の草草や虫たちの繁殖の状況、今年の天候の様子や土のかおりや植え方、育て方など毎回少しずつ試行錯誤しています。そうして試行錯誤した後は、振り返り内省するのです。このやってみては振り返り、観察しては改善できる、この面白さは遊びそのものです。これは別に田んぼや畑だけをやっているのではなく、仕事でも同じように私は試行錯誤と内省をするのでよく周りから”楽しそう”と言われることが多くあります。

しかしその分、試行錯誤をしている最中は他人から誤解されることも多くあります。目標はどこにあるのかや、ポリシーがないのではないかや、ふざけ過ぎではないかなどです。その時は、周りも心配してくれてそのままではダメだと私に修正を求めてきます。もちろんダメなのかもしれないけれど試行錯誤したいのだと説明しては放り投げたりせず必ず実現させるからと伝え時間が解決するのを待っています。

この試行錯誤とは何かということです。

試行錯誤を辞書で調べると(新しい物事をするとき、試みと失敗を繰り返しながら次第に見通しを立てて、解決策や適切な方法を見いだしていくこと。)とあります。しかし私にはもっと本質的な意味が試行錯誤そのものに隠れているように思います。

それは子どもの時の可能性、つまりはアイデアや発明につながっている遊び心や余裕、好奇心を発揮させるものがあるということです。

例えば、仕事でも目標や計画通りに進めようとする人がいます。もちろん、結果と目標があってその通りにいけば自ずから求めたものは手に入ります、つまり正解を求めて正解したのです。しかしそのやり方が果たして面白いかといえば私には面白く感じず敢えて様々なことに挑戦しながら辿りつく方が楽しいと感じるのです。教科書通りに教科書をなぞって出す答えではなく、試行錯誤こそが答えだという信念通りに進む答えです。

実際の人生も同じように、計画通りではないけれどいつも計画以上のことが発生するのは様々なことを試行錯誤しているのを已まないからです。この試行錯誤という考え方は、「この方法もやってみよう、この方法も試してみよう、あの方法ではどうだろう」といつも心が夢中にワクワクドキドキとそのものへの取り組みを心底楽しんでいる状態です。もはや四六時中同じことを考えては、もっとああしてみたらどうか、もっとこうしてみたらどうかと試したいことてんこ盛りです。

実際に先ほどの自然農でも実際は苦労の方が多く、肉体的にも精神的にも過剰なエネルギーを使っています。しかし、それをもし結果のためにただ決められた通りにやるだけならこれは続かないように思います。自然農を楽しめるのは、自然から学び観察をし、それを実践する中で上手くいかないことが多いからこそ面白いのです。

他人からは趣味だから楽しいと言われることがありますがこれは趣味だから楽しいはずはありません。何を取り組むことでさえ、試行錯誤できるから楽しくなっていくのです。つまりは趣味にしてしまうほど試行錯誤をしたのです。特にきつい仕事や大変だと思えるからこそ、自分の好奇心が枯れないように様々なことを試してみてはちょっとずつ変えてみて挑戦しているうちに次第に楽しい心が湧きでてきて趣味になるのです。

試行錯誤というのは、子どもの遊びに似ています。目標ばかりを押し付けられ、計画通りにいくことがもっとも正しいと刷り込まれると「もっとこうしてみよう」という楽しむ発想が消えていくように思います。厳しいプレッシャーの中で、正確無比にやっていこうとし過ぎては楽しくない日々でも無理に納得している人もいます。しかしそれがかえって生産性が落ちてアイデアが失われ、無機質に作業に没頭しているではかえって効率も効果も下がるかもしれません。

同じ遣るのなら、同じやらないといけないことなら、どうせなら思い切って試行錯誤を楽しもうと転換して取り組むことで子どものように遊び心や余裕、試行錯誤を味わえるように思います。

子どもは夢中で遊びこむ中で人生の大切な智慧を自分で会得していきます。人生は常に子どもから学び方を学び直す必要を感じる日々です。そして子どもが憧れる大人とは、子どものそういう試行錯誤を失っていないユニークな大人ではないかと私は思います。

試行錯誤できる有難さを感謝のままに、常に日々新たに楽しみを湧き出す実践をしていきたいと思います。

忘れてはいけない視点

人は物事をどれだけ長い目で観るかで物事の視方が変わっていきます。

自然はとても長いときを生きていて、自分だけの人生などを考えている暇がありません。何万年も何千万年も変化を已まずこの地球で生きることを許されているということを味わい楽しんでいるかのようです。

全ての「いのち」には自立というものがあります。

例えば、親子がいて幼い頃は守られますがある時期からは自分でやることを促され自立していきます。猿であろうが犬であろうが、鳥であろうが親が子に対してある時期を境にそれまで分けていた食べ物を一切分けない姿をみかけます。

ここに一つの気づきがあります。

長い目でみたら親は必ず先に死んでいきます。死んだら子どもは自分で生きていかなければなりません。見た目には親が子を突き放し大変厳しいように見えても実際は深い慈愛から行っているものです。その時に生きて往けず死んでしまう子どもがいて可哀想だと思いますが、長い目でみたらそれを乗り越えていかなければ先々にもっと辛いことが起きることを知っているのです。長い目でみるとそれは甘やかしているのかどうかは一目瞭然です。自然の親子は長い目で観て善くないことは絶対に善くないとして厳慈に透徹するのです。真の愛情というものは、狭い視野た短慮では理解できず長い目で深慮するときにこそ実感するものだと私は思います。彼ら自然の親子の愛情は少しも変わらず「いのち一切の愛」を丸ごと与え続けて悔いはありません。

自然というものは偉大な長い時間を長い目で考えて活動しています。

今の時代の私たちはとかく短い時間の短い目で物事を考えてしまいます。全ての中心に自分を置いてしまえば、視野も狭くなり余計に目先の問題だけに終始してしまうのでしょう。今は生き方の実践というものをあまり優先されなくなったのでしょうが、昔の生き方を守っているインディアンや少数民族たち、古老たちが語る言葉には何代も廻ることを優先させる文化があります。

自然は悠久の時をもっています。

その悠久の時に自分を合わせるとき、長い視野の実践が如何に自然の智慧そのものであることを自覚するのでしょう。情報化社会のスピード重視の変化の中で、長い目でなど死語になりつつありますが本来の視点は「いのち」や「生き方」にあることを子どもたちのためにも私たち大人が忘れてはいけない視点であると思います。

刷り込みに負けない胆力、刷り込みに流されない信念、そういうものを長い目を通して培っていきたいと思います。ここまで「いのち」をつないでくださった方々たちのご縁があって今の私が存在できているという真実は決して忘れてはならないと思います。

子ども達のためにも長い目で見守っていきたいと思います。